第一話
「ん、うぅ……」
目が覚めた。まだぼんやりとした意識の中、窓から差し込む光を眩く照り返す、乱れた白いシーツの海に指を滑らせる。
何か、夢を見ていた気がする。未だに、見る夢は大陸に居た頃、傭兵をしていたときの記憶だ。
それも仕方ない事だろう。長くもない人生の大半を過ごしたのは、あの傭兵隊なのだから。
まだ寝台に張り付いたかのような上体をなんとかそこから引きはがすと、何の引っ掛かりもなく上掛けが落ちた。
傷だらけの貧相な身体。他人に言われればそれがどうした、と鼻で笑ってやるものだが、自身もこれには半ばあきらめていた。いや、まだ成長の余地はあるはずだ。
段々と目が覚めてきた。はて、どうして寝着も着ていないのだろうか。
「まったく、お盛んなこと」
平板な声でそう言ったのは、燃えるような赤髪を肩口の上で切りそろえ、給仕然とした質素な服と前掛けをつけた姿の少女。
まだ幼さを残す顔立ちに、鳶色の瞳は控えめに伏せられている。少々そばかすの浮いた健康的な肌に大袈裟に表情を浮かべることはなかったが、その唇は咎めるように僅かに尖っていた。
「あら? おはようございますナナさん」
「おはよう。ルル」
少々気恥ずかしく、上掛けを胸元に引き寄せる。着付けなども手伝ってもらっているのだから、今更なことではあったが。
ナナは水盆を持って部屋の扉に立っている。寝汗……と、それ以外のものでべたつく身体を拭うのに、それはありがたいものだ。
まずは顔を洗って、随分と伸びた栗色の癖の強い髪を何とか撫でつけると意識もはっきりとした。
そうだ、ここは真珠の港、ウェスタンブリア旧帝国の帝都。
ルリーナは王女の戴冠のために護衛として付き従ってこの街に入ったのだった。
エセルフリーダの騎士、となることは叶わなかったにせよ、それが軍務の一部とはいえ想いを遂げてから初めての彼女との旅だ。
「言わば蜜月!」
ルリーナの急な独り言にも、ナナはもう慣れた様子で聞き流している。
エセルフリーダよりも先に起きて、その寝顔を見たいという密かな野望は、なかなか達成できていなかった。
ルリーナは滅法朝に弱く、誰かに起こされないと起きれない調子で、一方、エセルフリーダはといえば日の出とともにさっさと起きてしまうのだ。
目覚めた時には一人のベッド、という事が続いていて、その度にせめて共に起きて朝から睦言などを――。
「起きたなら、早く着替える」
「はい」
ナナは相変わらず手厳しい。これで実は……おっと。考えが顔に出ていたか、冷たい目を向けられた。
ニナとナナはエセルフリーダを主人としているが、そうなると自然、配下のルリーナの世話も見ることになっていた。
立場上は貴族と平民なので、相応の態度にするべきなのか、という問いに関しては、今まで通りで良いとルリーナから頼んでいた。
今は双子とはいえ姉のニナがエセルフリーダに、ナナはルリーナについている。エセルフリーダは食事も終えている頃だろう。
彼女の珍しい悪癖、いや、ルリーナはエセルフリーダに悪いところなどないと思っているのだが、人の食事しているのを眺めるのは恥ずかしいからやめて欲しい。
手早く着替えて、映りの悪い鏡板を軽く確かめた。どうやら後ろに寝癖があったらしく、ナナが梳いてくれる。
「あいたたたた」
「ルルっち、うるさい」
なかなか頑固な寝癖だったらしく、引っ張られて涙が出てくる。
わたわたと腕を振るがナナは頓着せずに櫛を通していく。彼女の奮戦もあり、髪は何とかまっすぐになったようだ。
元より癖のあるものだが、櫛を通してみるとふわっふわな様相になる。心なしか、つやも増している気がした。
編んでしまうのも勿体なく、思わず引っ張ってみたりなぞしてしまう。こうしてニナナナの世話になるまではぎしぎしと言ってたものだが。
「こうなるんですねぇ」
「ルルっちは頓着しなさすぎ」
仕方あるまい。容姿を気にしている暇なんてなかったし、小さい頃は男に見えていた方が都合が良かったということもあるし。
大体、身だしなみなんて教えてくれるような人も居なかった。保護者といえば……思わず遠い目をしてしまう。あの傭兵隊長。
軽く意識を飛ばしていたらエセルフリーダ様もだけれど、とナナが若干の諦め混じりに呟いた。
ルリーナに輪をかけて見た目に頓着しないのが彼女だ。それでも、そう、贔屓目を抜きにしてもその気高さは失われないのが彼女の素晴らしいところ。
