空染まる
数年前の春。イオはディティーク帝国のはずれにいた。アルタシオ帝国の溝から山一つ越えたあたりで、この辺はずっと山がちな地形が続いている。イオはいつものお気に入りの場所にフィックと一緒にやって来ていた。そこは山の麓で、川のせせらぎが微かに聴こえた。この季節になると、ここは辺り一面黄色い小さな花でいっぱいになる。風が運んでくる新芽の香りを嗅ぎながら、花の間を行き来する虫を見るのが好きだった。
ただ一つ、去年までの春とは大きな違いがある。山裾の広いとはいえない草原に、三人の男と三頭の恐竜の姿が見られるようになった。彼らは数日前から現れ、槍や弓の訓練をしているようだった。最初は山賊の類だろうかと思ったが、それにしては身なりがきちんとしすぎている。なんにせよ、イオはひどく興味が湧いた。自分以外に、恐竜と行動をともにする人間を見たことがなかったからだ。彼らがいなくなる日没まで、イオは一か所から動くことはなかった。
イオはどうやら捨て子らしい。少し前までは本気で恐竜の子供だと思っていたが、この年齢になると、たまに行く街の親子を見て、さすがに気付いたのだ。寂しい、とは思わなかった。それとも、寂しいという言葉を知らなかっただけなのだろうか。フィックの親がイオにとっての親で、フィックは親友であり兄弟だ。幼いころはフィックの親がとってきた果実を食べ、見よう見まねで火のおこし方を覚えてからは、とってきてもらった肉や魚を焼いて食べた。生肉も食べられないわけではなかったが、あまり好きではない。
イオという名前は、いつのまにか名乗っていた。名乗る相手などいないのだが、せっかく覚えているのだから使っていた。フィックという名前はイオがつけた。自分だけ名前があるのは不公平だと思ったのだ。自分を捨てた親がつけたであろう名前など、使う義理はないとも思わなくもなかったが、別に恨んでいるわけではない。きっと、そこそこ幸せな毎日を送っているからだろう。
眺めていた三人組は、今から昼食にするようだった。一か所に集まり、談笑しながら座った。恐竜たちも一緒である。一人の頭と思しき男だけが座らず、山の方へ歩き出した。イオはただずっと見ていた。フィックが木の新芽を食べ始めても、まったく動こうとしなかった。
―イオ、人間が来たよ。
思いもよらない言葉に弾かれたようにフィックを見ると、彼は木立の奥を見つめていた。そこに突如として現れたのは、あの頭らしき男だった。
「やあ、ここはなかなか良い場所だな」
悠然とした動作で木立を抜けた男は、涼しい瞳でイオを見た。度肝を抜かれたイオは目を丸くするばかりで、フィックはイオに身を寄せながら警戒していた。
「ずっと君のことが気になっていたんだ。私も座っていいかな」
三十代の精悍な男は穏やかに言った。イオは人間の言葉も大方理解できた。警戒しながらも好奇心に負けて頷いた。人間に友好的に話しかけられたのは初めてだった。男は少し離れたところに座ると空を仰いだ。その横顔には大きな傷跡がある。
「その恐竜とは長い付き合いなのかい」
男はイオとフィックを見比べながら尋ねた。イオが頷くと男は微笑んだ。
「そうか、それはいいな。彼らは勇敢で美しい。私にも恐竜の友がいる」
知っている。大きくて逞しい恐竜だ。ここで毎日男たちを眺めていたイオは知っていた。
「何を…しているの」
おそるおそるイオは言葉を口にした。人に対して話しかけたのは、これが初めてだった。男は意外そうに、でも嬉しそうにイオの問いに答えた。
「見ての通り、ここで腕を磨いている。人も来ないし、広い。それに何より、恐竜たちがこの自然を喜ぶからな」
ここまで言って、男は一呼吸置いた。遠くから、二人の男の笑い声が聴こえる。
