ウニヴェロッサ・グリゼリウス 2
フェリクスをグリゼリウス家の所有物と知るや、後難を恐れず仇敵にさえ立ち向かう様相で蛮行を勢いづかせた騎士たちの不審な行動を耳にしたウニヴェロッサは、
「家の因果に巻き込ませたな」
と瞑目深くして詫びた。
本土代官ロッシュロー・グリゼリウスは、本土運営の困難に直面してただ匙を投げてナルマーに引き移ったわけではなかった。往復する書類に目を通した形跡はなく、その後の進捗を監視する素振りも見せなかったので、本土官僚たちは好き勝手やった。副王ベルデナンに加担した諸侯の没収領地にかけられた税は八公二民という凄まじい率だった。その傷口に塩を塗りこんだのが教会で、踏みつけられる弱者を慰撫しようとせず、富を独占せんばかりの本土官僚に対抗して、自らも税を吊り上げた。聖公座内の対立図式も加わって、所領を安堵された諸侯領内ではあべこべに教会が税を増し、その教会に対抗するために領主がまた苛酷な取立てを行なった。ミナッツ王国本土に増税のなかった地はないほどで、階級内の抗争を因にしていびつな形に歪んでゆく税制は、ただでも隔たっていた服従と恩恵という取引の不平等感をより大きく乖離させ、上位格者たちにのみ富の集中を導く無意味な結果しか生まなかった。三身分制の名の下に、戦士・聖職者と並び立つはずの百姓たちは血と涙までも差し出さなければならなかった。生まれ領内での平和のみを保障され、別の領地へ移動できる権利を買えない百姓の苦惨がどれほどのものかは、農村に立ち寄る旅人の半分以上は徴税人であった、という言葉で大凡は知れる。百姓の恨みは本土官僚ではなく、彼らの誘導によって本土代官に向けられるが、グリゼリウス家に数ある影響力の中でも、愚かな頭にも分かる単純な軍事力が口を塞いでいたに違いなかった。良心に加えて勇気をも備える本土官僚と教会の一部の者たちが百姓を従えてナルマーに出向いて減税策を求めたが、その対処は政治力による圧殺ではなく、力仕事を一手に引き受けるギナ以下、ガス族系所有物たちが担った。税率の低い地に移れたのは、グリゼリウス家に奴隷の志願した者たちばかりであったという。
本土の主たる権勢を掌中にしたロッシュローは後世の人道主義者が糾弾したような大悪党であったのか、冷静な学者が擁護するように歯を食いしばって偽悪を働いたのか。グリゼリウス家は奴隷を志願した百姓の内、いくらか才能のある者には活性化を施した。これらの人材は同盟諸都市に供給され、花開く都市文化の礎を築いてゆく。既に百姓以外の生涯を見出せない者たちには市壁内外の耕すべき土地を与えられた。森を開墾すればすべて自主所有が認められたし、収穫と取引で得た収入の四割を納めればナルマー市が保護を約束した。四割の税とはなかなか厳しい措置だが貴族領主の下に比べれば遙かにましだった。納入を三年間続ければグリゼリウス家は農奴から解放して所有権をナルマー市に移し、保護力をますます強くした。
貧困が新たな時代を呼んだ。困窮に立ち向かえる実力を有さない者は実力を有する者の庇護を求めて都市に逃げ込む。耕し手が流出すれば、農村社会と表裏関係の封建社会は危機に陥る。貴族、聖職者といった既存支配者の土地は荒地と化し、人の手による抵抗が止まれば即座に勢力を回復した森に覆い直される。
一足遅く逃亡を阻止された百姓は監獄のような小屋に使用料付きで閉じ込められる羽目になった。大規模農園は都市近郊に姿を移し、かつて領主の廷臣と同列と謳われた百姓はサーニー帝国から復活した農奴制の下敷きとなり喘いだ。逃亡を謀った者を裁く刑場は常設のものとなり、監獄と共に圧制の象徴となってゆく。恐怖が支配の根拠と化し、元来、恐怖と不満の芽を刈り取る役目を担っていた領主が、不満と不安と絶望の源泉へと豹変した時、領主自身の力量と人格とによって危うい均衡で存続してきた封建社会はなし崩しに終わりを告げる。
偶然かどうか、既存支配者と新興支配者が農務労働力を奪い合う風潮は本土代官がロマックを捨ててナルマーに移ってから急速に進行した。この点に言葉という記号の感触によって他者を操作するルイジェセンの名人業が光る。封建諸侯の勢力を削ぐ政策は大王と代官の共同作業というより、協調作業といった方がより正確で、都市の伸長と王権の拡大の二つの理由によってこそ自己防衛と野心完遂の手段とするロッシュローの思惑と王国の利害は完全に一致していた。それ故、ウニヴェロッサの存在は、新種貴族グリゼリウス家を王家に従属させる手駒という逆の見方も成り立った。
――新たな本土代官は非常に良く勤めている。
このようなお褒めの言葉と慰労金の褒美まであったというから、ルイジェセンとロッシュロー間の闘争や競争の気配はまだ乏しかった。
都市の台頭と封建諸侯の衰弱に伴って、すべてカネが物を言う支配構造が真珠島から本土へと移入された。貴族領主から無名の一世帯まで、これまでは自給自足を基本とし、不足を他者から補うような行為は半人前の恥と捉えられてきた。塩のような専売制を採る必需品を調達する必要に応じて金銭及び通貨は絶滅こそ免れていたが、貨幣経済と称するには現物経済を脱しきれない初期段階をさまよっていた。カネの供給源は領主や教会が振舞った施し以外にはほぼなく、貨幣を鋳造する目的は通貨取引よりも、ご当地土産程度のささやかな工芸品に過ぎなかった。樹海によって断絶する村と村、町と町、都市と都市でも差違なく使用するには、貨幣の価値と貨幣として作られた金属の価値は一定であることが特に望まれてい、貨幣の主な利用方法は威信表示に他ならなかった。ナルマー、ドロス、ヴォレヌス、コルトセット、ヴァイサーン等の教圏を代表する諸都市や王侯が記念貨幣を鋳造するのも権威拡大の節目を迎えてからだ。しかし、旺盛な経済活動によって信用経済にまで深化した真珠島から都市を経て押し寄せてきたのは、貨幣流通量の増大に伴う経済形式の全面移行なのだった。これにより農務労働力の減少によって危機に陥っていた封建社会はとどめを刺される。
貴族階級は見栄を張る。なにも虚栄心からばかり来るものではなく、一種の治世術に他ならない。庶民には到底手に入らない品々を身にまとい、貴重なものを惜しげもなく振舞い、格の違いを一目で知らしめて人気を獲得する術。彼らがそうした価値を有する珍しい貴重な品々を手に入れられたのは、現物経済下の税収によって多種多様の物品を得、更に別の物と交換できる余剰分があったからだった。生存分を越える余剰生産の殆どを上納しなくてはならない百姓にそんな贅沢はできない。だが、通貨という新たな獲得手法の広まりは、領主たちのこの優位性を最初に崩した。貴金属製の貨幣は領主の主な財産と違って決して腐らない。先祖代々使い道がなかったので貯め込まれていたカネが見つかって、一夜にして金持ちになった百姓もいた。ロバや牛のような畜獣や農具を手に入れるなどし、生産力を高め、機を掴んで成り上がった大規模農家は弱小貴族を凌ぐ豪族へと姿を変える。
