フェリクス・フローディック 3
富の偏重が甚だしい世では、有力者の名誉と見栄こそが生産の原動力になる。費用がかかりすぎる聖堂建設などは、司教や修道院長らに新築増築するに足る財産があったとしても、世俗の人間の功名心と功徳を刺激して寄進を求めるのが通例であった。何故なら、聖界有力者の収入は、神の名において収奪した代物であり、清貧を求める教義との矛盾を恐れて出所不明と誤魔化すには高額すぎる。使うに使えないこうした金を使わざるを得ない場合、夢中に聖人がお出まして高楼の下を掘るがよいと告げられ、掘ってみるとありがたくも財宝が姿を現したといった奇跡譚でよくよく誤魔化されてきた。
聖堂建設は時に奇跡のような力を得なければままならない。石材、木材、鉄、工作機材、大勢の職工職人、食料、運搬に使役する畜獣を扱う多種多様の職種に報酬が支払われる。これほど広範に富が再分配される事業は他にないほどだから、既存の聖堂を補修改修するだけでも、その名誉は大きい。まして一から設計し、尚且つその出来が光り輝くほどならば建築施工者の名は歴史にも残る。
誰もが惚れ込む凄腕の職人は雇用主よりも金持ちになって、下積みの徒弟、遍歴職人以来の貧しさを克服するが、代わりに背負い込んだ苦心も一つ。どうやら石造りの建物の殆どは陰謀の館になってしまうらしく、ナルマーのグリゼリウス邸を造った先代の石工職人もリンクも実は大した金持ちだが、居住一族がふつうに笑い合える家を造りたい、という願いを秘かに抱いて虚しい。
グリゼリウス家所有の職工職人リンクが先代の石工職人に代替わりの祝いとして、エステ帝国伝来の三角法と幾何学を秘伝され、これを用いて引いた抜群に精確な製図は工期を劇的に短縮せしめた。そのような科学的な思考を知らず、長年の経験と勘を頼んで新奇を嫌い規律を尊ぶ組合の伝統では、まず小型の完成模型を作って、場合によっては段々と大きくする手間隙を重ねた慎重な手法で完成させるため、聖堂建設は五十年百年数世代の仕事。リンクは十数年でやった。職工の組合がそう聞けば百年の聞き間違いと判断するし、そう読んだら恥知らずな誇張かけしからん誤字と断定するだろう。
ウニヴェロッサ・グリゼリウスの騎士叙任式の会場となった大聖堂に名前はまだない。聖堂建設こそは神を称える最大級の事業である。教圏職工の誰もがこの仕事を熱望し、聖公座は出資者を常に探し求めているのに、あらゆる記録を照合してもグリゼリウス家が認可を願い求めた証拠はない。“七度の贖い主”の聖号を戴いた返礼で建てられた聖堂は居所を別にして規模も遙かに小さい。後にナルマー僧院の名を承認されるこちらの方が相応しいと、どういう経緯があったか、聖公座文書に記された両聖堂の落成年が書き直されたが、この記録を頭から信じるならその年既にロッシュローは死んでいる。単純な誤謬か杜撰な捏造なのか事態を曖昧したかったのかは今でもよく分からない。
ナルマー僧院は以後、数多の支配者、有力者の手による増改築が繰り返されて<至遠なる神と至近なる神々の住処を模した館>の名を付けられて、世界的文化遺産に指定されるが、リンクの手になった基幹部分のみ見ても、エステ帝国と近接するメルタニアのコンカーサ派聖堂のような異教文化と深く融合した建築物が、教圏文化が最後に流入したミナッツ王国で建てられたのは驚異としか言いようがない。帝国と活発な交易交流を結びながら政教分離に徹底して、更に市内の大半が湿原を埋め立てた脆い地盤のドロスと、歴代王の宗教への無関心と空間限界を意識せずにいられない島という立地条件の不利を抱える真珠島には、これほどの規模の聖堂はない。
全長は北北東方向、聖地エメレスの方角に向かって三六三歩前後、これを身廊。身廊を横切る翼廊が等間隔に三本通ってい、各々全長一八二歩前後。身廊と翼廊の交差地点を、エメレスに近い順に一廊、二廊、三廊と数え、聖堂での集まりや儀式が行われる際には、属する身分に従って席に着く。祈る人、戦う人、耕す人の順。一廊の天井は円蓋になっており、これは天の神の教えを隈なく行き渡らせる聖職者の務めを意味している。二廊は銃眼の付いた塔で、その示す所明瞭に見て取れる。三廊は三角錐の屋根で、木を暗示している。三廊の屋根は鐘楼にもなってい、鐘の音は森の恵みを表す。門扉の左右には一七メートルもの高さの、リンクの技術を宣伝する塔が一対建っている。ここまでやって聖堂でないとは言ったものだ。もっとも、聖堂です、と言ってしまったなら、一廊から三廊で技術の全てと死力を尽くして戦う剣闘士たちは罪になる。
フェリクスの出番はまだ来ない。西側の二翼と三翼の狭間に張った天幕の下に出番待ちの剣闘士たちが居並んでいる。東側にも同数の剣闘士が同じように控えている。開幕の合図があったら翼廊の端に空いた小口を潜って一人ずつ戦いの場に赴いてゆく。対戦相手は向かい合うまで分からない。
ここまで聖堂らしく造ったなら、内陣もちゃんと設えられて一廊の奥にある。司教が信徒に説教をし、聖堂に仕える者たちが聖歌を斉唱する聖堂内で最も神聖な場所にウニヴェロッサが座っている。いくらこの建造物の所有者が騎士叙任式まではグリゼリウス家といえど、こんな真似は滅茶苦茶である。ご到着を呼びかけただけで主賓と客の度肝を抜いたフレデンツァが隣に座っていなければ、後日どんな災禍を呼び込まないか分かったものではない。
