7月10日(木曜日)
「主将、挨拶、緊張してます?」
体育館のステージ袖。出番を待つ俺、江口健介の隣で、野球部マネージャーの吉田が心配そうに小声で尋ねてきた。照明の熱と、全校生徒のざわめきが混じり合った独特の熱気が、じっとりと肌にまとわりつく。
「いや、別に。大丈夫」
俺は短く答えて、ぎゅっと拳を握りしめた。大丈夫なわけ、ない。心臓は、試合前のマウンドに立つときみたいに、うるさいくらいに鳴り響いていた。
今日は、夏の大会に向けた壮行会。3年生にとっては、これが最後の壮行会だ。このステージで、俺たち運動部は全校生徒に決意を表明する。主将として、チームを代表して、俺がマイクを握る。その重圧が、ずしりと肩にのしかかっていた。
先週終わった期末考査の結果は、正直言ってボロボロだった。部活を言い訳にしたくはないけど、明らかに勉強不足。親父との三者面談では「野球だけやってて、この先どうするんだ」と厳しく問い詰められたばかりだ 1111。スポーツ推薦の話も出ているけど、それだって確実じゃない。野球が終わった後の俺に、何が残るんだろう。そんな不安が、黒い霧のように心を覆っていた。
「次に、壇上に上がるのは、野球部です!」
司会の生徒の声が体育館に響き渡る。吉田が「主将、頑張ってください」と俺の背中をポンと軽く叩いた。俺はひとつ頷いて、チームメイトたちと共にステージへと歩みを進めた。
全校生徒の視線が一斉に俺たちに突き刺さる。眩しいスポットライトに、一瞬、目がくらんだ。マイクを握る手が、じっとりと汗ばんでいるのがわかる。
深く、息を吸う。
落ち着け。いつも通りやればいい。そう自分に言い聞かせた。視線を客席に向けると、クラスの仲間たちの顔が見えた。幼なじみの中村と山田が、こっちを見てニヤニヤしながら親指を立てている。同じ運動部の朝倉や寺田も、真剣な眼差しで俺を見つめてくれていた。
みんなの顔を見たら、不思議と、心のざわめきが少しずつ収まっていくのを感じた。
「えー、野球部主将の江口健介です」
マイクを通して、自分の声が体育館に響く。思ったより、声は震えていなかった。
「俺たちは、この三年間、毎日、泥だらけになって白球を追いかけてきました。正直、きつい練習ばっかりで、何度も辞めたいと思ったことがあります。勉強との両立も、うまくいかなくて、先生や親に心配をかけることもたくさんありました」
そこまで言って、一瞬、言葉を切る。客席で、父と母の顔が脳裏をよぎった。推薦のことで揺れていた自分の心も。でも、今はそんな迷いを振り払いたかった。
「でも、どんなに苦しくても、ここまでやってこれたのは、ここにいる最高の仲間がいたからです。そして、いつも俺たちを支えてくれた、先生、家族、そして、ここにいるみんなの応援があったからです」
俺は、客席のクラスメイトたち、そしてステージの脇で見守るチームメイトたちへと視線を移した。みんな、真剣な顔で俺の言葉を聞いてくれている。スコアブックを片時も離さず、俺たちのデータを記録し続けてくれた吉田の瞳が、少し潤んでいるのが見えた。
「俺は、主将として、正直、頼りないところもたくさんあったと思います。勉強も中途半端で、みんなを不安にさせたかもしれません。でも、一つだけ、胸を張って言えることがあります」
もう一度、マイクを強く握りしめる。
「俺たちは、この仲間と、一日でも長く野球がしたい。ただ、それだけです。そのために、本気で甲子園を目指してます。俺たちの本気を、信じてください。そして、俺たちと一緒に、戦ってください!応援、よろしくお願いします!」
言い切った瞬間、体育館が、割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
「江口ー!頑張れー!」
「野球部、絶対勝てよー!」
クラスの奴らの声援が、ダイレクトに胸に響く。壇上から見たその光景は、今まで見たどんな景色よりも、温かくて、力強かった。
ああ、そうか。俺は、一人じゃなかったんだ。
進路の不安も、勉強への焦りも、今はどうでもよかった。ただ、この瞬間、俺たちの「本気」が、こんなにもたくさんの人に届いて、信じてもらえている。その事実が、何よりも嬉しかった。
ステージを降りると、仲間たちが「主将、最高でした!」「泣きそうになりました」と口々に駆け寄ってくる。中村と山田は、俺の肩を力強く叩きながら、「お前、めっちゃかっこよかったぜ」と言ってくれた。
「当たり前だろ」
照れ隠しにそう返しながら、俺は込み上げてくる熱いものを必死でこらえた。
壮行会が終わり、教室に戻る。クラスの奴らが「江口、スピーチ感動した!」「マジで応援してるからな!」と次々に声をかけてくれる。その一つひとつの言葉が、俺の不安を少しずつ溶かしていくようだった。
窓の外には、夏の強い日差しが降り注いでいる。これから始まる最後の戦い。その道のりは、きっと平坦じゃないだろう。でも、もう迷いはない。
「まずは、この夏だ」
俺は心の中で、強く、そう誓った。この仲間たちと、俺たちを信じてくれるみんなと一緒に、最高の夏にする。野球が終わった後のことなんて、その時に考えればいい。今はただ、この一瞬に、全てを懸けるんだ。
そう思えたら、不思議と、未来への恐怖が少しだけ和らいだ気がした。信じてもらえるって、こんなにも、心を強くするんだな。俺は、グラウンドに広がる青い空を見つめながら、静かに、でも確かに、次の一歩を踏み出す覚悟を決めていた。




