第十話
「で、状況は?」
酒場宿の一階、卓に着いて開口一番そう尋ねられた男は目を白黒させた。
男の形は襤褸を身にまとい、伸ばしっぱなしの髭に白いものが幾つか混ざった様子で、物乞いか求道者のような有様だった。
「おお、大将。お疲れ様で」
「大将はやめて下さいよ。コウさんもご苦労様です」
村娘のような格好の少女、彼女が頭巾を下ろせば、そこから覗いたのは今や街でも知らない者は居ない若い騎士、ルリーナの顔だった。
街に下りてくると、どうしても騒ぎになるので、変装の一つもしないと歩くのも容易ではないのだ。
ルリーナ本人のせいというよりも、アイラの横に控えていたからではないかと思うのだが、ここに着いてから初めて城を出た時には住人らに周りを囲まれて驚いた。
悪気がないだけに強く出ることも出来ず、結局、逃げ帰るような形になってしまった。
「ルリーナ……様? 何か飲み物は?」
「様、はやめて下さい。いつも通りで良いですよ。それと飲み物は……ミルクを」
ルリーナは注文を取りに来た店の娘、ベアトリスに声を返すとどっかりと椅子に座り、溜息を吐いてしまう。
このところ、城内も王権の引き継ぎとそれに伴う整理業務で大忙しだ。ルリーナも他人事とはいかず、このところ城内を右往左往している。
そもそも、人員が足りないのだ。その人員を配置するのにも人員が必要で――疲れた目元を抑えて呻く。
「コウさんすみません。どうにもこのところ忙しくて」
「いやいや、気にしないでくだせぇ」
不躾に本題から入ってしまったことを謝れば、コウは苦笑混じりに構わない、と手を振ってみせた。
「城の方が大忙しってのは、存じてやすからな」
「助かります。それで、そちらでは何か掴んでますか?」
王宮の方にもひっきりなしに文は届いているものだが、この際、市井の噂を聞いておきたかった。
いずれの報告も届いた頃には時機を逸していたり、あるいは直接に目にしたわけでもなく曖昧模糊な無いように終始している。
まるで影を追っているようで、その実態は杳として知れない。
「そうでやすなぁ。敵さん本気だってことくらいしか」
「と言うと?」
まずは食糧。王都は平地の多いという地勢から、羊は勿論、麦畑の多い獅子王国の穀倉地帯でもある。
その麦が多く流出している。いや、流出というのも本来おかしな話だ。買い占められている。
王都の内政は混乱が続いており、施策について後手後手に周っているうちに敵方に塩を送るようなことになってはいないか。
麦はそこまで自由に流通するものでもなく、昨年の戦で国庫も寂しくなっているということで、ある程度は貯蔵に回されたはずなのだが。
「目に見えて動いているという事は」
「まぁ、戦の準備でやしょうなぁ」
この季節、収穫の前でわざわざ麦を買い付けて貯める理由もないだろう。
そして、買い貯めたからには使わない訳もなし。この時代になって金ならさておき麦の貯蓄が何になるか。
「軍が動いている様子は?」
「流石にそこまでははっきりとわかりやせんなぁ」
それもそうか。耳が早いと言っても千里眼を持っている訳ではない。
直接見てこい、という訳にもいかないのだ。
「ああ、でも、入ってくる商人の話を聞けば、一部の村で徴兵が始まっているとか」
「確かですか」
「いや、どうにも伝え聞いただけでやすから」
思わず乗り出した身を引いて、また椅子に座り込む。
だから、はっきりとはわからない。とコウは前置いたのだ。
「疑ってかかれば、何でもないものを大きく見ることもありやすからな」
往々にして思い込みから事を読み違えるものだ。それは戦場でも言えること。
いや、もはやここは戦場なのか。戦は実際にぶつかる前から始まっているという訳だ。
「これならいっそ、さっさと始まりませんかね」
「それ、前にも聞いた覚えがありやすぜ」
「そうでしたか?」
いざ戦、となれば揃った駒で戦うしかないし、ルリーナの立場は気楽な前線指揮官だ。
目の前の事をやっていればいい、あるいは自身も槍を手にするのだから、考えている暇もない。
死ぬことを恐れないと言えば聞こえがいいが、騎士はそんなことを考えても仕様がない。
つまるところ、よく死ぬ。楽に死ぬ。ころっと死ぬ。
襲撃の折に落馬して、というのが一番よくあるパターンだろうか。
