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包丁

作者: 後藤章倫

 地方の街では空き家が増え、その管理や安全性などがわりと深刻な問題となっていた。坂の途中にある古い空き家に、アフリカ系の外国人がひと月ほど前から住み始めたのは、梅雨が終わる頃の蒸し暑い時期だった。


 住人は二人。がっしりとした体格の三十代後半と思われる黒人男性と、その娘で四、五歳の白人の女の子だった。空き家問題を解決すべく自治体が立ち上げたプロジェクトを通して、この空き家へと住むことになったみたいで、女の子は保育園にも通い、黒人男性も近隣住民と上手くやっているようだ。力もあり、愛想もいい彼は何かと近所のお年寄りたちに重宝されたし、彼自身も頼まれごとを聞くとそれを率先してやっていた。仕事場である役場でも彼は人が嫌がる仕事、例えば動物の死骸の処理や苦情の受付などにも取り組んでいた。娘のアリも毎日の保育園が楽しくて仕方ないみたいだ。父親である彼、カリオカはシングルで娘アリを育てている。そのことを日ごろから気にしていた。アリはけして母親の事を口には出さないのだけど、そのことがかえってカリオカには辛かった。そんなカリオカにもSNSを通じてやり取りをする女性が居た。イタリア人で名をエマといった。カリオカはアリとの夕食を終えると後片付けをやり、お風呂の準備をする。ひと段落するとアリとのお風呂時間だ。自分のことはそこそこにアリを磨き上げ、お風呂を出る。それからも身体を拭き、服を着せ、髪を乾かし、歯を磨かせる。アリをリビングまで連れていき、それからようやく自分の身体を拭くのだけど、もうその時には粗方乾いている。大雑把に髪を乾かしアリのもとへいくと、アリは欠伸をしながら半分夢の中にいる。アリをベッドへ運び、額にキスをすると、ようやくカリオカの時間がやって来る。カリオカがパソコンの前に座るころイタリアのエマはお昼時だ。こうしてカリオカとエマは毎日画面越しに愛を育んでいた。


 事態が変わってきたのはイタリア人の女がやってきてからで、夏が終わりに近付いているのに蝉は衰えを知らず鳴き散らかし、気温も毎日三十度台前半をキープしているような時だった。


 イタリア人が全員このような感じではないのだろうけど、この女の言動や行動はイタリア人に対しての考え方が変わるくらいのものだった。彼女は常に自分の主張を貫いた。朝からパスタを食べ、ビールを飲んだ。パスタを作るのはパートナーであるカリオカだ。彼は食事の支度から娘の保育園の準備、送り迎え、それらを終えてからそのまま役場の臨時職員としての仕事へ向かった。その頃、食事を終えたエマは縁側の椅子にもたれ瓶ビールをラッパ飲みしていた。彼女が偶々そこから家の前の通りに目をやると近所の主婦が二人でこちらを見ていた。彼女には主婦たちが自分の悪口を言っているように感じた。もうそうなると一気に血が湧き立ち、持っていたラガーの瓶を主婦たち目がけて投げさくった。瓶は勢い良く主婦たち向かって跳んで行ったが、門扉に当たり砕け散った。主婦たちは顔を青ざめさせ走って消えた。エマは来日して日も浅く、まだ仕事に就く事はなかったけど、かと言って家の事をやるわけでもなかった。


 そんな日々がなんとなく日常化してきたような時だった。カリオカはパートナーである筈のエマに失望してきた。こんな筈ではなかった。毎日やり取りをしていたエマと、今こうして目の前にいるエマは別人じゃないかと思うくらいだ。あの笑顔が素敵ではつらつとしたイタリア人女性エマ。他愛もない日常を二人で面白おかしく話し合っていた頃の彼女は何処へいったのだろう。手を取り合い、娘のアリと三人で新しく暖かな家庭を築いていくつもりだったのに、エマはそんなものとは無関係なところにいた。当然そんなエマにアリが懐くわけもなく、二人の関係性は悪化するばかりだった。


 それは些細なことだった。カリオカが近所の店にちょっと買い物に出た僅かな時間に起こった。エマが何気なくアリを呼ぶと、アリはそれをあからさまに無視した。エマの声がアリに聞こえていなかったわけではない。エマは秒で逆上のスイッチを入れ、アリを抱え上げ庭へと投げた。幼いアリは庭石や雑草、土のみが入ったプランターなどがある地面に叩きつけられた。そしてピクリとも動かなかった。


 カリオカが帰宅すると、エマはアリが居なくなったと騒ぎ立てた。カリオカは持っていた買い物袋を投げ出してアリの名を叫びながら表へ出ていった。エマもそれに続いてアリの名を呼んだ。


 目を開けると大ぶりな石があって、その石と石の間に木製の古い柄が見えた。アリはゆっくりと這いながら近付くとその柄を握ってみた。少し先には此方に背を向け自分の名をわざとらしく呼んでいるエマの大きな尻が見えた。血相を変えて庭に入ってくる父カリオカ。アリは持てる力を全て出してその錆びた包丁をエマの尻に突き刺した。低く唸るような声がして、淡い黄色のスカートが赤黒く染まっていった。アリはそこでまた気を失った。


 エマの火葬を終え、カリオカはどうすればいいのか分からなかった。娘のアリにも辛い思いと体験をさせてしまった。それからエマを供養しようと思ったけど、この街には教会は無い。どこかに心の拠りどころを求めたいのだけど、何処へ行けばいいのだろうか。カリオカは役場の近くにある神社を思い出した。この辺の人たちはあそこで手を合わせている。カリオカはアリと一緒にその神社へ行き参拝した。この行動が正しいのかは分からなかったけど、一応、心にけじめがついたみたいだった。


 神社から帰ろうと鳥居のところまで来た時に上から何かが舞い降りてきて、カリオカの直ぐ前に軽い音をたてて石畳を叩いた。それは絵馬だった。拾い上げたカリオカの表情が強張る。その絵馬には血文字でひと言KILLと書いてあった。




                 〈了〉

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