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⑫ 広田一夫くん

⑫広田一夫くん



 待合室には、オレの次を待つ患者さんもいないようだった。

 深見さんが席を外したのをチャンスとばかり、オレはおそるおそる口火を切った。

「あのう、広田先生。……ええと、あのう」

「なにかな? ヒカルくん」

 先生がオレの目をのぞきこんでくる。優しいまなざしだ。

 ごくっと唾を飲み込み、ひと息に言った。

「小学生の時、オレの母さんのこと、どう思ってたんですか?」

 熱が高いから言えてるのかも? 

「つまり……その……好きだったんですか?」

 ついに、真正面からシュート!


 すると、意外なことに広田先生の顔が、みるみる赤くなってきたのだ。

「うん……」

 先生がもじもじとうなずいた。

「そうなんだ。るみこちゃんは、ぼくのあこがれの人だったなあ……」


 今、オレの目の前に座っている人。

 それは、もはや医者の広田先生ではなく、二十九年前にタイムスリップした、少年の広田一夫くんだった。


 広田一夫くんは夢みるまなざしでこう言った。

「るみこちゃんって子は、すごくやさしくて明るくて、勉強の成績も一番、かけっこも一番、絵も上手だったし、ピアノも上手。おまけに本を読むこと読むこと。まったくだれひとりかなわなかったなあ」

 へ? オレの母さんが? し、信じられない。そんなスーパーアイドル的な女の子が、母さんの昔のすがただったなんて……。

「それにひきかえ、ぼくなんて成績も悪いし、絵もへたくそ。かけっこもおそいし、ピアノなんてまるでダメ。おまけに年に一、二冊本を読めば上等っていう、とんでもないやつだったからさ、るみこちゃんにどんなに近づきたくても接点が見つからなかったんだよ」

「それで……?」

 オレは、身を乗り出すようにして話の続きを待った。


 広田一夫くんの瞳は、ますます、きらきらと輝きを増してくる。

「それで、ぼくの考えたことはといえばだね。るみこちゃんが、図書室から借りた本を、片っぱしから自分も借りていく。それも彼女の返却日をチェックしておいて、彼女が返すとすぐにだ。そうしていけば、るみこちゃんに話しかけるきっかけもつかめるかもしれないし、何よりも貸し出しカードで名前が並ぶことがうれしかったんだよ。ああ……あのころは、本当に読書ひとすじだったなあ……。るみこちゃんのおかげで、いろんな本と出会うことができたんだ。人を好きになるエネルギーっていうのは、無限だよ」

「で、るみこちゃん、いやオレの母さんとは、どうなったの?」

 広田一夫君はポリポリと頭をかきかき、照れ笑いした。

「結果からいえばどうにもならなかった。ぼくの一方的な片思いで終わってしまったよ。だけどね、ただの一回だけ、るみこちゃんの方から話しかけてきてくれたことがあったんだ。ぼくがるみこちゃんが返したあとすぐ借りてきた『若草ものがたり』を、カバンに入れていたら、そばに寄ってきてね、こう言ったんだ。=あ、一夫くん、その本おもしろいよ。私ねえ、この四人姉妹の中でベスがいちばん好き。一夫くん、四人の中でだれが好きか、読んだら教えてね=って」

「それで、どう返事したの?」

 ひょっとすると、ここが運命の分かれ道だったのかもしれない。

「家に帰るなり、ご飯も食べずにいっきに読んだよ。この一冊でるみこちゃんと仲よくなれるって、もうわくわくしてねえ。それで次の日、るみこちゃんに、たしかこんなふうに言ったんだ。=ボクは、次女のジョーが好きだな。やさしくて活発で、読書が好きで、なんとなく、るみこちゃんに似てると思うんだ=

な! こりゃもうまさに愛の告白だよ。もう心臓が止まるくらいにバコバコしてさあ」

 なんてこった……。オレは広田一夫くんの勇気に感動すると同時に、その素直さにつくづく同情してしまった。


 母さんは今でもよく、オレや父さんをひっつかまえては、洋服のカタログを突きつけてたずねてくる。

「ね、ね、私この服好きなんだけど、あなたどう思う?」

 ついうっかり

「ふーん、そうかなあ? こっちの方がいいんじゃない?」

 なんてこたえようものなら、母さんは、顔じゃほほえみながらも、急にそっけなくなるんだ。

 要するに母さんは、自分の好きな服は自分に似合うと信じているので、オレたちにもさりげなくそれを強要してるってわけ。


 一夫くんは、とっても好意的に、しかも正しい判断でジョーに似てるって言ってくれたんだけど、自分がベスに似てるって思いこんでる母さんは、一夫くんにもそう言ってほしかったにちがいない。