かつての、騎士と騎士が一騎打ちしていた頃ならさておき、集団戦となるとそうもいかない。
貴族は捕虜にするのがお決まりと言っても、事故では仕様がない。ルリーナもかつて不慮の事故で貴族の首を獲ってしまい身代金を取り損ねたことが――。
「ルル、恐い目してるわよ」
「おっと、これは失礼」
ミルクの入った杯を持ってきたベアトリスに言われて、表情をあらためる。
「で、あっしはこのまま出方を探ってるんで?」
「そうですね。休みもなく苦労をかけますが」
「戦場では出来ることも限られやすからなぁ。それに」
「それに?」
「休みも同然でやすよ」
野盗をしていた頃に慣れたものだ。というが、盗賊にもその辺りの調査が必要なのだろうか。
いや、賊だから必要なのか。襲撃する相手を間違えては大変だし、正規の軍と違って情報を得るには自前で出るしかない。
「では、あっしは少々、野暮用がありますので」
「そうですか。また聞き込みです?」
「いや……その、今日は私用でして……」
コウには珍しい、随分と歯切れの悪い返答に思わず顔を上げて彼を凝視してしまった。
何か悩み事でもあるのかと問おうとして、その口が笑みとも困惑ともいえない形に傾いでいるのに気づいた。
「あーあー、そういうことですか」
「いや、仕事は勿論やってやすので」
「はいはい解ってます。いやぁ、意外とコウさんも楽しんでますねー」
「そうからかわないでくだせぇ。いっそ怒られた方がましでやすぜ」
ついに彼はデレデレとした顔を隠し切れなくなった。
考えてみれば、辺境地に留まっていたかと思えばすぐに移動するという他の傭兵達に対して、コウは長いことこの街に留まっている。
仕事もあれば私生活もあり、特に彼は聞き込みのために、ルリーナも知らないいくつかのパイプを持っているようだった。
「ほら、待たせては何でしょうから早く行ってください」
「では、失礼しやす」
おまけで銀貨を投げてやると、コウは殆ど逃げるようにして頭を下げて駆けだした。
「しかし、コウさんがねぇ……」
詳しく聞いたこともないが三十も近い独り身だったはずだ。まぁ、そういうこともあるか。
「さて、私も城に戻らなくては。代金ここに置いていきますよー?」
「あら、早いのね。ゆっくりしていけばいいのに」
「これでも忙しい身でして」
「ふぅん」
よっ、と勢いをつけて立ち上がりながら、ルリーナはああ、そうだと思い出したようにベアトリスに向き直った。
「時にベアトリスさんはどこか、しばらく街を出られますか?」
「うん? どういうこと?」
「いや、細かいことは言えないのですがー」
近いうちにこの街は戦乱に巻き込まれる。それをどこかで気づいているのか、街は時を外れたお祭り騒ぎの中だ。
不安を感じれば、それを拭おうとバカ騒ぎするのは傭兵も市民も変わりはしない。
「この街以外に身よりもないわね」
「そうですか。ま、大丈夫だとは思いますけれど」
敵方もまさか王都を焼き払おうなどとはしないだろうし、ルリーナら女王閥の軍もそれを許しはしない。
ベアトリスは何と言っても街娘には変わらず、戦に巻き込まれることはないだろう。
「気を付けてくださいね」
「よくわからないけれど、解ったわ。けれど」
「けれど?」
聞き返せばベアトリスは困ったように笑った。
「戦場に出るあなたにそんなこと言われてもね」
「私はそれが仕事ですからー」
戦場に危険が多いのは確かである。けれど、むしろ後方に居るより安全なこともある。
少なくとも沈没する船に残る水夫のように、一つの街と共に滅びを待つ必要はない。
「では、失礼します」
「うん。また来なよ」
「ありがとうございます。なかなか使える酒場もなくて」
良いにしろ悪いにしろ、ルリーナも今や時の人だ。
城の外で騒がれず、しかも他の耳がない場所となると限られてしまう。
あらためて頭巾を被って重い戸を薄く開き、街道にこちらを見る人物のないのを確かめると素早く外に身を躍らせた。
「まったく、恥じる身分でなくなっても落ち着くことはできませんね」
いやむしろ、立場があるから動きにくいのか。
傭兵時分には好き勝手やっていたものだが、今、そんなことをすればすぐ噂になるだろう。