一方、自前の生産能力を持たない貴族階級はこの経済形式の移行から取り残された。監獄小屋に押し込めた農奴は、彼ら貴族の生存に必要限度の収穫をもたらすほどの人数に過ぎず、その過酷な実態から生産効率は上がらず、病死や処刑などで頭数も減っていった。不足の場合、それはもう力ずくで連れてくるのであった。自らが不満と不安と絶望の源泉と化した以上、被支配階級の者に見栄を張らなければならない理由はなくなっていたが、相手に舐められたらお終いだ、という切実な訓戒が奮わせていた。なにせ下級貴族の騎士が忠誠を誓う上級貴族は一人ではなく、複数いるのがむしろ当たり前で、忠誠を誓った貴族同士が争い合う場合、よほど魅力ある人物でもない限り報酬が多い方につく。窮乏を感付かれたら最後、軍事力の低下を招き悪循環に陥って破滅する。前例はいくつもあった。彼らの常識と矜持が百姓の涙と怒りを呼んでいたが、領主らは百姓と違って他の生き方を知らなかったし、百姓よりも強く土地に縛り付けられて逃げることもできなかった。
結局、貴族領主は財産よりも地位の死守を選んだ。伝来の土地は借金の担保とし、本土代官ロッシュローが買い上げ、代官を通じて王に忠誠を誓わせた上で旧領の統治が命じられた。実際の土地所有者はミナッツ王ルイジェセン二世となり、貴族はその差配に過ぎなくなる。本土諸侯の土地虚有化現象は着々と進行した。用益権及び税率の調整や罰令権など、過去の勝利と真珠島の歴代王の無関心によって強力な自治を保っていた本土諸侯は、カネの力と留まるところを知らない王権の前に萎縮し事実上消滅してゆく。
名実ともに王政の体裁を準備しつつあるミナッツ王国本土を貫くロイター川の北東に、泡沫騎士群生地域という真空地帯がある。この中に領主権を得たグリゼリウス家の領地もある。文字通り、猫の額ほどの土地を領有している騎士たちが大勢集まった地域で、没落貴族たちの殆どは古くか細い忠誠契約の誼を頼ってこの地に流れ着いた。先のクロスコスの毒矢を負わされた騎士のように、泡沫騎士群生地域の者たちは皆、貧しくも妙な風に潔い。商隊を襲い、よそ者を嫌うが、同じ境遇の者には暖かい手と広い懐で受け入れていた。没落貴族たちは王の手先になって権利と財産を分捕ったグリゼリウス家に芯骨に徹するまでの恨みを抱いている。フェリクスを襲った野盗には正にこうした素性を持つ者も含まれていた。因果としか言いようがない。
――そんな些事はどうでもよい。あのウルフィラは仕方なしとして、フェリクスを狙う理由がわからぬ。
ロッシュローにとってフェリクスという名の所有物はただのおまけだった。貴重な末息子に贖い主の箔付けをしてやる以上は是が非でもついてくる無害な奴隷のはずだった。ウニヴェロッサが気に入れているし、ガス族ということもある。ギナも武芸の筋よろしいと評しているので、叙任式の後は護衛役にでも引き立ててやろうかと思っていた。そう思っていた。ところがフェリクスの素性を精査させたところ、またしても引き当ててしまったのであった。
――あれは拾い子だ。
組合から追放した者の話など誰もしたがらないのが普通で、フェリクスの父リトバルは、しつこく嗅ぎ回るグリゼリウス家の者に根負けしてとうとう口を開いた。
十五年前の内乱の最中に吹き荒れた大嵐の翌日、漁師組合の船が総出になって海に浮かんだ船の残骸や金目の物を引き上げていると、まるで今しがた港から出てきたような小舟が遠くまで漂っている。どうも裸舟のように見えた。寄せてみてみると、嵐に浚われてしまった組合の舟に間違いがない。やったこれは幸運だと乗り移ってみると、なんと身体を半分海水につけている赤ん坊をそこに見た。慌てふためいて抱き上げてみると、とんでもない生命力だ、私は生きているぞ! と叫ぶように大きな泣き声を上げる。
――お、親方! 赤ん坊がいましたぜ! 大分冷えちまってるけど、この通り泣けるくらいにゃ生きてやす!
――あの大嵐を海上で生き延びるとは大した奴だ。よし、そやつは海神の賜物だろう。リトバルの家が子を流した後だったな。くれてやれ。奴のものだ。フェリクス<幸運な者>とでも名づけるといい!
ウルフィラを引き当ててしまったロッシュローは、逃亡に成功したもう一組の行方も調べていた。アティルムの丘の実験管理者や警備兵、そして実験の進捗状況を報告する文書にまで目を通して、子供の出自はガス族と判明した。ギナが睨んだところ、毛色も肌も骨格の作りも肉の質からしてフェリクスは同胞だという。ギナをナルマーに呼び寄せたロッシュローは一言、
――そ奴は殺せ。けして生かすでないぞ。
と命じた。
ウニヴェロッサを飾る十重二十重の存在感は、ルイジェセンの愛妾フレデンツァの妾腹ジェソン殿下の像と結びつかなければならない。ロッシュローはこの秘匿を破りかねないどんな小さな痕跡も抹殺しようと努めて、当の本人はまだ何も知らない。
――お父様は何を考えてらっしゃるのだろう。
二人の兄には常に厳しい父ロッシュローが自分だけをやたらと甘やかすのは、グリゼリウス家が誇る活性技術を最大限施している代償かもしれないが、結局は不可解だった。跡目は長兄ロドリーゴに確定してい、しがない末弟に求めるところまるで分からない。グリゼリウス家累代の悲願、万能者活性の素体として選ばれたのだとしたら、主人と奴隷の関係を越えてどうして親子を演じ合うのかがやはり不可解な難点として残る。フェリクスとの関係が贖い主を横に置いた友情などではないように、ウニヴェロッサの性格は他者との関わりに明確な前提を必要とした。ロッシュローが自分に末の息子とは異質の望みを抱いている気配は察していたが、まだ何も知らない。
家長ロッシュロー、長兄ロドリーゴ、次男ロミオ、家令ゾルム、そしてギナだけが、ウニヴェロッサを王の庶子ジェソンにして世継ぎ絶えたミナッツ王家に送り込む計画を知る。王位簒奪といっても過言ではない途轍もない重大事。王妃ジョヴァンナの本腹アストンとペトボルを謀殺した今、退路はない。前に進むしかない。だからどんな小さな不安要素も排除しなければ、思いも寄らない拍子で破滅に墜ちる。
ギナとてもフェリクスに含まれる危うさは理解しているが、このガス族の勇士は同胞を騙まし討ちする卑怯に葛藤していた。どうせなら戦いで死ぬ名誉を持たせて葬ってやりたかったので、剣闘士養成施設は安全であったが殺す機会は既に定まっていた。
客観的に見ればフェリクス・フローディックに沈潜する露呈の恐れは微かなのに、何が何でも抹殺したいほど脅威を膨らました強迫観念の元は、十二年前に大王ルイジェセンと王妃ジョヴァンナとの間に生まれた末子ノルベルンだった。まったくとんでもない話だ。
――くそっ、油断ならないにも程がある!
