名前
誤字報告ありがとうございます。
誤字を修正しました。
「失礼します」
ノックの音に続いて部屋に入ってきたのは、カラムさんではなく明るいオレンジ色の髪をした青年だった。例に漏れずイケメンよ。目元の涼やかな文系タイプね。
「初めてお目にかかります。魔道士団団長、バレット・クーゲルと申します。お怪我をされたとか。額ですね、少々、失礼します」
バレットさんは傷を見て、手をかざすと「キュア」と唱えた。
そうしたら、ふわっと傷口が暖かくなって、痛みがスッと消えたの!
「はい。これで大丈夫ですよ」
そう言って手渡してくれた手鏡を見ると、傷が消えて無くなっていた。
すごい!
「ありがとうございます。これは魔法ですか?」
魔道士団団長、と言うからにはバレットさんは魔道士なのよね?
「そうです。治癒魔法、と言われるものですね。聖女さまの世界では、魔法は無いと聞いています。代わりにデンキやガスというものがあるとか。聖女さまの…、あの、お名前を教えていただいてもよろしいですか?」
困ったように、躊躇いがちに、そう聞かれて気づいた。
「名前…?」
そう言えば名乗ってなかったわ。
ここに来たときは帰れない宣告をされたショックでろくに話が出来なかったもの。あんまりの落胆ぶりにみんな気を使ってくれたみたいでね、そっとしておいてくれたから名乗る機会が無かったのよね。
みんな、聖女さま、って呼ぶからそれで事足りていたし。
でも待って。名前って、素直に教えていいものかしら? この世界には魔法がある。名前を知られることの弊害がないとは言えないと思うわ。なんか、そんな物語、読んだことある気がするもの。
……べつに、本名を名乗る必要はないわよね? 要するに、呼び名があればいいのでしょ。
「ありす、と呼んでください」
異世界で大冒険といえばこの名前よね。
少し考えて、私は元の世界では誰もが知ってる、王道ファンタジー物語の主人公の名前を答えた。
バレットさんはありがとうございます、と頷いて話を続けた。
「アリスさまのいらした世界でも魔法は無く、デンキやガスがある、というのは変わらないのでしょうか?」
「ええ、そうです。魔法はありませんでした。魔法という概念はありましたけど、それが使えるのは架空の物語の中だけで、実際に使える人はいません。こちらの人は皆さん魔法が使えるのですか?」
「そうですね。使えるには使えますが、何が出来るかは人によって違います。持っている魔力の強さも違うので、ほんの少し、小石を持ち上げることが出来るだけ、という者も少なくないのですよ」
ふうん?
「では、今やって下さったように怪我を治すというのは?」
「治癒魔法は特に使い手が少ないのですよ。怪我をしたときには、治すための魔法薬を服用することが多いです。魔法薬は作れるものがそれなりにおりますので、流通しています」
へえ?
「空を飛んだり、空間を移動したりは?」
「どちらもかなり高度な魔法ですね。出来るものは限られています」
そうか。難しいのね。魔法はあっても、それでなんでも出来るというわけではなさそうだわ。
「生活する上で魔法が必要、ということはないのですか?」
私、魔法使えないよね。ちゃんと生きていけるのかしら。
「必要なものもあります。火をつけたり、身体を清潔にしたり。おそらく、アリスさまの世界でデンキやガスを用いて行われていたようなことは、こちらでは魔法を利用して行っているのです」
え、それってかなりまずいんじゃない? 魔法が使えないってことは、元の世界で電気やガスが使えないってことと同じだということになるのでしょ?
ヤバイ、って思ったのが顔に出ちゃったみたい。
バレットさんはすぐに、
「アリスさまは城にお住まいなので、世話係がフォローしますから大丈夫ですよ。それに、魔法が不得手な者のための魔法補助具というものがあります。どうしても魔法が必要になったら試してみるのも良いと思います」
って、教えてくれたわ。
魔法補助具…。それはちょっとの魔力で魔法を使えるアイテムなんですって。異世界から来たひとも、少しは魔力を持っているものらしいので、それがあれば最低限のことは出来るようになるそうよ。
良かった。何でもかんでもよそ様に負んぶに抱っこじゃ申し訳ないもの。自立できないみたいで恥ずかしいし。
落ち着いたら自分のことは自分で出来るよう、魔法補助具、にも挑戦してみよう。
……それって、もらえるのかな。買う…、のかなぁ。この世界ってお金とかどうなってるんだろう。聖女の役目を果たしたら、お給金、貰えたりしないかしら?
そこにまたノックの音がして、カウムさんがやってきた。さっきの、藍色の髪の騎士さんと一緒よ。そしてもうひとり、執事のような格好の美形さんがワゴンを押して入ってきたわ。
ビバ☆イケメンパラダイス。なんてね。
「お待たせして申し訳ありません、聖女さま」
「いいえ。こちらこそ、急にお時間をいただいてすみません」
私が言うと、カウムさんは一瞬、驚いたような顔をして、それから静かに首を振ったわ。
私が普通に喋ったことに驚いたみたい。まともに会話をしたのは、最初にこの世界に来た、その日だけだったものね。
「聖女さまが気になさる必要はありません」
バレットさんがさっと立ち上がって、代わりにカウムさんが私の正面の席に座った。
バレットさんは私の名前がアリスだと伝えてから壁際に下がったわ。
執事風のイケメンさんが紅茶を淹れてくれるのを待って、カウムさんが口を開いた。
「怪我をされたとか、大丈夫でしたか?」
「はい。バレットさんが治してくれましたので。それで、そのことなのですけど、実は小さな子どもに石を投げられたんです」
私の言葉に、カウムさんの眉間にきゅっとシワが寄った。
「石を…?」
おっと。怖い声。違うのよ、問題はそこじゃないの。
「はい。あ、石を投げた子のことはいいんです。問題は石を投げられる聖女の方にあると思っています。その子は言っていました。聖女の呪いなんかに負けない、聖女なんかやっつけてやるって。聖女の呪いってなんですか? 聖女って、小さな子どもがやっつけてやる、なんて思うようなモノなんですか?」
真っ直ぐ強く見つめて単刀直入に聞いたら、カウムさんが小さく息を飲んだのがわかったわ。
聞かれたくないことだったかしら? だけど、私は知っておくべきだと思うのよね。他ならぬ、私自身が聖女であるならば。
さあ、教えてもらうわよ。
カウムさんは少し俯いて、静かに話し出した。
「それには先代の聖女さまの話をしなければなりません。先代の聖女さまは名をマユリさまとおっしゃいました」
私は黙って聞いた。どこか辛そうに聞こえるカウムさんの言葉を。