「私は馬ではなく、恐竜を扱う軍隊を作りたい。作って他国を武力で制圧したいのではない。我が母国を守りたい。あの国は危険だ」
その表情は真剣で、瞳はどこか遠くを見ていた。彼が言った国がアルタシオ帝国であるということは後にわかる。男はすぐに親しみやすい笑顔をイオに向けた。
「とはいえ、まだ私を含めて三人なんだが」
イオとフィックはただ男を見ていた。不思議な人間だ。目が離せなくなる。男は立ち上がって歩み寄り、イオの前でしゃがんだ。フィックは数歩後ずさりしたが、イオは動かなかった。
「名前を教えてほしい」
男の目がまっすぐイオの目を見た。イオはしっかりと見返した。
「イオ」
男は一度静かにまばたきをした。そして真剣な声音で言った。
「イオ、私とともに来ないか」
身も心も震えた。名前を呼ばれた喜びに、仲間となれる喜びに震えたのだ。イオは力強く頷いた。今思えば、寂しかったのだろうと思う。人の温もりが欲しかったのだ。
あの黄色い花の群れが、今も目に焼き付いている。
目を覚ますと、木目の天井が目に入る。ここは、特別隊にあてがわれた小屋の寝室。すぐに起き上がることができず、イオはぼんやりと天井を見つめた。
(城の裏手を駆け回って…娘がフィックから落ちそうになって城に戻った…気がする)
しばらくの間、曖昧な記憶の糸を手繰り寄せていたが、このままでは再び眠りに落ちそうだと思い、上半身を起こした。清潔な白いシーツがやけに眩しく感じた。
全身の筋肉が強張っているのを感じながら、適当なシャツとズボンに着替え、伸びをした。そして洗面所で顔を洗い、居間へ行くためにドアを開けた。
「おはようございます」
いつものように言うと、テーブルについていたナギノが苦笑した。
「早いどころか、もう夕方だぞ」
そんなに眠っていたのか、と自分でも呆れた。それにしても、ナギノの雰囲気が違う気がする。イオはナギノをまじまじと見た。その視線の意味を解したナギノは、自分の黒髪に触れた。
「昨日の騒ぎで火を使ったときに、自分の髪を焦がしちゃってね。格好悪いから切った」
確かに、今までカナタと同じように肩まであった髪が、イオより短くなっていた。とはいえ、ナギノは自分の容姿にはさほど興味もないらしく、平然としていた。もっとも、似合っていたのだが。
「カナタさんとの見分けがつきやすくていいですよ」
イオが言うと、「そうだな」と微笑んだ。そして、小刀を磨く作業を再開した。
喉が渇いていたイオは台所へ行き、水を持ってナギノの正面に座った。この部屋は居間であり、台所であり、会議室なのだ。男所帯のわりにこの小屋が綺麗なのは、ほかでもない、几帳面なナギノのおかげである。あとは、たまにイオが手伝うくらいで、カナタとアロットはまったく家事はしなかった。厳密に言えば、ナギノがさせなかった。
「他の人は?」
イオが尋ねると、ナギノは手を休めずに答えた。
「隊長は城へ行く、と言っていたかな。カナタはリティナ様と神殿へ行った。用心棒だそうだが、それは口実だろうな。ここにいてもらってもうるさいだけだし、リティナ様に連れて行っていただいた」
リティナとは昨夜救出した王女の名前だ。王女は巫女でもあり、特別隊には不可欠な存在である。特別隊が精霊を斬れるのは、巫女が清めた布を額に巻いているからなのだ。
「アロットはリティナ様の護衛を買って出なかったんですか」
意外そうな口ぶりでイオが問うと、ナギノは眉間に皺を寄せた。
「いや、アロットはまだ眠っているんだ。外傷はないが、相当疲労しているようだ。ベッドはイオの隣なのに気付かなかったのか」
「え、はい。俺がぼんやりしてたんだと思います。…様子、見てきます」