叫べばいくらか気が晴れるかもしれない。が、現実は動かない。
結局、グリゼリウス家が施す最高の養育によって誕生するかもしれない万能者よりも、ルイジェセンは血統の純粋に執着し続けた。
ノルベルン誕生時、大王ルイジェセンは五十路に入り、王妃ジョヴァンナも四十を過ぎている。まず本当のこととは考えられない高年齢出産。ルイジェセンも替え玉を用意したのではないかと邪推したロッシュローは、真珠島に次男ロミオ・グリゼリウスを送った。替え玉と疑ったのは真珠島の住人も同様で、妊娠時期に悪足掻き特有の短慮が覗いてもいるから継承者に窮した王家の苦肉の策と衆目は一致していた。ジョヴァンナが妊娠したのはどう逆算しても、教圏教義の上で食欲や性欲といった欲望を節制しなければならない期間だった。信仰を示すべきこの神聖な期間に妊娠し、誕生する赤子は神を蔑する者の子と糾弾される。具体的には業病を生まれ持つと主張しており、親の因果で付けられたノルベルン・レプルス “癩病みのノルベルン”という仇名は後世まで彼の通り名になる。
ノルベルンは素性の真正を明かすために真珠島の広場に張った天幕の中で生まれた。世継ぎを求める性根は夫婦揃って逞しすぎる上に図太く、死に物狂いの域に達していたようだ。見せ物の企画としては三流のいかがわしさにさえ乏しいんだが王領三島の中枢真珠島は王の権威が隅々まで行き渡っている。王国の前途に横たわる暗礁だった後継者問題解決を祝って島民は歓声を挙げた。見物人の歓呼に迎え入れられた新生児を目に焼き付けたロミオは、憔悴の体でナルマーに戻ってきた。
――我々の願いは破れました。王の新たな血はその冠を継ぐでしょう。
ロッシュローは近年になく、頭から踵まで斧で真っ二つにされるような衝撃を総身に受け、口の端から漏れる唸り声さえなかった。
すべては無駄になった。どう足掻いたところで無事では済まないだろう。アストン、ペトボル両王子を謀殺した報いの激しさはルーリック辺境伯の一族に下った厳罰以上の酸鼻極める代物に違いない。
――ならば構うことはない。とことんやろう。
人間の本性は逆境に陥ったところでより明瞭になる。引こうが止まろうが前に出ようが同じなら、ずずいと前に出るのがロッシュローだった。不敵の傾向が代々受け継がれるグリゼリウス家の流儀だった。その本性を見抜いていたルイジェセンの人評によれば、
――ベルデナンの乱にて戦功を挙げしグリゼリウス家の長ロッシュロー来る。自滅に堕ちる夢が覚めぬよう望む。
難しい敵手と認識している。その望みは破れ、ロッシュローは目を明けた。仮に生まれた子が女児だった場合には、ジェソンとしてではなくウニヴェロッサとして政略結婚させる妥協案も吝かではなかったが、ルイジェセンは男児か女児かの人事及ばぬ賭けに出、悲願の直系男児を得た。ただ、終わりから見るとこの賭けは止めておいた方がよかったようである。
父母の年齢から考えれば神的としか言いようのないノルベルン<運命の子>誕生を経ても、都市同盟、本土諸侯の土地虚有化は遅滞なく進行した。新生児の生存率の極端な低さを、昨日まで走り回っていた我が子を次の日に亡くした経験で痛知する大王ルイジェセンは己自身の中で渦巻く王権の伸長と王位の継承の相克を別問題として切り離す苦渋の決断を下してまで密約を延長したが、有ると無しの差はやはり有りと無しほどにある。密約の裏で、予備後継者ジェソンを預かるグリゼリウス家の威勢が一線を越えないように監視する特殊工作船団トッレとグリゼリウス家所有物との暗闘が始まった。
暗闘は互いが互いを化かし合う諜報戦争にも似て、決して血生臭い戦いではなかった。トッレ船団の攻撃がこう迂遠で消極的なのも、グリゼリウス家の権勢をも高める都市同盟と本土諸侯の土地虚有化が見逃された根本の理由が、多国籍・多民族・多宗教の商人が行き交って土地開発の限界に突き当たってしまった王領三島の人口問題にあった。これは王権の威信と後継者問題と並ぶ程に繊細かつ重要な問題だった。数多くの負債騎士を救済し改めて封建下賜したグリゼリウス家が着実に用意しつつある真珠島民の本土入植用地を台無しにする程の攻撃は最初っから封じられていた。グリゼリウス家もその事情を知って入植地の確保を遅らせてノルベルンの死を待つ。
都市国家ドロスとミナッツ王国が海洋の覇権を賭けて激突するジェルダン海戦が起こったのは、ミナッツ王家とグリゼリウス家の間で強弱柔剛の牽制が入り乱れる真っ直中だった訳だから、幼少以来、正念場に次ぐ正念場を乗り越えてきたルイジェセンもいよいよ息つく暇もない。
きっかけは、エステ帝国南西カトレア湾湾岸に建設された教圏外国家アンゴラ、ダルトワへ食糧と武器を援助していた都市国家ドロスの商船が、帝国内から教圏勢力を駆逐しようとするメルタニア総督シモンに操られる海賊に襲われた変事に始まる。この一件で教圏外国家への補給線は緩みだす。エステ帝国の金銀細工は最高級の贅沢品であったので、権益を守りたいドロスと聖公座は、聖地エメレスへの巡礼路の玄関口でもあるアンゴラ、ダルトワの死守を建前に真珠島に輸送船の提供を要請した。ところが、これはきっぱり断られた。ミナッツ王領の三島を守ってきた船団は、海賊討伐や内乱征伐、果ては時計などの内治に傾けられるのが常で、外交が絡む攻勢に出た前例はかつてなかった。第一船団スクードは小麦島から真珠島、軍艦島を巡回する習熟船団であり、王領三島防衛の要ゲート船団の派遣は問題外。特殊工作船団トッレもグリゼリウス家の監視に手一杯。そもそも輸送に適した船型ではない。第四の船団コルティーレは<我らの海>を完成して以降ほぼ有名無実。こうした理由で要請には応じられない、と正確には拒絶したのではなく謝辞したのであるが、旧より大王ルイジェセンは聖公座での印象が悪い。