ただでさえ諸侯受けの悪いルリーナである。下手に動くのは敵を作る結果になりそうなものだ。
いや、敵に口実を与えるというべきか。王子閥とは根本的に敵同士だし、王女派――女王閥も一枚岩ではない。
「そーいうややこしいのが嫌だからお貴族様にはなりたくないのですけれどねー」
村娘然とした格好をしていれば、ルリーナの外見を細かく知っている者もいないのだから気づかれないだろう。
久々に街の中で自由に歩き回れるのだから、帰り道だけとはいえ楽しみたいものだ。
「そういえば、前は市場で硝子玉なんて買いましたっけ」
アイラにプレゼントしたものだ。今考えれば王女に渡すようなものではない。
ただ、彼女は随分とそれが気に入ったらしく、紐を通して首に提げていた。
「民よ聞け! 正統なる獅子王国が女王陛下よりのお言葉である!」
公示人が街頭で呼ばわるのを聞き流しながら街を行く。
アイラは度々、王城のテラスに出ては街の住人達に姿を見せていた。
今、公示人の言葉を聞いている彼らが口々に囁くのを聞けば、彼女のことは好意的に捉えられているようだ。
王というものは玉座に君臨こそすれ、市井に顔を出すということは滅多にない。
市民の事を気にかけている様子を見せ、しかもそれが可愛らしい少女だ、というだけでも彼らの心を奪うには十分だった。
「この調子なら大丈夫そうですね」
ほっとルリーナは息を吐いた。案を出してみたは良いが、実際どう転ぶかは未だわからない。
戦術の面ではルリーナも口出しできるが、それ以外はからっきしだ。それはエセルフリーダにも言える事なのだが。
その辺りを考えるのはアイラであり、あるいは摂政のデレクである。
今回、街へ出てきたのはコウとの密談というのが一番の目的だったが、同時に、城下の空気を直接に確かめたかったのだ。
「陛下!」
「女王様だ!」
「女王陛下万歳!」
今まさにその時間だったらしく、公示人も一時口を噤んだ。
白い服を身に着けているというのがぼんやりと窺える程度だったが、それを一目見ようと市民が押し合いへし合いしていた。
ゆっくりとした仕草で、そっと彼女が手を振れば、割れんばかりの歓声が上がった。
「こうしておけば、公示人の話もみんな聞きますかね」
遥か遠くに見るだけの女王様、彼女の言葉なのだ。
彼女が窓かけの向こうに姿を隠した後もしばらく盛り上がっている様子だった群衆も、こころなし熱心に公示に向かっている気がした。
その様子を脇目に見ながら、ルリーナは城の通用門に向かう。
「どーもー、お疲れ様でー」
「待て、何者だ」
通用門を守る衛兵は、城を出てきた時と交代している。斧槍を持ち、外套の胸に染め抜かれた王家の紋章はぴんと張られている。
磨き抜かれて半ば鏡のようになっている鉄兜の下から覗く目は、油断なくルリーナを見据えていた。
「そりゃ解りませんよね」
今のルリーナは村娘の服装で、踵には拍車をつけてもいない。
喧嘩剣を隠し持っているので衛兵の反応は正しいものでもある。
「えー、騎士のルリーナです」
「ルリーナ卿、ですか?」
騎士というのと、名を聞いて表情が変わった。思い当たる節があったらしい。
「一応、何か御身分を証明されるものを」
「拍車とー、家紋とー、割符で良いですか?」
「はい……結構です。失礼いたしました」
「いえいえ、お勤めご苦労様です」
おそらく前の当直から申し送りがあったのだろう。案外すんなりと通された。
彼の敬礼に応えつつ、城に入る。周りからも不思議そうな目で見られるので、早々に着替えた方がよいだろう。
「まったく、不自由ですねぇ」
とはいえ下手人を城に入れる訳にはいかないし、こうして疑われるのも寧ろ心強いものだが。
実際、祭りの最中で監視が甘くなっていた、というのもあるだろうが、以前には侵入を許してしまったことだし。
「伝令! 伝令ー!」
城の中を歩いていると、何やら中庭が騒がしい。何事かと思えば、早馬に乗った伝令が息も絶え絶えの様子で辿り着いたようだ。
渡される水を呷ると、人手を借りて馬を降り、ふらふらと謁見の間へと歩いていく。
「始まりましたかね」
ルリーナは自らの室に向かう足を早める。
あれほどまで急ぐ必要があるということは、伝令のもたらした情報の内容は推測とはそう離れてはいないだろう。




