グレースケール
書く時のルーティーンですか? そうですね……。
じゃあ、左の指で左目を塞いでみてください。遠近感が失われたのってわかりますか? 情報としての奥行きは脳に伝わるんですけど、感覚としては平面に見えると思います。これを切り取ってキャンパスに描けば自然と絵が完成します。
話が逸れましたね。今回描いた作品は、僕が高校生だった頃に交わした二度目のキスをモチーフにしました。顔の上半分だけしか描かなかったのはそのためです。僕の視界には下半分は映りませんからね。
だから僕は、この絵を『自由と不自由』と名付けました。
(月刊藝術伯仙 九月号より)
一億色が成す視界よりも、たった二色の世界の方が自由だなんて、思いもしなかった。
だからあの日の俺は、正しく図星を突かれていたんだ。
「不自由そうだね、今の君は」
仰向けに寝る俺を覗き込みながら彼女は得意げに笑う。さらりと伸びた長い髪は鼻先をくすぐった。
「……授業をサボって屋上で昼寝をする。俺は自由の代名詞だと思うけどな」
「ステレオタイプは概念の束縛だよ」
簡素で簡潔で、それでいて不思議な説得力を持った返答。
「四条晴くんだよね。君のことは沢山知ってるよ」
俺が気だるそうに身体を起こすと、彼女はパーソナルスペースを軽々踏み越えて隣に腰を下ろす。柑橘系の香りがふわりと広がった。
「二年C組十三番。家族構成は父と妹。母は幼少期に他界してる」
「何で知ってるんだよ」
「お弁当は必ず卵焼きから食べて、その後お米を口に運ぶ」
「だから何で知ってるんだよ」
「書道みたいな掠れを駆使し、数色だけで絵画を生み出す天才画家。だけど代表作である四年前の『一昼夜』の発表を最後に筆を折った。全部記事に書いてあったことだけどね」
そういうことか。昔の俺を知っているやつが好奇心で聞いてくることは前にも何度かあった。
俺は静かに溜め息をつく。
「ねえ、どうして君は絵を描かなくなったの?」
「飽きた。それだけだ」
どうせただの好奇心。無意識に左の人差し指で左目を塞いだ。
「人間って嘘をつく時は顔の一部を隠すらしいよ」
「別に嘘はついてない」
「上手い嘘のつき方は二つ。本当のことに小さな嘘を混ぜるか、意図的に重要なことを隠すか」
「……はぁ。面倒臭い」
彼女は俺の意志を無視して無遠慮に不躾に迫ってくる。
「何が目的なんだ? 物見遊山の一環なら他を当たれ」
「四条晴は私の命の恩人。その人のことを知りたいって思うのは当然じゃない?」
想定していなかった答えに俺はふと彼女を一瞥する。
長いまつ毛が縁どった大きな瞳は嘘など一切映しておらず、俺の視線に気付くと、鼻腔をくすぐる香りのように柔らかい笑顔を浮かべた。
それにしても。
「……命の恩人、か」
ワードチョイスは偶然だろう。だが俺はその言葉にだけは弱かった。
やはりどこか面倒臭さを感じながらも、ブレザーの内ポケットから赤字で銘柄が書かれた黒い直方体の箱を取り出す。
「煙草? どこまでいってもテンプレートな自由だなぁ」
「黙って見てろ」
中から真っ黒な煙草を取り出し、咥えながら軽く息を吸って火を点ける。チリリと筒先が燃え、雑味の混ざった最初の煙を適当に吐き出した。
「今俺が吐き出した煙は何色に見えた?」
「白」
「だよな。じゃあ次、火種から出る煙は何色に見える?」
「白」
「俺も四年前まではそうだった。だけど今は紺藤にうっすら淡いシアンが差してるように見える」
言い終わるなり、甘ったるい紺藤を吸い込んでは白い煙でゆっくり直線を描いた。
「人間は本来三原色しか見えないはずが、俺には生まれつき四原色が見えた。だけど物心着く頃にはグレースケールでしか世界を見れなくなっていた」
「比喩?」
「言葉通りだよ。いわゆる全色盲ってやつで、だからこそ四年前までは主流煙と副流煙の色の違いが見えなかった」
今ではうざったいくらいに主張してくる。半分以上残った煙草を消し、手持ちの携帯灰皿にしまった。
「今まで描いた作品の色数が極端に少ないのはそのせいだ。だけど物を知らない似非評論家が出来損ないを持ち上げたせいで、天才画家なんて訳の分からない評価を貰うようになった」
眼前に広がるターコイズブルーに白を混ぜたような空を、俺は忌々しげに睨みつける。
「四年前までは、って言ったよな。最後に描いた『一昼夜』は、色が戻ってからの最初で最後の作品だ。……今まで心の奥底では馬鹿にしてた海の向こうの天才達の作品が、色を取り戻して、正しく評価出来るようになって、初めて俺じゃ届かない領域の物だと知ったんだよ」
目の前から逃げるように、まぶたを閉じる。
「評価こそ代表作だが『一昼夜』は凡作だったよ。一丁前に色を使ってみた。完成したそれを見て絶望した。だから筆を折った」