畏れ多くも神の代理人たる聖公の、聖地巡礼路保持の切なる願いを踏みにじったとまで寄り切られて、節制期間に子を成した罪を特に叩かれたルイジェセンは破門を宣告された。既にルーリック辺境伯は亡く、ミナッツ王国本土諸侯は弱体化。真珠島の経済活動において教圏の役割は微々たるもので、主要交易路は北東のフィーローズ朝エステであったから、さほどの効果はなかった。第二次教圏連合軍で女帝アシュタルテ三世とメルタニア総督シモンを対手に大敗を喫した各国も未だ勢力再建の只中であり、期待していたほどの軍資金を用意できないまま、聖公座が強硬に求める平和の行使に押し出された都市国家ドロスが、背教者ルイジェセンを討つための船団を編成した。おめでたい者たちは、勝って真珠島を自分たちのものにしよう、と息巻いていた。
そう上手く運ぶわけもなく、ジェルダン海戦は領海に引き釣り込んだミナッツ軍艦島船団の完勝に終る。弱り目に祟り目、嵐にも巻き込まれてドロスは殆どの船舶を失った。ミナッツ王の破門はドロスの保護と引き替えに撤回され、ミナッツ王権は遂に絶頂へ届いた。ミナッツ王国に匹敵する勢力はなく、長らく空位であった “諸王の王”の座を贈られ、聖公に次ぐ教圏第二位の地位をも手にした。しかし、エステ帝王捕囚の以前から主要交易路を徐々に東側に移していた真珠島にとって西側のアンゴラとダルトワの価値はほぼなく、ルイジェセンは国際感覚の鋭い国際人でありながら閉鎖的な島育ちだった。真珠島の経営にしか興味を示さない歴代王の血と政策を受け継いでいる。再三の勧告も聞き入れず、教圏外国家アンゴラとダルトワは見捨てられ、ジェルダンの海戦から二年後、これらはメルタニア総督シモンの手によって遂に陥落する。
教圏の剣にして盾、聖と俗の媒介者、公会議議長という役割で神の名の下に縛り付けられていた “諸王の王”の影絵の如き虚ろな姿は、その位格の保持者であるはずのルイジェセンの他人事のような沈着な姿勢を見た多くの人々の失望と相まって胎児の状態にまで退行され、後の皇帝権力復活の予兆となる……。
真珠島がこれらの問題を処理していた隙に乗じたグリゼリウス家は都市同盟を推進し、負債貴族から収奪した土地と財産は十二分であるし、教圏半島西方ブレンダン地方の有力部族ガス族との関係を深めるなどして、本土での基盤を着々と整えていった。実に全盛期のルイジェセンにも匹敵する政治手腕はしかし、一致する共通の利益と呼ぶには余りに意味深長な、簒奪を狙う王権が求めるところに忠実であったに過ぎない。関係の亀裂は後継者ノルベルンにつけられたのであって、ロッシュローは依然として王と一心同体の関係を慎重に保持したままだった。しかし、真の王者が挑むべき務めは見て取れないのだから、王と商人の格の違いは自覚していたようである。
ロッシュローはこの計画の最後の最後までを冷静に計算していた。解放された奴隷がその最後の最後の計算を怠って曖昧にしてきたせいで破滅するか、再び奴隷の境遇に戻されたのを見てきた。実はこの計画は万能者活性を完成させてグリゼリウス家の商品の販路を拡大しようとする計画なのであって、王権を奪う陰謀なのではない。計画は繊細なほどに抑制されていた。王権を利する以上の動向を妨害しようと動員されたトッレ船団が海上でも暇を覚えるほどに。だからあんなに危うい密約が十五年も保った。
だが、非常な理性的な人物同士の繊細な関係も遂に破談の日が来る。互いに付け合った無数の亀裂がどちらかの忍耐ごと破裂させたのではなく、只単に当初から設定されていた時間の問題によって。
ウニヴェロッサ・グリゼリウスの叙任式は近い。その日こそルイジェセンの隠し子ジェソンであると暴露して、不義の子ノルベルン・レプルスと比較し、どちらが神聖なる王位に相応しいかを問おうとしているのだった。親に疎まれ捨てられた子か、出生を神に許されざる子か。王位の正統性はどちらに微笑むか。これもまた人事の及ばぬ賭けであったが、決意したロッシュローは既に覚悟を決めている。
――もはや後戻りは出来ぬ。
教会や浴場、パン屋などの公会堂を除いてナルマー唯一の石造建築物グリゼリウス邸は、数多の都市と同じく、決して完成することはなかった。数え切れぬほどの増改築を繰り返して異様に陥らぬのも、先端をゆくエステの建築技術をみっちりやった所有物がいればこそで、ここ十年はウニヴェロッサの騎士叙任式の会場と邸とを往来している。職人の語がぴったりはまる焼けた皮膚を走る顔面にめり込んで出来たような皺、そこから覗く目に、邸の門前で朝からずっと座り込んでいる三人組の騎士がついた。
――あん野郎奴ら、まだいやがるのか。
今朝、藪から棒に御曹司ウニヴェロッサに面会を求めてからずっとあの様子であった。家令ゾルムは邸内どころか門さえくぐらせなかった。騎士叙任を間近に控えた当のウニヴェロッサの身柄はいよいよ大事で、つい先日、泡沫騎士群生地域において所有物フェリクスと大立ち回りをしたのが深い森の中の出来事に関わらずどうしたわけか覚られて、現在のところほとんど軟禁状態にあった。
それにしても歴とした騎士をいつまで門前に置きっぱなしでは風評に関わる。銀貨を渡して立ち退かせようとしたんだが、知恵者のゾルムがこれで裏目を出した。騎士の端くれとして、物乞いと同じに施しで退去を迫られるのは侮辱も同じ。こうなったら彼らも意地であった。この意地というやつ、騎士には筋金が太く入っている。叙任式を控えた邸内はただならぬ忙しさというのに、手当もなく皆して頭を抱えている。
「お前らね、いつまでそうしたってウニヴェロッサさまはお姿を見せてはくれないよ」
相手の立場を無碍にして金ずくで立ち去らせようとしたゾルムのやり方も気持ちが悪かったので、職人の男は声をかけてやった。
「ウニヴェロッサ殿にお会いしたいだけなのだ。誓って悪巧みの類ではない」
「お前ら、泡じゃねえか? 泡が本土代官の御曹司とどうしようってんだえ?」
「確かに我々はロイター川辺りの小さな騎士の出ではあるが、係わりのないこと。御用ある方はウニヴェロッサ殿である」
「まったく頑固な連中だね。そうしていたって駄目なもんは駄目だよ」
「お声をかけて頂いたことはかたじけない。しかしながら、我々もこうなっては騎士の面目がある」
――まったく、これだから泡は手に負えん!
