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ウルフィラ 2

 清貧と律法と積学を重んじるアドゥース派の修道院長カーンに悪果と断じられ、放逐ほうちく同然にグリゼリウス家に託された異能は、初め家庭教師や活性係の誰の目にもとまらなかった。

 ウルフィラである。

 通用語のシニウス語は当然として、上流階層で必須のサーニー語は教会儀式で用いられるので身近。修道院では写本作業をやっていたから、書き取りも古いことわざも知っている。算術もまあまあ出来る。教圏の知の庫、修道院といえどもイブラ語を操る者は一人といなかったので、ウルフィラには母国語に当たるこれができないいびつさは、教圏の狂信者に優位の錯覚と嘲笑をされるような皮肉ではある。

――ウルフィラはどうであるか。

 グリゼリウス家の血筋として才幹豊かな者の行方を気にする性分は仕様がない。対手役にしてすぐ、ロッシュローは活性係たちに報告を求めた。

――基礎学力はウニヴェロッサさまに一歩譲りますが、我らが心血を注いだ方と比べるのは酷なこと。いや、大したものです。これはアドゥース派の修道院でやっていたと見え<神教侍史しんきょうじし>と<御血書ごけっしょ>の解釈はなかなかです。問題といえば、ウニヴェロッサさまに輪をかけて寡黙なところでしょう。

――ふーム? 分かった。そ奴はウニヴェロッサがよく自らを奮起するよう活かすのだ。

 自分とカーンに噛み付きそうな眼力で持論を述べた姿との不一致は、それこそがウルフィラ流の熱心なんだろうと腑に落として、優先順位に従って指示を出した。

 活性係の報告の中に出てきた<神教侍史しんきょうじし>とは、邪神の帝国と惨評される古代サーニー帝国の発生から神の大軍により千々に乱され終焉を迎え、その後の混沌を恩寵で克服し遂に教圏が形成されるまでを、様々な書物、年代記から聖公座せいこうざが認定した件を綴った歴史書で、<御血書ごけっしょ>と並んで教圏を紐解く重要資料のひとつである。これをシニウス、サーニー両語で学ぶのがごく限られた富裕層の伝統的な語学教育で、神学の基礎教育も兼ねた。<御血書ごけっしょ>は教圏でもっとも権威ある聖典で、信徒たる者どのように生きるべきかの律法が述べられている。神がその血で刻したと伝えられる。

 対手主ウニヴェロッサは子供というに忙しく、学問の他に礼儀作法、奴隷商グリゼリウス家を訪れる顧客の応接も課せられて、肉体が丈夫になり始めてからはガス族の勇士ギナに鍛えられていた。ウルフィラが中庭を通りかかると、半弓を引いているのを見た。大人の顔くらいの的の淵に二本ほどの矢が刺さっていたが、あれは今にも風に吹かれて落ちそうだ。

「ウルフィラ! お前もやらぬか? 弓は難しいぞ」

「できません」

「僧籍の者に易々と武器を渡すものではなりませんぞ」

 ギナがしっしと手を振って退去を命令したので、ウルフィラは静かに中庭を出た。日向はかっとした火の玉がぐんぐんと近づいているような暑さだったのに、石造りのグリゼリウス邸内は一歩足を踏み入れると、自分の足裏がじゅっと音を立てたのではと思うほど涼しかった。ウニヴェロッサがあれでウルフィラが役を勤められない場合は公休扱い。邸を出、思うままに過ごしてよいのだが、市壁の外の修道院で育ったウルフィラはナルマーを知らない。家族もいない、友もいない。

 今こそ、と思ってウルフィラは邸内を歩いた。散策の目的はなかった。

 グリゼリウス邸の正門は曲線状の拱門アーチで飾られて、これは結構名物だという。空間を大胆に使った外観と、イブラ語を神々の言語として装飾に凝った書体が発達したエステ帝国の斬新な字体での刻印を見、誰からともなく、

――これぞ真理よ! 読めぬ者にも理解できる美しさである!

 と賛美されるほどの評判を呼んだ。

 ちなみに完成当時の拱門アーチに刻まれていた言葉はこうである。

『お取り扱いの品 奴隷』

 刻印は時を経るにつれ『ミナッツ王国本土代官にしてナルマー市参議、並びにナルマー自由都市同盟盟主、七度の贖い主たるグリゼリウス家の館』と肩書きごとに字体が変えられていった。市民の歓心を買うに適当でない文句は削り、家門の権勢を誇る肩書きを書き加えていて、これを読めるようになる人々は増えているようだと予想できる。

 その拱門アーチを潜って邸内に入ってすぐ、商談や陳情を受け付ける長方形の広い広間。多くは顧客の要望に沿う商品を巡り火花散る商戦が行われる。ウルフィラは今ここにいる。奥域に続く二つの戸の内一つがグリゼリウス一族の居住空間へ上る階段の間、もう一つはウルフィラが出てきた中庭と当主や所有物たちの仕事場に続く回廊が伸びている。広間出入り口に近い左右二つの戸は、厨房と活性中奴隷たちの宿舎、厩舎や畑、果樹園。

 ウルフィラは階段の間から二階に上った。ここはグリゼリウス一族か一族の何者かに招かれた者しか立ち入れない私的な空間である。例外が家令ゾルムとギナ、職工しょっこう職人リンク、そして対手役ウルフィラだけ。広大な一階の敷地と比べれば生活居住区の二階はそれほどに広くないが、それでも他家に比べれば相当に広く取っている。家族が集まって食事や団欒を過ごす居間でウルフィラは、ロッシュローの妻アナールを見かけた。お気に入りの所有物に詩集の朗読を命じていた。ウルフィラの姿にはっと気がつくとすぐに目を背け、聞こえるように、

「卑しい」

 と呟く。侍女もそんな顔であった。不快を表明するお方を気遣って僧衣の頭巾を被ろうとした。清貧の証として生涯一枚の僧衣しか所有しないアドゥース派の黒衣は、何十年もの間師兄たちに着古されてきてい、グリゼリウス家に着くなり相応しい衣服に取り替えられた。子供服に多い順調な生育を念じられた緑色の衣服は、丈が踝ほどまである長めの筒袖。上半身が密着していて動きやすい。最近はこの衣服に肘から色とりどりの垂を下げるのが流行っている。