――ジェソン。我が子よ。
フレデンツァはそう言って証たのだ。グリゼリウス家の三男ではなく、教圏で最大の勢力を持つ高貴なる王、あの大王ルイジェセンの落胤と言ったのだ。彼女自身名目上は真珠島山岳部マキ領の名誉ある女主人。この上、ナルマー王国本土代官グリゼリウス家が後押しすれば、賽の転がり次第でとんでもない高貴な地位に至り得るかもしれない。そうなれば今でも抗し難い権勢を誇るグリゼリウス家は、頂上を超えて想像もつかない位置に君臨する。奴隷を王に仕立て直すような魔法使いにどう抵抗できるというのか。
身廊の両端に座並ぶ招待客達は、ジェソンの眼前、内陣に一等近い席に座って得意げなロッシュローの一言もない押し売り――ジェソンとノルベルンどちらに着いて、どちらの保護を求めるのか――を受けて、頭脳が唸りを上げて回転させているに違いなかった。今のような疑心暗鬼でなくとも、通常の頭脳であっても、グリゼリウス家の狙いが単なる活性化奴隷の販路拡大だとは思い寄らない。
――王位は得る。しかし王権は扱わない。扱えばこのウニヴェロッサという奴隷の品質を保証していないも同じだから。
つまり、ジェソンさまを王に相応しい者にご養育するという当初の主張もまた見事なほどに真実なのだった。理屈も実行も伴っていながら考え自体が常識外。まともに受け取られるわけがなかった。
客の誰も彼も目前で繰り広げられている剣闘士の戦いは眼に入れていない。しかし、剣闘士の雄たけび、肉と肉のぶつかり合い、刃の風切り音は両耳からするっと入って効果をしみじみと出す。今日この時を持って、グリゼリウス家に反すれば、これが何時何時自分に向かってくるか知れない。その役はそこで戦っている見知らぬ剣闘士かもしれないし、家で使っている忠義面を貼り付けた活性化奴隷かもしれない。ひそやかな相談はあちこちに見える。剣闘士の命がけの戦いなどより、いかにもこちらのほうが楽しいわとフレデンツァは微笑を浮かべている。
――卑しい。
その姿を脇目に捉えたウニヴェロッサは強い憤りを覚えた。奥歯を鳴らして自分の怒りを自分に報せるよう努めた。その眼で堂々とねめつけてやりたかったが、これをぐっと堪えた。
――ウルフィラを遠ざけたのはいい。しかし、アナール母様を取り上げてこんな女をあてがい、すぐにもフェリクスを殺そうとする。こればかりは上手くゆかせませんよ。
奇怪、そして異様な抵抗だった。依然として贖い主の責務を忘れず所有物の生命を重んじるばかりで、ロッシュローの求めを拒絶しようとしていない。突如知らされた出生の秘密が都合良く王の血に目覚めさせた訳でもない。それはフレデンツァよりもアナールの母性に愛着を訴した情を覗けば明らか。だというのに、ウニヴェロッサは自分の意志と存在を斟酌しないまま突きつけられた他人の野心の片棒担ぎから別離しようとする抵抗を一切示さなかった。まるで王位を目指す道を暗黙の内に認知しているかのように……。
ウニヴェロッサは椅子に座り直しつつ、すぐ目下に座るロッシュローの背を見やった。その向こうに座るエレアノールの横顔が陰からちらついてため息をついた。この席次が、いかなる抵抗も無意味なのだと教えていた。
席次とは早い者順というような単純なものではない。常に家の勢力と、政治関係、党首の思惑と結びついている。現在でも田舎の教会に行けば、席の背に家名を掘り込んだ名札を目にする。この座席を死守し、更に上座に近づける競争もまた根強く残っている。その慣習の基となった時代であればその争いは熾烈とさえ形容できた。家格を示す格好の目安であり、厳格な序列から解放された世俗の新しい人、実力だけが物を言うはずの商人さえどの席次にあるかで取引の先を越されたり、悪くすると両手を後ろで縛られたりする。席次を上げるためなら暗殺を含めてなんだってやる。どんな手を使ってでも、その席次に上がれさえすれば、神がそれを望んでいたのだ、という狂信が蛮事先行の尻を拭く。
満日の時を迎えたこの日、ウニヴェロッサを用いた野心を明らかにしたロッシュローには、これまでのようにドロスに上座を譲る理由がなくなったのだった。これは過去を知る者には重大な暗示であった。
九年前、シニウス語で十一を意味するジェルダンの海戦で軍艦島ゲート船団は完勝を果たしたが、栄光ある勝利に傷をつける出来事が別の戦域あった。真珠島とドロスのこの抗争では、海戦に役立つ船を持たない本土代官の役割はまずなかった。だからといって手を拱いてもいられない。当事者たちも半信半疑で決行したのがナルマコックを使ってレストン川からドロス市を直接急襲するという曲芸にも似た奇想天外な作戦である。まず、ロイター川を遡る途上の泡沫騎士群生地域を通過するのが第一の関門。戦風に敏感なこと理屈を超えた嗅覚で嗅ぎ付ける泡騎士たちは、研ぎ澄まされたその勘一つで本土代官の狙いを察知し、通行料として我々を連れて行け、と要求したものである。泡の行いは日頃からけだもの。敵地略奪の目的は明らかだ。作戦を指揮するヨルムブレヒトは、泡騎士の乱入をきちんと織り込んでいた。強い者上から二十名なら連れて行ってやるからすぐ決めろ、と言い返した。これ以上捻じ込みをかけられるくらいならナルマーに戻る気配を嗅がされて、俺だいいや俺が強い、俺は熊を斬り倒した、滑空する鳥の頭を三羽連続で射って落としたと豪語する奴が次々出てきたかと思えば、その嘘の底を抜く奴まで現れて、たちまち言い合いのいざこざが起こって、終いには喧嘩になった。出なかったのは飛び道具だけ、というほど凄まじい内輪揉めだったが、あんまり思う通りに進むものだからヨルムブレヒトは馬鹿馬鹿しくなって微睡んでしまった。目を覚ますと立っていた者は二十名よりは遥かに少ないたったの七人。満身創痍の上に慣れない船上でこき使ってレストン川に乗り換える前にはへとへとにして立てないほどにしてやろうと考えていたのに、戦地に近づくにつれ連中が息を吹き返す様は、ちょっと予想を越えていた。