多分、その辺りの目が有る分、この前の敵側、リュングを一時とはいえ治めていた貴族とはそこら辺の者らより話は合ったかもしれない。
ややこしい相手なようだったから、多分、そう簡単にはいかなかったとは思うが、味方側に居たらまた話も違ったのかもしれない。
最後にまた軽く鏡板を確かめて一つ回ってみる。ルリーナは騎士となった後も好んで女性ものの服を着ていた。
何よりもお姉さまに見せるのだし。というのがその心中だ。だから、騎士だと思わせるものは左腰に提げた長剣と、踵につけた金の拍車だけしかない。
貴族連中……というよりも、兵に見られても良い顔はされないだろうが、そこはそれ。戦場では流石にこんな格好はしない。
ナナに促されつつ、足取りも軽く階段を下りてエセルフリーダの待つ食堂に向かう。
彼女の姿を目に映すと同時に精一杯、愛嬌のあるように振舞う。やはり朝一番には少しでも可愛いと思って欲しいのだ。
「おはようございます! お姉さま」
「おはよう、ルリーナ」
鷹揚な笑みを浮かべてルリーナを迎えたエセルフリーダは常の男物の鎧下姿だ。しかしそれがしっくりくるのも確かだった。
朝陽に浮かぶような白い肌、すっと通った鼻梁に、聡明そうな額。鋭く輝く瞳に薄い唇。そして、白金のようなさらさらと流れる髪。
筋肉質で細身な身体と合わさり、それらが如何にも精悍で、しかしながらそのしなやかさも失われていない。
しばらく、視線を絡ませる。ふとエセルフリーダの横に控えたニナに気づいて思わず飛びつきたくなるような気持ちをひっこめた。
軽く片目を瞑ってみせたニナに、こちらもそれで返す。
「あ、ルリーナ様、起きられましたか。朝食お持ちいたしますね」
「ええ、よろしくお願いしますー」
宿の新しい亭主に声を返す。そう、今、泊まっているのは初めてウェスタンブリアに着いたときに泊まった宿、獅子のたてがみ亭だった。
新しい亭主、というのも、ルリーナらが真珠の港に来てみれば、あの時の娘、マリーが旦那を見つけていたのだ。
少々、複雑な気持ちになったルリーナだったが、思えば自身もエセルフリーダに連れられている。幸せそうなマリーの姿が見られただけ、良かったと言える。
食事を持ってきたマリーと隠し事を共有するというような、少々気恥ずかしい笑みを交わして胸に温かいものを感じた。
「しかし、護衛が宮廷に入れないとは、何のために来たのか解らなくなりそうですね」
「それも仕方あるまい。武官は入れないという決まりだ」
朝食として出されたほうれん草と卵を口に運びながら、片肘をついて楽しそうにこちらを見ているエセルフリーダへと恥ずかしさを紛らわすように話を振った。
睦言というにはどうにも色気のない話だったが、どうしても武張った会話になるのは仕方のない事だろう。
ルリーナにせよエセルフリーダにせよ、現役の騎士であり、戦事を生業とする者なのだ。
獅子王国では新たな君主が女王になるという事で、同性の二人は随分と重用されている。もう一人が暫くの内に合流する予定だったが、いずれにしても従士隊は良い顔はしない。
彼らもまた、別の宿に屯しているはずだった。現在は、急務ということで、軽装の騎士らで先行している形だ。
従士らすら置いてきて、各隊も後から追いかけてきているような状況。危険を避けるためにはむしろ速さこそが必要だと判断したようだった。
実際、誰も手出しを許されない帝都である、真珠の港までさしたる妨害もなく駆け抜けることができた。
そして、宮廷を前にして従士、騎士らは門前で追い出されて現在。ということだ。
形ばかりの宮廷には戦力と呼べるものは親衛傭兵という正規軍なのか傭兵なのか解らないようなものしかなく、火種となりそうなものは何であろうと入れられないという事だった。
それに、宮廷の中で形の上では家臣とはいえ、他国の兵の力を借りるなどという事態があっては沽券に関わるだろう。
ルリーナからすれば今更、と思うような話でも、あくまで皇帝を最上とした獅子王国と竪琴王国、ウェスタンブリアの三分の二はそうは思っていないらしい。
少々、不思議なものだったが、言うなれば、大陸における教皇のような役割を担っているのかもしれない。実権は持たないが、君臨しているという点では似通っているところがあるともいえた。
「その割には、お付きのじいやさんは入ってますけれど」
「イェール卿は摂政だからな。武官ではない」