泡沫騎士群生地域の騎士は泡の蔑称で呼ばれる。騎士の名誉というのは家柄が貴ければ貴いなりに、卑しくともやはり卑しいなりの重んじ方があって、生一本の頑固者、喧嘩っ早い上に剣槍に手馴れ、戦いとなったら命と生活が懸かるものだから熾烈で、泡と喩えられたように連帯感が異様に強い。こうゴリ押しされたら、都市の人間には荷が重い。自らの生存以上を求めて強談をしかけないあたりは救いだが、何しろ全般の行動が過激人だ。泡騎士とは反対に都市の人間の狡賢い頭では、泡の強談に一片でも屈すればきっと際限がないと思い込んで、ゾルムもその穴に落っこちて立ち往生している。
――そうですか、ではお入りなさい。
――すまないね。
必要以上の財産を所有するが故に生身の付き合いに一線を引きたがる都市の人間の頭には到底考えつかない真実だが、これで済む。
職人の男は泡らを背にして邸内に入っていったが、こちらの方が彼の気をよっぽど重くする。先代との設計には一つの落ち度もない。石切の精度も風通し窓の位置、光の差し所、水路も通した。それでいて難攻不落の要塞。秘密の避難路だってある。美観にだって気を遣った。ナルマーのグリゼリウス邸は職人の誇りだった。死んで後、審判者に「お前は生前何を成した」と問われれば、胸を張って答えられた。
――へん、聞いて驚くんじゃんえよ、俺があのナルマーのグリゼリウス邸を作ったんだぜ。
ウニヴェロッサが来てからだった。張り詰めた緊張状態で縄を張った中に、陽を当てられぬ陰気な謀議の巣窟になって終った。邸内の空気が悪い。ウニヴェロッサとロドリーゴ、ロミオの兄弟仲が本当に悪い。ロッシュローの実子三男でないことは誰もが知っている。そんな馬の骨にかつてない活性を施す様が二人の兄の反感を買っている様子でもない。つかず離れず、されど好まず。ぶよぶよした透明の塊が間に入って、どちらも歩み寄れない真実の知れない関係であった。主人の家庭環境について、所有物がどうこうと立ち入れる領分ではないが、正に彼の領域、邸内の雰囲気については彼自身思うところがあり、これは正当といえる。住まいのあらゆる問題点を感知、検証して、これはいけないと思う箇所を改善するのが彼の仕事だから。ここは職人の考える快適な住居ではなくなっている。それなのに、自分の力ではどうにもならない。解決法は三つ。破滅に気をつけて打開に突き進むか、不満と圧力という内外の負担にぺしゃんこにならないように気付かないふりを続けるか、問題当事者の立場になって考える拡大解釈という欺瞞で自身の内から追放して忘れてしまうか。
職人は英雄ではなく、恥知らずでもなく、卑怯者でもなかった。グリゼリウス一族の悪い空気に、生涯を賭した一芸から発せられる動機で持って心を痛め、門前の三人組を憐れと思って声をかけられる健全な情の通った人であった。
騎士叙任式会場の大聖堂が完成間近、今こそウニヴェロッサさまの視察と慰安を頂ければ、工員一同の気は安まるでしょうという職人からの提案はゾルムからロッシュローへと通じた。目から鼻へ抜ける男だから、すぐさまぴーんと来て、こうと決めたらやる頑固一徹の泡騎士が座り込みを解いた不思議もやっと腑に落ちた。加えて奴らの目的がウニヴェロッサなら、先日の大立ち回りと無関係とは思えない。だとしても復讐の腹積もりにしてはあんまり愚直だし、剣闘士奴隷の一件は物別れで解決するのが最良なのだから、どうやら本当に別件で来たものらしい。
「泡を引かせたのは職人のリンクであったか。どうにかしてウニヴェロッサと会わせる段取りをつけたな」
「まずそんなところでしょう」
職工職人リンクの勝手な動きに感づいても、ロッシュローは気を悪くしないでむしろ朗らかに微笑んでいた。技能を提供して保護と報酬を得る所有物は厳密には奴隷ではない。意気喪失した奴隷の状態から技能と自立心とで活性化したのはグリゼリウス家だから、むしろこの家業で得られる喜びに浸ったのだった。グリゼリウスの血脈に受け継がれる不敵の性格は元来、奴隷たちの微力な反逆を気前よく受け入れる用途のもので、ウルフィラの覇気をウニヴェロッサに移入させようとした魂胆も実はここから来る。
だからウニヴェロッサは傀儡などを望まれているわけではなかった。数日振りに外出を許されてお使いの途上。周りには三人の護衛。一人は養成所から急遽呼び寄せられたフェリクス。ナルマー市内で上半身をむき出しの剣闘士でございますという格好は流石に具合が悪いので、生まれて初めて絹の服に足袖を通している。絹の肌心地にくすぐったさを感じているようなのに、
「変わりないな」
と言うウニヴェロッサは本当のところフェリクスには興味を持っていないのかもしれない。日が暮れるまで、似合うとも似合わないとも言わなかった。
「意外にも」
――他の剣闘士を怖じ気付かせはすまいから養成所ではまず安心か。今日も一族の晴れ舞台を血で染めるような真似もするまいが。
贖い主として所有物の命の心配はしても、変わりないな、以上の言葉をかけることはやはりなかった。
「そういえば養成所に剣闘士を探しているという者が現れましたが」
「む。果たして三人組か?」
「いえ、豪勢な身支度でしたが少し気古したような格好の」
「ナルマーには三人の泡騎士が来た。ちらと顔を見たがあの森の連中に間違いがない」
ウニヴェロッサもフェリクスも報復の気配をちっとも感じなかった。もしも泡騎士が報復に出るならたった三人で打ち込んで来るはずがないし、やり方はもっと狡猾でしかるべきだった。たとえばナルマーを往来する商隊を泡沫騎士群生地域に住む者が一斉に襲撃するといった、泡状のやり方で。正面からのあんな時代遅れの座り込みにはどうも別の意図があるようだ。
一行はナルマーの市壁を出て、市壁の周辺からぐーっと先まで続く農地と点在する百姓住処を左右にしながら進んでいった。ナルマー市内が過密になってきたせいで、市壁周辺の百姓は既に市民に迎えられるだけの納入を果たしたのに市民権を得られずこの農地に縛られつづけていた。市壁を出入りできる手形だけは下されたが、住処は粘土に麦藁を混ぜて造った漆喰紛いの粗末なそれで、直に地面に寝、食事は手掴みの伝来生活だった。一向生活は市民のようにはなれなかった。市壁に近い百姓がグリゼリウス家を見る目は約を違えた者への冷ややかな憎しみと、年々溶けてゆく一掴みの期待。それでも市民入りを夢見、理屈の上ではその権利を有している彼らの間はまだ安全である。市壁から遠ざかるにつれ、門前払いされる新参の市所有の百姓たちは、既に期待を捨てている。重税を課す生まれ土地にも戻れない彼らは、ナルマー市への納入もいつしか怠り、ナルマー市の影響地に独立した農村部落を建設しつつあった。ここからはグリゼリウス家といえども、百日が百日平和に過ぎるとはいえない。二人の護衛の気に変りを認めたとき、フェリクスも辺りを注意深く観察するようにした。
