可南子と黒木
丁度席に着いた頃、授業開始のチャイムが鳴った。隣の席の可南子が俺を一瞥したのを俺は確認して、「言われなくても授業ぐらい出るっての」とつぶやく。
「うるさい、バカッ!」と、怒りを露わにした可南子は、机上に出していたノートの角で、俺の頭を叩こうとしてきた。避けることは動作も無いことだったが、避けたその後が怖いので、敢えて受けた。
「いてて……」瘤が出来るぐらいの衝撃だった。俺は頭を摩りながら教科書を机上に出した。
言動は狒々を彷彿とさせる可南子は、お世辞ではなく美人だと言われる方だろう。背中の半ばまで伸びた黒髪は、さらりと風に揺れると良い匂いがした。唯一女性と感じる瞬間だ。だがそれ以外は不思議と異性として見ることが出来ない。彼女は他の女子生徒とつるむ事が無い代わりに、恋人のように、俺の面倒を見てくれる酔狂な奴だと思っている。そしていつの間にか、一緒に昼食をとるような状況になったというわけだ。そのせいで俺の周りの男子に恨まれ冷やかされ、他の女子は俺に寄ってこない。まあ、自身お昼を女子と一緒に食べられることを光栄とは思っているのだが……。しかし他人の目には、やっぱり付き合っているように見られても仕方ないのだろう。可南子はツンデレのデレが欠落しているため、恋愛には発展しないだろうと思うけど。
午後の授業が終わる頃には可南子の機嫌は戻ったようだ。昼からの倦怠感を引き継ぎながら、俺は安堵のため息をつく。だがその安堵の気持ちを引き裂くように、六限目のチャイムが鳴り世界史の教師が退室した瞬間、背後の掃除道具入れのロッカーの扉が壊れんばかりに音を立てて開らき、何者かが飛び出してきた。
「ぉあっ! びっくりした!!」俺は両肩を跳ね上げるとともに振り返る。
「と~しろ~ぉ~!!」二つ離れたクラスにいるはずの黒木弘一が、怨嗟の声音を纏い突然出てきた。
なんでこいつがロッカーにいるんだ?
そんな問題も感じさせないほど、黒木の登場は突然だった。クラスメイトの視線が俺とその背後の黒木に集まる。そして俺の前に回り込み、手で俺の両肩を掴んだとたん、堰を切ったように話し出した。
「さっき職員室で柿崎先生が嘆いてたぞ! うちのホープが辞めるとか何とかって。それってお前だよな! な!! 何かあったのか!? 剣道部やめるのか!?」黒木のこめかみに青筋が走っている。
……そんなにショックだったのか柿崎先生。俺はそう思いながらも「そうだよ、もう退部届けは出した」と有体に話した。
「剣道、続けていたらいいのに……」と、隣でぽつりと可南子が内心なのか一言溢す。まるで俺の母親みたいなことを言う。
「ライバルがいなくなって、俺はどうしたらいいんだ!!」黒木は涙ながらに俺の机をバンバン叩く。むやみに暑苦しいヤツだ。実際、俺と黒木との差は歴然だった。レベルが近いからこそのライバルなんだが、黒木は最初からずっと俺に負け続けている。黒木も高校レベルでは相当の実力者だが、はっきり言って俺はライバルとも思っていなかった。何っていっても、こちらは物心ついた頃には竹刀を握っていた身。剣道に費やした時間が違う。
「まあまあ、俺もそろそろ引退しようかと思ってな。もうお前の勝ちでいいよ」その言葉がどれだけ敗者を傷つける言葉なのかというのは解っていたが、良い言葉を見つけることが出来ずに、つい口から出てしまった。
「……このっ……!」目の前で拳を握る黒木が怒りに満ちているのは、空気で分かった。だがそれでも剣道部を辞める事を撤回しようとは思わなかった。俺が頑なな性格だと知っている黒木は、二の口を繋げられず唇を噛み締めながら俺を睨んでいる。そこに可南子が容喙してきた。
「退部したのなら、どうせ暇なんでしょ。この本、面白かったから読んでみなさい」と、言って可南子は装丁のしっかりした本を俺に寄越した。
「何を突然……」と言いながら、俺は黒木の意識を逸らすため、本を受け取りパラパラとめくる。若干日に焼けている以外は、パラフィン紙に包まれて保存状態が良い。
「ガーラ戦記……。戦記ものか。俺って活字苦手なんだよな」
文系なのに本を読む癖がついていない。そんな俺に可南子は半眼を寄越した。
「いいから読むの!」
「……分かったよ」ガーラ戦記を受け取った俺は、渋々机の中に押し込んだ。
「それよりもだ、籐四郎! 辞めるなよ! 今なら間に合うから退部届けは撤回しろ。柿崎先生もまだ保留しているから」放置されていたことに気付いた黒木が再び俺に迫る。その時、予鈴が鳴った。「おい黒木、もうホームルームが始まるぞ。帰れ」
「くそっ、また来るからな! 覚えていろ!」と負けた悪の三下ようなセリフを言い残し、その後背後のロッカーへと戻っていった。
「そっちじゃない!」