――おい、ちょっと着けてくれ。
船頭を強請って船を下り、ヨルムブレヒトの罵詈雑言も聞こえないふりで森に消えてそのまま二日三日姿を現さなかったことがある。どこに行きやがったと苛立っていると、十八番をやったものと見え、騾馬と積荷を引いて揚々と合流してきた。狩ってきたのか奪ってきたのか豚をさばいて焼立てを食う。大麦や燕麦を混ぜた黒っぽいパンと干し肉干し魚ばかりの飯にうんざりしていた者たちには生唾物の光景であった。地理の利かないレストン川流域でこの態であるからには、渋太い上にまともな神経の持ち主とは到底思われない。
こんな連中だから、いよいよドロスに急襲する段階になると、その暴発の程度を予測できる方がどうかしている。今度は船頭を川に突き落として船を乗っ取ると、漕ぎ手を脅して先立つ船に体当たりをかまして先陣を切った。あれよあれよの間に単船で突撃して行ってしまった。アレモ海の潮流が陸地を削ってできた潟に浮かぶ島々にできたのがドロス。ドロス人の操船術はこの地形によって培われた。上手に航路を選ばなければ、たちまち立ち往生してしまう。まして経験豊富な船頭不在、船に不慣れのけだものの泡騎士が勢いだけで突っ走ったのだから、あっという間に陸地に乗り上げた挙句、ナルマコックの弱点である耐航性の弱さが露になって、船尾半分を晒して沈めてしまった。流石の泡も、沈んでゆく船に哀惜の念が湧いたようにうっうっと泣きたくなるくらいに落ち込んだ。
稚拙極まる泡の操船でもドロス領に肉薄できた。つまり、この作戦の構想を描いたロドリーゴ・グリゼリウスの見所は当たって、最大の味方聖公座ヴォレヌスが位置するドロスの西側は丸裸にしてあった。普段は往来の絶えない川舟は、海戦での万が一を想定して、海側に防御陣として並べられてあった。奇襲は成功しつつある。
地盤の脆いドロスでは重たい壁や塔といった防衛設備は築けない。教会に必須の鐘楼さえ背が低く、それでも倒壊事故が多発した。都市国家ドロス共和国の防御は底浅で狭い迷路のような水路と要所を選んで埋め立て工事を続けた場に建てた砦の緊密な連携に支えられていたが、小型かつ高い操縦性能のナルマコックは水路を縫うように進んだ。
船を沈めて呆然としていた泡騎士をめがけて飛んでくるはずの一矢もないにはまったく不思議だった。砦に籠もるはずの衛兵のいかなる反撃もなければ、事故や敵襲を知らせる狼煙も笛の音もない。
ドロスの地には乗っている船の一部を海に沈めて、運航の無事と不運を追放する風習がある。それが功を奏したのか、ナルマコックを丸ごと沈めてしまった泡は本当に馬鹿みたいについてた。
悪いことというのは重なる。この場合は相手の悪いに重なった。ちょうどこの直前に、ドロスにはジェルダン海戦の勝敗が伝わっていた。曰く、ドロス船団勝利、軍艦島ゲート船団は壊滅したとの報。誤報。というより、信じたい未決の事実がどこかで口にされ脚色され、口伝に尾ひれがついて、慎重に調べた人間も願望に打ち立てられた壁を乗り越えられず、それが真実と保証を与えてしまった。無人の砦は勝者の特権が始まっている警句を告げていた。既にドロスの真珠島商館、居留地は襲撃に晒されてい、ミナッツ王国の高貴な方々も多数人質に取られた。命からがら逃れてきた人々に、泡の存在は心強く見えたろう。親を助けて子を助けてと嘆願された泡はドロス中心部への道程を聞くやすっ飛んで行った。
ミナッツ王領がアレモ海の真珠と謳われるなら、おお麗しの貴婦人と称されるドロス。どこに目をやっても金目の物ばかりの富貴な都市が、聞いた以上の戦場になって火事場泥棒し放題の有様で、泡騎士らの目の色はたちまち変わった。
「お、お前ら、今だぞ」
「お、お、おう。おう。おう。そうだ。やるんなら今だ!」
ヨルムブレヒトらの作戦は血生臭いものであってはならなかった。禍根を残す斬った張ったは軍艦島の因果に含ませて、ドロス市民の敗北感と敵愾心の矢先を一身に蒙らせてやるよう企てた暗い謀であった。さればこそ、何かと張り合いがちだったドロスとナルマーの関係も意に沿おうというものだ。ただ当然ながら、誰しも一つの目的で一つの成果を達成しようするのは、よほどの勝負か急場の他ない。アナールを救出するために編まれた構想は実行時には戦利を得るための作戦が多く織り込まれるようになっていた。ロイター川からレストン川へ、そしてドロスの砦を潜って水路を進み、アレモ海へ出てナルマーに帰還して、教圏内外の耳目の集まる抗争の真っ最中にナルマコックの性能を宣伝をするのが一つ、ドロスにはほんの嫌がらせ程度の損害を与えて、本土代官として戦いにまったくの不参加、無功績の叱りを受けないためが一つ、門外秘とされてグリゼリウス家さえ真似できない琺瑯細工の工法を持ち帰ること。
――それを泡ども奴、ぶち壊しだわ!
