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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
7月:「暑さとともに募る想い」
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7月19日(土曜日)

朝5時。空はまだ白み始めたばかりだというのに、蝉の声が耳元でやかましく鳴り響いていた。俺、江口健介は、バットを握りしめ、家の前の静かな道路で一人、素振りを繰り返していた。

じっとりとした夏の朝の空気が、肌にまとわりつく。一振り、また一振り。風を切る音が、俺の心臓の鼓動と重なっていく。今日が、夏の地区予選準決勝。勝てば、夢の甲子園まであと一つ。負ければ、俺たち3年生の夏は、今日で終わる。

ユニフォームに袖を通す。背番号「1」。その数字の重みが、ずしりと肩にのしかかる。リビングに下りると、母さんが黙って赤飯のおにぎりを握ってくれていた。

「健介、悔いのないようにね」

「……おう」

父さんは、何も言わずに玄関に立っていた。元高校球児の父。その無言の背中が、どんな言葉よりも雄弁に「信じてるぞ」と語りかけている気がした。

球場へ向かうバスの中、チームメイトたちは誰もが固い表情で黙り込んでいた。主将として、エースとして、俺がこの重い空気を振り払わなければならない。

「おい、お前ら!暗い顔すんな!今日勝って、最高の夏にするぞ!」

俺が声を張り上げると、仲間たちの顔に少しずつ闘志の色が戻ってきた。そうだ、俺たちは一人じゃない。

球場の熱気は、まるで巨大な生き物のようだった。スタンドを埋め尽くす観客、ブラスバンドが奏でる応援歌、そして、対戦相手の強豪・城南高校の、隙のないオーラ。そのすべてが、俺たちの緊張を極限まで高めていく。

プレイボールのサイレンが鳴り響く。俺は、マウンドに立ち、深く息を吸った。

「この夏、全部かけてる」

心の中で、何度もその言葉を繰り返す。父の言葉、先生の期待、仲間の想い、そして、自分の未来。そのすべてを、この右腕に込める。

試合は、息詰まるような投手戦になった。俺も、城南のエースも、互いに一歩も譲らない。スコアボードには、ゼロが並び続ける。ピンチの場面では、仲間たちのファインプレーに何度も救われた。ショートの中村がダイビングキャッチでゲッツーを完成させた時、俺は思わずグラブを叩いて叫んだ。ベンチからは、マネージャーの吉田の声が響く。「いけるよ、江口くん!」

しかし、試合が動いたのは最終回裏。ツーアウトから、四球とヒットでランナーを溜めてしまい、城南の4番バッターを迎える。一打サヨナラのプレッシャー。俺は、キャッチャーのサインに頷き、渾身のストレートを投げ込んだ。

カキン、という乾いた金属音。

打球は、無情にもライトスタンドへと吸い込まれていった。

サヨナラホームラン。

その瞬間、時間が止まった。歓声と悲鳴が入り混じる中、俺はマウンドに崩れ落ちた。終わった。俺たちの夏が、終わってしまった。

チームメイトたちが、次々とグラウンドにうずくまる。泣きじゃくる後輩、天を仰ぐ同級生。汗と、土と、涙で、ユニフォームはぐちゃぐちゃになっていた。

「……整列!」

俺は、震える声で叫んだ。主将として、最後までチームをまとめなければならない。涙で滲む視界の中、相手校の選手たちと握手を交わす。

「ナイスゲームだった」

城南の主将が、俺の手を強く握りながら言った。その一言に、堪えていたものが一気に溢れ出した。

スタンドから、温かい拍手が降り注ぐ。

「江口ー!ありがとう!」

「よく頑張ったぞー!」

クラスメイトたちの声も聞こえる。朝倉や寺田、そして、野球なんて興味ないはずの川崎の顔まで見えた気がした。

ロッカールームに戻ると、そこには重い沈黙だけが支配していた。誰も、何も言えない。俺は、自分のロッカーの前で、汗と涙でぐっしょりと濡れたユニフォームを脱いだ。そのユニフォームが、俺の高校生活のすべてだった。

「……主将、お疲れ様でした」

マネージャーの吉田が、震える声でタオルを差し出してくれた。そのタオルを受け取った瞬間、俺はもう、声を上げて泣くことしかできなかった。

「ごめん……!俺のせいで……!」

「そんなことないです!主将がいたから、ここまで来れたんです!」

仲間たちが、次々と俺の周りに集まってくる。幼なじみの中村と山田が、黙って俺の肩を抱いてくれた。

「お前がエースで、主将で、よかったぜ」

その言葉に、また涙が溢れた。

どれくらい泣いただろうか。気づけば、窓の外はもう夕暮れに染まっていた。

俺たちの、長くて、短かった夏が終わった。

「野球」、それが俺の全てだった。それを失った明日から、俺はどうすればいいんだろう。父に言われた「野球だけじゃ、この先どうにもならなくなる」という言葉が、現実の重みをもって胸に突き刺さる。

スポーツ推薦の道も、今日の敗戦で厳しくなったかもしれない。明日からは、嫌いな勉強と向き合わなければならない。

でも。

俺は、濡れたユニフォームを、もう一度強く握りしめた。

この悔しさも、仲間との絆も、スタンドからの声援も、決して消えはしない。この汗と涙が染み込んだユニフォームは、俺が本気で生きた証だ。

野球は終わった。でも、俺の人生は、まだ始まったばかりだ。

この悔しさを、絶対に忘れない。この夏に懸けたすべてを、次のステージで、必ず力に変えてみせる。

静まり返ったロッカールームで、俺は顔を上げた。窓から差し込む夕陽が、涙で濡れた俺の頬を、優しく照らしているようだった。

青嵐高校野球部の夏は終わった。でも、江口健介の、新しい戦いが、今、静かに始まろうとしていた。


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