別のコップに水を入れて、イオは寝室に戻った。すると、上半身だけ起こしているアロットと目が合った。アロットは弱弱しく笑った。
「無事でよかった、イオ」
イオは自分のベッドに腰掛け、持ってきた水を差しだした。アロットはそれを受け取り、一気に飲み干した。
「君は案外気が利く。ありがとう」
そう言ってアロットはいつものように目を細めてみせたが、どう見ても顔色が悪かった。もともと色白だが、今日は青白い顔をしていて、かかる金髪のせいで余計に痛々しく見えた。
「大丈夫なのか。かなりきつそうに見える…」
「正直、大変だったよ。溝から次々と奴等が出てきて追いまわしてくる。私ももてたものだ。隊長が来てくれたから助かった。火を使えばよかったんだが、髪や服を焦がしたくなかったからね。そう言ったら、かなりお怒りを買ったが」
アロットは飄々と言ってのけたが、悪夢のような夜だったに違いない。精霊はあの悪魔のような形相でアロットを追いかけたのだろうか。イオは溜め息をついた。
「俺が国境に行けばよかったな」
イオが続けようとするのをアロットが遮った。
「君に心配してもらえるなら本望さ。最近、心配だったんだよ。私のことを大切な友人だと思ってくれているかどうか」
「……」
謝ろうと思ったことを後悔していると、アロットはさらに笑みを深めた。
「それにしても、年頃の娘さんを二人も助けたという名誉は羨ましいかぎりだな。おいしいところを持っていったものだ」
まるきりいつもの調子であるアロットに、イオは溜め息をついた。
「心配して損した」
そして立ち上がると、ドアへ向かった。
「ナギノさんにアロットが起きたことを伝えておくよ」
寝室から出ようとすると、アロットが呼び止めた。
「あの娘のもとへは君が行くといい。連れ回して悪かった、とね」
イオはばつが悪そうに頷くと、まだ顔色の優れない友人を残して居間に入った。
空は茜色に染まって、城を金色に輝かせていた。改めて今は夕方なのだと再認識して、少女の姿を探した。彼女の姿は意外と早く見つけることができた。小屋の隣にある井戸の近くに少女は立って、一人で夕陽を見ていた。夕陽に照らされて、背中で波打っている長い髪が光っているように見えた。どう話しかけたらいいものか、イオがぐずぐずしていると、イオに気付いた少女が近付いてきた。そして、ぎこちない笑顔で言った。
「昨夜は助けてくれてありがとう」
面食らったイオは思わず目を逸らした。
「いや。それより、昨日は連れ回して悪かった」
アロットが言っていたことをそのまま言っている自分を情けなく思いながらも、少し感謝した。そういえば、異性とこんな風に話すのは初めてかもしれない。
「楽しかったからいいの。あんな体験は初めてだった」
相変わらず、彼女はぎこちなく笑った。それはイオがよく知っている、笑い慣れていない人のする笑顔だった。どうしてあんな所にいたのか尋ねようかと思ったが、やめることにした。今はまだ尋ねてはいけないような気がした。しかしそうなると、話題のないイオは困った。仕方なく、なんとか口を開いた。
「名前は?」
すると少女は驚いたような表情をした後、嬉しそうに言った。
「ミリア」
「いい名前だな」
イオが短く言うと、ミリアは心底嬉しそうにした。すると、突然昨日も感じた懐かしい気配がミリアから強く感じられた。花の香り。それは芳香とは少し違う。そうではなくて、花の気配、さりげないながらも確かな生命力が感じられた。
「そろそろ小屋に戻った方がいい。夜になると、また現れるかもしれない」
空は常に変化し続ける。黄金色の短い夢の時間は終わり、深遠な闇の時が刻々と迫っている。闇は悪ではない。長く自然の中で暮らしていたイオは、身を隠してくれる夜闇に何度救われたことだろう。しかし、今は違う。夜は精霊の、神々の領分になりつつある。イオが覚えたのは、静かな怒りだった。
