7月14日(月曜日)
「……あと、2点」
しんと静まり返った自室の机の上。先日返却された期末考査の数学の答案用紙を前にして、俺、青山大輝は、誰に言うでもなく小さく呟いた。答案用紙の右上には、赤いインクで「98」という数字が書かれている。クラスのほとんどの奴らが手も足も出なかったという超難問も解き、学年トップの成績であることは間違いない。なのに、ケアレスミスで失ったこの2点が、鉛のように重く心にのしかかっていた。
完璧じゃなかった。その事実だけが、じりじりと胸を焼く。
今日は7月14日。俺の18歳の誕生日だ。1 朝、母さんは少しだけ豪華な朝食を用意して「お誕生日おめでとう、大輝」と微笑んでくれた。でも、俺は「ああ、ありがと」と素っ気なく返すことしかできなかった。心から喜べない。18歳になった実感よりも、夏休みが目前に迫り、本格化する受験勉強へのプレッシャーの方が何倍も大きかった。
学校へ向かう道すがら、スマホを開くと、クラスのグループLINEが賑やかに動いている。
「期末終わったし、明日どっか行かね?」
「カラオケ行きてー!」
「夏休み、海行こうぜ!」
そんな浮かれた会話を、俺は冷めた目で見つめていた。期末考査が終わった解放感に浸っているあいつらと俺とでは、見ている世界が違う。そう思うことで、必死に自分の立ち位置を保とうとしていたのかもしれない。
教室に入ると、案の定、浮かれた空気が充満していた。
「お、青山!おはよー。今日誕生日だろ?おめ!」
声をかけてきたのは、同じく成績上位の西村だ。2 彼は俺とは違って社交的で、クラスの中心にいるタイプ。
「ああ、サンキュ」
「18禁解禁だな!まあ、俺らにはまだ関係ねーけど」
西村の冗談に、俺は曖昧に笑みを返す。クラスの女子何人かも「青山くん、おめでとー!」と声をかけてくれたが、俺は軽く会釈するだけだった。嬉しいとか、そういう感情が湧いてこない。むしろ、誕生日だからといって特別扱いされるのが、少しだけ苦痛だった。
授業中も、頭の中は進路のことでいっぱいだった。父さんや兄貴と同じように、東大へ行く。それが、俺に課せられた道。俺自身も、それ以外の選択肢を考えたことはなかった。でも、本当にそれが自分の望む道なのか?その問いが、最近、頭の中で何度もこだまする。
昼休み、一人で弁当を食べていると、窓の外から野球部の掛け声が聞こえてきた。江口や中村たちが、引退前の最後の大会に向けて汗を流している。彼らの、何かにまっすぐ打ち込む姿が、やけに眩しく見えた。俺には、あんなふうに夢中になれるものがあるだろうか。勉強は、ただ「やらなければならないこと」でしかなく、そこに情熱はない。
放課後。クラスのほとんどの奴らが、夏休みの計画で盛り上がりながら帰っていく中、俺は一人、図書室へ向かった。夏期補習の予習をしなければならない。参考書を開き、問題と向き合う。静かな空間で、ただひたすらにペンを走らせる時間だけが、唯一、心を無にできた。
「……青山くん?」
不意に声をかけられ、顔を上げる。そこに立っていたのは、同じクラスの岡田真由だった。彼女もまた、学年トップクラスの成績を維持し続ける努力家だ。
「誕生日、おめでとう」
「あ……ありがとう」
「今日も勉強?ほんと、真面目だよね」
岡田はそう言って、少しだけ寂しそうに笑った。彼女もまた、俺と同じように、見えないプレッシャーと戦っているのかもしれない。そんな気がした。
「岡田も、勉強しにきたのか?」
「うん。夏休み前に、少しでも進めておこうと思って。……お互い、大変だね」
その一言に、俺は何も返すことができなかった。彼女の言葉は、まるで俺の心の中を見透かしているようだったからだ。
図書室を出て、一人で帰路につく。夕暮れの空が、オレンジ色と藍色のグラデーションを描いていた。夏の匂いが、むわりと立ち上ってくる。
スマホが、ポケットの中で震えた。画面に表示されたのは、「父」の文字。LINEだった。
心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。開くのを一瞬ためらったが、意を決してタップした。
『誕生日おめでとう。18歳か。これからが本当の勝負だな。期待している』
短い、簡潔なメッセージ。絵文字も、スタンプもない。ただ、そこには父からの、重たい、重たい期待だけが記されていた。
「……っ」
息が詰まる。指が、画面の上で固まった。返信が、できない。「ありがとう」の一言すら、打つことができなかった。このメッセージは、祝福じゃない。これは、呪いだ。お前は、俺たちの期待を裏切るなよ、という無言の圧力だ。
俺は、既読だけつけて、スマホの画面を伏せた。
家に帰ると、リビングからピアノの音が聞こえてきた。母さんが、ショパンのノクターンを弾いている。優しくて、でもどこか物悲しいそのメロディが、今の俺の心にじんわりと染み込んだ。
「おかえり、大輝。疲れたでしょ」
ピアノを弾き終えた母さんが、紅茶を淹れてくれた。
「……親父から、LINE来た」
「そう。なんて?」
「『期待してる』って」
俺がそう言うと、母さんは少しだけ悲しそうな顔をして、でも、何も言わなかった。彼女もまた、父と俺の間で、どうすることもできずにいるのかもしれない。
自室に戻り、机に向かう。でも、もう参考書を開く気力はなかった。代わりに、白紙のノートを広げ、ペンを握る。
何を書けばいいのかわからない。ただ、今のこの感情を、どこかに吐き出したかった。
『完璧じゃなきゃ、意味がないのか?』
ノートに、その一文だけを書きなぐった。父の期待、兄の存在、そして、自分自身に課した「完璧であれ」という呪縛。そのすべてが、重たい鎖のように俺に絡みついている。
18歳になった今日、俺は自由になるどころか、さらにがんじがらめになっている気がした。
窓の外は、もうすっかり夜の闇に包まれていた。遠くで、花火の音が聞こえる。夏が、始まろうとしている。
でも、俺の心は、まだ梅雨の真っ只中にいるようだった。この息苦しさから、抜け出すことはできるんだろうか。
答えの見えない問いを抱えたまま、俺は机に突っ伏した。静かな部屋に、俺の荒い呼吸だけが響いていた。18歳の誕生日は、俺にとって、人生で最も孤独な一日になった。




