7月15日(火曜日)
じりじりと焼けるようなアスファルトの熱が、校舎の窓から入り込んでくる。期末考査が終わり、一学期の終業式まであと数日。教室の空気は、夏休みを目前にした解放感と、本格化する受験勉強への漠然とした焦りが入り混じって、どこか浮足立っていた。
私、北川詩織は、そんな教室の喧騒から逃れるように、放課後の文芸部室の椅子に深く腰かけていた。窓の外からは、グラウンドで練習に励む運動部の掛け声が聞こえてくる。その熱気が、この静かな部室とはまるで別世界の出来事のように感じられた。
机の上には、数枚の原稿用紙と、インクが滲んだ万年筆。新しい小説の冒頭部分を書きかけては、何度も線を引いて消している。自分の言葉が、ひどく薄っぺらく感じられて、ため息ばかりが漏れた。
先日の三者面談で父に言われた、「文学部は就職が厳しい」という言葉が、まだ心の奥に棘のように刺さっている。私の「好き」は、社会では通用しないのだろうか。そんな無力感が、創作への意欲を鈍らせていた。
「あの、部長……」
不意に、か細い声がかかった。顔を上げると、新入部員の香月さんが、緊張した面持ちで立っていた。その手には、数枚の原稿用紙が大事そうに握られている。
「これ……初めて、最後まで書いたんです。もし、よかったら、読んでもらえませんか?」
香月さんは、入部してきた時から「部長の書く文章が好きです」と言ってくれていた、物静かだけど芯の強そうな子だ。その彼女が、震える手で差し出す原稿。それは、彼女にとっての「初めて」の結晶なのだろう。
「もちろん。読ませて」
私は笑顔でそれを受け取り、隣の席に座るよう促した。香月さんは、こくりと頷いて、私のすぐそばの椅子にちょこんと腰を下ろす。彼女の緊張が、こちらにまで伝わってくるようだった。
原稿に目を落とす。タイトルは『夏色のソーダ水』。拙いながらも、一つ一つの言葉が丁寧に選ばれていて、主人公の淡い恋心が、夏の風景と共に瑞々しく描かれていた。喫茶店の描写、ソーダ水の気泡が弾ける音、相手の何気ない仕草に一喜一憂する主人公の気持ち。そのどれもが、不器用だけど、驚くほどまっすぐだった。
読み進めるうちに、私は自分のことと重ね合わせていた。この物語に込められた純粋な「好き」という気持ち。それは、私が小説を書き始めた頃の気持ちと、よく似ていた。誰かに評価されたいわけじゃない。ただ、この胸に込み上げてくるものを、言葉にしたかった。その一心で。
「……どう、でしょうか。やっぱり、変ですか?」
私が最後のページを読み終えるのを待っていた香月さんが、不安そうに私の顔を覗き込む。彼女の瞳は、期待と不安で揺れていた。親にも、「小説なんて書いてないで、もっと勉強しなさい」と言われているのだと、以前、ぽつりと漏らしていた。
その言葉が、父の言葉と重なる。この子の「好き」も、いつか現実の壁にぶつかって、傷ついてしまうのだろうか。そう思うと、胸が苦しくなった。どんな言葉をかければいいのか、わからなかった。下手に褒めて、無責任に夢を煽るべきではないのかもしれない。でも、否定なんて、絶対にできなかった。
私は、一度、深く息を吸った。そして、できるだけ優しい声で、言葉を紡いだ。
「ううん、そんなことない。すごく……すごく、よかったよ」
私の言葉に、香月さんの顔がぱっと明るくなる。
「読んでてね、ソーダ水みたいに、気持ちがシュワシュワする感じが伝わってきた。主人公の子が、好きな人のことを考えてる時のドキドキとか、切なさとか……すごく、リアルだった」
「本当ですか……?」
「うん。それに、この『好き』っていう気持ち、すごく綺麗だなって思った」
そして、私は、一番伝えたかった言葉を口にした。それは、彼女に、そして何よりも、自分自身に言い聞かせるための言葉だった。
「その“好き”はすごく素敵だよ」
言った瞬間、自分の声がわずかに震えたことに気づいた。バレないように、私は必死で笑顔を保つ。
「誰かに、意味ないなんて言われても、この『好き』っていう気持ちだけは、絶対に手放しちゃだめだよ。簡単に書けるものじゃない。悩んで、迷って、それでも書きたいって思ったから、この物語が生まれたんだと思う。それはね、本当にすごいことなんだよ。あなただけの、宝物だから」
言いながら、涙がこみ上げてきそうになるのを、ぐっと堪えた。それは、香月さんに言っているようで、父に否定された自分自身に、必死に語りかけている言葉だった。書くことが好きだという、このどうしようもない気持ちを、誰かに肯定してほしかった。
「……はいっ!」
香月さんは、潤んだ瞳で、でも、力強く頷いた。その表情は、さっきまでの不安げなものとはまるで違って、確かな自信と喜びに満ちていた。
「ありがとうございます、部長!私、もっと書いてみます!」
「うん、応援してる。いつでも相談に乗るからね」
香月さんが、晴れやかな顔で部室を出ていく。一人になった部屋で、私はしばらく窓の外をぼんやりと眺めていた。夏の強い日差しが、教室の床に反射して、きらきらと光っている。
誰かの「好き」を肯定することで、自分の中の「好き」も、また少しだけ、輝きを取り戻した気がした。父に何を言われようと、私のこの気持ちは、誰にも奪えない。
机の上に広げられたままの、自分の書きかけの原稿に目を落とす。さっきまでは、あんなに色褪せて見えた言葉たちが、今は少しだけ、息を吹き返したように見えた。
「よし、私も、書こう」
私は万年筆を握り直し、新しいインクを補充する。震えていたのは、声だけじゃなかった。きっと、私の心も、誰かに「素敵だよ」と言ってほしくて、ずっと震えていたんだ。
今日、私は後輩に言葉をかけた。でも、本当に救われたのは、私の方だったのかもしれない。言葉を交わすことで、分かち合うことで、人は強くなれる。
夏の始まりを告げる蝉の声が、窓の外から大きく聞こえてきた。それは、まるで、私と、そして香月さんの、新たな「出発」を祝うファンファーレのようだった。