――この辺りの百姓とは聖堂の建設で友好であるが、余り油断するのもな。
ウニヴェロッサは彼らの取り越し苦労を知りながら無言でいた。叙任会場の大聖堂は、用が済めばこの辺りの公会堂になるよう合意されていた。曲線と直線を大胆に駆使して、意趣を尽くした造りはナルマー市内にもなかなかない。農村部落に過ぎた異様は遠目からでもすぐにわかる。建設交渉の席には立場上ウニヴェロッサも居、市とグリゼリウス家に貸しを作った、という下らない満面を今でも覚えている。
――彼奴らはこの箱物で十分に満足していよう。危機が迫るとすれば聖堂内。事故が起こるような作業中の場か、人目につかぬ所であるな。
既に工事は完了の間際で、資材の片付けと細かな掃除が上手く働いている。リンクの姿は身の丈を二つ以上梯子で上った監督台で工期と自らの美意識を測りかねている様子として認められた。
「おまえ、どこまでやりたい気だ」
出し抜けに声を掛けられたせいでリンクは弱い箇所をくすぐられたでもしたように背中を震わせた。
「や、坊ちゃん。お出まし頂いて――」精一杯の慇懃な言葉は頭だけで、すぐにリンクは次が言えなくなった。梯子を降りてくる間も適当な言葉を案じていたが愛想笑いで済ませようとするしかなかった。
「ふ、ふ。お前の文言には誰も期待を寄せてはおらぬ。これは見事な出来だ。よくぞ仕上げたぞ。お父様もきっとお喜びになる」
「いやあ、そりゃ長年やってきた職工たちが特に張り切りで。周りの農夫どももよく助けてくれましてね。あいつ等にも是非ねぎらいをやってくれませんかね」
よかろう、とウニヴェロッサは頷いた。労いの物品は既にゾルムらが用意していて、ロバに牽かせてきている。若い鳩肉と果実酒を満たした樽、多種の茸という積荷は市壁の内側の人々の注目をも集めた。工夫たちはご馳走が振る舞われるのを今か今かと待ち望んでいる。
「ナルマー市民、並びに市に属する農夫たちよ。他者を観察する冷静さで諸君らの成果を見よ。誇るがいい。かつてこれほどの建築物を造り得た者たちがいたか。旅人という旅人に問うた果ての答えを言おう。今の世には地上のどこにもないが、遠く古き世にならばあったかもしれない、と。そして約そう。肉体の死後、審判者に会わばこの聖堂を造ったと答えるがよい。きっと諸君らの一人残らずは、天上の世界、神の近しき御許にて永遠の世を生きるであろう」
ウニヴェロッサのこの慰撫が、周りに集った工夫に理解されたかというと、そう思う者は大変なおめでたい人間という他ない。仮にいるとしたらそうした人間には近付かないよう警告する。言った本人さえ自分の舌から発せられた言葉を理解する百姓の教養には爪先ほどの期待もしていなかった。間近で聞いていたフェリクスは組合を追放されるまでは生粋の市民であったが、“諸君”の意味さえ解せない。聴衆が本当に欲しいものは死後の平安ではなく、現世で腹一杯まで食べられる機会だった。目の前に並べられてゆくご馳走であった。 “市に属する農夫”という言葉なんて誰も気にやしない。
「礼の一つぐらい言いやがれ!」親方のリンクが怒鳴ったので、限界まで頬張ったまま頭を下げたのだった。その典型的な仕草に、ウニヴェロッサもまた右手の甲を向けて二度振る、思い思いに過ごせと示す典型的な仕草で応えた。
「ところで、実は先日事故をやらかしまして」
「ほう。自ら名に傷を付けたか」
「怪我人まで、出したは、生涯の失敗でした。そいつらには、どうかよっぽどの、言葉をかけて、やって、もらいてんですが」
台詞をいちいち端折りがちの職人の言にしては途切れ途切れの冗長。あ、遂に仕掛けてきたな。感付いたウニヴェロッサの素振りの変化といえば、その怪我人たちに心底から同情するような瞳であった。まるで洗いたてのようだった。邪気のない顔色を見、緊張の割にあっさり運んだ事の軽さに拍子抜けしたリンクは、その皮の下に横たわる冷徹に気を回せない。
怪我人たちは詰め所に収容されていた。木造二階建て。外階段が備えられ、上下の部屋を二世帯で利用きるように造られている。市壁という殻に覆われ、空間を効率よく使わざるを得ない都市独特の高層建築法はまず市壁の外にはない。都市では厚い壁や天井材という物質によって互いの私生活を犯さないよう出来ているが、農村部落は距離によってそれを尊重し合う。部落の有力者は、
――こんな変てこな住みかはいらねえから、式が終ったら壊してくれ。
と重々の注文をつけている。
このように、王権の拡大と都市の発展とともに生じた様々な形の変数が封建社会を構成する大小の集団に代入され具体的な変化を呼び寄せても、自然と共生する農村は変わることができず絶対の守旧を保つ。権力を持たず躍動の機運もない農村は、王権が象徴する一元化と都市が象徴する多様化の狭間からこぼれ落ちた格差という澱を象徴する世界になる兆しを覗かせている。
――仕様があるまいな。ウルフィラとて手当もあるまい。
本来全くの他人事に無闇な引っかかりを覚えるのは、ゆとりを得られる生まれ育ちの産物と無分別の若々しさの他何物でもない。問題当事者でもなくては打破しようとする志向性は生まれ得ず、流動する記憶からやがて消えてゆくはずだった。澱に捕らわれた者たちが夢中になっているどんちゃん騒ぎ、喜びか憂さ晴らしなのか、ウニヴェロッサには判別がつかない。
「む。連中は一階か」
「上階をひどく嫌がりましてね。地に足をつけていられないと不安がるもんです。考えることがどうも古くさくってねえ」
「怪我はそれほど深いか」
「足場から落ちておいて骨を折らなかったが不思議ですよ」
リンクの顔色から見抜いたウニヴェロッサは足を止めた。痛恨の表情であった。世を覆う教義はあらゆる外傷を厭わせる。聖堂建設は神に捧げる仕事。これで怪我人を出してはグリゼリウス家所有物の名が廃る。リンクの満面には、取り返せない失態を犯してしまった苦渋が未だに張り付いていた。
――嘘を言っておらぬしこのような演技もできぬ。
「たかが怪我人の見舞いに護衛はあるまい。ここで待て」
「ご当主様には一人にさせてはならぬ、と厳く命じられております。どこであろうとお一人には出来ません」
「まあよい。来い」
護衛の中では最も腕が悪いフェリクスを選んだについて、彼らは己の自負を初めからないもののようにして、無言の虚ろな支持を表明した。彼らも、リンクの企みの焦点が結ぶのはここだと長年の経験でぴーんと来ていた。どんな異変とも分からないがすぐさま御曹司の身柄は保護するつもり。その混乱を巧みに利用できるなら、上役のギナに下っているフェリクス抹殺の務めも達する気でいたが、ウニヴェロッサは油断なくその危害をかわす。