ミリアは緊張した面持ちで頷いてから、躊躇いがちに言った。
「あの、あなたの名前も知りたい」
そう言われて、イオは初めてミリアの目をまっすぐ見た。ミリアの瞳は、ナギノのものとは違う、深い緑色をしていた。
「イオ」
それだけ言って背を向けると、ミリアがついてきながら「イオ」と呟くのが聴こえた。
「喉が渇いたなあ…。ナギノ、水が欲しい。今日の晩飯、味が濃くなかったか」
「文句を言うなら自分で作ってくれ。俺とイオの苦労を知るにはそれが一番だ」
うっと言葉に詰まったカナタは、渋々自分で水を取りに来た。イオはいつも通り、おいしかったと思っている。そもそもカナタとアロットは、いつもあれだけ喋りまくって、ちゃんと味がわかっているのか怪しかった。
この小屋は本当に居心地の良い住まいである。居間兼台所として使っている大部屋と、左右に二部屋ずつ。小部屋はそれぞれ、寝室、隊長室、物置、そして空室。その空室は昨夜から、リティナとミリア使っている。男ばかりの家だから装飾品こそないものの、木造であるこの小屋は、人をほっとさせることができた。冬は暖炉の木のはぜる音が、より効果的にひと時の安らぎを演出した。
もともとは城の庭師が使っていたものを、王が命じて特別隊のために改築させたのがこの小屋だった。本当は城内に特別隊の部屋を設けるつもりだったらしいが、貴族や他の官吏の反発が大きく、こうせざるを得なかったのだ。王は不遇を許してくれと謝ったが、特別隊としては城内に住みたいわけではなかったので、かえって好都合だったのだ。
「隊長、今夜は見回りに行かなくていいんですか」
イオが食事の後片付けをしているナギノを手伝いながら尋ねると、隊長は苦笑した。
「その仕事はリティナ様に取り上げられたようだ。昨夜から今日にかけて、リティナ様は神殿にこもって、自分の髪と血を捧げられたそうだ。だから、しばらくは精霊も姿を現さないだろうと仰っていた。嬉しいことだが、少々複雑だな」
「へえ…」
リティナの姿が見当たらないのは、どうやら部屋で休んでいるからのようだ。ミリアも部屋にこもりきりだ。それにしても、イオは内心驚いていた。王女の力を疑うわけではないが、人外の力を人が操っていることに、ただ驚いていた。
「あの綺麗な藤色の髪を何の未練もなくばっさりと切ってしまって…。勿体ないなあ」
カナタが残念そうに言うと、アロットがすかさず言った。
「それでも凛とした美しさはご健在だ。いや、むしろ増したかな」
「抜け目ない奴だな」
イオが呟くと、隣のナギノが皿を拭きながら笑った。
「あいつは貴族はやめたと言っていたが、そんじょそこらの貴族より、よっぽど上手く社交界で立ち回れると思うがな。まあ、そんな人間が隊にいるのは嬉しいことだ」
意外にも、ナギノはアロットを高く買っているらしい。ナギノはイオを見てさらに笑った。
「イオはわかりやすいな。今、意外だと思っただろう。表情には出ないが、雰囲気でわかる。アロットみたいな奴等に言いくるめられるなよ」
褒められているのか、けなされているのかよくわからなくて、イオは曖昧に頷いた。と、そこへアロットが来た。もう体調は良いらしく、顔色もよかった。
「大丈夫ですよ、ナギノさん。イオには私がおりますから。それにイオの場合、そこがかわいいとご婦人方や妙な連中の間で評判なんですよ」
「…昨夜も似たようなことを言ってなかったか」
イオとアロットがナギノを挟んでわいわいしていると、そこへカナタも来た。
「じつはナギノも、人相は悪いが堅物だというギャップがいいと、娘さんの間で評判なんだ」
