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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
7月:「暑さとともに募る想い」
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7月13日(日曜日)

じっとりとした湿気を含んだ空気が、リビングに重く漂っている。窓の外では、梅雨明けを告げるかのように蝉がけたたましく鳴き始め、アスファルトを焼く強い日差しが、レースのカーテン越しに部屋の床を白く照らしていた。

私、上原由佳は、昼食の食器を洗い終え、シンクを綺麗に拭き上げた後、静まり返ったリビングのソファにそっと腰を下ろした。

時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。

奥の和室では、母が薬を飲んで静かに寝息を立てていた。ここのところ持病の具合が芳しくなく、昼間でも横になっていることが多い。リビングのソファでは、中学生の弟・慎也が、午前中の部活の疲れからか、制服のまま気持ちよさそうに眠っている。父は、いつものように長期の海外出張中だ。

家の中で、起きているのは私だけ。

この静寂が、私にだけ許された、ほんのわずかな自由時間だった。

私は音を立てないようにそっと立ち上がり、自分の部屋から進路資料の詰まったファイルをリビングのテーブルに持ってきた。誰にも見られないように、まるで禁じられた遊びでもするかのように、こっそりと。

大学のパンフレットを一枚一枚、ゆっくりとめくっていく。色鮮やかなキャンパスの写真、楽しそうに笑う学生たちの姿。そのどれもが、今の私にとっては、遠い異国の風景のように見えた。

「看護学部……福祉学科……」

自然と、指が止まるのはそういったページだった。母の看病や弟の世話をしてきた経験から、誰かの役に立つ仕事に就きたいという気持ちは、ずっと心のどこかにあった。それは、ごく自然な流れのように思えた。

でも、ページをめくるたびに、頭の中では別の計算が働いている。

(この大学は、家から通えるかな)

(学費は……やっぱり国公立じゃないと、うちには厳しいよね)

(推薦をもらうには、評定がもう少し……)

パンフレットに書かれた「夢」や「希望」といった言葉よりも先に、「制約」や「現実」という文字が目に飛び込んでくる。私の進路選択は、いつだって「できること」の中から「選ぶ」作業だった。「やりたいこと」を自由に思い描くことなんて、許されない気がしていた。

スマホを手に取り、無意識にSNSを開く。クラスメイトの井上さんや小林さんが、カフェで撮った写真や、新しく買った服の写真をアップしている。キラキラした日常。みんな、自分の時間を、自分のために使っている。

いいな。

その一言が、胸の奥で重たい石のように沈んだ。嫉妬しているわけじゃない。ただ、純粋に羨ましかった。私には、そんなふうに自分のためだけに使える時間も、心の余裕も、ない。

ふと、顔を上げる。リビングの時計が、午後三時を指していた。母が起きるまで、あと一時間くらいだろうか。慎也は、まだすやすやと眠っている。

この、誰にも邪魔されない、静かな時間。

これが、今の私が持てる、唯一の「自分の時間」。

進路資料を広げたテーブルの上で、私は何でもないふりをして、自分の未来と向き合おうとしている。でも、その未来すら、家族のことが頭から離れない。

「私の時間って、一体どこにあるんだろう」

声にならない声が、喉の奥で震えた。私の人生は、母の看病と、弟の世話と、家の家事と、学校の勉強で埋め尽くされている。その隙間に、私の「夢」や「希望」が入り込む余地なんて、あるんだろうか。

保健委員として、クラスメイトの心配をする。家では、家族の心配をする。でも、私の心配は、誰がしてくれるんだろう。いつも「大丈夫」「平気だよ」と笑顔で答えるのが癖になって、本当は大丈夫じゃない自分の気持ちに、気づかないふりをし続けてきた。

涙が、ぽろり、とパンフレットの上に落ちた。慌てて手の甲で拭う。家族が起きている前では、絶対に泣けない。泣いたら、心配をかけてしまうから。

私は、強いお姉ちゃんで、しっかり者の娘でいなければならない。それが、私に与えられた役割だから。

資料を片付けようとした、その時だった。ある大学のパンフレットの隅に書かれた小さな文字が目に留まった。

「オンライン・オープンキャンパス開催中。自宅からでも参加できます」

オンライン……?

その言葉に、心が少しだけ動いた。これなら、家からでも、誰にも知られずに参加できるかもしれない。ほんの少しだけ、外の世界と繋がれるかもしれない。

私は、吸い寄せられるようにスマホでその大学のサイトを開いた。ページには、オンラインでの学部説明会や、在学生との交流会のスケジュールが載っている。震える指で、そのページをブックマークに登録した。

それは、誰にも気づかれない、私だけの小さな反逆だった。自分の未来を、諦めないと決めた、ささやかな抵抗。

「……由佳?」

奥の和室から、母のかすれた声が聞こえた。ハッとして、私は慌てて進路資料をファイルに戻し、テーブルの下に隠した。

「どうしたの、母さん」

「……お水、もらえる?」

「うん、すぐ持ってくね」

私は何事もなかったかのように笑顔を作り、キッチンへと向かった。さっきまでの葛藤を心の奥底に押し込めて。

でも、私の心の中には、さっきブックマークした、あの大学のサイトの光景が焼き付いていた。

私の時間は、誰かに与えられるものじゃない。

これから、自分で作っていくんだ。

たとえそれが、家族が眠っている間の、ほんのわずかな時間だったとしても。その小さな時間の中で、私は、私の未来を探し始める。

窓の外では、夏の強い日差しが、庭の緑を鮮やかに照らしていた。季節は、確実に前に進んでいる。

私も、止まってはいられない。

そう心に誓いながら、私は母のための水を、グラスにそっと注いだ。その水面に映る自分の顔は、ほんの少しだけ、昨日よりも強く見えた気がした。

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