さして広くない詰め所、そこへ三人の怪我人が横になっているんだから、彼らの顔は入ってすぐに目についた。
「あっ」
予想もしていなかったフェリクスがとっさに出した驚きだけが、リンクの拵えた手間疲れを慰めた。ウニヴェロッサは、
「やはりお前らか」と平然と言った。
グリゼリウス邸の門前で頑を張っていた泡騎士の三人組に違いなかった。思いもしない再会のお膳立てをしたとばかり思い込んでいたリンクは申し開きのできない過ちを犯したように神妙に俯いている。
「ふ。泡の執念にかかってはどうあっても逃げられんな。何用か。まさか復讐に来たかね」
「と、とんでもない」
「リンクも生半の覚悟でこんな席を作ったのではあるまい。まさかお父様が無粋に怒りもすまいが、それもこ奴らの用件によるぞ」
詰め所はしーんと冷えきってしまった。泡騎士三人組は悪ふざけの末にしでかしてしまった過失を説明する役目を押し付けるような渡し合いを始めている様子である。
「帰るぞ。式を控えて忙しいのだ」
「は」
「お前ら」
「あ、あ。お待ちを。こ、今回はお願いがあってご足労企みました」
「願い? 陳情ならば代官の父にせよ。口添えがいるなら証文をやる」
「違うのです、わ、我々三人一統ウニヴェロッサさまに忠誠を誓いたい!」
「え」さすがに吃驚した。
「何を出し抜け、狂気の沙汰とお思いでしょう。しかし、我々、考えに考えを重ねて、同意した者だけは残り、考えの違う者が去ってここまで参りました」
森でウニヴェロッサが放ったクロスコス毒はまったくの出鱈目で、矢傷を受けた者たちは今このように呆れるほど無茶苦茶な嘆願をできるくらいにぴんぴんしている。しかし、毒矢を受けてから彼らの目に浮かんだ予見は、中毒の高熱に苦しんではうなされて、途切れ途切れに取り戻す意識で死後の恐怖に慄く姿だった。
俺たちはね、と身の上話を語るさまは臨終を迎えた者の懺悔のようだ。というか泡はね、みーんな悪人。悪党なんですよ。一人残らずね。商隊を脅し、税吏を襲い、百姓から奪い、家畜を密殺して、女子供をさらって身代を要求する。市壁の中でだって銭袋を掠め取る。露天からは運上を強請り、難癖をつけて品をちょろまかす。え? いったいこの世のどこに泡くらいの悪党がいますか? 俺たちはね、みんな貴方の矢を受けて、自分の越し方をじーっと見直して心底からぞーっとしたんですよ。あんな悪行をやったのも、そりゃ俺たちだって生きなきゃいけない。餓死には忌だ。鬼と悪魔といわれても、仕様がなかった。でもね、毒がいつかいつかと怯えて弱気でいると、自分のしてきたことを真っ直ぐに見なきゃいけない。審判の神さんが俺らをどこに遣るか考えるまでもねえでしょう。泡の中でも年喰った奴なんかは言うんですよ。騎士なんて聞こえはいいが、俺たちはけだものだ、早い内に気づいて別の生き方をしろってね。数日前までは、このもうろくの死に損ないが何を言っていやあがると相手もしなかったが、今なら分かった。真実だ。俺たちは出直したいんです。ことごとく悪事といわれる悪事はやりつくした俺たちだから、これから真っ当の生き方をしても昇れる階段はせいぜい地獄の一、二段でしょうよ。それでもね、俺たちはあんな風におっかないまま死を待つのは忌だ。もうとてもとても忌だ。
「そいつらはね」情通う男リンクは泣きをもらって、蓄えた涙を拭わないまま口を入れた。「てめえで足場から身を投げたんです。これから忠誠を誓おうってお人に会うのに、嘘を吐いちゃあいけねえって。自分で飛んで深い傷を作ったんですよ。しかも、それを決して言おうとしない。俺にも言うなって止めるんですが、とても黙っちゃいられない。前歴がどうか知らないが素晴らしい改心っぷりじゃねえですか。え、市内にこんな奴が数えるほどだっていやしますか」
それは確かか、というウニヴェロッサの確認に泡騎士たちは、肉体という聖櫃の純粋を自ら損なった傷の箇所をちらっと盗み見、顎をほんの少し傾けた。
――こ奴ら、駄目と言ったら今度は死ぬだろうな。
ウニヴェロッサは都市っ子らしく損得の観点から考えてみた。多士済々のグリゼリウス家所有物に囲まれているが、彼らは敵とまでは言えないが当主ロッシュローの所有物なので味方ともいえない。贖い主としてフェリクスの無事に責任を背負う身としても、死後の恐れから来る忠誠で約を結ぶ協力者は魅力がある。今まで泡沫騎士群生地域の騎士たちが手強かったのは、泡の名で表される有象無象が足を引っ張り合って交渉もできなかったからで、この泡騎士たちの手蔓で切り崩しと引き抜き工作もできるかもしれない。ただ、彼らの神妙さはクロスコス毒と夢想していた騎士像とが作用してできた騎士の変種であるので楽観はしない。
――金にさえなれば何でもやると、今こ奴らが吐露した通りではないか。泡どもが手強いのは話もできんからだ。この伝手さえあれば、案外容易いかもしれん。
「よかろう。だが、見習い騎士に過ぎぬ今は忠誠を受けられぬ。叙任式が終わるまで傷を癒して休んでおれ」
わあっと水が沸き立ったような喜びを背にしてウニヴェロッサはフェリクスを従えて詰め所を出た。その間際に、
――考えはそれぞれですかね、一人はどうしても来ませんでした。所有物のその人を恨んできっと復讐してやると猛っていた。足蹴なんてするからだ。
フェリクスは指で指されるほどの厳重な警告を受けた。そいつは養成所の近くまで探索に来た。恨み骨身に徹していると見なければ。
「騒がしいですが何事かありましたか?」外に出るや、さっきの異様な歓声を怪しからぬと護衛が尋ねてきた。
「向こうと同じよ。酒食を運び込ませて労ってやれ」
節制期間前の食いだめ騒ぎだめをしているかのようなひどい訛りの地元歌を唱和して酔いしれる工夫を遠くに見、指示を残すとウニヴェロッサの一行はナルマーに引返した。三人の泡騎士たちもまた、どんちゃん騒ぎの真っ只中を肩を貸し合い、びっこを引いて立ち去った。
月の満ち欠けが何度かあって、ウニヴェロッサ・グリゼリウス騎士叙任式の日――。
しかし、主役のウニヴェロッサの胸中に高鳴る鼓動はなかった。おかしい、と感じていた。叙任式の出席者は主家筋の代表を招いて、近親、親戚、広くても婚約相手の親族などで粛々と執り行われるのが本式であるのに、この規模はただ事でない。大勢を収容できる大聖堂を新築し、彼らを楽しませる余興を催す。いくら都市同盟交易の調整会議と組み合わせての挙式とはいえ、おかしい。
