⑬ いよいよ 読書会?
⑬いよいよ 読書会?
ついに立春が来た。といっても,その日から急に春になるわけじゃない。けれど、これまでと決定的に違うのは、日差しの明るさと日の長さだ。
夕方五時を過ぎたら、かけあしで夕闇が来ていたのに、最近では暮れそうで、なかなか暮れない。まるで空も、春が一歩一歩近づいてくるのが待ちきれないみたいだ。この分じゃ、春一番が吹く日もそう遠くはないだろうな。
北風にとって、春風との読書会はすでにカウントダウンに入った。
春風は、いったいいつやって来るんだろう?
立春を過ぎたばかりの日曜日。
ベランダから聞こえてくる母さんの歌声で目が覚めた。
♪春一番が、掃除したてのサッシのまどに♪
母さんは、今の時期になると、決まってこの歌を口ずさむ。薄目を開けるとカーテンごしに、ベランダの干し物が左右に大きく揺れているのが見えた。思わず、ガバッと跳ね起きた。
「もしかして、春一番が吹いてるの?」
「そうみたいねえ。風が強くって、洗濯物が飛んじゃいそうよ」
パジャマに着替えるのも、もどかしく外に飛び出した。
明るい日ざしの中で吹く風は、北風と変わらないくらい冷たい。でも、どことなくやわらかさを感じる。やっぱり春風なんだ。
北風のやつ、いよいよだな……。
オレは、大きな声で、応援してやった。
「き・た・か・ぜ・がんばれよーっ」
―なんだよ、おどろくじゃねえかよ。
意外にも、北風はすぐそばにいたらしい。
「いよいよ、読書会なんだろ。春風と」
―あ、うん、でもやっぱり遅れたみたいだ。
「遅れた? どういう意味なんだよ」
さっぱりわからない。現に今、こんなに強く春一番が吹いてるじゃないか。
―あのな、ヒカル、春一番というのは、もともと、春の嵐みたいなもんで、船なんて転覆させてしまうくらいに強烈なのさ。春一番が吹いたあと、もう一度冬に逆戻りして、そのあとやって来る春二番三番が、本当の春風なんだよ。おいら、それまで待つことにしたんだ。
なんだかんだ言って、つまりは春一番にふられたんじゃないだろうか?
ま、いいか。本当の春風が吹くまで、北風といっしょにオレも本が読めるってわけだ。
オレの場合、百冊にたどりつくまで、あと五十冊。二冊ずつでも二十五日はたっぷりかかる。
ああ、時間よ止まれ。春よ、もっと、もっと、ゆっくりやってきてくれ!
三月に入った。たとえ、なごり雪が降ったとしても、三月は疑いなく春だ。
オレの苦労の甲斐あって、北風はようやく目標の三千冊にたどりついた。
記念すべき三千冊めの本、夏目漱石『こころ』をパタリと閉じ終わったとたん、北風はオレにしがみついて、声をつまらせた。
―やった! 三千冊読んだぞ。ヒカルの協力あってこそだ。恩にきるぜ。
「よ、よかったな、北風」
太陽がいくら優しく光を投げかけてくれても、北風からこんなにしっかり抱きしめられていたんじゃ、オレはいつまでたっても、歯がガチガチ鳴りっぱなしだ。
それにしても、春風おそいよな。
あまりにゆっくりした春風に、オレは少々気をもんでいるんだけど、北風は全然いらついている様子がない。
「ヒカルくん」
不意に後ろから声をかけられた。
ふり向いたオレは、思わず、ゴシゴシと目をこすってしまった。
そこに立っていたのは、なんと美里ちゃん。
「ヒカルくん、これまで何冊読んだの?」
オレは、まだ目標をクリアできていない。あと十冊近くも残ってしまっている。
「う、うーん、九十冊くらいかな…」
しどろもどろになりながらこたえると、美里ちゃんは、大きな目をパチパチさせて叫んだ。
「すごい! そんなに?」
「で、でも、目標にはまだ……」
「あと十冊ね」
オレは、しぶしぶうなずいた。
「じゃあ、今日からいっしょに読もうよ」
えっ? 今、美里ちゃんは、なんて言ったんだ?
「ヒカルくん、あと十冊、いっしょに読んでいい?」
もう一度、美里ちゃんが言った。
ほほえんだほっぺに、夢にまで見たトレードマーク。
こんなことって本当にあるわけ?
「もう怒ってないの? 美里ちゃん」
おそるおそるたずねた。
「怒るも怒らないも私のカン違いじゃない。そんなこと最初からわかってたの。なのにゴメンね。私、意地をはってたの。冬の間、ヒカルくんがどんなにいっしょうけんめいだったか、ホントによくわかった。九十冊なんて、すごいよ。尊敬しちゃう。せめて残りの十冊、いっしょに読みたいな」
美里ちゃんのえくぼをボーッと見つめながら、オレは自分のほっぺたを、思いきりつねりたい気分だった。
―ほーらな、ヒカル、オレが言ったとおりだろ? この子の目、完全なハートになってるぜ。
北風がそっとささやく。これは夢じゃない。現実のできごとだ。
やった、やった、やったぜ! 今度はオレが北風に抱きつきたい気持ちだ。
「よかったわね。ド・スケベもホラフキも解消できて」
北風の代わりにもう一人の声がした。
え? その声、もしかして……?
予感は当たった。
「ねえ、アタシも仲間に入れてよ」
やっぱりゲッ子だ!
なんでこんな時に出て来るんだって叫びたかったけれど、昔のオレの母さんにそっくりなやつなんだし、この際仕方ないか。