 ウルフィラは追い遣る雰囲気に乗って一階のゾルムの職場の前まで来、そのドアを叩いた。

「――どうぞ」

 返事ひとつにも所要したゾルムは、自分は主人よりも忙しいのではないかと思う。本土代官を補佐する役目はロッシュロー自身が代官の仕事を放り出しているような様だから滅多にないが、ノルベルンの誕生に触発されて動き出した都市同盟を軌道に乗せなければならない。ロッシュローは半島の沿岸諸都市を巡ってその招致に東奔西走していた。当主の不在は長男で跡目のロドリーゴとで埋め合わせているが、その量といったら天井が知れない。まず本業たる奴隷商で顧客の応対と奴隷活性の進捗状況把握、本土代官もしくはナルマー参議代理としての陳情・案件及び外交処理、トッレ船団への対応、都市同盟に関する急な指示だっていつ来るか分からない。既に顧客をロドリーゴの別宅で二日もお待たさせしてしまっている。ウニヴェロッサを五歳という幼齢で応接にやらせるのも、経験と顔見世の意義というより人手不足が否めない。

――なあにロミオよりも危険はないわ!

 数日前、忙しさに目を回す中でつい垂れた愚痴にロドリーゴはそう反応した。激務に追われる二人をよそにグリゼリウス家次男のロミオはどこかというと、ミナッツ王国王領三島の心臓部、真珠島しんじゅとうで内偵活動をしている。このロミオという男の伊達振りは有名でそれを物語る逸話がある。今頃流行りの衣服は父が許さないので赤色をロドリーゴに譲ったままだが、安価なブラナ科の多年草の大青で作られる青色が気に入らず、染料を凝りに凝った末に、フィーローズ朝エステを更に東の地域で栽培される一年草タデ科の珍品、藍に出会うとその染め味の深みと濃さが大いに気に入った。これを持ち帰って適地を探し出しては栽培し、染色法を学ばせに奴隷を現地にやるなど、行動のあれこれがとかく派手で人の目に付いた。その自慢の藍染服の上に白地に藍の絞り染めで縦縞を入れ、金糸銀糸でふんだんに飾りつけた重ね着を、袖を抜いた傾いた着格好で見せつける伊達姿が厭味にならないくらい母アナールに似た美形。これじゃ女の方から放っておかない。真珠島しんじゅとう出張場では藍染物が非常な高価というに生産が間に合わないほど売れた。ロミオの浮名は真珠島しんじゅとうでも知れ渡ってゆくが、それも女独自の情報網を利用しようというのだからやり手である。真珠島しんじゅとうの衛士隊もこのロミオの行動が単なる遊びなのか商売なのか、それとも不穏な思惑を抱いているのか困惑するばかりで、

――ここでは縞模様の服は売春婦を表すのだぞ。

 と世話向きを装って警告するのが精々だった。

――売春婦は横縞であろう。ご覧の通り私のの縦縞。縦横で交わるのは面白い面白い。

 本当にこう答えたか知らないが、女遊びが派手なのも評判だったという。

 ウニヴェロッサの対手役に過ぎないウルフィラがやって来て何用かと思ってみれば、

「ウニヴェロッサさまの足手まといにはなりたくありません」

 まことに感心するような理由でグリゼリウス家書庫の立ち入りを願ってきた。書庫の往来勝手が対手役を承知する唯ひとつの条件と、ゾルムも知っている。ただしこの条件が、ウニヴェロッサを奮起させるよう活性する方針とぶつかる。ウルフィラを対手役につけただけでもよい刺激になっている。さきほども弓に誘うなどして、行動に広がりを認められる。順序がある。博学多才な大人たちに囲まれてきたがために萎縮してしまった精神を快活に戻し、歳でも経験でも自分と身近な者を対手に競争心を養い、例の石像のように虚ろな瞳で凝視して言うなりのままに納得する悪癖を矯正しようという方針。今こそ微妙な頃合。ここを踏み損なえば、奮起するような者が現れても、これを目標にとは考えず道を譲るか、背を向けてしまうかもしれない。

「よい心得だ。だがお館様が不在の間はならんぞ」

「でも、約束は約束じゃないですか」

「その約束を交わしたお館様が不在というのだ」

「ああ……」ウルフィラは息を吐くと張った肩から力を抜いて両腕を垂らした。「――?」

「まだ用が?」ゾルムはもう右手に判を持っている。

「なにかおかしいので」

「何だというのだ」

「分かりません」

 ゾルムはため息をついたが、こうも思った。

――どうやらウニヴェロッサとは違うようだな。あれはこうやって粘ることを知らん。さっきもこ奴を誘うは誘ったが、すぐに意気地が萎れたようだし。

「書庫はしばらく待て。それに勉学とは書物でのみ学び得るものではないぞ。今日ほどの余暇でもあれば市中を、世間というものをよく見ておくのだ。そしてそれをウニヴェロッサさまに教えて差し上げろ。あの方もお忙しく、邸の門を越えて出歩くこと数えて少ない。お前にしても見聞を豊かにしておけば、いつか用を立てる機会に助かるだろう」

 ウルフィラは尚もゾルムから感じた不自然さに首をひねっていたが、どうやら押しても突いても引いたとしても書庫へは入れないと気付いて諦めた。これ以上意地を張っても無駄骨だ。それなら提案されたように市中をぷらぷら歩いてみるのもいい。

 ゾルムは奴隷商グリゼリウス家、本土代官、ナルマー市参議の判子と筆跡を自在に操って陳情の処理を続けた。神がかった閃きを授かるのは、大体こんな時だ。

――あのウルフィラも周囲は学識のある年長の者で占められてはいなかったか。しかるにあの意気の盛んなところは。

 もうひとつ閃いた。ただし、こちらは思考の形を取らずゾルムの意識には現れない。あまり重大な事柄ではないにしろ、自ら述べた詭弁の底を自ら抜く行為であるために、ほんの自己防衛機構の爪先として。

