セリナ・ジェイス
世界屈指の量子コンピューターを擁し、いくつものラボが併設されたスイスのソラト研究所で、セリナ・ジェイスは左手で摘んでいた何かから手を離した感覚を覚えた。いや、実際は離したのではない。指で握っていたものが、ふとした瞬間になくなった感覚だ。なぜそのような感覚に囚われたのか理解できない。歩いていた廊下を見渡したが何もない。感性の高い彼女は明らかに異変を感じ取っていた。
「なんだろう、この感覚……」セリナはふと、1人ごちる。
スーツの袖を摘むのは、彼女の癖だった。彼氏や、彼女の兄貴についていく場合、彼女は小さく袖を摘む。彼女の指先に残った手触りは、自分が着ているボディースーツと同じものだった。
何かあったのかな……。
もう一度振り返ったがやはり何もなく、彼女は微かな疑問を残したまま、白色の廊下を再び歩き出した。
セリナは寮に戻り、パソコンに保管している写真を広げていた。あの時確かに誰かの袖を引っ張っていたのだ。数少ない写真の中で、彼女は不思議な写真を見つけた。セリナ1人で立っている写真なのだが、彼女は左側に寄り、右側に確かに誰かがいたような空間があるのだ。それは添景写真ではなく、写真のセリナは笑顔のまま空を摘んでいる。
有給を利用して、セリナは実家に帰った。イギリスの北部にあるその町は、空も水も、まだまだ冷たく澄んでいた。実家に戻った理由は、指先から離れたものを見つけるためだった。
やっぱりどう考えても腑に落ちない。
セリナは時間をしばらく忘れ、注意深く、パソコンの画面を拡大したりして確認していた。父や母、兄、妹との写真が大半だった。実家のデータには怪しい箇所はなかった。
「いきなり帰ってきたと思ったら、いったいどうしたの?」
四歳年下の妹が、高校から帰ってくるなり言った。
「あ、リリィ、お帰り。ちょっと確かめたいことがあってね……」
「なになに?」リリィは首を伸ばしながら、パソコンの画面を覗き込んだ。
「私達以外に家族がいなかったかどうかなんだけど」
「何言ってるの、お姉ちゃん。タイムマシンの研究のせいで、おかしくなっちゃったの?」
セリナは嘆息をついて、肩を竦める。
やっぱりあの画像が手がかりね……。
彼女は頭の中で、難解な紐の絡まりを必死に解こうとしていた。