八話 葛藤
「ついさっき、船の航路を侯爵の領地に向けた」
その目に感情らしいものは浮かんでいない。
私は半分ほど安堵していた。すでに船の進路は陸に向かっていたのだ。私がなんと言おうと、結果は変わらなかった。自分の滑稽さにこみ上げてくるものがある。
「ありがとうございます、頭」
私の言葉に頭の瞳がわずかに揺れた気がした。それは私にとっては純粋な感謝の気持ちだったが、頭がどう受け取ったのかは分からない。
頭はそのまま踵を返して、部屋から出て行ってしまった。相変わらず、素っ気無い。
私は一人になった部屋で、何を見るわけでもなく壁に視線を向けていた。放心状態の私の頬を液体が流れ落ちた。それはベッドの上にたくさんのしみをつくった。
私がそのことに気づくまで数十秒かかった。悲しいわけでもないのに、涙は止まらなかった。
一日一日と船は陸に近づく。船内もそれにつれて慌ただしくなっていった。
その中で私は一人置き忘れられた荷物のように、自分の未来を思い浮かべられずにいた。
ああ,こんな気持ちは私に必要なかった。こんな、後ろ髪を引かれる想いなど。
記憶を消せる方法があるなら、私は今すぐそれを消してしまいたい。
「入るよ」
自分が返事をする前に空いた扉を見て、頭は眉を顰めた。
「……お前も礼儀を知らないのか?」
「うん? ちゃんと声かけたでしょ」
俺はまだ返事をしていない。そう反論しようとしてそれが無意味であることを頭は悟った。どうせこの男は自分の言うことを聞きはしない。
「何の用だ」
「わかってるんでしょ」
「わからないから、きいている。いったい何の用だ」
頭の問いを敢えて無視しているようだった。サミュエルはごまかすように肩をすくめ、ベッドに腰掛けた。そうしてまるで自分の部屋のように寛ぎ始める。
「おい」
「陸地が見えたって、みんな騒いでいる」
唐突に呟かれた言葉に頭は虚を突かれた。一瞬彼女の顔が浮かび、罪悪感に似た感情がわいた。それを無理にねじ伏せて、何気なさを装いサミュエルを見る。
「それがどうかしたか」
「本当にこれでいいの、頭。もっと違うやり方もあったかもしれない」
何が。そう聞こうとしてやめた。あまりにも無駄なことのように思われた。だいたい察しはついている。王女だ。人質の王女。いいも何もない。
「人質は人質だろう」
あの気丈なのかそうでないのかはっきりとしない王女は、自分たちにとってそれ以外の何者でもない。暗にそう言ってやると、サミュエルは黙る。痛いほどの静かさ。その中で頭は首を傾げる。
以前のこの男は人のことを気にするような人間ではなかった。
「―――」
サミュエルが頭のの名前を呼んだ。故郷を捨てた時に捨てたはずの名前。今はもう、サミュエルしか呼ばず、そのサミュエルすら数年の間、口に出さなかったのに。
その名前をサミュエルが今この瞬間に呼んだ理由が、頭には分からない。
サミュエルの声が驚くほど静かに、部屋の空気を振るわせた。
「気づいていないのだろうけど、君は今とても苦しそうだよ」
こちらが見ていられなくくらいにね。
自分が息を呑んだ音が大きく聞こえる。サミュエルの声は揺るぎなく、そのせいで確信がこめられているようだ。
「頭。忘れてないだろう? 僕らの主は王や貴族じゃない。君だ」
サミュエルは硬直したままの頭を見た。その目は声と同様に静かだった。
「君は僕らのことを思ってくれすぎだよ。僕らはあの時、君について行くと決めた日から、何の後悔もしていないよ」
サミュエルは自分勝手にそれだけ言うと部屋から出て行く。
「お前らが身勝手すぎるんだろうが」
悪態のつもりで吐いた言葉は、すでに出て行った背中には届かない。頭は独りで戻ってきた静寂に身をゆだねる。その静寂は先ほどのものとは違い、頭を優しく包んだ。