蒼と蒼のはざまで、僕は一本の線をひく
絵を描くことは幸せで、それこそが僕の全てだった。
ひたすら学び。
ひたすら描いた。
愚直に、線をひき続けてきた。
だけど、「僕の絵」を見て、評価してくれる人はいない。
ずっとずっと、偉大な画家である父の影のなかで。
期待はずれと評され、背を向けられる。
そうして、あるとき僕はぽっきりと折れた。
父の勧めで都会を離れ、夏の瀬戸内へとやってきた。
広がる空と雲、穏やかな海に囲まれたこの場所で、僕はどう在るべきかを考えたら。
やっぱり、絵が描きたいのだと気付く。
「あたいはハル! だぞ!」
「私、いまのあなたは嫌いだわ」
新たな出会いと、再会。
色鮮やかな世界で、そっと背中を押されたから。
探しにいこう。
僕にとっての、絵を描くことの意味を。
筆をとることの意義を。
そして。灰色の街に置いてきた、きらきらの心を。
最初はただ、筆をとることが楽しかったんだ。
作品に向かっているときだけは、世界がきらめいてたから。
だけど──。
「悪いことは言わない、別の道を探すといいさ」
「お前の描く絵に、価値なんてない」
「才能ないよ、君」
心ない言葉の数々に僕は穿たれる。
そうして、ある日あっさりと折れた。灰色の街並みが、とても恐ろしいもののように思える。
だから、僕は逃げだした。
◇ ◆ ◇
ジリリリリ、耳元にて音が鳴る。
明瞭な意識で目覚ましを停止し、あくびを一つ。
カーテンを開くと、暗い部屋に光が射し込んだ。
「…………また、あの夢か」
窓の外をながめれば、生い茂る草木に遊ぶ鳥。
豊かな自然に囲まれていれば、きっと傷は癒えるだろうと父は言うものの。
壁がけの時計に目をやると、針は七時を指している。
都会にいたときは昼過ぎまで寝ていることも珍しくなかったので、ずいぶんと健康的な暮らしと言えよう。
目覚めたばかりでは胃の腑もはたらかない。
腹ごなしに、ちょっと散歩でもしてみようか。
◇ ◆ ◇
念のため、父から借りた鍵で小屋をしっかりと施錠して、背を向ける。
降りそそぐ夏の朝日に目を細め。
薄手のTシャツに、涼しげな風が吹きつける。
ウグイスの囀りが鼓膜を震わせ、ふわりと胸裏が澄んだ。
昨日は森のほうへ歩いたし、今日は海を見にいこうか。
足を前へと進める。スニーカーがやわらかい土を踏む感触。
右手を通じて脳へと伝わる、トランクケースの重さがどうしてか心地よい。
ああ、それでも。
近いはずのきらめきの景色に、どこか距離を感じる僕がいる。
やはり晴れきらない心の靄が、綺麗なはずの世界にフィルターをかけるんだ。
ふと、前に投げかけられた言葉が脳内でリフレインする。
曰く、期待はずれ。曰く、未熟。
周囲の芸術家たちは、僕の絵をそう評した。
もちろん、年相応の反骨だって覚えたさ。
だけど。みんな、僕の背後に偉大な画家である父を見ているんだと気付いたとき、なにもかも虚しくなった。
だから……
「いけないな、また暗くなってる」
軽く頬をたたき、思考を途切れさせた。
とりとめのない雑念ってやつは、やはり歩きの速度では撒くことができないらしい。
「誰かと話していれば、ちょっとは忘れられるのかな」
そんなことを独りごちても、こっちにやって来たばかりの僕には、会って気楽に話せる友人などいやしない。
知り合いならいないこともないけど、急に訪れたって迷惑だろう。
ないものをねだっても仕方ない。せめてもの心の安らぎを求め、波の音が聞こえる場所をめがけて歩みの速度を上げた。
◇ ◆ ◇
潮風が鼻腔をくすぐってゆく。
前にかがみ、ちょっとだけ体重を手すりにかけた。
眼下には穏やかな海が広がっている。
「…………」
なぜだか、ほうと息が吐かれた。
こうやって本物の海を見るのも久しぶりだ。
最後に見たのは18年ほど前、小学校に入学したころに、父母に連れられて旅行をしたときのことだっただろうか。
記憶はおぼろげながら、あのときのそれは、白波が岩にうち寄せて砕けるような、激しい海だったと記憶している。
うってかわって、ここでは僅かに水面がうねるだけだ。
瀬戸内海、音に聞くとおりの静けさである。
「心が洗われるみたいだね」
ふと思い立ち、近くに置いていたトランクケースを開く。
使いこんだ絵筆を取りだしては、巨匠気取りで顔の前にそれを構えてみる。
遠くの島々や、雲ひとつない空までもが含まれて。
手垢のついた表現ながらも、これが「絵になる」というものなのだろう。
あの街から逃げだしたとき、僕は絵からも逃げたように思っていた。
でも、そんなことはなかった。もとより、離れられるはずもなかったんだ。
(ああ、やっぱり。僕は絵を描くのが好きなんだな)
どことなく可笑しい気分だ。
口元が笑みを象っていることがわかる。
と、後ろからシャツの裾を引かれた。
「おや……?」
振り向いてみる。ハネた髪? が目に入る。
視線をさげてみると、それが氷山の一角、ならぬアホ毛の一角であることに気付く。
頂点にて存在感を放つそれを筆頭に、髪の毛があちらこちらへぴょんぴょん。
そして、くりっとした瞳と視線が交錯する。
「ふぐぉう」
僕の胸のあたりから、少女の声がする。
もしかして方言かなにかで呼びかけているのだろうか? いや、それはないだろう。
「どうしたの?」
「もしかして、絵を描いてる人なのか!?」
食い気味に詰められた。
見た目年齢どおり、舌ったらずな口調。
「ああ、そうだね。一応はプロ志望」
「おおっ、ふおぉう」
目がきらきらしているって、こういうのを言うのだろうか?
