7月18日(金曜日)
夏休み初日。
いつもなら、けたたましい目覚ましの音で叩き起こされ、ユニフォームに袖を通して朝練へ向かう時間。でも今日、私、朝倉春奈が目を覚ましたのは、カーテンの隙間から差し込む太陽が部屋をすっかり明るくした頃だった。
静かすぎる朝。それが、ひどく落ち着かなかった。
身体に染みついた習慣が、まだ引退したという現実を受け入れられていない。ベッドから起き上がると、壁に立てかけてあるバレーボールが目に入った。昨日まで、私の世界の中心だったもの。今はただの、丸い革の塊に見える。
「……何しよ」
机の上には、昨日、終業式で渡された大量の夏休みの課題と、夏期補習の分厚いテキストが山積みになっている。大学のパンフレットも、開かれるのを待っているかのように鎮座している。やらなきゃいけないことは、わかってる。わかってるけど、どうしても身体が動かなかった。
「勉強……しないとな」
そう呟いてみたものの、心は体育館に向かっていた。後輩たちの顔が浮かぶ。新チームは、ちゃんと機能しているだろうか。1年生の美月は、セッターとしてのプレッシャーに潰されていないだろうか。
「……ちょっとだけ、顔出すか」
それは、後輩への心配というよりも、自分の居場所を確かめたいという、弱さの表れだったのかもしれない。ジャージに着替えると、心が少しだけ軽くなった。やっぱり、私にはこれしかないんだ。
学校へ向かう道は、昨日までとはまるで違って見えた。登校する生徒の姿はなく、聞こえてくるのは蝉の声と、遠くで響く車の走行音だけ。夏休みなんだ、と改めて実感する。
体育館の重い扉を開けると、ボールが床を叩く乾いた音と、後輩たちの掛け声が、懐かしい匂いとともに私を包み込んだ。
「春奈先輩!おはようございます!」
「来てくれたんですね!」
私の姿を見つけた後輩たちが、練習を中断して駆け寄ってくる。その笑顔に、胸の奥がじんわりと温かくなる。ああ、やっぱり、ここが私の居場所だ。
「練習、どう?ちゃんと声出てる?」
「はい!でも、やっぱり先輩がいないと、なんか締まらなくて……」
「何言ってんの。これからは、あなたたちがチームを引っ張っていくんだから」
そう言いながらも、後輩に頼られることが、素直に嬉しかった。
練習に混ざり、レシーブの基本を教えたり、スパイクのフォームをチェックしたりした。ボールに触れていると、勉強への焦りや、将来への不安が、すっと消えていく。汗を流し、声を枯らし、仲間と笑い合う。この瞬間だけが、私が「私」でいられる時間だった。
時間はあっという間に過ぎて、練習が終わる頃には、体育館の大きな窓から差し込む光は、オレンジ色に変わっていた。
「先輩、今日は本当にありがとうございました!」
「また来てくださいね!」
後輩たちが次々と帰っていく。その背中を見送りながら、私は一人、体育館に残った。モップをかけ、ネットを片付け、ボールを籠に戻す。いつも当たり前にやっていた作業が、今日だけは、ひどく名残惜しかった。
すべての片付けが終わり、体育館には私一人だけになった。
しん、と静まり返った空間に、自分の呼吸の音だけが響く。床のワックスの匂い、汗の匂い、壁に飾られた『一球入魂』の文字。そのすべてが、私の三年間そのものだった。
私は、ボール籠からボールを一つ取り出し、誰もいないコートの中央に立った。
トスを上げ、天井に向かってサーブを打つ。ボールは放物線を描き、向こう側のコートに、ぽとり、と落ちた。その乾いた音が、静寂の中でやけに大きく響いた。
床に座り込み、体育館全体を見渡す。ここで、何度泣いて、何度笑っただろう。試合に勝った日の歓声、負けた日のチームメイトの涙。引退を決めた最後の大会の、あの瞬間の光景。全てが、昨日のことのように蘇る。
日が沈み、体育館の照明が落とされる時間が、刻一刻と近づいてくる。
帰りたくない。まだ、ここにいたい。この空気の中に、ずっと浸っていたい。
勉強もしなきゃいけない。進路も決めなきゃいけない。でも、今は、そんな現実から目をそらしていたかった。
「……まだ終わりたくない」
ぽつりと、心の底から声が漏れた。
それは、バレーボールも、この仲間たちとの時間も、そして、二度と戻らないこの“青春”も。
誰にも聞かれなかったはずの、小さな、小さな呟き。
私はゆっくりと立ち上がり、重い足取りで体育館の出口へと向かった。自分の三年間が詰まったこの場所と、本当のお別れをする時が来た。
ぎい、と音を立ててドアを開ける。その先に、誰かが立っているとは思わなかった。
「……お疲れ」
そこにいたのは、同じように野球部の練習を終えたらしい、江口健介だった。彼もまた、壮行会で熱い決意を語っていた、同じ3年生の主将だ。
彼の目は、すべてを理解しているかのように、優しかった。私の呟きが、聞こえていたのかもしれない。でも、彼は何も言わなかった。ただ、静かにそこにいてくれるだけだった。
「……お疲れ様」
私は、驚いて、少しだけ顔を赤らめながら、それでもなんとかそう返した。彼も、私と同じように、部活という大きな存在を失った喪失感と、未来への不安を抱えているのかもしれない。そう思うと、一人じゃないんだと、少しだけ心が軽くなった。
夏休み初日。感傷的で、少しだけ寂しい一日は、思いがけない静かな出会いで幕を閉じた。明日から、また新しい戦いが始まる。でも、今日のこの瞬間を、私はきっと忘れないだろう。一人だと思っていた自分の本音を、誰かが静かに受け止めてくれた。その事実が、私に、次の一歩を踏み出すための、小さな勇気をくれた気がした。