ヨルムブレヒトがドロスの地を踏んだとき、泡騎士の行方は七人とも知れなかった。どこからともなく、敵だー、敵だーっ! という叫び声が聞こえてくる。グリゼリウス家は文字通り飢えた群狼を貴婦人の前に解き放ってけしかけてしまった。
何しろ誤報に基づいた暴動略奪の真っ最中に奇襲をかけられたのだから、ドロス市民の記録は同じ事件を記しているのかと疑いたくなるほどで、これ本当の本当という確かなものはない。ミナッツ王国側の戦果報告によって、グリゼリウス家の所有物が真珠島商館を攻めたてていたドロス市兵を手勢で追い払い、ジェルダン海戦の結果が伝わるまでの四日間、不眠不休の防戦でミナッツ王国居住区共々守りきったのは確かと辛うじて伝わる。大王ルイジェセンは本土代官の戦功を特にお喜びあり、馬五頭と金貨五十枚を下賜されたとも記されている。お咎めはない。つまり、グリゼリウス家の目的は達せられていたから、密かに入手したドロスの琺瑯工法を取引材料にして真珠島の追及を逃れたという説は、泡の加害の大きさに目を奪われたに過ぎない。
いかに屈強、いかに狼戻、いかに残虐、いかに貪欲な泡騎士とはいえ、ドロスを陥れた悲惨、無情な戦禍はたった七人でやれる所業ではない。泡沫騎士群生地域で引き起こした乱闘で泡の仲を裂いたと睨んだのは間違いで、泡の結束が遥かに強固であった証である。行軍の最中、ふらりと消えたあの二、三日で、連中は仲間を引き込む暗号を土や木の幹に残していた。戻ってきた際の取り繕いも堂に入ったもので、飯に不満を得て、自力で新鮮なご馳走を調達してきた他には思われなかった。暗号を辿った泡も陸路で水路を追いかけた苦労はなまじでなかったろうが、都市を丸ごと略奪できる千載一遇の機会となれば、五日や十日の距離を強行軍で突っ切るくらいはやったろう。
ジェルダン海戦の結果は、戦と嵐にやられつつ辛くも帰還した十数隻の櫂船によって無言で伝えられた。息を吹き返して手強い防戦を続ける真珠島商館の用兵と神出鬼没、実数不明の泡にも手を焼いていたドロス市兵及び市民の精神は天から落ちて地に叩きつけられたような虚脱状態に陥った。人質にされていたミナッツ人の保護に商館を出たヨルムブレヒトの目に映った泡騎士の災禍は、自らの手で愁嘆場を作り出した回数を両手で数えられないヨルムブレヒトをさえ、
――うぬっ! やったな。
と顔色を暗くさせる程のものであった。すぐにも来航するはずの軍艦島ゲート船団が勝利者の権利として略奪を始めるまでもなく、ドロスから金目のものはことごとく泡らが強奪した船と共に消えていた。奪って逃げるに関して、泡ほどに長けた者はない。彼らが収奪し損ねた金目のものと言えば、壊れやすい琺瑯工芸品や重たくかさ張る石像、絵画、書籍といった裁きあぐねる美術品ばかりであった。大した額にはならないし、トッレ船団はともかくゲート船団になら人の情は通っている。この上略奪までしては、病人から布団をはぎ取るも同じ無情。そこで真珠島商館はドロス略奪の権利と引き替えに、大王ルイジェセンに下った破門処分を撤回する周旋を提案したのであった。
真珠島商館の手先になって琺瑯工法を知る職人を引き渡したのは略奪の成果に不満を抱くかもしれないと考えたヨルムブレヒトの政治感覚の乏しさから来る行過ぎた心配の産物で、いわれないとは言い切れないものの、グリゼリウス家が琺瑯職人を材料に自己の安全を図ったという糾弾を受ける根拠となり、この名産品に誇りを持していたドロス市民に消すことのできない反グリゼリウス感情を産み落とした痛恨事であった。ナルマー都市同盟に終にドロスの名が記されなかったのもこの感情から来ており、泡が引き起こした苛烈な略奪はロッシュローにも後味の悪い事件で、その後ろめたさと謝意として公式の場においては常にドロスを引き立てるようにしてきた。
ロッシュローが着いた席はこれまでの遠慮が今日をもってなくなるのだと告げている。ウニヴェロッサの厚顔不遜な言葉で屈辱と悔しさが高まって失神してしまったエレアノールの侍女が正気づいてこの場に戻って来たら今度は憤死するか、奇声を上げて襲いかかるかもしれない。彼女の父イル・ロッソ“赤い男”の異名をとるドロス共和国総督は、ジェルダン海戦でも戦った勇士で、戦後は凋落の一途を辿るドロスを陸路の開発で必死に立て直そうとする意欲と決断力に富み、果断で懸命な男。その恐るべき男の真意はともかく、ミナッツ王国とナルマー市への反発心と恨みに満ちている共和国市民の手前、怨敵グリゼリウス家のたかが三男の騎士叙任式に美しい未婚の娘を寄越すわけがない。祝辞の挨拶では名代とも何とも言っていなかった。今回の出席は父の果断な性格を受け継いだ娘の独断であった。
「貴女の出る幕はあるかね?」
「ないようでございます」
ロッシュローの短い問いに短く返答したエレアノールは、傍観に徹して、この叙任式では何が起ころうとも像のように微動だにしなくなった。
――ウニヴェロッサには無用だが、そうだな、ロミオにはどうか。ナルマーとドロス両市の関係修復に政略の華を使わないはない。
ロッシュローはエレアノールの目論みを正確に見抜いて、利害の一致も確認がとれた。懸念するのは市民が最高権限者を選出する共和政体のドロスにおいて、敵国と言っていい地域との政略結婚がどこまで通用するか。ジェルダン条約で真珠島に多くの特権を認めているドロスと組んだところで実際はどうか。
――いっそすべて叩き潰してしまう方が早いかもしれんなあ。
何とも空恐ろしい発想をするようになったものだ。
それにしてもこの場でもっとも不遇なのは、居並ぶ招待客の前で戦う剣闘士たちである。彼らが命を賭けて戦う場など式の余興の一つに過ぎず、誰も見ていない。哀れの一言に尽きる。彼らはこの日のためにずっと生半でない訓練をつんできた。戦うための訓練を。奴隷同士で互いの命を奪いかねない命がけの業を。