意味をなさない音が口の端から洩れている。
「というか、ちょっと近くない?」
離れるタイミングを失っていたのか、アホ毛少女はいまだに手の届く距離にいる。
なんだったら、両腕で輪をつくって背後に回すこともできる。そんなことをすればもちろん事案だし、する気もないが。
僕はこれ以上さがることができないので、彼女が距離をとる形になる。
セミロングの髪がかすかに揺れた。
背丈から察するに小学生だろうか? ノースリーブの亜種セーラー服みたいな出で立ちで、右の膝小僧には絆創膏が貼られている。
「見ない人だけど、どこから来たの?」
「都会のほうからかな。つい最近ね」
「ふょぉう」
よく驚く子である。
奇妙な音を器用に発し、目をまんまるくしているのを見るのはどことなく面白おかしい。
「名前は?」
「僕かい? 苗字は加藤で、名前は史紀。史実の史に世紀の紀って書くよ」
「ほほう」
微妙にわかってなさそうな感じで少女は頷く。
「うーん、あたいはハル! だぞ!」
「あたい」
思わず反復してしまった。
あたい、って一人称はきょうび聞かないな。
「あたいじゃなくてハルだよ」
呆れたように少女は言う。
かと思えば、そわそわとした様子でこちらを見上げてきた。
「それじゃ、絵が描けるってことは、絵が描けるのか?」
「そうだね。なんと僕は、絵が描けるんだ」
「ふぅおう」
脊髄だけで会話をしてみた。
「じゃあ、ちょっと描いてみて! 簡単なの!」
「これまた絵描き泣かせなひと言を……」
とあれ、頼まれたからにはやってみるか。
幸い時間ならいくらでもある。それに、筆をとりたい気分だったから。
トランクケースを再び開き、画材を取りだしてゆく。
「すごい! なんか、スパイみたい!」
「それは言われたことなかったな」
筆を構える。「秘密の七つ道具、なんてね」言って、ニヤリと笑ってみせた。
◇ ◆ ◇
簡単な折りたたみ式の画架しかなかったので、いつもとは勝手が違うものの。おおよそ、納得のいく出来にはなっただろう。
「うん、これで完成かな」
「おぉう、待ちすぎてナマケモノになるかと思ったよ!」
人間が樹上動物に変化するまでの時間はないと思うが、たしかに長いあいだ、ハルは周囲をうろちょろとしながら待ってくれていた。
腕時計を見てみれば、もう昼前にさしかかっている。
父は、芸術は人に見られることで完成するってよく言っていたっけか。
今でも、誰かに披露する直前は緊張している。
たぶん、それは純粋などきどきだけじゃない。ほかの芸術家たちに批判された、その記憶が外傷となって深く残り続けているというのもあるだろう。
この瞬間だって、きっと僕は恐れている。
目の前の少女に失望されるんじゃないかと。
「うぉう、めちゃうまい」
でも。
すぐに杞憂だってわかった。何度も見た、ハルの驚き顔で。
「そう言ってくれると嬉しいよ」
「あー、うーん、でも」
アホ毛が傾く。
なにか思案している様子であったが、ほんのちょっと経ってから口を開いた。
「空のあおと海のあお、どっちも同じで変なかんじ」
言葉を返すことができない。
呆気にとられたわけではなくて。
ぼんやりと、納得すらしていた。
──無彩色の世界を眺めながら。
「どうしたの?」
黙り込んだ僕を不審に思ったのか、ハルが問うてくる。
「なんでもないよ」
心のなかに芽生えた苦しみを、おくびにも出さぬよう閉じこめて。
…………苦しみ。ああ、苦しみだ。
きらきらの世界を諦めかけて、心を閉ざした日から。
コンクリートのような灰色が視界を占めはじめた。
お医者さんは、過度なストレスによる心因的症状だって言っていたかな。
見える世界にあるのは、ただ色の濃淡だけ。
彩度はない。
目の前の少女の髪は、きっとチューブから出したばかりのような原色の黒。
それは理解できる。
でも、空の蒼、海の蒼。その判別はできない。
そのことが、たまらなく悔しくて、苦しいんだ。
だから僕は線をひく。
筆をとって愚直に線を描く。それくらいしか、できることがないから。
「もし暇だったら、明日もここに来なよ」
少女へと声をかける。
絵を描くのが好きなんだって思い出せた。
だから、一歩一歩、進んでいくことにする。
最初に、完璧できらきらな世界を描きだしてみせよう。
空と海をわけて、ハルを驚かせてやるんだ。
「もっとすごいのを描いてみせるから」
どちらともなく笑いだす。
夏の暑さが、記憶の底からよみがえってきた。