「るみこちゃんは、にこにこ笑って、うなずいたきりだったな」

 そこで、ジ・エンドだったんだ。女心を理解するのもひと苦労だよな。

 オレは息子として、せっかく自分の母さんを好きになってくれた広田一夫くんに対し、とても申し訳ない気持ちになってしまった。


「そういえば、昔のるみこちゃんは、どこか今の月子ちゃんと似ているところがあるねえ」

 四十歳にもどった広田先生が言った。

「母さんが、ゲッ、いや月子に?」

「うん、結構強気で、しっかりしてるところもあったよ」

 そうだろうな。

 まちがっても美里ちゃんには似てないはずだ。

 押しの強いところ。思いこみの激しいところ。深く考えないところ。

 やっぱりゲッ子に似てる!


「なあ、ヒカルくん」

 広田先生の手が、オレの肩に置かれた。大きくて、温かい手のひらだ。

「人を好きになるとさ、心っていうのは、どんなことでも吸収してくれると思うんだ。音楽のワンフレーズでも、本の一場面でも……。いったん、好きということに目覚めたら、そのエネルギーは、はかりしれないんだよ。きみは、今、それを体で感じる時期なのかもしれないな」

 大きな手は、今度はくしゃくしゃと頭をなでてくれた。

「おっと、重症の患者に、こんなに長話をしてしまって、医者失格だ。さあ、ヒカルくん、家で安静にしとくんだよ。熱が下がっても、しばらくは戸外読書禁止。これは命令だ。必ず守ること」

 ちょうどその時、待合室の方から、お世話になりますという、母さんのかん高い声が聞こえてきた。



 それから数日の間、広田先生の命令どおり、オレは家の中にひきこもっていた。

 そのかわり、押入れに眠っていた母さんの文庫本を、毎日こっそり持ち出しては窓の外に並べ、できるだけ北風が本を読めるようにしていた。もちろん、オレだってうかうか眠ってはいられない。時間を惜しんで、ベッドの中で本を読んだ。

 心配してくれているのか、時々、北風は、声をかけにきてくれた。


―おーい。ヒカル、生きてるかあ。


 そのたびごとに窓をガタガタゆさぶったりするものだから、オレは、すわ地震かとはね起きなくてはならなかった。


 オレがベッドの近くに積み上げている本。これらはすべて一度は美里ちゃんの手にふれた本でもある。

 美里ちゃんが旅した文字の世界に、だれにもジャマされることなく、遠慮することなく、オレも堂々と入っていけるんだ。

 広田一夫くんも、きっとこんな気持ちで読書してたのかもしれないな………。


 毎日欠かさず読み続けたせいかもしれない。最初は文字を追うだけで精いっぱいだったけど、最近では、一ページも読んでると、するりと本の世界に入りこんでいけるんだ。

 文字の中から、ジャングルをつたう濃いみどりや、紫色のききょうの花畑が、はっきりと目の前に見えてくる。おまけに登場人物たちの声までもが頭の中に聞こえてくる。聞き慣れただれの声でもない、オレが完全に頭の中で作り上げた声なんだ。ホントに不思議だよな。人間の頭の中って、性能バツグンのスクリーンなんだって、やっとわかった気がする。


 そうこうしているうちに、クリスマスもお正月も過ぎていって、あっという間に一月も後半。

 今は大寒といって、一年中で一番寒い時期らしい。が、暦の上での春は、もうまもなくだ。

 オレは、再び戸外での読書を始めていた。

「おい、北風、これまで何冊読めた?」

 ジャンバーのフードをすっぽりかぶり、かめのように縮こまって聞いてみる。


―二千百冊。まだまだだけど、どうにかなりそうだ。そっちは?


「五十冊。やっと半分だけどスーパー自己記録だよ。オレにとっちゃ」

 たしかに年間二冊どまりだったころに比べれば、驚異的な読書量になった。けれども、春まで百冊と断言した以上、それをクリアできなきゃ、オレはずうっと無実のド・スケベ図書委員のままだ。

 おまけに、ゲッ子や木田からはきっと、

「ほらね、あんたにできるはずないでしょ」

 なんて言われたあげくに、フンとせせら笑われるに決まってる。

 春はもう目の前だというのに、オレの心はどんより重たいままだった。



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