フェリクス・フローディック 2
剣闘士養成所で禁忌と定められた業を扱う男の噂は深い森を越えてだんだんとナルマーにも届いてきた。フェリクス・フローディックは剣闘士養成を統括するギナの予想を越えてしぶとい。しぶといなんてもんじゃない。やはりガス族だったようだ。自分の値札だけが奴隷の虚ろな拠り所で、別の階層と比べても落ちないほど厳格な序列の根拠。銀貨五三枚の価値は若馬二頭にも匹敵するが、それくらいの価値はあった。
グリゼリウス家末子ウニヴェロッサはたまにやって来ると剣闘士奴隷たちを一通り慰安し、フェリクスを遠乗りに連れて行った。その有様を見る奴隷たちに嫉妬できるような豊かな情動はない。その代わり徹底して無視した。無かったことにすれば奴隷の気は晴れる。それで生きていけると芯に徹している。ただ、漁師の荒っぽいやり方でからかわれたフェリクスには、こうした女々しい攻撃の方が何かと堪えるので、ウニヴェロッサとのひと時でも息が休まる。
「足蹴などをするとは」この日、フェリクスは深い森の淵にいた。ウニヴェロッサの気配は常よりも気難しく感じられ、弓を構えたまま視線を森の中に向けて、傍らに控えるフェリクスを叱り始めた。「我らの両足は試練を踏み砕き、悪霊どもを地下に封じる重石として用いられるべきではないか」
「いけませんか。戦いこそ試練ではないですか」
「試練だろう。だが、お前たちの戦う場は叙任式であるぞ。そのような涜神、到底喜べぬ。お父様は馬上槍試合をも開く。お前はそれに出よ」
「私では戦馬を御しかねて盛り上がらないでしょう。私にはこれが向いています」フェリクスは三叉槍と網を少し持ち上げて意志を表明した。
「ふん、その姿だけは正に漁師と見える」ウニヴェロッサは引き絞った弦を解放した。放たれた矢はそれ自体が獲物まで、力強く鋭い一本の線を描いて突き刺さった。標的の豚は茂みを散らしながら森の奥へと遁走していく。身体の大半を筋肉で覆う豚、そんな獣の分厚い筋肉を貫き、野生の戦意を萎縮させた腕を持ちながら、一射で仕留められなかった偶然をよそに「追い討て」と悠然と命じる有様にはきっと含むところがある。
「は」
「馬でゆけ」拙い馬術を磨かせようとしているのだろうか。
森は深い。それはなにもこの南の地に限らない。大昔からずっと深い。大海原に浮かぶ島々、稀に砂漠に姿を現す水場、夜の雲間から覗く星月のように、小さな農村と修道院が隠れ家のように散っている。人の微力ではこの緑の巨獣にかすり傷を負わせる程度がせいぜいだった。道はあったとしても非常に粗悪で、靴はすぐに壊れてしまう。移動や通運は水路が主で、運搬に使われるとしたらロバか牛といった堅実な家畜が主流である。そんな森に逃げ込んだ手負いの獣を未熟な馬術で追えというのは難題だが、これでもウニヴェロッサは所有物のフェリクスを護ろうとして言いつけたのだった。
薄霧が鬱蒼とした森を引き立てている。トネリコやシナノキは高く高くまで育ち、目を下に向ければ樹冠に陽光を遮られた影場にあらゆる苔、菌類を認める。傘を張る茸はいくらでもあったが、危なっかしいのでよほど飢饉がひどくなければ食おうとする者はいない。このオークの木はサーニー帝国の興亡を年輪の内に刻んだだろう。立派な巨木だ。この一本で数多の農村が冬越しの薪材を心配しなくてすむのに、鉞を使っても容易には切り倒せないので放っておかれていた。森を平然とうろつける王者はこんな巨木を縫うように辿って万国を巡る。最弱に等しい人間では決して静かな旅とはならない。鴉や梟に混じって、いよいよ耳にする王者の遠吠えに怯え竦むだろう。近村の人々は領主や教会の命令か自ら率先してこの狼狩りの徒党を組むが、豊かな森は獣たちをいくらでも生み出す。イタチ、キツネ、アライグマ、ヤマネコ、ヘラジカ、イノシシ、ヤギ、かつては猛禽までいた。フェリクスが追っている豚ももちろん主役の一人だ。もうずっと前に見失っているが、足跡と跳ね飛ばされた木の葉と灌木の折れた枝、血の跡を手がかりにして追う。倒木や馬体以上の溝に行く手を塞がれると、フェリクスの手綱捌きでは飛び越えられず四苦八苦して回り込んで追跡を続けた。馬は騎手に不満を覚えて溜め息のような嘶きを漏らしている。
――俺は船に乗りたいのだ。馬よりも船がいいのだ。
考え事に適する場所は寝床と便所、そして馬上。とことこと歩む馬に揺られたフェリクスは数ヶ月前に引き起こした事件を思い出していた。
――俺はリトバルの子、勇敢な漁師の子だ。
