七話 選択肢
昔の夢を見ていた。今はもう望むことすら許されないような夢。
その夢の中で私は二人の兄と一緒にいる。その時はまだ兄たちも自分と遊んでくれていた。広い城の庭で、屈託なく笑う兄と私。兄たちの態度が変わったのは、王がひどい風邪をひいた時だ。家臣たちが大袈裟に騒ぎ立てたのだ。
その時兄たちは、どちらかが王位を継ぐということに気づいたのだ。徐々に周りを見ようとしなくなった兄たちの背中を幼い私は見ていることしかできなかった。やがて二人の強欲な王子は自分たちのすぐ近くに「私」という道具を見つける。兄たちは先を争うように、私の嫁の行き先を探し始めた。
それからはいい記憶がない。
ただ覚えているのは一人ぼっちで庭に立ち、昔を懐かしんだことだけ。
いつから家族ではなくなってしまっていたのか。それとも最初から自分と兄たちは家族ではなかったのか。兄たちと過ごした時間を幸せだと思った私が馬鹿だったのだろうか。
それでも家族でありたいと、そのままでいられると信じた私は……?
目を覚ましたとき私を迎えてくれたのは、ぐわんぐわんと頭に響く痛みとひどい吐き気だった。
「うう……」
目覚ましとしては最悪だ。しばらくじっとしていると、頭痛と吐き気はいくらかましになった。ようやく周囲を見渡せるようになって、自分が寝ていたのがベッドだという事に気づく。それも自分の部屋の、だ。昨夜頭とお酒を飲んだことは覚えている。その後、自分の部屋まで帰った記憶がない。
ただ一つ分かることがある。私がまた頭に醜態をさらしたということだ。頭を抱えた私を見計らったように、部屋の扉が叩かれた。
彼は迷っていた。迷うという行為は、即断即決が常の彼にとって珍しいことだった。彼はしばらく―――と言っても二、三分だが、迷って、思いきってその扉を叩いた。
返事が無ければ帰ろうと思っていたし、まだ眠っているだろうと高を括っていた。だが、唸り声のような彼女の声が聞えた。
彼は思いっきり眉を寄せて、扉を睨んだ。都合の悪い時に限って、運は彼を見放すのだ。どうやら起きたばかりらしい。彼女の声でそう察して、扉に手を掛ける。
どうせなら、もう少し後に来ればよかった。そんな事を思いながら、頭は扉を押し開けた。
頭は何を考えているのか分からないような顔をして、ずかずかと部屋に入って来た。
「女性の部屋にずかずかと入って来ないでください」
頭痛が抜けきれない私は頭を抱えながら、頭に抗議した。
「そんな御託はいい」
頭は私の病状や気分など一切訊かない。
「御託ですか」
「御託だ」
私の意志はどこに行った。部屋にずかずかと入ってくるのはよして欲しい。それとも、扉を叩くだけいいのだろうか。
「訊きたいことがある」
単刀直入、一刀両断な物言いは、出会った日から変わっていない。私は漠然とした思いを抱えたまま、頭を見る。
「何でしょう?」
頭は本当に何気なく言った。その言葉が私に与える影響も知らないで。
「お前は、何のために陸に戻る?」
不意をつかれたせいだ。私の鼓動が大きな音を立てた。動きをぴたりと止めた私を、綺麗に無視して頭は続けた。
「待ってくれている人でもいるのか」
私の心臓がいっそう大きく音を立てた。それは痛いところをつかれたせいだ。頭の言葉は鋭い刃物のようだ。まっすぐに私の胸に突き刺さり、私が無視しようとしていた傷を思い出させる。
私には待ってくれている人などいない。戻っても、兄たちに上手く使われるだけだ。戻ってもいいことは何もない。どうして私は陸に戻ろうとしたのか。いや、本当に戻ろうとしたのだろうか。
私は俯いて、ベッドの端をぎゅっと掴んだ。
自分が何を望み、何を欲しているのか分からなくなる。自分は陸に戻るのが最良だと思っていた。戻ることが当然だと考えていた。でも、それが最良でもなく、当然でもないと気づかされてしまったら……?
最良だと、当然だと思っていたから戻る場所に居場所があった。そうではないことに気づいた今は、そこに居場所はない。
こんな時でさえ、頭は気遣うそぶりを見せなかった。ただじっと私の反応を見ていた。
あんたのせいだ。その目を見返しながら、私は怨嗟の言葉を吐きそうになった。
頭が何も言わずこのまま私を陸に戻してくれたなら、私は少なくとも王宮に戻るまでは幸せだっただろう。私はいつまでも「見ていない振り」ができた。頭はそれさえも、あっさりと壊した。
頭が全て分かって言った言葉でないだけ性質が悪い。それはこの人のいいところであり、私にとってはあって欲しくなかったところだ。痺れを切らしたのだろう。頭が苛立たし気に私を睨む。
「何か答えろ」
その声がいつもより優しげに聞えたのは、完全な錯覚だろう。その低い声に全てを投げ出したくなる。誰かに丸投げというのは甘美な誘惑だ。失敗を恐れずに済むし、言い訳が用意されている。それはとても楽なことだ。
でもだからこそ、駄目だった。
「なぜ黙っている」
今それに答えてしまったら、自分の中の大切なものを失くしてしまいそうで怖い。何かとてつもないことを口走りそうだった。
他に行くところなんてないからです。
もし、本当のことを言ったなら頭はどういう反応をするだろう。黙って仲間に入れてくれるかもしれない。そんな気がするからこそ、駄目なのだ。一度依存してしまったら、二度と一人で立てない。今度こそ本当の意味で、陸に帰れなくなってしまう。一人で立つことの重要性はよく分かっている。
一人で立っているためにも、これ以上頭の言葉を聞いているのは危険だった。
だってもうほら、頭の言葉で思い出した傷口から、本音が漏れ始めている。
私は歯を食いしばって、こぶしを握って、そこから出てきたものを押さえ込もうとする。でもそれは瞬く間に、一杯になって……。
お願いです。誰か助けてください。
それは終わりのない無限地獄のように、私の中で繰り返される。いない相手に助けを求めて、そのたびに自分で否定する。
私は大きく吐息をついた。大丈夫。大丈夫だ。私はまだ、一人で立てる。
その半分は暗示だ。
私は顔を上げて、笑った。上手く笑えた自信はない。引き攣っていただろう。それでも私は笑う必要があった。必要ならきっと笑える。必死に作ったその笑顔を頭に向ける。
「待ってくれている人は、たくさんいますよ」
自分に残酷な嘘をついて。
頭は何も言わなかった。意外に思ったのか、少しだけ目を大きくさせただけだった。
頭の失礼かつ予想通りの態度に自然と笑みが零れる。
「そうか」
一応納得してくれたらしい。面白みが無いほど、いつもどおりの顔だ。
「たとえ居場所がなくてもか」
「ありますから、そのたとえは通用しませんよ」
嘘をつき、その痛みに笑顔で耐える。今度はきちんと笑えていたはずだ。そうでなくては困る。
「そうか」
頭はもう一度独り言のように呟き、私の顔を覗き込みながら言った。
「ついさっき、船の航路を侯爵の領地に向けた」