――あの程度の約束なら家令の権限で果たすことくらいできるのだ。まさかウルフィラ奴の感じた “おかしさ”とはそこにあるのではなかろうな。お館様の不在は理由にならず。家令たる私にはよしと言える権限があり、交わされた約束を果たす決まりがあると。この判子を押すと同じにだ。その気配にしろ、あんな子供が気付いたのか? 気付くものなのか。分からないというのも奴が幼く未熟で、説明できる言葉を持たぬからだったのか。

「まさかなあ」

 故さえ知らずゾルムは手を止めて呟いていた。判子を握る自身の右手に自然と目が行った。その手は薄く汗ばんでいる。傍の布切れで汗を拭いた。

――よくあることだ。

 背に聳える拱門アーチが陽を浴びて作った影を踏んで、ウルフィラは邸を出た。ロイター川の水を吸って肥沃な平野が広がるナルマー周辺にあって珍しい丘を下りていく。丘から麓までの岩は取り除かれ、地ならしをし、石畳で舗装された坂道を。荷車を引いて歩くロバとすれ違った。その面は、市壁を潜ってから薄暗い上にぐにゃぐにゃ歪んだり曲がりくねった道ばっかりだったが、やっと歩きやすいところについた、と言うようだった。市内は市の立たない日でも活気付いて騒々しい。都市の専門手工業者たち、靴屋、石工、大工、衣屋、皮鞣工、木材・鉄鋼加工業者、金細工師のトンカンギコギココツコツといった作業音が幾重に重なってナルマーを守る市壁の頂を飛んでゆく。小路で、大通りで、共同パン焼窯に並ぶ行列で大声の談判や井戸端の歓談をする市民たち、家畜のワンとかモーとかブーとかいう鳴き声も。

 歩いているうちにウルフィラは面白さを感じていた。静謐せいひつで厳重なアドゥース派修道院は市壁の外にあって、この日都市から授かった印象は、初めて都市を訪れた百姓のものとまず大差なく、一種の覗き見的快楽でもあった。所により地域差はあっても神の定めた秩序に従うのは名目ではなく立派な本音であり、その規律の下でひとつの共同体は別の共同体への干渉を極力抑えている。ウルフィラもグリゼリウス家の要請がなかったなら、よそからの干渉が格別少ない修道院でその血筋ゆえに多少の波風は立とうとも概ね慎ましい生涯を送っていただろう。しかし、都市はそうした旧来の世界とは異型だった。長大な市壁と塔が備える外冦とは徒党を組んだ人間なのか、もしや定めを破った人々を誅そうという神なのではないか。農村のように距離によっても、教会のように聖別せいべつによっても他者を隔てない都市は隣人がどんな仕事をしているのか、何をしているのかが見える。この特色がウルフィラをわくわく面白くさせて仕方がない。

「これはなんですか?」

 通りにつきだして作業中の皮革職人の商売道具を手に取って尋ねる。

「やっとこよ。見て分からんのか」

「鋏ですか? これで切るのですか?」

「馬鹿。掴みだ。鍛冶連中が触れられねほど熱いもんをこいつで掴むんだ。握る部分が長いだろが、それだと曲げる力が強くなるから、こうやって硬いもんでも曲げられる」

 ぐぐっと力を込められて細長い釘はぐにゃりと曲がった。鉤の形になってしまった釘を元の形にしようとあがいてみたが、指が痛むだけでびくともしない。

「これ木槌?」

「おうそうだ」

「本物を初めて見ました」

「ち、世の中てえもんを知らねえなあ」

 皮革職人の口音はゾルムや修道院の大人たちに多い“裏”というものがなかった。傍で仕事を見ていると職人がその商売道具を操る手技は手、指先からまたひとつ体が延びて、体と道具の境目もない総体で加工品を作っているようだった。それと同じで、その口から躍り出る言葉には考えがあるようでない。皮を切るならここをこれでこの長さ、と考えるまでもなく経験からの応用と瞬発計算でできるような無作為で口を開く。この行為は習慣と反復によって培われた一種の固定観念であった。彼らは生業という枠を通してしか物事を見れず会話もできない。

 ウルフィラの姿は次に港湾区にあった。ウルフィラの立つ辺りがロイター川の終点。内陸部から商品を載せた川舟は難所中の難所、泡沫ほうまつ騎士群生地域を抜けるとこのナルマーで海船に荷を積み替えなければならない。水深差が原因。海船ではロイター川に入っても座礁を免れない。底浅の川舟でアレモ海に出ても波に押し戻され、運良く進んだとてすぐ転覆する。そこに出番を得るのが荷揚人夫たちで、歴とした組合が市に承認されて、契約が結ばれないうちは小麦の一粒だって担がない。

 なかなか勢力があって、かつて市参事会が組合の運上金を引き上げようとした際に組合罷業ストライキを敢行して対抗。商船は荷を降ろしてもらえず、自力で降ろそうとしても組合が職域の侵害だと文句を付けて通せん坊をする。奴隷を荷揚げに投入しようとしたナルマー市だったが、渡りの綱と頼まれていたグリゼリウス家の当主が巨匠リャド・グリゼリウス。奴隷に自らの境遇を覆すほどの能力を付加せず、見返りも乏しい労役を課せられる場に卸すなんてのは、まったく承知しない。とうとう音を上げたナルマー市に、頼むから荷揚げを引き受けてくれと頭を下げさせて、自らの力の強大さに気付いた荷揚組合は巨額の利益を得ていたが、新造船ナルマコックの登場が沈むことのないと思われた栄華を呆気なく打ち崩した。