泡沫騎士群生地域に近いグリゼリウス家所領を使った剣闘士養成所には六十名もの奴隷が集められた。待遇は悪くなかった。意地の悪い主人も所有一族もいない。風がびゅうびゅう吹き込むあばら家にすし詰めにされ、日の出から日暮れまで働かされても食事は質の悪いパンと野菜の酷い所を使った水っぽい汁物だけのラト山の採掘所とはまるで違った。初めて肉を口にした者さえいた。事故の心配はないでもないが、まずは剣先が引っかかった程度の軽傷、うんと重くたって骨折だ。重傷を負えば手当と称した休暇と金が手に入った。奴隷身分を忘れるような楽園だった。それでも脱走者は出た。その数は地獄と悪名高いどんな労務所よりも多かった。
――もう忌やだ。傷つけられるのも、傷つけるのもごめんだ。同じ奴隷じゃねえか。いや、違うんだ。奴隷だからじゃねえんだ。ともかく、俺はもう忌やだ。こんなこたぁやってられねえ。
運良く泡騎士に捕まらずに連れ戻された逃亡奴隷の言はぴったりそろった。どんな悪環境下でも、彼ら奴隷は自らを先んじて殺すことで不平や不満を唱えない。その屍のような忠誠心で、鞭打たれても動かなくなるまでその苦役に順応する。屍は自らを助けず他者を助くこともない。まして奴隷使いの鞭を恐れて従うのでもない。自分が何者かの奴隷である事実のみを受容し粛々と従う。そんな彼らが、忌やだと言って逃げ出すのは、どうやら蘇生を果たしたかとしか説明がつかない。
――では、前の労務所に戻るかね。
――そいつは勘弁だ。今思い出すと、どうしてあそこで生きていられたか、それもわからない。
活性できる基盤が整ってきたと喜ばず、ただ単に剣闘士養成所の恵まれた待遇に付け上がっているだけだと考えたなら、グリゼリウス家はあと二代か三代で絶えただろう。ウニヴェロッサを活性するロッシュローの中では、活性技術を極めるその精神が一線を越えた高まりを迎えて王を作り出そうとして過酷な使命を与えたのかもしれないが、代々の血統に受け継がれ培われてきた不敵なまでの寛容と理解は変わらず奴隷を包み込んで、屍を脱したばかりの素体奴隷を罰するのも好まない。どうしても一定数の剣闘士奴隷は必要なので規律尊重の為に罰したが、脱走罪に価うには軽い仕置きで済ませた。もし斜陽の封建貴族の手にかかるなら刑場で執行されるのはまず鼻切りか耳裂き、悪くすれば足切り。樫の棒で打擲五回の罰では抑止に不足かもしれないが、周辺に巣食う泡騎士に捕まればどういう末路を迎えるかの訓戒が心胆に霜を降らせ、大人しくしているのが一番安全だと思い知らせた。
二廊で行われている特殊な戦闘法が辛うじて観客の反応を買っている。大変立派な兜をかぶった二人の剣闘士が、互いの位置を測りかねてうろうろして得物を振り回している。ふざけていない、命がけだ。兜は空気穴を除いて完全に閉じられて前がまったく見えない。大真面目な滑稽姿を晒して客の笑いを誘うのである。彷徨えるこの肉体を見て嘲笑するのは彷徨える頭脳で、予想もできない急展開を繰り返すこの叙任式で身をどう処すかを悩む。このもう一つ上の滑稽さがフレデンツァを愉しませている。三廊では剣闘士同士を短い紐で繋いで是非なく接近戦にさせる戦闘法が始まっている。分かりやすく高い人気の一方で死傷者を最も多く出す危険な演出というのに、誰も奴隷たちの命がけの闘争に目も向けない。沈思黙考、相談、ウニヴェロッサの素性に騒々しい。出番を終えた剣闘士たちは、
――あん客奴らっ!
と憤然とした面持ちで控えの天幕に帰ってきた。奴隷の身では考えられない心境の変化。自分たちが身につけた技芸に自信と誇りを発見した証拠で、この手並みは流石にグリゼリウス家。
フェリクスの出番はまだ来ない。話の伝わりは物が落ちるより早いもので、ウニヴェロッサが実はミナッツ国王ルイジェセンの落胤ジェソンだったという噂はこんな所にも届いていた。出番を終えて暇な剣闘士たちがを噂を真に受けてちらちらと目をやる。事実だとしたらどうだろう。五三枚もの銀を支払って贖ったり、月に一二度遠乗りに連れて行き、身柄を巡って泡騎士を対手取るなど、主人と所有物にしては只ならない節がある。
――奴が昇ればこいつも昇るかもしれない。
美食、富、豪華な服飾、美しい女。フェリクスを見る目は次第に嫉妬に変わって睨みになる。奴隷の頃にはなかった豊かな情動で他人を見る。己を見直す。今の自分でそれらを手に入れようとしたらどうしよう、と。
――無事に済めばの話だがなあ。
妬みとて自我に目覚めねばやれない祝い事。夜の海に引きずり込まれるように深まって醜悪に染まるかと思いきや、奴隷同士で自らを繋ぐ足輪を自慢しあうかのような愚を覚ましたのは、今や遠くに過ぎ去った一体感ではない。
剣闘士の養成期間は半年ぐらいでは一人前に程遠く、一人前に仕上げるにはまず二年を見積もらなければならない。半年ではせいぜい肉体改造、武具の取り扱いの基本、そして奴隷精神からの脱却だけである。ただし例外はある。闘争との縁が生まれつき深い破綻者、その手の危険人物が紛れ込んでいた。名はゼル。十という意味で、きっと買われ先で十番目に数えられてそのままだったのだろう。奴隷にはよくある名前だから。石切り場で重石の運搬にこき使われていたのを、誰と比べても頭二つくらい突き出る巨体を見込まれて買い直されたものである。模擬戦では数人が一斉に飛びかかって、二人も重傷を負わされた怪物だ。皆口にはしないが、ギナでもきっとやられると思っていた。
物の伝わりはやはり何より早い。ゼルが東側の二廊にいるという噂もとっくに聞こえてきていた。予感は確信に変わりつつある。命を狙われているフェリクスの対手はゼルだろう。
――お前は一切加減をするな。
――するなって?
