面白い巨塔
『患者殺しを告発されたくなければ、教授選を辞退しろ』
浪速大学第一外科、准教授の唐沢俊明と新人医局員の江口陽輔の元に送られてきた一通の脅迫状。
それは白い巨塔と呼ばれる大学病院の中に未だ渦巻く、苛烈な権力争いが生み出した狂気の具現化だった。
患者殺しなど、二人に心当たりは全くない。つまり証拠は捏造で、犯人はカルテに記された謎の研修医に違いなかった。
しかし得られた情報はここまで。二人に求められるのは悪魔の証明、事態はどんどん泥沼になってゆく。
はたして、ツンツン敏腕准教授と生意気わんこ新人医局員の歳の差バディは、自らにかかった患者殺しの疑惑を晴らし、陰謀渦巻く令和の大学病院に面白い巨塔を築けるか。
「何も面白くないわ」
浪速大学医学部外科学第一講座准教授、唐沢俊明は気怠げにバサリと紙束を机に放った。新人医局員の江口陽輔が散らばった紙を横から慌ててかき集める。
「どうしたんです?」
しかし唐沢は質問には答えず、江口に紙束を突き返す。
【患者殺しを告発されたくなければ、教授選を辞退しろ】
「うわぁ~! 脅迫状だ!」
「何笑ってんねん」
顔を輝かせてはしゃぐ江口を唐沢が叱る。江口はすぐに真顔に戻った。実によく躾けられている犬だ。
「先生、どこで恨み買ったんですか?」
「ちゃうわ。教授選には脅迫状がつきものなんや」
今の教授が来年定年を迎える第一外科では、もうすぐ教授選が行われる。その教授選に、准教授の唐沢も名乗りを上げていた。
令和の時代にも大学病院の権力争いはすさまじい。特に浪速大学はひどく、陰謀と策略が渦を巻く様子はまさに白い巨塔だった。そんな中、唐沢は革新を掲げ、教授回診の廃止や労働環境の改善を目指していた。改革を嫌がる連中から疎まれているのは有名な話だった。
「大学病院って怖いんですねぇ。知りませんでした」
「はい出た世間知らず~」
「僕、教授選には興味ないんで。どうせ実家の病院を継ぎますし」
さらりと江口は答える。唐沢は小学生並の軽口を激しく後悔した。
「先生も大変ですね。患者さん殺しちゃったばかりに……」
真剣に同情する江口の頭に、唐沢の拳がビュンと飛ぶ。
「イテテ、体罰反対ですぅ」
「ったく、人を殺人犯扱いしよって」
「じゃあ医療事故ですか?」
唐沢はまた江口にゲンコツしようとしたが、江口は素早く拳を受け止める。悔しそうな唐沢に、江口は勝ち誇った笑みを浮かべた。
「先生とは長い付き合いですから」
「入局したばかりやろ」
「本当はもっと長いお付き合いになるはずだったのに……」
「俺は無実や!」
「じゃあ犯人はどんな脅迫状を作ったんですか?」
「自分で読め」
「嫌です。僕、かいけつゾロリより長い文章読めないんで」
確かに脅迫状にしては長い。唐沢も、表紙に脅迫状と書かれていなければ論文だと思っていただろう。
「脅迫状って、カードじゃないんですね。流行ですかねぇ」
脅迫状が流行ってたまるか。
文句を垂れつつ江口は分厚い脅迫状を読む。脅迫状の後半は電子カルテのコピーだった。脅迫状にはこの患者を殺したと記されていた。
「どこか変ですか?」
「明らかに改竄されてるやろ。君、ほんまに国試通ったんか?」
江口の手から脅迫状を抜き取った唐沢は丁寧に解説を始める。一年ほど前に死去した患者で、主治医は唐沢、担当医は研修医時代の江口だ。
「それは分かります。見覚えありますもん。でも他におかしいところなんて……」
「こいつ、見覚えあるか?」
唐沢はカルテに時々現れる名前に丸を付けた。柳原弘、肩書は研修医だ。
「名前だけは。でも知らない人です。僕の後に第一外科を回った人ですか?」
研修医は各科を順に回るローテート制だ。ローテーションが合わなければ、同期以外は名前すら知らないことも多い。
「こんな奴、第一外科には来てへんよ。しかもこいつ、カルテにめちゃくちゃなことばかり書いてやがる。こいつの言い分を信じたら、確かに俺たちが患者を殺してるようにしか見えんな」
しかも唐沢がこの患者を診察していた一年前、この研修医の名前は見なかった。つまり彼は明らかに後から偽の情報をカルテに書き込んでいる。
「じゃあこの人が犯人ですか?」
「ああ。電子カルテには書き込んだ記録が全部残ることを知らんかったか、誰かに雇われたか脅迫されたか。とにかくこいつを探して締め上げて、主犯の名前を聞き出すで」
奮起する唐沢だが、江口はあまり乗り気ではないらしい。
「所詮は脅迫状でしょう? こんなの捨てましょうよ」
容赦なくシュレッダーに近づいた江口に唐沢が飛びかかる。何とか脅迫状のバラバラ死体は免れた。
「アホ――ッ‼ 何してんねん‼ 貴様をシュレッダーにかけるぞボケェ‼」
「なぜです? 脅迫なんて気にした時点で負けですよ」
「違う。普通の脅迫状やったら俺も捨てる。でも今回はわけが違うんや」
「どう違うんです?」
江口は少々不満気だった。
「カルテは公的文書や。カルテの改竄は大事件やろ」
「犯人は柳原ですよね?」