 歩いているとウルフィラの鼻が異臭を察した。空気が黒い色で上塗りされているようだった。この辺りは市、組合、各国各都市商館の倉庫が集っている。先日、この倉庫街で火災が発生しグリゼリウス家所有の倉がいくつか焼けた。臭いの元は焼け残りの炭のようだ。火の気などまったくない倉庫街。付け火は明らかである。この付け火騒動の黒幕が軍艦島ぐんかんとう特殊工作船団トッレでは対手が悪すぎる。少なくとも彼らを対手として雌雄を決するのはもっと先の話だ。その代わり実行犯を叩く。荷揚組合の血気に猛る連中を炙り出すと、トッレの名が出て藪蛇を突付く羽目に陥るより先にギナたちが口を封じた。誰も過激な刑罰だとは思わなかった。農村がそのまま越してきたように家屋、穀物倉庫、家畜小屋が集まる初期の都市において、火付けは最悪の罪である。自らの所有物を全焼させられたグリゼリウス家であれば流血の復讐も許容される。

 この火災で焼失したのはグリゼリウス家が軍艦島ぐんかんとうの備えで建造していた軍船だけである。火事騒ぎの最中に停泊中だった完成直後の軍船も沈められたがナルマコックだけは傷一つなかった。

 荷揚組合を扇動して一連の破壊活動を仕切ったトッレの工作員バルボアが帯びていた命は――軍艦島ぐんかんとうの脅威のみを滅却せよ、というもので、全長およそ四十歩、船幅八歩半前後、櫂数十二、帆走も可能だが平底で喫水が非常に浅いナルマコックは、

――沿岸航海用の商船か。我らの海を渡って王領に接近できる造りではない。

 バルボアの冷静で的確そのものの判断をして見逃された。

――珍妙な造りはそれとして、川舟と海船を兼ねようとは本土の田舎者も侮れん。このせいで荷揚の小金持ち連中は食を絶たれようなあ。

 そこまで見抜いていながら、結託した荷揚組合にこの船を焼けとは言ってやらなかった。こいつらの強欲さと野蛮さと怠惰にはほとほと呆れ果てていたところだった。この船が出回れば荷揚人夫の出る幕はもうない。なんだかんだと荷揚げを怠けたり、荷物を掠められることもない。本土沿岸諸都市の経済活動の効率化は真珠島しんじゅとうとしても儲け話だ。

 近代を迎えて、ある歴史学者がナルマコックの性能実験を行ったことがある。絵画や書物などから部分的に散見される資料とグリゼリウス家の軍師的立場にいたヨルムブレヒトという所有物の船葬に使われた実物を元にアレモ海で試したところ、驚くべき結果をはじき出した。蓄積された航海術や観測機器などの近代技術を備えていたとはいえ、複製版ナルマコックは真珠島しんじゅとうを通過してアレモ海を横断してしまったのである。最高速度はなんと一一ノット。船材には最適のブレンダン地方の柏を用い、熟練の船大工が入れ込んで造り上げた船体の柔軟性や弾力性、防水性、そして方向舵の精密さは近代技術の水準にある。しかし、極端な柔軟性と弾力性に耐航性を恃む一方、ナルマコックに乗った多くの商人が浸水事例を語り残しているように、完璧な水密性を併せ持つことは困難だったと結論されている。ここに数種の技術ならば数世代先の性能を実現できるが、それらの長所を台無しにもする欠陥を抱えねばならないという時が司る隔絶関係が看取できて面白い。アレモ海を横断できる潜在性能とて、より粗末ないかだを漕いで横断した例もある。そしてなによりナルマコックは船底から舷までの高さが二メートル強しかなく、巨大な軍船同士が激突する海戦では戦力になり得ない。就航直後の運用方法は正しくもバルボアが見抜いたように、川舟と海船を兼ねる沿岸航海用の商船の域を出るものはなかった。ただ、ナルマコックがいつも得意気な荷揚組合の鼻を明かしたのは間違いなく、ウルフィラが桟橋さんばし辺りを歩いていると、自分たちの破滅が近づいていることを敏感に感じ取っている荷役が懸命に汗を流していた。中には、特に若い者に多かったが、さほどの心配もせず年長者の監督を恐れつつだらだらと仕事している者もあった。組合の幹部に就く高齢者は、ナルマコックの特性は知っているが、船はそれ一種ではなく、ナルマーで荷を下ろす船の数も多いのだから、と自分たちの栄光が衰えるとは考えもしていない暢気であった。

――馬鹿奴! あれが、さっきの戦で船をなくした貴族や都市に出回ったらどうなるというのだ。あの船しか港入りを認めないと、あの石の家の連中が言ったらどうなるっていうんだ!

 桟橋さんばしからはその予感を深める荷揚組合の年長者が肉に食い込むほどの荷物を担いで往来していた。ウルフィラは彼らを脇目にして歩いていたが、足を止めた。都市のすべてが珍しいウルフィラの好奇心は、自分の体を置き忘れたかのようにあちらへこちらへ素早く動き回り、双眸の動きは回るほどでさえあったが、空いた桟橋さんばしの中ほどで不審な行動を起こす少年がひとつに集めた。緑色の短い衣服と青い脚袢きゃはんをはいている少年は、裾を腿まで上げた足を海につけようとして、躊躇ためらっている。見ていると少年は足をゆっくりと桟橋さんばしに戻すと、深い安息を得られたかのように大きく息を吐いた。

――変な奴。

 少年はそれを何度も繰り返していたが、海に足を浸すことはできなかった。ウルフィラは彼が海を怖がっているのだと決すると、とたんに興味をなくし、少年に奪われた焦点を取り戻して、広げた手ほどに視界を大きくして目前のアレモ海を見た。彼方に王領三島がぽつんぽつんと見え、時告げ船は間もなく南端にさしかかる。頂点に近付きつつある太陽の下を潮風に乗った白い海鳥たちが飛遊している。桟橋さんばしにいる少年はもう一度、と意気込んで波打つ海に片足を浸そうとした。

「フェリクス」そこに止めの合図。はっとしてそちらを向くと金髪の女性がやってきた。「ご飯よ」

「はい」

「もう慣れた?」

「あとちょっと」

 二人は連れ立って行った。途中で母親が振り向いてウルフィラを見て微笑み、子供の耳に囁きかけた。振り向いた少年と目が合った。少年のその目は若干険しく、見られたくないところを見たな、と非難しているようであった。残されたウルフィラがしたことは、桟橋さんばしに行って、あの少年と同じように片足を海に浸そうとする行為が、あたかも母親との再会の儀式と願っての模倣であった。

