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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
7月:「暑さとともに募る想い」
100/122

7月9日(水曜日)

「あ、最悪……」

放課後の昇降口。下駄箱の扉を開けた瞬間、私、斉藤優希は小さく声を漏らした。ローファーに履き替えようとして、バッグの中を探っても、いつも入れているはずの古典の単語帳が見当たらない。今日の授業で使って、そのまま机の中に入れっぱなしにしてきちゃったんだ。

「はぁ……戻るか」

期末考査も終わって、やっと一息つけると思ったのに。友達との帰り道の約束も「ごめん、先行ってて」とLINEを送り、一人で踵を返した。夕方の校舎は、部活に向かう生徒たちの活気と、帰宅する生徒たちの解放感が入り混じって、独特のざわめきに満ちている。その喧騒をすり抜けるようにして、私は3階の教室へと続く階段を上った。

誰もいないだろうな。そんなことを思いながら、3年5組の教室の引き戸に手をかける。ガラガラ、と少しだけ重い音を立ててドアを開けると、予想に反して、そこには先客がいた。

「あれ……清水くん?」

「うわ、斉藤?どうしたの、忘れ物?」

そこにいたのは、同じクラス委員の清水悠人くんだった。彼も机の周りで何かを探している様子で、私に気づくと少し驚いた顔で振り向いた。

「うん、私も。清水くんこそ、まだ残ってたんだ」

「ああ、うん。ちょっと探し物」

夕方の西日が、教室の窓から斜めに差し込んでいる。オレンジ色の光が、机や椅子、黒板の輪郭を柔らかく縁取り、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。二人きりの教室。いつもとは違うその空気に、なんだか少しだけ、心臓がとくん、と小さく鳴った気がした。

「何探してるの?」

「いや、大したもんじゃないんだけど……。夏期補習の申込書。今日のHRで配られたやつ、どっか行っちゃって」

彼は、少し照れくさそうに頭をかいた。

「私も、古典の単語帳。考査終わって気が抜けたのかな」

「あー、わかる。俺もそんな感じ」

二人で顔を見合わせて、ふっと笑う。いつもはクラスのまとめ役として、どこか「委員長モード」で接していることが多い。でも、誰もいないこの空間では、お互いがただの「斉藤優希」と「清水悠人」になれるような、不思議な感覚があった。

私は自分の席に向かい、机の中から無事に単語帳を発見した。

「あった。よかった」

「お、見つかった?俺のはどこ行ったかな……」

清水くんは、自分のカバンの中をもう一度ごそごそと探している。その姿をぼんやりと眺めながら、私は不意に、心の奥にしまっていた言葉を口にしていた。

「ねえ、清水くんってさ、夏期補習、全部出るの?」

「え?うん、まあ……出ないとヤバいし」

「そっか……。私、正直、ついていけるか不安なんだよね」

自分でも驚いた。いつもなら、「大丈夫だよ」「計画立てればなんとかなるよ」なんて、周りを励ます側の言葉しか出てこないのに。弱音なんて、一番言っちゃいけないものだと思ってた。でも、この静かな教室の空気が、私の心の壁を少しだけ溶かしたのかもしれない。

清水くんは、探す手を止めて、まっすぐに私を見た。

「……斉藤でも、不安とか思うんだ」

「思うよ、めちゃくちゃ。みんな進路とか決まってきてるのに、私、まだ全然定まってなくて。委員の仕事ばっかりやってて、自分の勉強、後回しになってる気がして……焦るだけ焦って、空回りしてる感じ」

一度口に出したら、堰を切ったように言葉が溢れ出てきた。誰にも言えなかった、本当の気持ち。

「みんなには『委員長だからしっかりしてる』って思われてるかもしれないけど、全然そんなことない。むしろ、そのイメージが重くて、たまに、全部投げ出したくなる」

言い終わってから、ハッとした。まずい、言いすぎた。引かれちゃうかもしれない。そう思って俯くと、清水くんの、穏やかな声が聞こえた。

「……そっか。言ってくれて、ありがと」

「え?」

「いや、俺も、同じだから」

彼は、少しだけ寂しそうに笑った。

「俺も、委員の仕事してると、自分のこと後回しになりがちでさ。家に帰ってから『やべ、今日全然勉強してねえ』って焦る日、しょっちゅうある。でも、斉藤が隣で頑張ってるの見ると、俺も頑張らなきゃなって思うんだ。だから……一人じゃないよ」

その言葉が、じんわりと心に染み込んだ。彼も、同じだったんだ。同じように悩んで、焦って、それでも、私の隣で一緒にクラスを支えてくれていたんだ。

「清水くん……」

「それにさ、斉藤がいてくれるから、このクラス、何とかなってるんだよ。それは、俺だけじゃなくて、たぶん、みんな思ってる。いつも、本当にありがとう」

普段、ふざけたり茶化したりすることが多い彼から、そんな真剣な言葉をかけられて、胸の奥が熱くなる。気づいたら、視界が少しだけ滲んでいた。

「……私の方こそ、いつも、ありがとう」

「なに、改まって。照れるじゃん」

彼はそう言って、また自分のカバンを探し始めた。私も、そんな彼の姿を見て、自然と笑顔がこぼれた。

「あ、あった!こんなとこに挟まってた」

清水くんが、教科書の隙間からくしゃくしゃになった申込書を見つけ出し、嬉しそうに掲げる。その無邪気な笑顔に、私もつられて笑った。

「よかったじゃん」

「うん。じゃあ、帰るか。もうすっかり暗くなってきたし」

二人で教室の電気を消して、廊下に出る。夕焼けの最後の光が、廊下の窓から差し込んで、長い影を二つ、床に落としていた。

帰り道、並んで歩く。さっきまでの重たい空気は、もうどこにもなかった。

「夏期補習、わかんないとこあったら、教えて」

「え、俺が斉藤に?逆でしょ」

「ううん、清水くん、数学得意じゃん。私、理系科目は壊滅的だから」

「……じゃあ、俺は英語、教えてもらおうかな」

「いいよ。いつでも」

そんな何気ない会話が、今はすごく心地よかった。いつもなら気負ってしまうのに、今日はなぜか、すごく素直になれた。

校門を出て、分かれ道に差しかかる。

「じゃあ、また明日」

「うん、また明日ね」

手を振って別れる。一人になった帰り道、さっきまでの清水くんとのやりとりを思い出して、胸がぽかぽかと温かくなるのを感じた。

一人で抱え込まなくてもいいんだ。隣には、同じように悩みながらも、一緒に走ってくれる人がいる。そのことに気づけただけで、世界が少しだけ、優しく見えた気がした。

私は、夕暮れの空を見上げた。茜色と藍色が混じり合った、美しいグラデーション。

「よし、明日も頑張ろう」

誰に言うでもなく、そう呟いた。委員会も、勉強も、そして、自分の心と向き合うことも。一人じゃないって思えただけで、不思議と、力が湧いてくる。なぜか少しだけ素直になれた今日この日が、きっと、これからの私を支えてくれる、大切な一ページになる。そんな予感がした。

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