始まりの日
良かった。
拓真の後ろ姿を見送って、私はため息をついた。
ああ、満足!
拓真は五つ歳下の弟よ。数日前に大学受験を終えて、無事に希望していた大学への入学を決めたの。
今夜は久しぶりに2人でご飯を食べたのよ。お祝いだから、だいぶ奮発しちゃった。
私が大学進学と同時に家を出てから、拓真と会うのは年に数度だけになっていたけれど、会うたびにさわやかなイケメンに成長しているのよね。この前会ったのはいつだっけ? そうそう、夏休みに帰省したときだったわ。だから、三ヶ月前ね。あの時よりもちょっとだけ大人っぽくなってたわね。
母情報によると、女の子に人気があるらしいの。地味でモテとは無縁のお姉ちゃんとは違ってね。
可愛い自慢の弟よ。
後ろ姿が見えなくなるまで見送って、さあて私も帰ろう、ってくるりと方向転換したときだった。
視界一面に真っ白な光が広がったの!
思わずギクリと身体が強張ったわ。だって、間近から車のライトに照らされたと思ったんだもの。私ったら、いつのまに車道に出てしまったのかしら。
いやだ、怖い。怖い。どうしよう!
どんどん強くなる光で目が開けていられなくなって、ぎゅうっと強く目をつむった。
………あら?
なんともない?
ばーんとはねられたり、なんて言うかこう、強い衝撃を覚悟したんだけど、そういうのは何もなかった。その代わり、高速のエレベーターに乗ったときみたいな、耳がきーんと詰まるような感じがしたわ。そうして、痛いほどの光が治まってきたように感じた頃、ざわめきが聞こえてきたの。
恐る恐る目を開いて、愕然とした。
だってそこは、見たこともない場所だったんだもの!
私を中心に半径2メートルくらいかしら、ぐるりと取り囲むようにたくさんのひとがいて、私が見回すと慌てたようにその場にひれ伏した。
なに…?
なんなの?
人の向こうに壁がある。建物の中みたい。天井が高い。
ごくり、と喉がなった。
ぞわぞわする。
まるで得体の知れなさが恐怖となって背中を這い上がってくるよう。
だってここは私の知らない場所だ。
どうして?
ついさっきまで、行き慣れた繁華街にいたじゃない!
拓真の後ろ姿を見送って、振り返った、それだけなのに。
なんでこんな場所にいるのよ?
ここはどこなの?
それに、それに…。
私を見てひれ伏した人たちの様子もおかしいわよね。だって、なんでひれ伏しているの?
それに服装がどう見ても日本のものじゃない。イメージ的には中世のヨーロッパみたいな?
と言っても、中世ヨーロッパそのものじゃないの。ない、と思うわ。いえ、分からないけれど。中世ヨーロッパのことなんて詳しくないし。なんて言うか、そうね、強いて言えばファンタジー小説に出てきそうな感じ?
そして。そしてね。現実としてはちょっと受け入れ難いんだけど、髪の色がね、ファンタジックなのよ。赤や青やピンクやグリーンといったカラフルな髪色の人たちがたくさんいるの。アニメやゲームのキャラクターみたいにね。
コスプレイヤー…?
なんてね。だったらいいなと思っただけよ。だってそうなら、ここは日本だってまだ思える。日本のコスプレイヤーは質が高いもの。だけど、ウイッグと地毛は見た目の質感がだいぶ違うわよね。
見間違えることは無いと思う。だとするならば、こうべを垂れるひとびとの髪はみんな本物よ。
ツヤツヤでサラサラでフワフワだもの。
どうしたらいいのかわからずに立ち尽くしていたら、コツっと背後で足音がした。
ハッとして音のした方を向くと、グレーの髪の少し年配の男性が穏やかに微笑んでいたわ。
ステキなおじさまだけど、瞳の色がきっぱりと緑色だった。
ああ。髪だけじゃないんだわ。瞳の色までカラフルなのね。
「聖女さま。召喚に応じ顕現下さいましたこと、深く感謝いたします」
そう言っておじさまは恭しく頭を下げたわ。
優雅に膝を折る様子は、それこそ中世の貴族に仕える執事みたい。
でも、待って。ちょっと待って。
色々と驚いているのよ。ええ、それはもう、リアルに腰を抜かすレベルでね。
まず、言葉が分かること。
おじさまが話す言葉は日本語ではないようだけどまるで日本語のように聞こえるの。意味が分かるのよ。これって、どういうこと?
それに、聞き捨てならないことを言っていたわよ。召喚に応じ、ですって? 召喚された覚えもそれに応じた自覚も無いけど?
それに…。
「聖女?」
顔を上げたおじさまはぴんと背中を伸ばして、神妙なお顔で言ったわ。
「聖女さまにおかれましては、ご家族もご自身の生活もおありのことと存じます。それなのにこのような異世界に突然お呼び申し上げたことは、大変申し訳なく深くお詫び申し上げます」
そうして再び頭を下げるおじさま。
「異世界…?」
と、そう言ったの?
「はい。ここは、聖女さまがお住まいになられていた世界とは異なる世界でございます。説明をさせていただきたいと存じますので、別室への移動をお願いできますか?」
穏やかな声音は優しかったけれど、内容はずいぶんと優しくないのね。
だって、異世界よ?
冗談でしょと、笑い飛ばしたい。だけど出来ない。
景色が空気がひとびとが、あまりにも見知ったものと違っているから。
私は改めて周りを見回し、そして頭を下げるおじさまを見た。
そうね、説明をしてもらわないとね。
お話し、お伺いしようじゃないの。