「それで――海に落ちるほどなにに夢中になったのだ?」

 荷揚の組合人が、落水して流されたウルフィラを危ういところで引き上げた経緯をウニヴェロッサは興味津々に尋ねていた。直前まで語られた都市ナルマーの日常は、旅人がする異郷話のように魅惑する寝物語で、覇気の移植をどうとか言う以前に、仲の良い友だち同士の会話のようだ。

「お母様のことを考えていました」

「ああ、ずっと離れ離れなのであったなあ」

「とても小さい頃でしたので、お顔も覚えておりません」

「それはきっと寂しかろうな」

 ウニヴェロッサは自分の幸せを噛み締めるような台詞で気遣ったように見せたが、裏に隠した自己欺瞞は見透かされていた。アナールに蔑視されている本当の理由が分かりかけてきた。教圏の人々とは違うウルフィラの血筋を蔑まれたのではなかった。姻族の彼女とてグリゼリウス家に嫁ぐ前は真珠島しんじゅとう貴族チコ家の娘だ。異教徒、異文化への抵抗感は無きほどに弱い。嫌忌する対手は他でもなく対手主ウニヴェロッサじゃないかと睨んでいる。長男ロドリーゴと次男ロミオの二人の息子たちと打って変わった接し方は、もはや酷烈としか言いようがなかった。いつか肉料理にふりかけられた胡椒が、

――私の分には砂がかけられているんだよ。

 と家畜に準ずる取り扱いを告げられる日にはウルフィラも、ええっと仰天するしかない。それほど忌々しく思われていた。嫌がらせで済まないのが特に階級や身分を表す服装のある部分だった。聖俗の輝かしい肩書きを持つ父を頂きながら、卑しい品を扱う商人や金貸しばかりが課せられる被差別衣装を両膝を晒すほどの短さで穿かせ続けられているのは、母アナールが仕向けたことだった。

――でも、緋色の服を着ているのはどうしてだろう。

 緋色の染料は柏に寄生する貝殻虫ケルメスから採れる分泌液が原料である。推して知れるように採取量が非常に少ない。これが青と赤を混ぜた紫の高値の元になっている。緋の衣服は主に俗界では王太子や大法官だいほうかん、聖界では大司教と枢機卿の式服に限られて、ウニヴェロッサが普段着にしているのもおかしい。跡目を継ぐ定まりの長男ロドリーゴだってグリゼリウス家の権威が必要になる席でしか赤色の衣服を着用しない。ウルフィラの疑問はナルマー中でも疑問で、たびたび噂話の種になる。市内を歩いている間、ロッシュローの隠し子説、遠縁・養子説、とびきりの才を認められた素体奴隷だという色々な噂を耳にした。誰も実子だとは信じていない。まして王の庶子ジェソンだとは思いも寄らない。正体不明の異様な存在感だけが漂う。

「そ奴は、どうだろう」

 ウニヴェロッサはウルフィラを視界から切ってぽつり漏らした。悲しげな顔を見られまいとする無意識の行為だ。

「私は羨ましいと思いました」

「ならばきっと――」

 続きは心の中に押し込めた。ウルフィラはウニヴェロッサが折に見せる石像のような瞳を知っている。自分の意を抑圧する際によく見せる。ゾルムらではウニヴェロッサの精神を萎縮させた最大因を、まさか所有主一族に求めるような思考は死角になっていたし、アナールの手は狡猾だった。対手役として同様の嫌悪対象に配置され、母性を求める懊悩おうのうに同じく骨身を焦がすウルフィラならば、対手主が自分を抑圧しがちなその原因をアナールの虐待による産物なのではないかと思えた。

「アナール様とウニヴェロッサさまは離すべきです」

 という意見に、ゾルムは横面を思い切りはたかれた気分になった。

――このガキ、なにを言うか。

 ゾルムが反射的に思う間に、告げられた限りで知る虐待の数々を口にしたため、ウルフィラはその幼さが出会うには趣旨の異なる説難ぜいなんの壁にぶち当たってしまった。論としては一理ある。が、出し抜けに、しかも不快感情を秘めた相手の才覚をも非難しかねない耳に痛い話をされる側の度量や忍耐も考慮しなければ、説得というのは上手く機能しない。それにしても、我々でも調べてみよう、と言って無碍にしなかったはさすがにゾルムだ。

 内密に調べてみると、アナールの行状はウルフィラの言を縦から見ても横から見ても不当なところがなかった。胡椒を砂に化かして食わせ、夜毎起きだし寝間着に水を垂らしていた。

――まさか狂われたか。

 その所業に震撼するゾルムだってお互い様だ。自分らの企み事だって実際は狂気の沙汰に違いない。ウニヴェロッサをジェソンと偽って後継者に仕立てる。王位の簒奪さんだつを図るこんな馬鹿げた話を知って知らないふりができるふてぶてしさというのがあれば。無理と判断されたから秘匿されてきたのだ。強大な王権が支配する真珠島しんじゅとうの商戦に負け、本土に流れてきたチコ家の娘アナール。そんな御嬢様の心身を支える骨柱は未だに尊崇すべき王家と共にある。婚姻は政略の他ならず、おめでたい感情の深化などではありえない。大であれ小であれ貴賎の別もなく、家と家の同盟関係を結ぶ儀式だ。卑しい奴隷商が前身の成り上がりの本土貴族グリゼリウス家のロッシュローとの夫婦仲を許容し、寄る辺ともなり得たのが“七度の贖い主”という教圏最高の聖号で、王権の力が薄弱な本土での日々を信仰に傾倒しながら過ごしてきた。実の子供は母の鑑といわれるほど十分に愛育した。それだけに、どこから湧いて出てきたかも教えてくれないウニヴェロッサを、微笑ひとつ溢さない可愛げない乳飲み子をわが子同然に育てろという家長命令に反抗を示したのかもしれない。

