アリシア
本当に中世なのだろうか。俺はまだ信じられず、自分の部屋の外壁を見ると、それは全面に白いグリッドが走る黒い外壁に覆われていた。その黒はピアノフィニッシュのような光沢はなく、ずっと見ていると精神的に吸い込まれそうなほどの漆黒だった。グリッドの間隔は30cm×30cmぐらいだろう。閉じないように慎重に扉の裏側を見ると、淡いグリーンで半透明のカードキーらしきものが取っ手近くに嵌まっていた。部屋に片足を残したまま、そのカードキーを手に取ってみたが、何も書いてない。しばらく俺は逡巡したが決意し、部屋に残した片足をついに外に出した。そして外から扉を閉め、カードをストックから抜いた。するとストックと一体になっている細長い取っ手を引っ張ってみても、扉は開かない。そのカードキーをストックに差し込むと扉は開いて元の部屋に戻ってこられた。そして何度か開閉出来るか確認して、それを学生服の胸ポケットに入れる。しばらく辺りを散策することにした。
一応太めの木の棒を拾い上げ、無駄な枝を落として一振りする。護身用には丁度良いだろう。自然の中で木の枝を持つと、何度か父と行った山籠もりを思い出す。
眼前に走る一条の痕跡を辿って俺は歩いてみた。所々足跡がはっきりしていて、日常的に人の往来があることが分かる。時々後ろを振り返りながら帰り道を覚え、五分ほど歩くと少し汗をかいてきたので袖をまくる。それと同時に水のせせらぎが段々大きくなってきた。水場か主流が近くなってきたのだろう。その音に喉の渇きを覚えた俺は歩を進め、その水音の源に着くと、そこは小さな泉だった。
「泉だ!」と、また間抜けなセリフを吐きながら泉に駆けだすと、非難するような女性の声が聞こえた。
「What!?」
泉に着くと、その泉に入っていた女性と目が合い、一瞬足が止まる。その女性の年は、おそらく同じくらい。艶やかな亜麻色の髪に卵のような頤。目は翡翠。髪は緩やかなウェーブを描いて肩甲骨ぐらいまで伸びている。
彼女は俺が持っている棒に警戒しているようだった。敵意がないことを示すため、俺は手に持った棒を後ろの茂みに放り投げ、両手を上げた。
「Who are you ? What are you doing here ! 」
と聞き取れた。
沐浴着だろうか、その薄着の女性は胸元を隠しながら、警戒の色を濃くしている。その警戒を解くために、俺は出来るだけ笑顔を心がけてコミュニケーションをとることにした。
「あ、アイムソーリー……えーと、アイムノットユアエネミー」
その言葉を投げかけた時、彼女は珍しいものでも見る様な表情をした。おそらく俺が着ている服をみているのかもしれない。袖をまくった学生服のままだった。
正直、その女性に俺は心を奪われた。一目惚れというやつだと、すぐに気づいた。剣道に一心だった自分は、同年代の女子にかまっている時間はないと思っていた。可南子以外は。
一瞬だが、放心し真っ赤になっているだろう顔を慌てて振り、俺は両手を上げたまま出来るだけ笑顔で言う。
「は、はろぅ」
「……Hello」
俺の表情や仕草に警戒心をそがれたのか、その女性は挨拶とともに作り笑顔を見せてくれた。英語が通用するということは、やはりイギリスのようだ。少しはコミュニケーションが出来る事に安心した。ボディランゲージを混ぜて、何とか怪しくないように中学英語で取り繕った。やがてその女性は泉から出て、近くの切り株の上に置いてあった布で着衣の水分を吸い取りながら、彼女は二言三言何かを言うも、その大半は聞き取れなかった。
学校の授業ではヒアリングが全くもってダメだった。俺は狼狽しながら、どうしようか考えていた。とりあえず知っている単語を並べて、コミュニケーションをとることにした。それを聞いて相手も俺のレベルに合わせてくれたようだ。二、三十分も試行錯誤を繰り返すと、ある程度、簡単な会話が成立するようになってきた。自分の使う英語が相手に通じると、何とも言えない嬉しさに似た気持ちになってくる。地に足がついていなかった気分が、先ほどよりも随分と落ち着く。
何とか意思の疎通が出来始めたところで、その子が俺を指差して言ってきた。
『あなたの名前は?』
「えっと……『トウシロウ・タチバナ』」
『トウシロウ・タチバナ……』
『トウシロウでいいよ』
『トウシロウ……。私はアリシア。アリシア・ビリンガム』
『アリシア、Ok!』
おそらくどこぞの身分の高い令嬢であろう。彼女の挙措の節々から、品の良さが窺い知れた。拙い会話はしばらく続いたが、小一時間ほどで『私、もう戻らなくては』と言われた。途中まで一緒にもと来た道を辿り、俺は俺の部屋の前で『また明日』と、また会いたい気持ちがつい言葉になって出てしまった。
『え? 街に戻らないの?』
その言葉に俺は自分の部屋、黒い建物を指さした。
『えっ! 野宿!?』
彼女のその言葉を理解できなかったが、俺は小さく頷きを返した。やはり彼女には異世界の建造物に見えるのだろう。
『街の宿屋に泊まればいいのに……、案内しようか?』
何とか聞き取れた彼女のその言葉に俺はようやく理解した。彼女にはこの建物が見えていないんだ。確かにリアクションが薄いと思った。
『ここで寝る』と俺はボディランゲージで伝えた。
『そう……、気をつけてね』
手を振り、そのまま一条の道を下る彼女の背中を見送った後、姿が消えたのを確認してカードキーを差し込んで自宅に戻った。あまり未来を見せない方がいいと判断したからだ。
英語に近い言語で、身振り手振りで説明したせいか頭がジンと疲れ、久しぶりに充実した時間を過ごした。部屋に戻るとおよそ二時間が経過していた。それだけ彼女とのコミュニケーションに没頭していたようだ。今夜はよく眠れそうだ。