「カナタより高評価なのは当然だ」
ナギノがふふんと笑うと、カナタは「この性格の悪さ、どう思う」とイオに囁いた。広いとはいえない台所に、男が四人集まっているというのはなんとも奇妙な光景である。
「見苦しいから戻ってこい。作戦会議だ」
見かねた隊長が苦笑して言うと、四人はぞろぞろとテーブルに集まり、自分の席についた。ナギノとカナタは決して向かい合って座らない。自分の顔を見ながら食事はとりたくない、との主にナギノの意見である。
「昨夜の件でしょう」
カナタが真面目な声で言うと、隊長は頷いた。イオが隊長と出会ってから数年経つが、まったく老けたようには見えない。しいて言えば、思慮深さが瞳の色に増したことぐらいだろう。
「昨夜のあれは、本当に予想外の出来事だった。原因も目的もわからない。確かなのは、アルタシオ帝国の王が消えてしまったことだ。…イオ、謝る必要はないぞ」
委縮していまったイオに、隊長は優しく言った。そうは言われても、責任は感じるものである。胸の内で静かに溜め息をついた。
隊長は静かな口調で続けた。
「大切なのはこれからだ。いいか。今はまだ、国内外問わず、王の消失は伏せてある。知っているのは我々とリティナ様だけだ。言うまでもないが、絶対に口外するんじゃないぞ。でもまあ、いずれ皆の知るところとなるだろう。そうなれば、我が国最大の混乱が起こる。民は絶望して反乱を起こし、貴族は王位を狙ってリティナ様を陥れようとする。他国はここぞとばかりに我が国へ攻め込む」
アロットは眉をしかめた。
「リティナ様を妻とすることで玉座につこうとする貴族は多いだろうな。もう一つ、あり得る例を挙げれば、リティナ様を暗殺というのも考えられなくもない」
男たちは一斉に難しい顔をした。アルタシオ帝国に残された王家の人間はリティナだけなのである。リティナの母親は病で早くになくなり、父である王は今回の件で消えてしまった。夫妻にはリティナ以外の子はおらず、前々からリティナの夫の地位をめぐって水面下では動きがあった。また、王には弟がいたらしいが、彼は異国に追放されていて、生死さえわからない。よって、アロットの言ったことは十分にありえるのだ。王家が滅び、新しい統治者が現れやすい環境が今なのだ。
皆が黙りこむなか、ナギノがきっぱりと言った。
「しかし、国内で揉めている場合ではない。他国がこの機会を見逃すものか」
アルタシオ帝国は長い間、他国との交流を絶っていた。なぜなら、国内の生産だけで需要に応えられていたし、古き良き文明の国という自負があったからだ。とはいえ、西のサーモリス帝国とは海賊問題を通じて、それなりに良好な関係を築いている。しかし、北のディティーク帝国とはほとんど関わりがない。故に、何をしてくるかわからず、恐ろしい。
「そうは言っても、北と西には溝があるし、南と東は海。溝は人間に越えられるような規模のものじゃないだろう」
カナタが言うと、隊長は首を横に振った。
「いや、その認識は甘い。私は以前、ディティーク帝国にいたが、あの国は科学と発展の国だ。最近新しい王が即位したが、どうやら大の新し物好きらしい。王家の保護する研究所が多々あって、そこではいつも新しい試みがなされている。だから、私たちには想像もつかないような技術を持っているだろう。もしかしたら、あの溝を超えることもできるかもしれない」
皆がますます難しい顔になった時、イオは思わず口を開いた。
「研究所?」
「ああ、アルタシオ帝国では聞き慣れんかもしれんがな」
隊長の言葉を聞いて、イオは考え込んだ。
(昨夜の怪しい男、研究所と言ってなかったが。花の乙女と研究所に来い、と)
