7月20日(日曜日)
じりじりとした太陽がアスファルトを焦がし、蝉の声がシャワーのように降り注ぐ。夏休みに入って最初の日曜日。私、井上美咲は、クーラーが効いた自室のベッドの上で、意味もなくスマホの画面をスクロールしていた。
タイムラインには、友達が投稿した海やバーベキューの写真が溢れている。「夏、始まった!」「最高の思い出!」そんなキラキラしたキャプションが、今の私には少しだけ眩しすぎた。
ふと、スマホが提案してきた「1年前の思い出」という通知をタップしてしまう。画面に表示されたのは、去年の夏、元カレと一緒に花火大会へ行った時の写真だった。浴衣姿の私と、隣で少し照れくさそうに笑う彼。胸の奥が、チクリと鈍く痛んだ。
でも、不思議と涙は出なかった。以前のように、夜中に一人で泣きじゃくるような、激しい感情の波はもう来ない。ただ、心の中に静かな凪が広がっているような、そんな感覚。
ピロン、と軽快な通知音が鳴る。親友の根岸からだった。
『美咲、ヒマ?駅前の新しいカフェ、行かない?限定の桃パフェがヤバいらしい!』
一人でいると、また過去の思い出に沈んでしまいそうだ。私は、少しだけ迷った後、『行く!』と返信した。
駅前のカフェ〈カフェ・アルト〉は、夏休みの日曜日ということもあって、若い子たちで賑わっていた。私たちは運良く窓際の席に座ることができた。運ばれてきた桃パフェは、写真映えする完璧なビジュアルで、思わず二人で「かわいいー!」と声を上げた。
「でさ、昨日の野球部の試合、見た?江口くん、めっちゃ惜しかったよね!」
「うん、見た見た!最後の夏、終わっちゃったんだなって思ったら、なんか泣きそうになっちゃった」
根岸と、クラスメイトの噂話や、夏休みの宿題の愚痴、昨日の野球部の試合の話で盛り上がる。江口くんや野球部員たちの、汗と土と涙にまみれた姿を思い出して、胸が少し熱くなった。彼らみたいに、何かに全てを懸けるって、すごいことだ。
一通り話し終えて、パフェのスプーンを口に運んだ時、根岸がふと、優しい目で私を見た。
「……で、美咲のほうは最近どうなの?気持ちのほう」
その問いかけは、まるで予測していたかのように、自然だった。私は、パフェの桃をスプーンでつつきながら、正直な気持ちを口にすることにした。
「うーん……なんかね、前みたいに、夜中に急に泣きたくなるとかは、なくなった、かな」
「お、進歩じゃん!」
根岸が、自分のことのように嬉しそうな顔をする。
「でも、ふとした瞬間に思い出しちゃうんだよね。去年の今頃は、一緒に花何行ったな、とか。さっきも、スマホに去年の写真が出てきてさ……」
「そりゃ、思い出すよ。無理に忘れようとしなくていいんじゃない?」
「……うん。なんていうか、もう悲しいとか、寂しいとか、そういうのとはちょっと違うのかも。ただの、綺麗な思い出になったんだなって感じ。映画のワンシーンみたいに、たまに観返したくなる、みたいな」
自分の気持ちを言葉にしていくうちに、頭の中が少しずつ整理されていく。そうだ、私はもう、彼がいない現実を悲しんでいるわけじゃない。ただ、楽しかった過去を懐かしんでいるだけなんだ。
「失恋、完全には忘れてないけど、前向きにはなれてる……たぶん」
その言葉を口にした瞬間、自分でも少し驚いた。今までずっと「大丈夫」「平気だよ」と強がって、自分の本心に蓋をしてきた。でも今、初めて「たぶん」という不確かさを含めて、今の自分の状態を素直に認められた気がした。
「そっか。よかった」
根岸は、本当に安心したように微笑んだ。
「忘れる必要なんてないって。全部、美咲が本気で恋した証拠なんだから。その経験は、絶対、美咲を強くしてるよ」
「……そうかな」
「そうだよ!それに、最近の美咲、なんかちょっと雰囲気変わったかも。前より、しっかりしたっていうか」
「え、ほんと?」
「うん。なんか、自分のこと、ちゃんと考えてる顔してる」
根岸の言葉に、ドキリとした。
「……実はさ、最近、進路のこととかも考えるようになって。保育士とか、カウンセラーとか、ちゃんと人と向き合う仕事、いいなって」
「え、めっちゃいいじゃん!絶対向いてるよ!美咲、人の話聞くの上手だし、絶対いい先生になる!」
根岸の、一点の曇りもないストレートな言葉が、じんわりと心に染み込んだ。誰かに自分の可能性を信じてもらえることが、こんなにも嬉しいなんて。
カフェを出た後、私たちは駅前の書店に立ち寄った。参考書コーナーを通り過ぎ、私は自然と進路の棚へと足を運んでいた。
「保育・教育」と書かれた棚。そこに並ぶ大学の案内や資格の本を、一冊手に取ってみる。今まで、自分には関係ない、遠い世界のことだと思っていた。でも、今は少しだけ、そのページに書かれた未来が、自分ごととして感じられた。
「とりあえず、夏休み中にオープンキャンパス、行ってみようかな」
隣にいる根岸に言うと、彼女は「うん、絶対行くべき!」と力強く背中を押してくれた。その言葉は、もう「たぶん」ではなかった。小さな、でも確かな決意が、私の中に芽生えていた。
根岸と別れ、一人になった帰り道。夕暮れの空は、オレンジと紫が混じり合った、優しい色をしていた。
まだ、心のどこかには、夏の終わりのような切なさが残っている。楽しかった日々は、もう戻らない。
でも、それと同じくらい、新しい季節の始まりを告げるような、静かなわくわく感が胸に広がっていた。
失恋は、一つの物語の終わり。でもそれは、新しい物語を始めるための、大切なプロローグなのかもしれない。
そのことに、私は今日、ようやく気づくことができた。私の夏は、まだ始まったばかりだ。