――お前のは真剣の実戦だ。客もそれを期待している。
けして生かすでないぞと厳命を授かって仕組んだことだ。立てた策は一枚きりではあるまい。そんな単細胞では有能な所有物の中から更に選りすぐられたロッシュローの側近は務まらない。ゼルを退けたとしても術中の内。きっと辛辣な罠が待ち構えている。
それにしても、殺人を強いられるとなったなら躊躇と懊悩を見せるのに、生来野蛮との相性が良すぎて想像力にも欠けたゼルにはそれがない。血を流し命を奪い合う剣闘士とて一人前にまで練り上げた業の比べ合いを期待されている。もう半年くらい訓練を受けていれば、その狂暴な人間性を剪定する職業意識が芽生えて、人殺しの抵抗感をも会得できたのかもしれないが、自侭とは程遠い奴隷身分に更正の出会いを潰されてしまった。上手くいってもよし、下手を打ってもよしの捨て駒として使われる哀れな奴隷だ。
――ウニヴェロッサさまは心配するなと言った。だが、本当だろうか。一体この中で何が起こってるんだ。ジェソン? 王様の子だって? どうしてこんなことに。
窮地の際の命綱と恃んでいたウニヴェロッサの立場の変わりように、フェリクスの心中では段々と恐怖が勝ってきた。剣闘士奴隷の誰もが五体無事で戻って来られたのを見慣れて、
――腕の一本もなくされるのかと思っていたのに割と楽だった。
――へっへ、これで俺の剣さばきも結構なもんよ。これならこっちで食っていくのも悪くねえなあ。
緊張から解き放たれた反動で笑い合っているのを見て、こんなものかな、と覚えた弛緩にも付け込まれて、ずんずん大きくなってくる。助かるには、勝つしかない。命を狙われているフェリクスの場合、負けない戦いは論外とウニヴェロッサが釘をさしていた。剣闘士の死は力量互角の対戦相手との白熱しすぎた戦い、もしくは不幸な事故だけではない。樫の棒を持った審判者の一存だけでも決まるのだ。
――対手がゼルだとしたら、あの怪物にどう勝てと。
恐怖が際限なく肥大すると人間の心理は恐れの因を探しだす。設定した因を倒すことによって恐れを克服しようとするのであるが、焦点が一点に集中するせいで行動が前後不覚の典型になりがちで、多くの場合、自分の首を絞める。うな垂れて震えるフェリクスの目線に足があった。かつてこれまで幾つもの試練を踏み砕いてきた足が。
――足がある。そうだ、俺には足がある。ゼルは凶暴な奴だが、相手を足で蹴ったことは一度もなかった。網で奴の腕を捕らえて、蹴る。泡でも動けなくなったんだ。これでいってやる。
フェリクスは三叉の真槍よりも足の方に武器としての信頼を置いていた。訓練でも実戦でも足蹴の方がよっぽど役立ったから経験上そう思っていた。が、戦いにおいて単純な思い込みというものはよくよく自滅を招く。
実際、フェリクスの作戦は非常に上手く行った。剣闘士会最後の一戦になって観衆も慣れてきた。身の振り方もある程度まとまってきて、観戦に余裕ができた。そこにゼルという名の、黙って立っているだけで注目を集めるものすごい巨人が入場してくると、立ち見ができるほどの大一番になった。
ゼルの武装は小剣と盾という軽装備。大きな長方形の盾、頑丈な剣、兜、脛当て、腕鎧の重装備を施したならば、その威容は言い伝えの聖騎士の再来とさえ思えるが、対戦相手と差がつきすぎても興ざめだ。対手になる男の肉体も相当の出来。上半身むき出し、裸足、無帽で、短い白布の腰巻きしか身に付けてない様も剣闘士として見れば立派なものだ。客の中には剣闘士好きの見巧者もい、そのフェリクスの顔に書かれた――何が何でも生き残ってやる。気を読んでこれまでの茶番では終わりそうもない予感があった。
まさか、こうなろうとは。この叙任式に出席し、剣闘士会を嗜好するオスカー市の大商人ベルナール・ドゥースの書記官ギュー・クォールはこう記す。
――樫棒持ちの審判が合図をやっても剣闘士二人は間に物がつっかえているように動かなかった。一方は大木の枝をやすやすと掴み得るほどの巨人であり、その面表からはこれまでなんら苦労もせずに得られると思っていた蜂の蜜を得るには、大きな危険を冒さなければならぬ労を知った新出の猟師のようであった。もう一方は目前の巨人を迎え撃つ三叉の槍と網を何度も何度も持ち直し、その仕草はあたかも窮鼠の自覚ある者が鉄壁を突き破ろうとする試みに一身を賭しているようであった。樫の棒を持った審判は――後に知ったことだが彼こそがグリゼリウス家の所有物でガス族のギナであった。地を三度叩いた。恐れと企みを腹蔵した剣闘士たちは神聖な規律に従って三歩間を詰めた。ふーう、ふーう、という荒い息遣いが対戦相手に伝わった。ふっと強く息を吐いた巨人は手にした剣を振りかぶったが、早くも三叉の槍が巨人に向けて投げられていた。ついで投げられたその恐るべき網は悪しき神(おおこの名に災いあれ)の黒い手のようであった。小さく丸めた黒布のようだったそれは、蛮族のように投げられた槍を防いだ巨漢の両腕のすぐ手前で掌を開けたように広がり、瞬きの間に身体を捕らえてしまった。まこと、ここまでは見事な業前であった。嗚呼、大なる神(おおこの名に平安あれ)よ、この者に災いあれ。どうかこの罪全く深き者に災いあれ。地下に巣食う悪魔どもを戒める重石、偉大なる神(おおこの名に永遠あれ)の試練を踏み砕くいと尊く創られし脚で、いと尊く創られし人を打とうとは。
ゼルの巨体は無造作に転がっていた。見合った瞬間に分かった。たった半年間の養成だったが、対手が本気で殺る気かどうかの区別くらいつく。
――あ、こいつ本当にやる気だ。
直感したフェリクスはまず槍を投げ、狼狽えた所に網を投げてゼルの動きを完封した。弾かれた槍も拾い直さず、真っ直ぐゼルの懐に入ると場所もあろうに股間にその蹴りを叩き込んでやった。ズム、という重たい力で逸物が沈み込んだ音がすると、奇声をこぼしてくの字に折れた。実に手頃な位置に頭がきたので髪を鷲掴み、引き寄せると一緒に鼻っ柱に膝打ち。さすがに頑丈。三回もやってようやくプシッという音と共に血が吹き出した。悶絶の絶叫が聖堂の音響効果に乗って一人の例外もなく両耳を貫いた。とどめに横顔を肘で打ち払って床に転がせた。
「や、やめい!」
ギナの企ての一枚目は破れたが、これで二枚目が生きる。樫の棒でフェリクスを打って狂乱状態を覚まして正気を呼び起こす。はっと我に返ると横面を殴られ、たまらず膝をついた。
「足蹴などはんそ――」
