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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
7月:「暑さとともに募る想い」
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7月11日(金曜日)

じりじりと肌を焼くような西日が、美術室の大きな窓から差し込んでいた。床に落ちた絵の具の染みも、使い古されたイーゼルの傷も、そのオレンジ色の光に照らされて、まるでそれ自体がひとつの作品のように見える。俺、石川拓海は、額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、壁に立てかけた自分の絵をぼんやりと眺めていた。

先週、期末考査が終わった。地獄のようなテスト週間から解放され、ようやく心置きなく絵と向き合える。夏休みを前に、美術部ではこれまで描き溜めてきた作品を校内に展示する、ささやかな展示会の準備を進めていた。

「拓海、そっちのパネル、もう少し右にずらせる?」

「ん、ああ」

部長である俺の指示に、数少ない後輩部員たちが黙々と従う。静かで、言葉数は少ないけれど、絵を描くことが好きだという共通の想いが、この空間を心地よいものにしていた。

壁に一枚、また一枚と、自分の描いたキャンバスを掛けていく。高校に入ってから描いた風景画、静物画、そして誰にも見せるつもりのなかった抽象画。それらは、俺の三年間そのものだった。自分の分身たちが、ずらりと並んで俺を見つめ返してくるような、不思議な感覚に陥る。

「これ、去年のコンクールで銀賞取ったやつだ…」

一枚の油絵を手に取って、去年の記憶が蘇る。あの時は、ただがむしゃらに描いた。評価されたいというより、自分の力を試したかった。結果が出たときは嬉しかったけど、家に帰って父に報告すると、「それで、将来どうするんだ」と、いつもの言葉が返ってきただけだった。その一言で、せっかくの喜びも色褪せてしまった。

だから、いつからか俺は、誰かに見せるために描くのをやめたんだ。どうせ理解されない。自分の世界は、自分だけのものにしておけば傷つかない。そうやって、心を閉ざしてきた。

「おーい、美術部、なんかやってんの?」

不意に、ひょっこりと教室のドアから顔を覗かせたのは、野球部の中村と山田だった。練習帰りなのか、二人ともユニフォームが少し土で汚れている。

「うわ、すげー!これ全部、石川が描いたのか?」

「絵とか全然わかんねーけど、なんか、プロみたいじゃん!」

二人は、遠慮なく美術室に入ってきて、壁に掛けられた作品を興味津々といった様子で眺め始めた。俺は、少し戸惑いながらも「まあな」と短く答える。普段、ほとんど話すことのないクラスメイト。彼らが、俺の絵にどんな反応をするのか、想像もつかなかった。

「見て見て、この猫の絵、めっちゃリアルじゃね?」

「俺、こっちの風景画が好きだな。なんか、空気感がやばい」

そこに、さらに数人の女子生徒が通りかかった。確か、井上さんたちのグループだったか。彼女たちも、美術室の様子に気づいて、きゃっきゃと声を上げながら入ってくる。

「わ、すごい!文化祭の準備?」

「これ、石川くんの作品?え、めっちゃ上手くない!?」

「この青色、すごく綺麗……」

彼女たちは、美術の専門知識なんてないだろう。ただ、目にしたものを、感じたままに言葉にしていく。その屈託のない、純粋な賞賛の言葉が、俺の心の固い殻を、少しずつ、でも確実に溶かしていくのを感じた。

「……別に、たいしたことないよ」

照れ隠しにそう言ったけど、口元が緩んでいるのを自分でも分かっていた。

いつもは「どうせ理解されない」と、最初から壁を作っていた。でも、彼らは、俺が作った壁なんて気にも留めず、軽々と飛び越えて、俺の絵の世界に入り込んできた。

その時、ふと思ったんだ。

俺が描いてるのって、本当は、誰かに見せたかったんだな、って。

自分のために描いてる、なんて強がっていたけど、心のどこかで、ずっと誰かに「すごいね」って言ってもらいたかった。自分の見てるこの世界を、誰かと分かち合いたかった。父に否定され続けたことで、その素直な気持ちに蓋をして、見て見ぬふりをしてきただけなんだ。

そのことに気づいた瞬間、目の奥がじんわりと熱くなった。

「石川くん、もっと他の絵も見たいな!」

「今度、ちゃんと見に来てもいい?」

クラスメイトたちの言葉に、俺は「……ああ、いつでも」と、少し震えた声で答えるのが精一杯だった。

彼らが賑やかに去っていった後、美術室には再び静寂が戻った。でも、さっきまでの静寂とは、何かが違っていた。温かい余韻が、部屋中に満ちている。

「お疲れ様。賑やかだったね」

ふと声がして振り返ると、入り口に北川が立っていた。文芸部の彼女も、自分の創作活動に悩んでいる、俺の数少ない理解者だ。

「……うん。なんか、びっくりした」

「ふふ、みんな、拓海の絵、好きみたいだよ」

「……そう、なのかな」

「そうだよ。言葉にしなくても、伝わるものって、ちゃんとあるんだよ」

北川は、壁に飾られた絵を一枚一枚、慈しむように見つめながら言った。

「見てくれる人がいるって、嬉しいもんだな」

俺がぽつりと本音を漏らすと、北川は優しく微笑んだ。

「わかる。私の書いたものも、誰かが読んでくれるだけで、書いてよかったって思えるもん。見せるのって怖いけど、その先に、きっと何かがあるんだよね」

俺たちは、しばらく無言で作品を眺めていた。夕暮れの光が、俺の描いた絵の一枚を、スポットライトのように照らしている。それは、俺が一番気に入っている、誰もいない放課後の教室を描いた絵だった。孤独だけど、どこか温かい光に満ちた、俺だけの場所。

「俺……やっぱり、美大に行きたい」

その言葉は、自然と口からこぼれ落ちていた。今までのように、語尾に不安を滲ませるのではなく、確かな意志を持った言葉として。

「俺の絵で、誰かの心を、少しでも動かしてみたいんだ」

北川は、何も言わずに、ただ、こくんと頷いてくれた。その静かな肯定が、何よりも心強かった。

展示の準備はまだ途中だ。でも、もう迷いはない。この絵たちを、もっとたくさんの人に見てもらいたい。そして、伝えたい。俺が、ここにいるってことを。

夕日が完全に沈み、美術室が夜の闇に包まれる頃、俺は最後の作品を壁に掛け終えた。自分の描いた絵に囲まれたこの空間は、もうただの避難場所じゃない。世界と繋がるための、最初のステージなんだ。

そう思えたら、明日、父に自分の想いをもう一度話してみる勇気が、少しだけ湧いてきた気がした。

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