同盟諸都市を代表する商人、名士、同盟の外で活躍する大商人、グリゼリウス家の顧客貴族。なんとドロス総督イル・ロッソの娘エレアノールの姿さえあった。ドロスの勢力威光が衰える前は、いばらひめと称されて、並々のことでは口を交わすも憚れた高貴な貴婦人は、卑しい奴隷商人風情のたかが三男の騎士叙任式に、落日の祖国を快復しようと強い決意で望んでいた。ドロスとナルマー都市同盟の関係を築く必要をどっしり腹の底まで覚悟した毅然な表情。ウニヴェロッサはエレアノールの痛切な立場を承知してい、壇上に備えた樫の椅子から降りて一声かけたものだが、
――これは騎士の叙任式などではない。もっと高貴な儀式だ。
それどころではなかった。考え付くのも恐ろしい父ロッシュローの企みが徐々に明らかになる毎、息を深くしてゆく。
「自由都市同盟参事、ボイル市のミューヘンさまご到着ーっ」
参列者到着の度、地位と名が呼称され、次いで歓迎の吹奏楽が奏でられる。参列者は真っ直ぐウニヴェロッサの元までやってきて、時候の挨拶や祝辞を述べる。ありえない。こんなこと騎士叙任式ではありえない。彼らの身分は騎士なんぞよりもはるかに格上だし、道端で会うならウニヴェロッサの方が先に挨拶をしなければいけない。それなのに叙任式の運営を統括するゾルムは、
――よろしいですねウニヴェロッサさま。この日あなたは、リンク奴が築いた樫の椅子から一歩も動いてはなりません。一言より口を利いてはなりません。聳える崖の上から水平線を睥睨するようにしていらっしゃいませ。参列者が挨拶を述べてようやく、うむ、よくぞ参られた寛いでゆき給え、と声をかけてやるのですよ。
と言うのであった。そんな顛倒した話があるかと、父ロッシュローに目を移すと、ただ頷くのみであった。眼光が真っ直ぐにウニヴェロッサの心臓を突き刺すように伸びてい、これをしくじればどうしようもないぞ、とかつてない厳命を下していた。
「ウム。よくぞ参られたミューヘン殿。寛いでゆき給え」
ウニヴェロッサの顔色は平静だ。挙動にも声色にも不審はない。精一杯練習してきた伎芸の演目を奏でるよう淀みない所作であった。これをやられて参列者はみんな呆気に取られた。うぬ、ロッシュロー奴、ここまで増長したか! と怒りを露にし、身を翻して帰りかねない様相を見せた者もいた。エレアノールは美しい声とどの都市も凌ぐほど洗練された礼式で粛々と祝辞を述べ、陰口を叩いていた参列者さえ、これぞ教圏貴婦人の鑑、と手を打つような振る舞いであったのを、ウニヴェロッサのあんな始終でぶち壊しにされてしまった。側付侍女は顔を瞬時に真っ赤にしたかと思うやあっという間に真っ青になって、わーん! と呻いてその場で昏倒。悔しさで唇には歯形がくっきり刻まれて血が滲んでいたと、さっきまで評判が立っていた。かつてこんな屈辱にまみれたことのないエレアノールはただ黙って耐えている。
多くの参列者が心にしまってなお一致する総意は、ロッシュローが気を違えたほど入れ込むウニヴェロッサになく、教圏を代表する商人たちが粗方集まったこの席上で、お堅い同盟会議とは違って自分の器量次第で結べる新たな商機との出会いであった。この点、誰もがエレアノールと同じだ。だから誰もがあんな小僧っ子の無礼をやり過ごした。まともに受け取れば気を失いかねない。
およそ十年前、ジェルダン海戦でドロスに勝利し、アンゴラとダルトワを意図して消滅させたミナッツ王ルイジェセンは、直後に起こった教圏全土の経済・流通活動の混乱だけは放置せず、積極的に介入した。ドロスの通商海路の没収や、重要交易地点の割譲、今後の交易において真珠島商人の有利、債権の最優先権を確定したジェルダン条約などを済ませ、競争力をより高めた。そんな中で上手く立ち回ってお零れを頂戴したり、下請けをやって成り上がった商人もいれば、立ち行かなくなった商人も出、元締めのドロスが排他してきた多種多様の産物を扱う小売の商人があちこちに雲霞のごとく発生し、彼らは教圏中を活発に往来して回った。その日々を経験したか上目で見ていた者たちは都市同盟の統制された交易とは別の、私的な商談でこそ成り上がれると承知していた。そこここで羊毛や木材、木綿、小麦、鉄青銅の価格がどうの、ああそれなら西のラト山で新たな鉱掘が見つかったそうですよ、という噂話、アンゴラとダルトワが塞がってエステの貴金属や絨毯、亜麻織物は相変わらず手に入らない、真珠島が独占していたドロス名産の琺瑯工芸が陸路を通じてようやく出回り始めたとの情報交換が活発だ。
水をまいても収まりそうにない商談を一瞬にして凍てつかせる人物が現れたのは、あちこちの卓で商談がまとまりかけたその時であった。
「真珠島マキ領ご領主フレデンツァさまごとうちゃーくっ!」
耳を疑った。否応なく入り口に注目が集まる。参列者の視線が束となって黒い点が生まれそうである。ウニヴェロッサの目に真っ先に映ってきた貴婦人の正体があのフレデンツァ。かつてルイジェセンが異教国に憧れて造った後宮で比希に群を抜いた天才を愛でられて、子を授かった女。ジェソンの生母である。
――そんな馬鹿な、マキに幽閉されているはず!
その後ろにはウニヴェロッサの父ロッシュローがかしずく従者のようにしている。
ものの定めによれば、式典の主役よりも高い地位の者は主役の前に出てはならない。多くの招待客は都市の参事や貴族であるが、これはお客だからいい。ロッシュローは血縁。それもウニヴェロッサが属するグリゼリウスの家長父である。これでは今日までせっせと膳立てしてきた叙任式が台無しなんだが、フレデンツァの存在感はそんな定めを彼方まで吹っ飛ばしていた。野盗や災害、そして手強い交渉相手といった幾多の修羅場を潜り抜けてきた熟練の商人がただ荒肝を奪われて、忘我の心地にいるようであった。
「おお、その栗毛、とび色の瞳」
水を引いた床さえ音もなく動くような滑らかな足取りで、フレデンツァは一歩一歩ウニヴェロッサの方まで歩み寄ってきた。ぞく、とウニヴェロッサの背につめたぁいものが走った。身をよじってここから脱したい気でいっぱいになったが、ロッシュローの企みを遂に明察した脳髄は一筋さえ動かすことはなく、むしろ椅子に加える加重をより強めた。
――……そうか。
「ああ、紛れもない。その目尻のほくろ。今もよく覚えています。わたくしと同じ。膝にもあるのでしょう」
「はい、ございます」
――だが、何というものを課すのだ。
「ここまで来ればもう間違いありません。十五の年月が一体なんでしょう。あなたは――あなたは私の子。あの王の子。ジェソン、私の子よ」
――王になれと。それがお前の求めか、ロッシュローよ。