恐怖に呑まれたフェリクスは反則の足蹴を出すと読んでいたギナの二枚目の目論みは、教義に基づく規則に違反した剣闘士を処刑に持って行こうとするものであった。審議の行方は観客次第だが、足蹴を目の当たりにした驚きと憤慨の色が決着を明らかにしている。審判が権威あるその樫の棒を高く上げる身振りは、反則人、情けない戦いをした剣闘士の生死を求める合図である。
「フェリクスッ!」
だが、それに先んじてずーんと立ち上がったのは内陣の席にいた所有主であった。ギナがフェリクスの動きを読んでいたように、ウニヴェロッサもギナの考えを読んでいた。この日に至るまで未遂のひとつもせず、それがために狙いを曝け出したのは虚実混ざり合う策謀の類に不慣れというより、同族に向ける非情な刃が似つかわしくなかったからだろう。――あんな陰謀に加担したせいで俺もつくづく卑怯な男になった。ギナはしみじみと思った。
「フェリクス! お前は足蹴の罪を贖われておきながら、ここでもまたその罪を犯すかっ!」
ウニヴェロッサの鋭い声に射抜かれ、フェリクスはその場に縫い付けられたようになってしまった。その声音は奇怪で、音響の効いた聖堂の内陣から発したというのに、隣に座ったフレデンツァには頬杖を止めて振り向いた際の衣ずれの音が、客席では身廊のざわめきと話し声が明瞭に聞き取れるといった、剣闘士の絶叫とはまるで違った一筋の針のように細い声だった。
――これは王の声ではない。まあいいわ、この私をマキの山砦などに追いやったあの女、王妃などと嘯くジョヴァンナに復讐できるのなら、この下郎を息子とも認めてやろう。
フレデンツァは座を立って段を下り行く我が子を冷めた目で流し見て黙認を示した。ロッシュローも静観を即断した。なにをする気か知らないが、あの少年をジェソンと公表した直後の迂闊な動きは慎むべきだ。ここは事態を静観し通し、成り行きを活かす善後策の材料を収集すべし、と自ら命じた。だから、ウニヴェロッサの怒りの足取りを何人も止め得ず、客らが両側で騒々しい身廊の中心を通ってやって来た。ギナとは手に持った樫の棒を巡って睨み合いを続けたが、あっさり譲らせてしまった。堅く頑丈な樫の木は磐石な権力の象徴で、その樫の杖を得た事実はこの場の裁きを委任された証でもある。権力でもあり権威でもある貴重な樫の棒は、席次と同様に易々とやったもらったを繰り返すものではない。我が身そのものと考えて命がけで守り抜こうと構える者が多勢だ。それをこの若者はたやすく奪い取ってしまった。
私財を蓄えた貴族、有力商人、金持ちにとってこれほど意義深い場面はない。ジェソンと称されてから一切の主張をせず、剣闘士の闘いに眉一つ動かさず、感興と嫌悪のツボがどこにあるのかも分からなかった若者は、対手から奪った財産を何と心得どのように扱うのだろうか。重大な判断材料を求めて彼らは固唾を飲んで見守った。
「これは所有権を持つ者の問題である。それゆえ何人も容喙を許さぬ」
針が転んだ音でも聞き取れるほど静まり返った聖堂に、針のようにか細い声で語られる。棒先をフェリクスに向けて続けて言う。
「初めに犯された足蹴の罪は貴重な物で贖って神にその赦免を願った。次の足蹴の罪は神の語られたお言葉を言い聞かせ如何にして禁じられているかを説いて自省を願った。だが、お前のその穢れた行為はこれで三度目である。まことお前を贖ったは目の狂いであったわ。槍を拾え、網を持て! せめて剣闘士としてこの世に属し、審判者に会うがいい!」
ウニヴェロッサの死刑宣告は教義に照らしても正当で、誰もが口を挟めない所有権を根拠とした裁決であった。フェリクスはその言を頭から信じて、これで命脈は尽きたと観念した。依然として漁師を望むままで剣闘士としての職業意識などないが、所有主に言われるままに槍と網を手にした。意外なことが一つ。二廊を重囲する客も眼を剥いた。てっきりギナにでも後始末をさせるのだと思っていたら、ウニヴェロッサ本人が樫の棒を構えたのである。
「お前も剣闘士だろう。戦わずに逝けるか」
「違う。俺は漁師になりたかったんだっ!」
破れた夢を思い残してしばし棒立ちになっていたフェリクスは、やがて一言も言わず向かっていった。自棄になっていた。所有主の命令だ。もう完全に自棄糞になった。自分はもう逃れられない死に捕まったと思い込んでしまった。自暴自棄を自覚して、え、もうどうにでもしゃあがれ、と心中で叫んだ。ウニヴェロッサは樫の棒先を下に向けた構え。足。教義など意に介さない恐るべき足蹴を警戒してのことか。
「ふッ!」
捨て身のフェリクスの足が胴を薙ぐように一文字を描いた。だが、これまでの対手と違ってウニヴェロッサは足蹴が繰り出されると百も承知。加えて、ごく限られた人しか知らないが、
――蹴りならもっときついやつを受けたことがある。
既にギナによって本格の足蹴を体験済みだった。フェリクスの蹴りは教義に侵犯する犯罪行為を受けたという事実が、信仰心と慣習と関わり深い精神の一部分に異常な緊張と衝撃を残す。例えるなら心理戦法に属した。蹴られた者は、神の創造したもう足の役割の中で、偉大であるが故に馴染みなく、また多くの人々が求める穏やかな安寧とは程遠く深刻で踏破不可能と思われる神の試練を思うよりも、ただ突っ立っているだけでやれて、悪魔を封じる重石の役の方が意義あらたかだと馴染んでいるので、そちらを真っ先に思い起こす――この態度に多くの聖職者が、それも立派な行いですがまだ十分ではありませんと説教する。つまり多数の人々が直感的に認識する足蹴という身振りには、それ自体でお前は悪魔だと宣告しているのであって、実際、教圏の一部地域では罪人に足跡の墨を入れた。
では、肉体の破壊という点においてフェリクスの足蹴はどうだろうか。ウニヴェロッサが思った通り、これがさほどでもないのだった。泡の脛を砕いたのは武装に拠る効果が大きく、ゼルが一撃で屈したのは力を入れなくても効果絶大の急所中の急所だったからだ。余程の所に当たらなければ脅威ではなく、効果を肥大化させる精神を殺してあるがままを見さえすれば児戯のような業だ。
ウニヴェロッサは冷静だった。棒の根を持つ左手を上に棒を立て、身体は薙ぐ足に正対してこれを防いだ。と、受けて即座に棒を水平に戻し、先端でフェリクスの胸部を突いた。大変な早業だが、力を乗せて突き抜いていない。別の狙いがある。
「むっ」