 まさかあの方は王の庶子ジェソンさまでございます、とは言えない。言えば血統上優位の王位継承者ノルベルンの御為に、単なる虐待が真剣な殺意へと変化する恐れがある。真珠島しんじゅとう貴族が王権を尊崇する精神はそれほど深い。

――ふ、む。ならば、巡礼にでも出て頂くのがよろしいかな。

 何しろ所有主一族の問題も絡むから、家令にも独断できない事柄。ゾルムの解決策は極端かもしれないが、主人ロッシュローがナルマーに戻れない以上、彼女の奇行を誰も阻止できない。遠ざけるといっても、それなりの理由、尚且つ容易に戻れない場所がよろしい。その都合を満たすのに巡礼がぴったりはまった。

 なににでも流行廃りがある。どうやら巡礼地というのにもある。エメレスは教圏最重要の聖典<御血書ごけっしょ>が刻まれた神々の都として、第一次教圏連合軍がアンゴラとダルトワと共に巡礼路を切り開いて以来、最大の巡礼地であった。教圏半島北部のヴォレヌスは聖公を頂点にした都市国家化が進行、巡礼地としての流行期を終えた。ブレンダン地方のスカラ山が聖地として脚光を浴びるのは、教圏外国家の陥落でエメレスへの道が閉ざされてずっと後だ。

「かくも長き不在の償いと、今日までの旅程の無事の御礼と先々の無事の祈り、なにより聖なる地エメレスをより近くにしながら参れぬこの苦心の救いを親愛なるわが妻に頼みたい」

 あらゆる孤立もいかなる独立も許されない教圏では、たとえどんな私的な手紙であっても、音読によって他者と共有しなければならない。まして<御血書ごけっしょ>にも使われる古典サーニー語で書かれていたのなら尚更である。一族全員で共有するべき事柄として、家長を代理するロドリーゴが読み上げて、アナールは心と体が芯からかーっと熱くなるのを感じた。

――ああ、こんな日が本当に来るなんて!

 信徒として望外の喜びに浸るアナールの機嫌を損なわないよう、準備はとんとんと整った。ロドリーゴらの周到な下拵えで巡礼許可証もすぐに発行できた。この許可証に “七度の贖い主”とグリゼリウス家の印章を捺せば、その権威が物を言って大抵の教会施設が篤くもてなしてくれるだろう。既に万端である。

 女の支度が、出発できる、と言ってからが長いのは今も昔も変わらない。何に手間を取られているのか男の目にはまるで分からないのも変わらない。結局、ロドリーゴに抱擁としばしの別れを告げ、真珠島しんじゅとうのロミオには長い長い手紙を記して、従者含めて四人連れの巡礼の途に出たのは、月が半分も欠けてからであった。出発の間際、無事を祈るウニヴェロッサの言葉には、ないことにやさしく肩を叩いて応えた。どうやらよっぽど機嫌が良い。

 ところが、あのように悪意ない触れ合いなどかつてなかったであろうに、ウニヴェロッサは触れてもらえたばかりの肩に手をやりもせず、感激の表情もなく、船上のアナールを短く見送っただけであっさり邸に帰ってしまったので、ウルフィラは深く戸惑いながら追いかけた。

 それにしても、この巡礼行は時の運を掴み損ねたというしかない。予定ではアナールを乗せたナルマコックは、ドロスの取引相手に活性済奴隷を売り渡し、ドロス発の巡礼船に乗り換えて教圏外国家アンゴラに船縁を寄せると陸路をエメレスまで行き、後に真珠島しんじゅとうに立ち寄って次男ロミオと会ってナルマーに戻る行程で、どれだけ長くなっても半年と目されていた。ところが、ナルマーに生還を果たすのは、これより二年半も先になってしまう。人数も二人減っていた。

 順風海路に恵まれたアナールが都市国家ドロス共和国に着いたのは、出発して九日。奴隷の売り渡しと手形を得て、すぐにも出発すればよいものをここで四日を過ごす。

 巡礼というと信仰厚い人々が山岳荒野を物ともせずに艱難かんなん辛苦も神の試練と甘受して、長ければ長いだけに辛ければ辛いだけに満ち足りて行く姿を思い浮かべがちで、第一次教圏連合軍だけを参考にすればその通りなのだが、今ではグリゼリウス家や強力な貴族にとっては一種の観光旅行である。アナールはドロス産の琺瑯ほうろう工芸品に目がなく、その眼福を求めての長滞在で、気に入った逸品を幾つも買って従者にまで与えた。

 ようやく満たされてドロスを発って、波任せ風任せの鈍重な輸送船が十二日をかけてアレモ海からカトレア湾に入りアンゴラに到着した。アナールは、かつてグリゼリウス家で活性化され、奴隷身分から解放された群衆から熱烈な歓迎を受ける。都市同盟誘致であちこちを飛び歩くロッシュローはこれ以上の規模で迎えられている。ロミオが独自に営んでいるように見える藍染物にしても、その経営実体は染色職人になった解放奴隷と提携しての開発・製造・販売であった。もしもロッシュローが、多種多様な職に就いた解放奴隷に呼びかければ、何だってやれるだろう。ルイジェセンもトッレ船団もグリゼリウス家のこの異様な実力を恐れていた。

 アンゴラは紛れもなく異教のエステ帝国の版図の中にある。カトレア湾東岸のダルトワとカトレア湾北岸のアンゴラは、共にドロスからの海上輸送によって第一次教圏連合軍が打ち立てて以来の命脈を辛うじて保っている。エステ帝国に君臨する女帝アシュタルテ三世は致命的弱点を露呈している二つのこの小国などあってないようなものと認識していた。帝国の宿敵は東方のフィーローズ朝エステ。これまでの巡礼者保護と交易関係は東西に敵を生まない旧戦略の一端に過ぎず、フィーローズ朝併合の新戦略と軍備を整え始めた今、アンゴラとダルトワに敵意の火を燃やすメルタニア総督シモンに裁可を与えてやればそれまでだった。