イオは意を決して、男との会話のことを話した。イオが会議で発言するのは珍しいことである。少し緊張しながら反応を見ると、四人は驚きと不審の入り混じった顔をしていた。
「誰だ、それ。協力者と考えるには怪しすぎるな」
カナタが言うと、アロットは首を傾げた。
「花の乙女、という愛称の令嬢は知らないな。では、侍女のことだろうか。でも、私は侍女もよく知っているつもりだったんだが…」
「これを口実に夜遊びを増やそう、などと考えるなよ、アロット。それにしても、イオがからかわれたという可能性も含めて、その男はかなり怪しいな。しかも、研究所というからにはディティーク帝国の人間かもしれない。国境付近に不審人物はいたか」
ナギノが問うと、アロットは首を横に振った。そもそもあの混乱の中、不審人物を見つけるのは難しいだろう。
大きな問題が目前に並んで、正直どうしたらいいのかわからない。しかも、その問題は一国の存亡をはらんでいる。慎重でなければならないが、迅速でなければならない。
隊長が沈黙を破った。
「ナギノとカナタは港に行って、海賊から情報を仕入れてこい。必要ならサーモリス帝国に行ってくれ」
二人は嬉しそうに頷いた。なぜなら、彼らは海賊や商人などの相手が得意だからだ。得意分野を任されて、嫌な顔をする者はいない。二人はアルタシオ帝国から見て遥か北西にあるリッツ島の生まれで、そこは海賊の島である。二人は商人の息子であり、海賊の一員だった。それからどういう経緯か、特別隊の最初の隊員となったのであった。
「私とイオ、アロットは城の警備とリティナ様の護衛をする。イオの出会った怪しい男も気になるが、花の乙女が誰なのかわからないし、信憑性があるのかはっきりしない以上、少し様子をみよう」
イオとアロットが素直に頷くと、隊長は「よし」と笑った。特別隊がリティナと接触することを大臣などがよく思わないのは明らかだったが仕方ない。それに何と言っても、アルタシオ帝国の軍隊は、長く平和が続きすぎたせいなのか、まったく頼りにならないのだ。
「じゃあ、今日はこれで解散だ。さっさと寝るんだぞ」
カナタとナギノは本当にさっさと寝室へ向かってしまった。とはいえ、早朝から動きまわっていたようなので無理もない。逆に、さっき起きたばかりのイオとアロットの目は冴えていた。
「さて、酒屋にでも行こうか」
信じがたいアロットの誘いにイオが呆れていると、隊長がたしなめた。
「お前たちも早く寝なさい。特にアロットは病み上がりだろう」
「それより隊長こそ疲れてないですか。寝てないのでは」
イオが言うと、隊長は苦笑した。そして立ち上がると、大きな手でイオの頭を撫でて自室へと行ってしまった。二人は立ち去る隊長の後ろ姿を見送った。
「…俺は怒らせたのか?」
ばたん、とドアの閉まる音を聞いてから、イオは不安そうにアロットに尋ねた。
「まさか。妬けてしまうくらい、君は愛され上手だな」
上機嫌に言うアロットに、イオは肩を竦めてみせた。
「わけのわからない奴だな。え、本当に酒屋に行くのか。酒ならここにもあるだろう」
手をひらひらさせて、小屋を出て行こうとするアロットを、イオは慌てて呼び止めた。ゆるく一つに束ねられた美しい金髪が背で揺れている。
「いや、昨日の騒ぎで夜はしばらくどこの店も閉まっているだろう。私は神殿に行ってくるよ」
「待て、いくらなんでも危ない。俺も行く」
イオが剣を持って駆け寄ろうとすると、振り向いたアロットが目で止めた。
「一人で行かせてくれたまえ。逢瀬を楽しんでくるから」
「は?」
呆気にとられるしかないイオを残して、アロットは深紅のマントを羽織って出て行ってしまった。
(本当に…わけのわからない奴)
イオは溜め息をついた。そして、友人が残した嫌な胸騒ぎに薄々気付いたのだった。