片足立ちなのに上半身に衝突を受けて立っていられるわけがない。無様な転倒から救ったのは、フェリクスの蹴りに威力がない根拠の軸足に残った重心。転ぶまいと更に重心調節をしているところに、すっと棒が目に入った。平衡を取り戻したいあまりにまるで無警戒にその棒を掴んでしまうとは、何という浅はかな行為か。
傍目には、体格ではるかに勝るフェリクスが対手の武器を掴んで、抑え込んでしまったように見える。しかし、ウニヴェロッサの武芸を長年に渡って仕込んできたギナと、かつて遍歴騎士から身を興し体中に刻まれた傷跡と同じ数の武功と幸運とによってミナッツ王国本土イシュー地方の伯爵にまで成り上がったドラテロルの二人だけが、
――馬鹿奴。と嘆息した。
握った棒を新たな支点に足を地に付けるより早く、ぐいっ、と信じられない力で引き寄せられた。小柄のウニヴェロッサの腕力でなせる業ではない。フェリクスの上半身を突いた右半身を半円を描いて引いたのだ。静止した腕一本の力と躍動する全身が生んだ力の引き合い、しかもその腕は咄嗟に握った棒を離すまいとする握力を意識せず発揮していたので、別の力までは発揮できない。体格の優位を無視して引っ張られるのは当然だ。つんのめったところに左手が目を襲ってきた。目潰しを防ごうとし反射的に三叉槍ごと顔の前に持っていった。これも囮だった。その左手は目を突かず肘を曲げて樫の棒をしっかり握るフェリクスの手を捕った。右手はいつのまにか滑って棒の根の辺りにあって、棒を取り合う両者の手が重なる位置を中心点にして背中越しに回り込む。
「ふぬっ!?」
いかなる力の作用か、フェリクスの巨体がぶんと音を立てて宙を舞った。
ガス族の戦闘技術のあらゆるを身に修めたギナとあろうつわものが、この光景に全身を力ませた。
――よろしいですかウニヴェロッサさま。もしもこの重たい荷を腕一本だけの力で持ち上げられる怪力をお持ちなら、あなたさまに技術は要りません。しかしそんな怪物は滅多に生まれないものです。だから技術なのです。あなたさまの体重と勢力を利用する術が必要になるのです。大まかに言いますと、ガス族では肉や骨、眼球など目に見える部分を斬切刺突する技術を表業。内側、つまり心や腎、肺、胃、腸といった部分を打ち貫く技術を中業というのですよ。まあ、あまり明確な分類ではないですがね。他に裏業というのがありますがこれは表業と中業から戦場では無用の技術を追いやったものの集成で、これはよろしいでしょう。おや、興味がおありですか? 簡単に言いますと、対手の手首を主とした関節と勢力を利用した技術で――
フェリクスには全く予期できない不可思議な出来事だった。自分の巨体を完全に宙に飛ばすなど、養成所の誰も、ゼルでさえやれなかった芸当だ。しかも、うつ伏せにされて動けない。棒を握り締めたままの左手、肘、肩に溜まる痛みと重さのせいだ。きっと手を放しさえすれば解放されるのに、釘で刺し通されたように指一本離れなかった。その上、背中、心の左上辺りにウニヴェロッサの膝が刺さる。ぐうと呻いた直後、後ろ髪を掴まれ、床を舐めさせられていた顔を前に向けられた。気道が圧迫されて苦しい。見る見るうちに顔が赤く染まってゆく。耳に冷徹な声が入る。
「馬と弓だけと侮ったか。こう見えて幼年からギナに鍛えられてきたのだぞ」
体格では遥かに良い分を持つフェリクスだが、両者の技量の差は実に半年と十年にも及ぶ。有りと無しを比べるものだ。
――だから裏業が上手くいった。だが、あのかかりようはどうだ。裏業はかかる奴ほどやれるんだ。あのかかりようはどうだ! ものになるとは思っていたが。
「ギナ、荷車を用意せよ」
「え」
「愚図愚図するな! この痴れ者をナルマーの獄に繋ぐのだ!」
「は」
また一つフェリクスの素養を垣間見たギナは心底から惜しいと思っていた。この才を無駄に散らすのが惜しいと思っていた。腰を据えて鍛えたらどんな猛者になるのか、ガス族としては止めようのない熱い欲求が滾るように沸き立ってきた。幸いにもウニヴェロッサはまだもう少しは命の猶予をくれるようだ。
「心配するな。死なせはしない」
この騒ぎの間、ウニヴェロッサはフェリクスに耳打ちした。これは本気ではないのだ、これも余興の一つなのだ、これも芝居なのだと伝えた。
自分を投げ飛ばしたという、余りにも解り易い反面、その業の不可解さに極度の驚に陥ったフェリクスは戸惑い、くすぶっていた不信と疑惑は更に増長していた。ナルマーであっさり殺されてしまうのではないか。手ひどい拷問の末に惨めに殺されるのではないか。
――ロッシュローは俺を殺そうとしていた。きっとギナが俺を殺そうとした。ゼルに殺させようとした。できなくても、ここで俺を殺そうとしただろう。ウニヴェロッサさまは本当に俺を助けようとしたのだろうか。とっくに親父の言いつけに従っていて、俺を殺すつもりじゃないだろうか。
打ち続く死の予感に腐らされた脳は不信に染まって、他には考えられなくなっていた。
フェリクスは、普通の男だ。ウニヴェロッサやウルフィラのような教養もないし、漁師になる夢を持ったままではグリゼリウス家の活性技術も効果がない。複雑な思考に基づく将来の予測をしようと思っても、それを嫌う単純な男だ。父リトバル・フローディックに憧れて漁師を志す、教圏のどこにでもいる善良な男。無数の先人が教圏に残した轍の跡をぽつぽつ追いていく、神の奴隷。身勝手な殺意であっても二つも三つも念入りに仕掛けられると、異様な正当性を自念させてしまい、そうなったら最後、容易には思考を変節できない。
――神は俺をここで死なそうとしているのか。
人の好いことにこう痛念するのである。神という根拠が、あらゆる蛮行を許容するように自棄ではないという説得力をもたらすのだった。贖い主ウニヴェロッサの言葉はもはや届かず、フェリクスは左腕と背中から届く痛みと苦しさだけを自覚していた。
荷車の用意ができた。フェリクスが願う漁師になる夢を象徴し、現実と希望とを辛うじて繋ぎ止めていた三叉槍と網は取り上げられた。腰巻きも剥ぎ取られ、これらはウニヴェロッサに預けられた。これらが返される日が赦される日である。下着一枚の寒々しい姿で荷車に積まれ、これをロバが引いてすぐに小さくなる。贖なわれた罪を三度も繰り返した凶漢を見送るはずもない。成敗して後、ジェソンに荒々しい側面を持つものとある者は恐れ、ある者は頼もしく思う視線の中を内陣の席に戻った。
――さて、泡どもが巧くやるか。