 アナールがエメレスへの陸路を半ばまで来たある日、シモンは教圏の誰もが恐れる牙を剥いた。

 カトレア湾湾口においてドロス輸送船団に襲い掛かった海賊は護衛船と激しい海戦を交えた。救援を請う狼煙のろしに応えた船団こそシモン率いるメルタニア船団。海賊の襲撃に遭った船舶に対しては、周辺船舶は一致してこれに対処する――これはサーニー帝国以来、教圏の内外を問わず遵守されてきた海の誓約であるが、陽動と奇襲を得意とするシモンはその破棄を戦術に載せた。海戦でこそドロスは善戦したが、メルタニアは陸戦で圧倒の強みを持つ。新造船に幅広の船首と一角という名の極端に突き出た舳先を持たせた船が初めて運用された。幅広の船首に陣取った弓兵が一角から敵船に飛び移る兵士を援護する。敵船に乗り移るための極単純な工夫であるが、移乗攻撃さえ成功すれば優位の居所は明らかであった。輸送船はことごとく拿捕され、頼みの護衛船は海賊によって航路を塞がれた。伝統の操船術を発揮してメルタニアの異様な船舶の突撃を回避することができず、乗り込まれるとやはり抵抗を止めた。この海戦でドロスが失った船舶は大型輸送船六隻と護衛船四隻にもなり、巡礼海路を周航する全船舶の三分の二にも及んだ。シモンは早業を用いてアンゴラとダルトワを包囲。アナールを含む多くの巡礼者は異教の地で明日も知れない抑留を余儀なくされるのであった。

 教圏外国家重囲の報は教圏に野火のように広がる。当然ナルマーにも届く。グリゼリウス家の慌てぶりはなかった。噂話から遅れて届いたアナールの手紙によってアンゴラに入ったのは確かだが、そこからの行方が掴めない。顧客や解放奴隷に詳報を求める手紙を出し、つい先日エメレスから戻った巡礼者を探し当ててアナールの目撃情報を集めた。これらの事実確認の最中にロッシュローとロミオからの手紙が届いた。ロミオによるとドロス輸送船団再建までの間、真珠島しんじゅとうに海上輸送代行の要請があったが、王ルイジェセンはきっぱりと拒否。ロッシュローは急転してナルマーに戻る意を伝えてきた。内外共に上を下への大騒ぎ。

 この事態は思わぬ方向に進み、真珠島しんじゅとうとドロスがアレモ海の覇権を争う事態にまで発展する。両国の船団は臨戦態勢に入り、万が一にも二つが一致して流れ込まぬよう、メルタニアと海賊の連合船団は湾口を封鎖。この緊張が治まらなければグリゼリウス家といえども教圏外国家に近づくことさえできない。伝聞でんぶんは噂話ばかりで、信頼できる情報は皆無だった。ほぼすべての巡礼者がエステ帝国に捕らえられ奴隷にされた、シモンに皆殺しにされたというような錯綜と敵意が為せる極み。アナールを救出する手だてといったら、起こりうるドロスとの抗争に真珠島しんじゅとうとの共同で勝利して、アレモ海を平穏にするしかない。

「メルタニアのシモンの狙いはアンゴラとダルトワです。間違いなく。よって彼の船団はカトレア湾を封鎖するが上策。打って出て来きたとしても、連中の連携と練度ではこれを奇襲と言うより無謀と正した方がよく、まずひとかけらの戦果もありますまい。聖公座せいこうざが後先を考えずにルイジェセン王を破門に処し、ドロスと真珠島しんじゅとうの連合計画を霧散させてしまった以上、ドロスは教圏北部の国々がメルタニアを牽制している期間に決着を望むほかありません。さもなくば、抑えのきかぬ海賊どもに留守を狙われますからな。一方で真珠島しんじゅとうにはドロスのように急く理由がひとつとしてございません。どこからの圧力も、周辺の脅威もないのですからな。船影を確認して迎撃に発つとして、交戦地点は軍艦島ぐんかんとうの北北西の海域ジェルダンでしょう。まあ、こうした訳ですから勝敗は明らかですな」

 副王ベルデナンの内乱でも活躍したヨルムブレヒトは真珠島しんじゅとうの勝ちと断言した。古今東西の兵法に通じた男で、もちろんグリゼリウス家の所有物。エステ帝国北西の洋上ヴァイサーン群島の大豪族の出と吹聴しているが、取るに足らない隷農の二男が本当のところであるらしい。粗暴強欲の割に細工の器用な典型的なヴァイサーン人である。ナルマコックの基礎設計もリンクと相談して彼がやった。ヴァイサーンの竜骨船りゅうこつせんの影響が色濃いのはそのためだろう。参謀役として、ウニヴェロッサを擁してミナッツ国の王位を狙う企てを担うに欠くべからざる人材というべきだが、奇しくもその一座から外されたのは、奴隷商グリゼリウス家の経営形態にある。職工しょっこう職人リンクも同様に、高度かつ特殊な専門技能を持つ所有物は各地に派遣される都合が度々生じる。ヨルムブレヒトの場合は傭兵。老若男女貴賎を問わない不特定多数の人間と交際する機会が多く、どんな拍子でか口を滑らせるか知れたものではないからだ。何より勝利請負人としての派遣契約料が高価で、中間手数料を取るグリゼリウス家にとってなかなかの実入りだった。

「同盟都市を襲撃する猶予はないわけだな」とゾルム。一番の心配事が解消されて安堵顔を見せた。

「いかにも。ただしトッレ奴が何故か本土を監視していることをお忘れなく。知らぬ存ぜぬではあらぬ疑いを抱かれましょうから、何らかの形で真珠島しんじゅとうと協調しなければいけませんな」

「ウム。では、さし当たって先ごろの火事の一件、ドロスが黒幕と真珠島しんじゅとうに言い触らそうか。ロミオには合った役だ。女の口ほど喧しく軽く、印象に残るものはない」

