7月16日(水曜日)
じっとりとした湿気が肌にまとわりつく。期末考査も終わり、明日の終業式を待つだけの校舎は、夏休み前の独特な浮遊感と、抜け殻のような気だるさに満ちていた。俺、川崎蓮は、そんな空気を振り払うように、足早に昇降口を抜けた。
「おーい、蓮!今日スタジオだろ?」
後ろから、同じ軽音部の真司の声が飛んでくる。
「おう。18時から。遅れんなよ」
「りょーかい。新曲、今日で仕上げるぞ!」
いつもと同じ、放課後のやりとり。でも、俺の心の中は、いつもと少し違っていた。ここ数日、頭の中を占領しているのは、進路のことばかり。三者面談で親父に言われた「現実を見ろ」という言葉。今井先生の、どこか諦めに似た眼差し。そして、着々と進路を決めていくバンド仲間たち。俺だけが、宙ぶらりんのまま、どこにも進めていない。
「なんとかなるっしょ」
いつものお守りのようなその言葉が、もう効力を失っていることには、とっくに気づいていた。
駅前の音楽スタジオ〈ミュージックファクトリー〉の地下へ続く階段を下りる。ひんやりとした空気が、火照った身体に心地よかった。スタジオのドアを開けると、アンプのノイズと、ドラムの乾いた音が響いている。俺たちの聖域。現実から逃れるための、唯一の場所。
「よっす。じゃ、早速合わせるか」
俺は愛用のギターをケースから取り出し、チューニングを始める。ペグを回す指先に、わずかな震えを感じた。
新曲のイントロ、俺が作ったリフから始まる。指が、弦の上を滑る。いつものように、音に没頭しようとした。でも、ダメだった。頭のどこかで、雑音が鳴り響いている。
『音楽で食っていくのが、どれだけ大変か』
『具体的なビジョンが見えていない』
親父や先生の言葉が、弾く音のひとつひとつに重なって、リズムを狂わせる。
「……っ、わりぃ、もう一回!」
集中が切れて、コードをミスった。
「蓮?どうした、今日、なんか乗り切れてなくない?」
ベースを置いた真司が、訝しげに俺を見る。ドラムの律子も、心配そうにスティックを止めていた。
「……いや、なんでもねえ」
「なんでもなくないだろ。最近ずっと、そんな感じじゃん。ギターの音、なんか必死すぎて、聴いてるこっちが苦しくなるぜ」
真司のストレートな言葉が、胸に突き刺さる。隠しているつもりの焦りが、音に出てしまっていたのか。
「……うるせえな」
「まあ、進路とか、いろいろあんだろ。俺らも同じだし」
真司はそう言って、ドリンクを一口飲んだ。スタジオの中が、気まずい沈黙に包まれる。俺たちの未来は、この狭い防音室の外に広がっていて、それはどうしようもなく不確かで、怖いものだった。
休憩を挟んで、もう一度、新曲の練習を再開した。今度は、さっきよりもうまく弾けた。俺のギターソロでは、感情のままに弦をかき鳴らした。迷いも、焦りも、不安も、全部音に変えてしまいたかった。
演奏が終わった後、スタジオに一瞬の静寂が訪れた。みんなの息づかいだけが聞こえる。
「……やっぱ、この曲、いいな」
最初に口を開いたのは、真司だった。
「文化祭、これでいこうぜ。絶対、盛り上がる」
いつもなら、「当たり前じゃん!」と即答するはずのその言葉に、俺はすぐには応えられなかった。胸の奥に、鉛のようなものが詰まって、言葉が出てこない。
俺は、本当にステージに立っていいんだろうか。進路も決められない、覚悟もない俺が、みんなの本気に、ただ乗っかっているだけなんじゃないか。
「……なあ」
俺は、俯いたまま、絞り出すように声を出した。
「文化祭、出ていいかな……?」
その声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。いつものお調子者の俺じゃない。不安と、迷いと、ほんの少しの希望が混じった、初めて仲間たちに見せる“真剣な音”だった。
スタジオの中が、しん、と静まり返る。真司も、律子も、驚いたように俺を見ていた。
「は?何言ってんだよ、蓮」
真司が、呆れたように、でも、どこか優しい声で言った。
「お前がいなくて、どうやってこの曲やるんだよ。このギターソロ、お前にしか弾けねえだろ」
「……でも、俺、まだ進路とか、全然決まってなくて。親にも、先生にも、わかってもらえねえし……。こんな中途半端な俺が、みんなと一緒にステージ立って、本当にいいのかなって……」
初めて、自分の弱さを、本音を、仲間の前でさらけ出した。情けなくて、恥ずかしくて、顔が上げられない。
沈黙を破ったのは、今まで黙って俺たちのやりとりを聞いていた、ドラムの律子だった。
「蓮のギターじゃなきゃ、この曲、意味ない」
いつもは無口な彼女の、静かだけど、揺るぎない一言。その言葉が、俺の心にすとんと落ちてきた。
「……だよな」
真司が、ニヤリと笑う。
「進路がどうとか、親がどうとか、そんなの関係ねえだろ。俺たちは、今、この瞬間に、お前のギターが聴きたい。お前と一緒に、最高の音、鳴らしたい。ただ、それだけだよ」
仲間たちの、まっすぐな言葉。誰にも理解されないと思っていた俺の「好き」を、こいつらは、ちゃんと受け止めてくれていた。
気づけば、目の奥がじんわりと熱くなっていた。
「……そっか。……だよな」
俺は、照れ隠しのようにガシガシと頭をかきながら、顔を上げた。いつもの強がりな笑顔じゃない。心の底から、何かが吹っ切れたような、そんな笑顔だった。
「……サンキュ」
その一言に、俺の全ての気持ちが込められていた。
「じゃあ、やるか。最高のステージ」
覚悟が決まった。文化祭のステージは、もうただの楽しいイベントじゃない。俺の「本気」を、親父にも、先生にも、そして何より、自分自身に見せつけるための、最初の戦いの場だ。
「おう!もう一回、頭から行くぞ!」
真司の掛け声で、俺たちは再びそれぞれの楽器を構える。俺はピックを強く握りしめた。
もう、迷いはない。この音で、この仲間たちと、未来をこじ開けてみせる。
俺が弾き始めたギターのリフは、さっきまでとは比べ物にならないくらい、力強く、そして、どこまでも澄んだ音色で、スタジオ中に響き渡った。