あれのどこが武官ではないと言うのか。どう見ても只者ではないし、一角の武芸者だと思うのだが。
イェール卿はアイラにドミニクと呼ばれていた老人だ。教育係かお目付け役か、くらいに思っていたのだがどうやら獅子王国の重鎮である。
いや、お目付け役、というのは間違いではないか。摂政、つまり、幼い君主の代わりに政を行うということは、十中八九、王家の血も引いている。
「王妃といいますか、前王配はどうされているのでしょう」
「王妃陛下は軍を率いる器では……いや、優しく過ぎるというところか」
さしものエセルフリーダでも、こればかりは直截な物言いを避けるようだ。不敬と言われても仕方のない言が漏れていたが、それはルリーナを前にして気が抜けていた。という事であれば良いな、とルリーナは思う。
「そも、現王妃陛下は王女殿下の御母堂ではないから口も出しにくいのだろう」
「そうなのですか?」
聞けば、アイラ、今まさに女王になろうという彼女の母は、彼女を産んですぐに亡くなったものらしい。
幼い王子、アイラの弟が、現王妃の第一子という事になる。
「となると、王妃陛下は潜在的に王子殿下側、ですか」
「断言することはできない。陛下も公正な判断を為されるに違いないからな」
自らもその言葉を信じていないという事がありありと窺われる空虚な言葉だった。
「お貴族様方も大変ですねぇ」
「こら、ルリーナ。君もその王国の貴族だぞ」
「てへへ……」
エセルフリーダに軽く頭を小突かれて、ルリーナは頬を染め、舌をぺろりと出して誤魔化した。
「さて、ごちそうさまでした」
そうして話をしながらも、皿にこぼれた卵の黄身をパンで拭って平らげて、のんびりと続けていた朝食を終える。
他にすることもないので、食事をゆっくりと楽しむ暇もあった。朝軽いのは、宗教上の都合というやつだ。字句通り。
そう言うと、これで軽いと言うのか? と、ニナナナ辺りに首を傾げられるのだが、それは置いておこう。私は太っていない。
このところ運動不足気味で愛馬のヘイゼル……そう、アイラから下賜された馬は優秀に過ぎた。その旨を伝えるとちょっと拗ねられたが、戦場に連れて行く馬ではない。勿体ない。
改めて換えの馬と共に戦馬として購った、栗毛も美しい彼女、そう、珍しくも牝の戦馬である彼女は、若干、肥えてきている。
余所様で軍事教練なんてすればどうなるか語るまでもなく脅迫と取られるだろうから、大人しくしているしかないのだ。
「おかげさまでのんびりとさせていただいていますが」
布巾で口元を拭いながらエセルフリーダの顔を横目で窺う。彼女は羊皮紙をめくりながらどこか遠い目をしていた。
ニナナナもエセルフリーダの側に控えているときは物静かで如何にも気の利く使用人という様子であり、差し込む朝陽にその姿は一幅の絵のようだった。
「今度、大陸から画家でも呼んでみましょうか」
最近は長靴半島の方から広がった先進的で写実的な絵や新たな文化が広まってきている。
ここウェスタンブリアではまだまだ、という所だが、そのうちに伝わってくるだろう。それを呼び込むのがルリーナであっても良い。
昔いた傭兵隊の服もその辺りの文化から影響を受けて……いや、今思うとあれは商人に騙されていたのではないか。どう考えても、良くて道化師という風情だった。
このところ、昼間はこんな調子だ。エセルフリーダは何やら書類に、あるいは読み物に目を通し、ルリーナは机に体を預けて考えを巡らす。そしてニナナナの双子はそんな二人が空にした杯に飲み物を継ぎ足したりなぞする。
あるいは、この地に渡ってきて以来の平穏な日々かもしれない。ただ少々、気がかりなことは残っているのだが――。
「おはよー、おねーちゃん」
「はは。リュング卿、ルリーナ卿、如何お過ごしですかな」
扉の開く音に続いて、ここではあり得ない声を聞いて、がたん、と椅子の音を立てて思わず立ち上がった。
「何でここに来てるんです!? じゃなくて陛下におかれましてはご機嫌麗しゅう……?」
「待て、ルリーナ。落ち着け」
エセルフリーダは常の様子で冷静かと思いきや、王女を置いてルリーナを諫めるところを見ればどうやら彼女も動転しているようだった。
寧ろニナナナの方が落ち着いた様子で、臣下の礼を取っている。
「どうやら、休暇はここまでか」
微妙な諦観を込めた目で呟かれたエセルフリーダの言葉は、ルリーナの心中をも端的に表していた。