名作達は等しく名作だった。ただ見たものを描くだけじゃ辿り着けない領域。目の前に広がる世界に自分なりの解釈を、想像を、理想を乗せなければ表現出来ない芸術。
俺には無い、感性の先の自由。
暗転した視界は昼の明るさしか伝えない。耳からは遠くを走る車の音──隣でのそりと動いた彼女の衣擦れの音。
そして唇からは、温もりを持った柔らかい何かの感触が伝わってきた。
「乙女の初めて、受け取っちゃったね?」
彼女は人差し指で唇を指しながら、ぱちりとウインクをした。
「おま、何で」
「『一昼夜』。君はその作品を誇るべきなんだよ。君じゃなきゃ私は救われなかった。君で良かった」
俺の動揺を無視して、彼女は続ける。
「私と同じ全色盲だったから、私は君に色を教えてもらえたんだよ」
天才達への絶望に寄り添うように、彼女は俺の絵に感じた希望を伝えてくれる。
彼女の表情は本当に嬉しそうで、そして自分の顔を隠すように優しく俺を抱きしめた。
「君の言葉を借りると、私の空はいつもグレースケールだった。だけど昼は青で夕方は赤、夜は黒じゃなくて紺色。雲がいつも見ている白だったのは拍子抜けしちゃったけど、空がカラフルに色付いていることは、全部君が教えてくれたことなんだよ」
まあ、私の全色盲は君のとは違って先天性のものなんだけどね、と付け加える。
「だから私が見た色は『一昼夜』のあれが初めて。君は乙女の初めてを奪ってばかりだ」
「……後天性ならともかく、先天性の全色盲なら色が見えるようにはならない」
「じゃあ奇跡だね」
抱きしめられる力が強まる。噛み締めるように呟いた。
「ねえ、絵は好き?」
「好き嫌いじゃない。俺には絵しかなかった」
「不自由だね」
「うるせえ」
「調子の良いこと言っていい?」
「拒否しても言うんだろ」
「正解」
耳元で囁く。少しこそばゆい。
抱きしめられているから顔は見えない。だけど彼女の表情が蠱惑的に揺れていることだけは、ありありと伝わってきた。
「今度は君の自由意志で、折った筆をまた取って、感じたままに一億色の世界を切り取って、想像して、描いて、そのついでに二色しか見えない私に色を教えてくれないかな」
「……自由というか、わがままな提案だな」
「従順が不自由に見える君なら、わがままは自由だって理解出来るでしょ?」
高校という箱庭のルールに従わないことで自由を気取っていた。だけど彼女の言う通り、これが不自由だということはどこかでは理解していた。
何故なら自由を目的にしている時点で、俺の前提は不自由だからだ。
「……“上手くいかない時は目的を見直せ。鳥瞰を大切にしろ。終着駅を決めるということは始まる場所も決まるということだ”」
「何それ?」
「俺の師匠の言葉。お前にとっての俺と同じ、命の恩人だよ。さっきの言葉の意味を俺が理解出来ているかは微妙だけど、多分そういうことなんだろうな」
あの人は何事も絶対距離ではなく相対距離で見ていた。マイナス二百七十三度の絶対零度でもなければあらゆる物事は止まらないと、口酸っぱく何度も叩き込まれた。
昔を懐かしむ。彼女は抱きしめるのをやめ、首に両腕を回しながらお互いの息がかかるくらいの距離で小さく頷いた。
「やめた。やっぱり描いてって言ったのは無し」
どこまでも気ままでわがまま。まるで猫のよう。
「これから描くかは君が決めて。私は私で君に描いてもらえるように頑張るから、その上で自由意志を確定させてよ」
「お前がそれで良いなら」
「誓いのキスでもする?」
「おう」
「え? その答えはちょっと意外だっ……んっ」
言い終える前に俺は口付けをする。
今度は目を開いた状態で、だけど指で左目は塞いで、彼女が頬を赤らめながら静かに目を閉じる光景を網膜に焼き付けた。
「……してやられた」
「言い出したのはお前だ」
「知らない」
首にまわした手を解き、恥ずかしそうにそっぽを向く。何か言いたげだったが、どれも言葉にはならずに空に消えた。
「一つだけ聞いて良いか?」
「何。キスなら今日はもうしないよ」
「お前、名前は?」
彼女はきょとんとした後、遅れてふふっと息を漏らした。
「はじめまして。七瀬蒼空です。二年C組二十番。君と同じクラスだって知らなかったでしょ?」
そう言って七瀬は子どもみたいに笑い、からかうように首を傾げてみせた。
──そうして出会った日を、俺は今でも思い出す。
あの日の俺は、正しく図星を突かれていた。
自由を気取った不自由な人間。自分にしか描けない絵を筆を折ってなお夢想している。
どれも正しい。今となってはあの頃の俺は確かにそうだったと、自信を持って頷ける。
だから。だからこそ。
勝手にこの世を去った、自由でわがままな彼女へ。
俺は今日も追悼の絵を描き続けるんだ。