「そうや。でも俺は主治医で君は担当医や。俺らにも責任は回ってくる」
「責任って……」
「一発クビや」
「嘘でしょ!?」
江口は叫ぶ。医局内の人間が一斉に振り向いた。
「まだあるで。君、死亡診断書は書いた覚えあるか?」
「か、書きました」
江口が泣きそうな顔で頷いた。
「死亡診断書にはカルテと全然違う内容が書かれてる。下手すれば、君は公文書偽造罪や」
「僕、どうなるんですか?」
「少なくとも逮捕、医師免許は確実に飛ぶやろな」
「嘘でしょ!?」
江口はまた叫ぶ。唐沢たちは不思議そうに寄ってきた医局員を作り笑いで追い払った。
「君は生意気やしな。免許剥奪されるくらいで丁度ええわ」
「先生、忠犬の僕を裏切るんですか!?」
「自分で忠犬て言うんかい!」
「だってそうでしょう!」
「じゃあ俺と一緒に仲良く牢屋に入ってくれるよな、忠犬君?」
医局の奥に場所を変え、唐沢は回転いすに座ってニヤリと笑う。
「嫌です! 僕が医師免許剥奪されたら、僕の実家の病院はどうなるんです!? 誰が継ぐんです!?」
「医師免許剥奪よりも先に、捕まることを嘆け!」
暴れる江口を必死で押さえこみながらもツッコミだけは忘れない。関西人の性だ。
「こんな脅迫状で僕の立場が脅かされるなんて……」
そもそも脅迫状とは立場を脅かすものなのだが、涙を流す江口には少々言いにくい。
「まあ俺らが先に柳原を見つけたら勝ちや。強気で行こ」
「……それは無理です」
眼鏡を外して涙を拭く江口がしゃくりあげながら答える。
「なんでや?」
嫌な予感がして、思わず唐沢の声も低くなった。
江口は静かに立ち上がり、自分の机から見覚えのある封筒を持ってきた。唐沢は奪い取るようにしてその封を開ける。
「僕にも来たんです」
脅迫状だった。中身は唐沢のものとほぼ同じだ。江口の実家の病院を盾に取り、違う患者のカルテが同様に添付されていた。
「黙っててすみません。後で捨てるつもりだったので……」
深々と頭を下げた江口の足元に二つの雫が落ちる。
「……いや」
空元気を絞り出す唐沢だが、一方で全てが繋がった。
当初やけに脅迫状を面白がっていたのも、脅迫状が長いのを流行だと言っていたのも、全て彼にも脅迫状が送られていたがゆえだ。脅迫状を流し読みしていたあたり、かいけつゾロリより長い文が読めないのも確かなのだろう。
「脅迫状が増えたところで事情は変わらん。あまり気にすんな」
「変わるんですよ、先生。僕のカルテを見てください」
そんなはずはない。唐沢のものと中身は大して変わらないはずだ。
「僕の方の脅迫状のカルテは、僕が入局してから入院して亡くなった方のものです。犯人の肩書をよく見てください」
「非常勤講師……? それがどうかしたんか?」
このカルテはあくまで今年のものだ。研修医が非常勤講師になっても不思議ではない。
「去年が研修医で今年は非常勤講師ということは、僕の下の学年ではありません。下なら今年も研修医のはずですから。逆に上の学年なら、去年に研修医をやってるはずはない。確実に僕の同期です。研修の制度上、他はありません」
「え……?」
「さっきも言いましたが、僕は柳原なんて知りません。見覚えがあるのは脅迫状で見たからです。同期以外ならともかく、同期の研修医なら僕は絶対にわかります」
「こいつ、同期ちゃうんか?」
「同期のはずです。でも僕は知らない。つまり彼は存在しないんですよ」
江口はボールペンで柳原という名を塗り潰す。その黒が広がるように、唐沢の目の前がふっと暗くなった。
「……それ、めっちゃマズいよな?」
「ヤバいです」
江口は冷静に答える。
「この状況もそうですが、謎の力が働いていますから。存在しない人間の職員登録をできるほどの力を持った、誰かの力が」
正論だった。今、柳原の手掛かりは消えた。自然、柳原の裏に潜む主犯もわからない。しかし犯人は確実に学内の上層部にいて、唐沢と江口を潰そうとしている。
この状況、あまりにも不利すぎる。
「くそっ」
唐沢は小さく呟く。
「……大学病院の安月給に文句も言わんと働くこと二十年、俺のキャリアは教授どころか殺人で医師免許を剥奪されて終わりや。これが俺のいる大学病院かッ!」
本棚に拳を叩きつけようとしたとき、横から伸びてきた手が拳を受け止めた。
「僕の師事する唐沢先生は、そんな弱気なことを言う人じゃない」
熱いまなざしの江口だ。
「僕は時代遅れの白い巨塔に興味はない。先生が作る面白い巨塔を志してここに来たんだ。今諦めてどうするんですか、唐沢俊明先生」
「なんやその面白い巨塔って……」
どこか感激しきれない、間の抜けた言葉である。だが江口は真剣だ。
「僕は先生と一緒に闘いたいんです。よろしくお願いします」
「頼むぞ、忠犬君」
深々と下げた江口の肩を、唐沢は少し乱暴に叩く。露骨な照れ隠しだ。
「あっ先生、可愛いとこありますね~」
にやついた瞬間にゲンコツが飛んできた。
「イテテ、体罰反対ですぅ」
「……面白い奴やな君は」
唐沢が拳を撫でて苦笑した時、胸元でPHSが鳴った。





