第四話
「しかし、同じウェスタンブリアの地とは思えませんね」
「あれ? ゲルダさん、ここに来るのは初めて……ではないですよね?」
確か、貴族になるときには旧――いや、現在もそうだと主張しているのか。帝都に顔を出さなくてはいけない決まりだったように思う。
いや、エセルフリーダはヨアンとエレインを代理として送っていたのだから、本人が向かう必要はないのか?
「以前に参ったときは、何分、見て回るような余裕もなく」
ゲルダは、物珍しそうにきょろきょろと街中を見回している。
ルリーナは獅子王国、それも一部の街しか見た事はないが、確かにこの港は旧帝国の趣を残している。
それは大陸の方でも見ることができたもので、しかし、そのままに残っているのはごく一部だ。度重なる戦火に焼かれたり、朽ちて落ちた遺跡が残るばかり。
そういう意味では、この真珠の港というのは見る者が見れば実に興味深い題材だろう。特に、懐古運動の流行している大陸では。
「この島まで、帝国が確かに来ていたのですねぇ」
「それは勿論。竪琴王国には帝国が築いた長城もあります」
「長城ですか」
「はい。異民族からこの地を守るために帝国と、この地の民が築いたものです」
それは少し見てみたい。真珠の港から見て、ウェスタンブリアの反対側にあるらしいから、機会はないだろうけれど。
「異民族と言うと?」
「今は竜王国を名乗っていますね。奴らはこの島の外から来たのです」
帝国領である獅子王国や竪琴王国とは違って、と鼻息も荒くゲルダは言った。
これまで丁寧な調子を見せていた彼女が奴ら、などと言うとは思いもよらず少々、面食らったが、それほどに思う所があるらしい。
「彼らは異教徒、という訳ではありませんよね」
「ええ。正教徒だと言いますが、それがどこまで本当だか」
異民族だから、という理由で毛嫌いされているのであれば、それはルリーナにも言える事であり、余り良い気持ちではない。
まぁ、お姉……エセルフリーダ以外にどう思われようと知ったことではないが。というより、ゲルダはその辺りに気づいてはいないだろう。
「昔から、帝国は彼らと戦い続けていました。今でこそ、二つに分かれ、奴らに王国を名乗らせることを許していますが」
「ふむ。侵略者、といったところですか」
旧帝国だって元を辿れば大陸から来たのに随分な扱いの違いである。
勿論の事、それは帝国の統治が原住民を立てたものだったことが深く関係しているのだろうが。
つまるところ、帝国と言いつつも幾つかの国や都市の集まりであり、緩い連携の下で協力し合っていたというのが実態だ。
特に、この地では侵略者たちを止めるため、原住民と共に大陸から来た軍が武器を取っていたのだから、嫌う理由もない。
大陸の方、旧帝国の本国は僅かな領地を残すに過ぎないが、その崩壊と共にこの地も独立せざるを得なかったのだろう。
「気にはなっていたのですが、ウェスタンブリアの皇帝って一体どういう方なのです?」
「それはどのような意味でですか?」
「いや、大陸の方の帝国にも今代皇帝は未だ残っていますから、どのような血筋かと」
「ああ。我が国の皇帝は、かつてこの地で軍を率いていた皇太子が、大陸の帝国が崩壊した折に残られた形です」
本国もまた、異民族が大挙して押し寄せた結果、消滅したものである。
当然、そうなれば辺境のウェスタンブリアに屯していた軍も大陸に帰るものだろう。
ということは、この地の皇帝の祖先は、間に合わなかったのかもしれない。そして、終の棲家にここを選んだ、と。
「その皇太子さんもこの地を気に入っていたのですかね」
「私は、そうだったら何と喜ばしいことかと思います」
ウェスタンブリアの民はその皇太子への感謝を忘れず、皇帝として丁重に扱ったものらしい。
そして、その皇帝もまた直卒の軍は帰したものの、この地の民を率いて異民族との戦いに赴いたのだとか。
彼が引退しての後は知っての通り、皇帝から信任を得た王である獅子王と宰相が独立を宣した竪琴王国の二つに分かれたのである。
そのどちらも、帝国を基にしながら、この地の民に作られた国だ。ウェスタンブリアの真の独立は、この時に成ったものと言ってもいいのかもしれない。
「ゲルダさん、詳しいですね」
「獅子王国の貴族たるもの、当然のことです」
そう言われて、思わずルリーナは目を逸らした。この地の事をほとんど知らないのだ。
辺境も辺境、未だに領地争いで諸侯が直接的に争う土地。それくらいの認識で海を渡ってきた。
「知らなきゃまずいですよねぇ」
と、独り言ちたところで仕様がない。歴史の勉強は後回しにしてとりあえず今は久方ぶりの港街を楽しもう。
散歩ついでにと足を伸ばして海岸沿いを歩けば、潮の香りが風に運ばれて来た。清涼なそれは結構なものなのだが、後で金具の類を磨かなくてはいけないだろう。
海は相変わらず広く、ルリーナはほう、と溜息を吐いた。陽を照り返して黄金に輝き、岸壁に当たった波は白い渦を立てて崩れていく。
白い帆を掲げた船の往来は激しく、この港が栄えていることが窺えた。今も波止場には荷下ろし荷揚げの人夫が袖捲りをした逞しい腕に顔に汗を浮かべながら右へ左へと歩いていく。
市場は今日も賑わっている。そこには多くの店が軒先を連ね、あるいは出店が客引きの声を張り上げている。
「お、そこを歩く騎士様! 果物はいらないかね!」
「ん?」
出店を冷やかしながら歩いていたルリーナはふと、覚えのある声が聞こえたように思い立ち止まった。
「あら、貴方は確か、宿を紹介してくれた……」
