砂漠の幽霊船
満月だった。月に照らされた砂漠は一段と美しい。砂丘が黒く大きなうねりを見せ、それがどこまでも続いている。
その月が次第に欠け始める。月蝕だ。しだいに月は地球の影に入り、あたりは暗くなってくる。
一同が異変に気がついたのは、月蝕が深くなり砂漠が紅黒く染まったときだった。
なにか重い物を引きずるような音が周囲に響き始めた。
最初にそれに気がついたのは、目の良い見張りの少年だった。
「見て、なんか大きなものが東から来るよ」
少年が指さす方向から、黒いシルエットが野営場所の方へ近づいてくるのが見えた。
帆船?砂漠の真ん中に??
砂丘がまるで黒い海原であるかのように船が進んでくる。
族長が全員に命令を出す。
「迎撃準備をしろ」
焚き火は上から砂が掛けられて消され、一同は銃を用意した。
その間も、大きな音を立てながら船が近づく。
駱駝達の中にも異変に気がつき、立ち上がるものもいた。
野営場所から1/10パラサングほどの距離で、船は停止した。
船の甲板上には、いくつか灯が点っていた。
乗組員がいるのか?そもそもこれは一体何なんだ?
族長は少年に、野営場所の見張りと、駱駝を落ち着かせることを命じ、他の8名を連れて船へ向かった。
確かに船だった。木造の帆船。古いが手入れは行き届いている。帆は降ろされていた。
イスタンブールで見た船と似ている、と族長は思った。シナの船ではない。
海の上で言うなら喫水線のあたりまで砂に埋まり、船は停止していた。甲板上で人が動いている気配は無い。
登れるか?
族長は声を出さず、一同に身振りで尋ねる。
一同の中で一番身軽な男が小さく頷き、船の右舷から船板の継ぎ目を頼りとして滑るように登っていった。やがて男の姿が視界から消え、上から縄が降ろされた。
族長も縄を伝って登っていく。続いて他の者も甲板へと向かった。
登り切ると族長はすぐに短銃を手に持ち、辺りを見回したが、甲板上には誰一人いない。
船内に籠もっているのか?灯がメインマストに一つ点っている。あとは船室から灯が漏れている。
砂漠の船、妖魔でも乗り組んでいるのだろうか?
族長は静かに船室の扉に近づく。船室の中からは物音一つ聞こえてこない。
族長は一同に小さく合図をして、船室内に飛び込んでいった。
船室内にも誰一人いなかった。
天井から吊り下げてあった旧式のランプの灯が、外から入ってきた風で揺れる。
一同は顔を見合わせた。一体これはなんなのだ。
誰一人乗組員のいない、砂漠を進む船。
張り詰めた空気に耐えられず一人が、船内には宝箱でもあるんじゃないのか、と冗談を言った。場が少し和む。族長が船内の探索を指示した。
そのとき、床が揺れた。船が動き出したのか?
族長が急いで船室から外に出ると、黒い影が舵輪を操作しているのが見えた。
その影の方向から、声が響いた。
「面舵いっぱい」
船は船首の向きを少しずつ右に変え始めた。
「お前は誰だ」
族長は短銃を黒い影に向けながら叫んだ。
死神は、低く笑い声をあげてから一同に言った。
「我が船へようこそ乗組員諸君。歓迎する」
族長たちは戻らない。
どんどん月蝕は深くなり、闇が濃くなっていく。
1時間ほど経っただろうか。
再び物を引きずるような大きな音が響き始めた。
船が動き出したのだ。
星明かりの中、真っ黒なシルエットと甲板上の小さな灯が、少しずつ移動していく。船は船首を少年から遠ざかる方向に向け始めていた。
少年は船に向かって走った。
大声で叫ぶ。どこへ行くんだ。みんな、大丈夫か?!
月はすっかり地球の影に隠され、星明かりだけが頼りだ。
甲板上から族長の叫び声が聞こえた。
俺達は捕まってしまった、逃げられない。
お前は早くここから逃げろ。
黒々とした船のシルエットは向きを完全に変えて、少年から遠ざかって行こうとしていた。
少年は砂に足を取られながら、船に追いすがろうとする。
しかし帆をすべて展げ、速度を上げ始めた船に、到底少年は追いつくことができなかった。
やがて、船のシルエットは闇に溶け、引きずるような音も消えた。
月蝕が終わった時、満月に照らされた砂漠には少年一人が残されていた。
朝になった。砂漠に船がいた形跡は全く残されていなかった。
古本屋で買った本の目次にあった作品名から発想した作品です。
断片ですけれど、雰囲気だけ味わってもらえればと思います。