 これはロドリーゴ。ウム、と頷く様は父ロッシュローの真似事で、ロッシュローもやはりこれを先々代から真似ていた。

――おたくらの火付けのせいで今回の海戦には参加できません。

 ロドリーゴの皮肉めいたやり口には、こうした言い訳も含有されている。海戦に耐える船がないのは一応の事実だ。ナルマコックにアレモ海を横断できる潜在能力があっても、運用する人間の側にはその考えも理由も動機もない。ただし、こんな当てこすりのようなやり方は危険だ。どんな一言で破滅に追いやられるか知れないのが真珠島しんじゅとうと本土の関係である。ことに史上珍しいほどの水準にまで王権を打ち立てたルイジェセンの耳に入れて障りのない言葉ではない。いかにも世間知らずのお坊ちゃん然とした言い分が、歳桁の違うゾルムとヨルムブレヒトには危なかしくって仕方がない。

「その上でナルマコックをジェルダン海域に差し向ける。戦闘に及ぶ必要はない。途上、一隻や二隻は沈めても構わぬ。我々があの小船で戦おうとする姿だけ見せればそれでよい。だが、その醜態で終始しては他の都市に侮られよう……所有物を焼却した相手に報わぬ臆病者としてな。こんな風評を広げては我らが都市同盟の支配的盟主の座を得るのは難しい。そこでトッレ船団奴に茶番を見せて後、我々はドロスを突く。海側ではなく、ロイター川を遡りレストン川に入り、背後からドロスを襲うのだ。ナルマコックの披露に丁度よいわッ」

 ロドリーゴは続けて言い切った。不敵というより、実効性の見えない大言壮語の一語に尽きる。現実家としてはロッシュローの後にさえ落ちないゾルムだが、深く頷いた。その意見に賛同を示しただけではない。

――この方は成長された。やはりお館様の目は確かであった。

 感動してのそれである。目は薄ら潤んでさえいる。

 ミナッツ王家の後継者問題の隙を突くグリゼリウス家でも跡目の問題が長男ロドリーゴか次男ロミオかで現在も揺れ動いている。ロドリーゴは一見すると凡庸で、ロミオはおぎゃあと産まれて以来、純白の玉が人の形になったような美しさのまま育ち、これを跡目にと耽美のアナールが執心を起こしたために起こった定番ともいえる骨肉争いである。当主ロッシュローの意向は明確で、後継者としての赤の衣服をロドリーゴに許し与え、ロミオには断じて許していない。ところがウニヴェロッサの衣服に緋色を与えたせいで、一旦は沈静化した後継者問題が水面下で蠢いている。

 ロミオは弟ウニヴェロッサの緋の服について真実を知っているが、この美形の次男に惑溺するアナールは知らない。この辺りにも家内に微妙な齟齬をきたす元がある。それに幸か不幸か兄ロドリーゴを追い落としてグリゼリウス家の跡目を相続してやろうとする考えもない。自分はただ他人への見せ方が巧いだけで実の目利きは兄に遠く及ばないと過不足なく己を知っていた。赤の服を着たがるのも伊達男らしい趣味による所が大きい。しかし、馬鹿を拒むという常識判断に違いない態度も、子煩悩を深くし過ぎた母親には逆効果になって、その言もだんだんと露骨で過激なものに変わっていった。

――このまま行っては一族を割るかもしれない。何より母が不憫でならない。

 犠牲精神とでもいうのか、ロミオは危険を承知で真珠島しんじゅとうに出て行ったのである。

――お前の家はここだ。帰る場所は必ず用意する。母もそういつまで分からず屋でもないさ。だから身辺には十分気をつけて達者でいろ。

 船出の前の日、ロドリーゴとロミオの兄弟二人は海を横手に見ながら共に歩いて前途を励まし合った。ウニヴェロッサにはこの良好な兄弟仲の一分でも与えられていない。

 真珠島しんじゅとうに渡って始めた藍染物の成功は、アナールをことのほか喜ばせ、跡目争いに更なる一石を投げ入れたように思える。家長ロッシュローがロミオを真珠島しんじゅとうに派遣しようとしたのを猛然と反対したのも昔で、チコ家の縁を紹介するなどして更なる成功に助力を惜しまない。ロドリーゴにはアナール救出という大事業を完遂し、命の恩でアナールの頭を抑えておく必要がある。妻の遭難というに夫のロッシュローが戻りを意図して遅らせているのもこんな家庭の事情の所為だ。

 ゾルムはロドリーゴの発案を実現すべしと覚悟を決めた。喧嘩っ早いヨルムブレヒトは軍事の専門家でありながら、素人が引いた故の壮大な案に夢中になって――面白い、やりましょう。と言わせた顔でにやにや笑っている。教圏の戦はどうも規模が小さ過ぎて、この男には退屈なのだった。

 ウニヴェロッサとウルフィラはこの大騒ぎの外にある。まだ幼いんだから当然だ。けれども、幼くとも感情くらいは持っている。とれる行動はひとつ。祈りである。ロドリーゴらが採る現実手段と比べられて、祈りが無意味な行為と決めつけられるのなら、教義上不倶戴天の敵、エステ帝国の只中にある聖地エメレスへの巡礼などそもそも脚光を浴びない。人々は神を信じているのではない。神が実在している世界に住んでいると思っている。存在を疑う理由のない神に捧げる敬虔と畏れが、人々の生活形態を作り出していた。観測可能な事実の蓄積が神の居所を浮き彫りにし、宗教の唱えるところと遊離を始め、信仰心という自覚できる意識が神と宗教を接着する役割を果たすのはまだ先の時代であり、祈るという行為はいかなる権力者でも足元にも及ばぬ実力と権威を兼ね備えた存在との取引なのであった。

 ウニヴェロッサは教会へ行って母アナールの無事を祈った。毎日続けた。対手役ウルフィラは当然同行する。同行するだけだ。教会の中に入らず、教会前広場で待っている。修道院長カーンが、度重なる規律違反と不信心の咎で破門したと司教に伝えていたので門前払いを食ったのだった。

 母の無事を願うウニヴェロッサの祈りは長く、ウルフィラは発見と変化に富む都市ナルマーで過ごした。多感で、その後の人格形成に重要な時期に得た体験の差が、ほぼ変わらぬ活性化が作用したはずの二人の才質の行方を分けた要因の一つになったのだと思われる。決定的要因はまた別のところにある。

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