「へい? いや、あたしめには騎士様の知り合いなんて……って、あの時の嬢ちゃんじゃねえか!」
「どうもー。あの時は助かりましたー」
「ルリーナ卿、お知り合いですか?」
「ええまぁ。この地で初めて会った人というか」
そうでもなければ多分、覚えていなかっただろう。
男の側からしても毎日、数多の人々が通り過ぎていくここで、もちろん全員を覚えている訳ではない。
偶々、強烈な印象を残していったから覚えているのだ。そうでなくとも、珍しい少女の武芸者という訳だから。
しかし、今となってはそれが目の前に二人も居る。いつの間にかこの地では少女が武器を握るのが普通になったのか、と首を傾げる彼だが、その内心をルリーナらは知らない。
「いやしかし、嬢ちゃん本当に騎士様になったんだな。それじゃ、横のお方が?」
「いえ。私はルリーナ卿の後輩といったところで」
「私の主はエセルフリーダ……リュング城伯という方でして」
「おう、そのお名前は聞いたことあるな。詳しくは知らねぇけどよ」
真珠の港は時の流れから切り離されたような姿をしていたが、そこに住む人々はどうやらそうではないらしい。
当然と言えば当然の話ではあったが、獅子王国と竪琴王国の戦の事などはある程度知っているようだ。
「何だったかなぁ。確か、麗しの戦乙女がどうこうみたいな話を吟遊詩人がしていたような」
「その通りです! エセルフリーダ様は麗しく聡明な方で、その吟遊詩人、目が有りますね。ちょっと紹介していただいてもよろしいですか」
「お、おう……」
思わず興奮してしまった。吟遊詩人やら公示人やら、好き勝手喋ってくれる彼らの事をルリーナは余り好いてはいなかった。
以前に所属していた傭兵団については蛇蝎の如く彼らに嫌われていたものだし、戦について話させれば鼻で笑ってしまうような戯言を述べるのだ。
エセルフリーダの事を正当に評価すると言うなら話は別だ。ルリーナとしても鼻が高いし、寧ろ聞いてみたい。何なら資金的に援助するのもやぶさかではない。
今のルリーナなら、詩人の一人くらい買収するのは訳もないだろう。何ならアイラに頼んでみても良いかもしれない。
「騎士様になっても、変ってねぇみたいだなぁ」
「ルリーナ卿は以前からこの様子なのですか?」
「いや、あたしめも一度お会いしたきりですがね……」
そんなルリーナを遠巻きに見ながら、ゲルダと店主がこそこそと囁き合う。
「ま、何はともあれ、お嬢ちゃんも元気にやってたようでめでたいこった」
「そうですね。店主さんもお元気そうで」
「おかげさまでぼちぼちってところだよ。どうだい、今はこのナツメヤシがおすすめだよ」
「ほう。わざわざ海を越えて持ってくるのですか」
「そんなこと言ってたら、葡萄酒だってそうだろうよ」
「それもそうですか」
今の季節は春、そろそろ初夏と言っても良いころだから、このナツメヤシは冬にとっておいたものの余りだろうか。
この季節となると野いちごを摘んで食べるのがルリーナは好きだったのだが、さすがにこの立場でそれをする訳にもいかない。
「それじゃ、ナツメヤシを一束ほどいただきましょうか」
「毎度!」
そも、彼の卸先に泊まっているのだから、果物の類は十分にそろっている訳だが、それを言うのも野暮というやつだ。
「それじゃあ、私たちはもう行きますね」
「おう。また来なよ」
「そうですねー、それまで元気にしていてくださいねー」
「何だ、俺はまだ若ぇんだぞ。そりゃ、嬢ちゃんほどじゃないがよ」
手を振って彼に別れを告げ、宿への帰路に着く。そうこうしているうちに、陽が大分傾いてきた。
「ゲルダさんいかがです」
「はい、頂けるなら」
購った果物を噛みながら、斜めに射す光を白く反射する街並みを眺める。
往来の中には、今まさに船から降りてきたであろう、如何にも荒事慣れした男たちの姿もあった。
ルリーナも、一年前にはこうしてウェスタンブリアの地を踏んだものである。そう、たった一年の事だ。
「随分といろいろあったような気がしますねぇ」
いつの間にか、大陸よりもウェスタンブリアの方が自身の居場所としてすんなり来るようになっていた。
大陸で過ごした十数年よりも、この地で過ごした時の方がより濃く、鮮明に刻み込まれているような気がする。
「どうしました? ルリーナ卿」
「いえ、やはり私はこの地が好きなのだな、と」
いつの間にか先を行っていたゲルダが振り返りながら尋ねる。彼女はルリーナの言葉に首を傾げながらも、それを否定はしなかった。
彼女からしてみれば、この地を愛する、というのは当然の事だからだろう。
「一つ騎士らしく、お姫様のためにも頑張りますか」
ルリーナにはアイラの事を嫌う事など出来るはずもなかった。如何にも美しく育ちそうだし。
もちろんそれだけの理由ではないが。彼女の向かう先には、ルリーナの手に余るほどの未来が見える。
彼女の為ならば、と思わせるものが確かにあるのだ。あるいはそれが、王の器というものかも知れない。
それに、恩には報いなければならないだろう。それは考えるまでもないことだった。
「ただいま戻りましたー」
「ああ、お疲れ様」
そして、アイラを助けるという事は、エセルフリーダの立ち位置を強めることになるのだ。
扉を開けた先に迎えたエセルフリーダの穏やかな瞳に、思わず口角が上がる。
「どうだった?」
「はい。ギルド長さんにはですね……」
報告を終える頃には食事の用意が出来たとマリーが声を掛けに来て、そうして一日は過ぎていく。
束の間の平和。この先に待つものを知る身としては、どうしても落ち着きはしないものだが。