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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
7月:「暑さとともに募る想い」
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7月12日(土曜日)

じりじりとアスファルトを焼くような日差しが、部屋のカーテンの隙間から差し込んでいる。網戸の向こうからは、気の早い蝉の声が聞こえ始め、本格的な夏の到来を告げていた。期末考査が終わって一週間。教室の空気は少し緩み、多くのクラスメイトは夏休みの計画や部活のことで頭がいっぱいだろう。

でも、私、岡田真由の時間は、まだ考査期間のまま止まっているようだった。自室の机に向かい、ひたすら英語の長文問題集を解き続ける。カレンダーに赤丸で記された「夏期補習開始」の日付が、刻一刻と迫ってくる。休んでいる暇なんて、ない。

「真由、ちょっと休憩したら?お茶いれたよ」

不意に、部屋のドアがノックと共に開いた。顔を上げた先に立っていたのは、大学から帰省中の姉、梨奈だった。手にはアイスティーの入ったグラスを二つ持っている。彼女の周りだけ、空気が華やいで見えるのは気のせいだろうか。

「あ、ありがとう」

私はペンを置き、姉からグラスを受け取った。有名私大に通う梨奈は、私にとって憧れであり、同時に、決して超えることのできない壁のような存在だった。いつも明るく、要領が良くて、誰からも好かれる。私とは、何もかもが違う。

「まだ勉強?真由ってほんと、真面目だよね。たまには息抜きしなよ」

「別に。やりたいからやってるだけ」

素っ気なく答えてしまった自分に、少しだけ自己嫌悪を感じる。姉は何も悪くない。ただ、心配してくれているだけなのに。

「そっか。まあ、頑張るのはいいことだけどさ」

梨奈はそう言って、私のベッドの縁に腰掛けた。部屋の中をぐるりと見回し、机の上に山積みになった参考書や、壁に貼られた「絶対合格」の文字を見て、ふっと小さく笑った。

「高校の時、思い出すな。私もこんな感じだったかも」

「梨奈は、もっと余裕だったでしょ。いつも学年トップだったし」

「そんなことないって。内心、毎回ギリギリだったよ。特に3年の夏は、マジで記憶ないもん」

姉の口から出る「ギリギリ」という言葉が、信じられなかった。私から見れば、姉の高校生活は完璧そのものだった。勉強も、部活も、友達付き合いも、すべてをそつなくこなしているように見えたから。

「……嘘だ」

「ほんとほんと。まあ、真由ほどストイックじゃなかったけどね」

グラスの中の氷が、カラン、と涼しげな音を立てる。しばらくの沈黙。部屋には、窓の外から聞こえる蝉の声と、壁掛け時計の秒針の音だけが響いていた。

「ねえ、真由」

不意に、梨奈が私の名前を呼んだ。その声は、いつもより少しだけ、真剣な響きを持っていた。

「……なに?」

「真由ってさ、いつからそんなに我慢するようになったの?」

その言葉が、私の耳に届いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。時が、止まった気がした。

「……我慢?」

聞き返す声が、自分でも驚くほどか細く、震えていた。何を言われているのか、理解できなかった。いや、理解したくなかった。

「だって、昔はもっと笑ってたじゃん。絵を描くのが好きで、一日中スケッチブックに向かってたこともあったし、ピアノの発表会前は『絶対、金賞とる!』って、目をキラキラさせてた。やりたいこと、ちゃんと『やりたい』って言えてたよ」

梨奈の言葉が、封印していた過去の記憶の扉を、容赦なくこじ開けていく。そうだ、昔の私は、そうだった。もっと単純で、もっと素直で、自分の「好き」という気持ちにまっすぐだった。

「いつから、『〜しなきゃいけない』ばっかりになっちゃったの?お母さんやお父さんの期待に応えるのが、真由のやりたいこと、なの?」

違う。そう叫びたかった。でも、声が出ない。喉の奥に、見えない何かが詰まっている。姉の言葉が、図星すぎて、痛くて、苦しい。

「我慢、なんかしてない」

やっとのことで絞り出した声は、自分を守るための、弱々しい反論だった。

「してるよ」

梨奈は、きっぱりと言い切った。その瞳は、優しくて、でも、決して私の嘘を許してはくれなかった。

「いい子でいなきゃ、って。完璧じゃなきゃ、って。ずっと自分にプレッシャーかけてる。見てて、わかるよ。しんどくないの?」

しんどい。

しんどいに、決まってる。

でも、それを認めたら、今までの私が、全部崩れてしまいそうだった。期待に応えるために積み上げてきた努力が、すべて無意味になってしまいそうで、怖かった。

「……うるさい」

気づけば、そんな言葉が口をついていた。涙が、視界を滲ませる。姉の前で泣きたくない。弱い自分を見せたくない。そう思えば思うほど、涙腺は緩んでいく。

「真由の人生は、真由のものでしょ。誰かの期待に応えるためのものじゃない。もっと、自分のために怒ったり、泣いたり、笑ったりしていいんだよ」

梨奈は、そう言うと、静かに立ち上がって私の頭をポン、と軽く撫でた。

「……無理しないでね。いつでも話、聞くから」

ドアが静かに閉まり、部屋に一人取り残される。私は、机に突っ伏して、声を殺して泣いた。我慢なんてしてない。そう強がっていた心の壁が、脆くも崩れ去っていく。

いつからだろう。親に褒められたくて、勉強を頑張り始めた。姉と比べられるのが嫌で、負けたくなくて、必死に机にかじりついた。気づけば、「期待に応えること」が、私の存在理由になっていた。自分の「好き」や「やりたい」という気持ちは、その重圧の下に、押しつぶされて、見えなくなってしまっていた。

梨奈の言葉が、頭の中で何度も反響する。

「いつから、我慢してるの?」

答えなんて、わからない。でも、その問いを投げかけられたことで、私は初めて、自分がずっと我慢してきたことに気づかされたのかもしれない。

しばらく泣いて、顔を上げると、窓の外はもう夕暮れの光に染まっていた。頬を伝った涙の跡が、ひんやりと冷たい。

机の上の英語の長文問題集が、やけに色褪せて見えた。

私は、まだ、自分が何をしたいのかわからない。でも、今日、姉がくれたこの問いかけが、私を新しい場所へ連れて行ってくれる、そんな予感がした。

ざわつく心の中、それでも確かに感じたのは、ほんの少しの、解放感だった。

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