教圏では女の立場は低い。たとえ男と生まれても、男の仕事ができない者はタマ無しと蔑まれて、女からも侮られる。様々な雑言と嫌がらせに苛まれる日々を過ごしてきた。漁師の息子でありながら海を恐れたとしても男は男。毎日間近に見る男たちは気性の荒い漁師たちで、フェリクスがどうしても恐れる海へと平然と漕ぎ出、多くの収穫物を携えて帰還する。憧れと尊敬を糧に恐怖に立ち向かい、彼らの居所まで詰め寄ろうとしてきた。
どうしても駄目だった。漁師の幼い子息や徒弟もフェリクスを侮った。桟橋から手を伸ばして海の水を掬う、浜辺まで足を伸ばして波の音を聞く――それくらいならできる。不動の足場さえあるのならフェリクスは平気だ。揺れがいけない。
――船慣れしていない俺はあっという間に酔ってしまうだろうが、そんなことじゃない。あの揺れは俺の心臓を釘打つのだ。なぜ俺は、死ぬ! と直感するのだろう。
馬がフェリクスの恐怖を察して立ち止まった。我に返って見渡すと、逃げた獲物を追う手がかりは途絶えていた。忘我のうちに方向を誤っていたにしては、よくぞ落馬しなかったものだ。異教国の馬との交配を重ねたグリゼリウス家専用のこの細身の馬は素晴らしくよく調教されている。
――馬はもう十分だ。きっとウニヴェロッサさまの狙いは俺に馬に慣れさせることだから、戻ってよかろう。俺は、馬は嫌だ。
フェリクスは天を仰いだ。一面の樹冠の向こう、雲が伸び来て太陽を遮る。目を下ろしても一筋の木漏れ日も差さぬ陰。日向は見当もつかない。どこか川に出、上流でも下流でも向かって橋か河岸を見つければこっちのものだ。きっと近くに村落がある。そこで大河ロイターへの道を聞いて戻ればいい。
方角さえ分かれば。フェリクスは目を閉じて両耳に掌を添えた。森の緑と陰と静寂の気配が一層濃くなった。胸の鼓動に気を配らなければ自分の存在さえ疑う。だから――森に入ったら目と耳を閉じてはいけないよ、戻れなくなるからねと言い伝えられる。やがて左の手を筒状にして聴覚を更に集中したフェリクスは音と反対の方向へ馬首を向けた。鳥の鳴き声――この辺りではミツドリと言って蜂を喰う鳥――がした。蜜を求めて飛ぶ蜂は水辺近くを好まない。そら、フェリクスの乗る馬脚の下に咲く花からも蜜は取れる。湿り気のある空気は、今にも馬の鬣に水滴を生みそうだ。行く手を阻む朽ちた倒木がまたも姿を現した。倒木を回りこむフェリクスの頭上には穿たれた天蓋があって、差し込んだ日差しで照らされる靄の中に薄っすらと人馬の姿が浮かんでいる。フェリクスは倒木をよく観、根が長く伸びている方向に転換する。
――リトバルもハズレを引きやがったぜ! 十五年くれえ前の大嵐の日、裸舟に乗っていたずぶ濡れのお前を拾ったのさ! ちょうど、奴の嬶が腹子を流した後だ。おめえは漁師の息子なんかじゃねえんだよ。
いよいよ弄ぶ種を切らした連中が組合の秘密を喋ってしまった。フェリクスにとっては頭の上に星が落っこちてきたような衝撃だった。父リトバルも母ユルヴァも金髪だが、フェリクスは栗毛、瞳の色も違っていて変だとは思っていた。海への憧憬を台無しにするあの恐れをよそに、この森への親しみをフェリクスは禁じえない。森で生き抜く知恵を、フェリクスは誰に教わったわけでもない。幼年期、子供同士で森に入って取るに足らない冒険話を仕入れて、偉大な騎士道譚と照らし合わせて喜ぶのは健全な証拠。深入りして迷ってしまうのもよくある。その子供の集団を引いて生還したフェリクスを、名の通り<幸運な者>と囃し立てたごく短い期間を除けば、男仕事が出来ない阿呆か片輪と同様に扱われた。
ともかく、あの侮辱はフェリクスだけに留まるものではなく、フローディック家の名誉に関わる問題なので、即刻、決闘の様相を呈した。
この時代の決闘について、国王ルイジェセン二世と副王ベルデナンの連署でミナッツ本土全域に『銅貨五枚に満たない罪状を決闘で解決すること禁ず』布告がなされていた事実は、神が正しい方を勝たせるという古来からの決闘儀式が信仰心と相まってもの凄まじい勢いと深さで浸透している標しと共に、躍進するミナッツ王権による聖俗の争いの新局面を予告している。遂にミナッツ王がルーリック辺境伯に勝利し、王権は本土最高の権威を煌めかせてはいるが、決闘の実の取り締まりは聖界権力華やかな頃からほぼ手つかずであった。
名誉と命がかかる決闘にせよ下駄らない喧嘩にせよ、荒っぽい漁師の取っ組み合いはひどい。安定しない船上で力強く暴れ回る魚を相手に鍛えられた漁師に体格貧弱なフェリクスは敵わなかった。殴られ、壁に押し付けられ、手近にあった木製の日用品で叩かれた。自らを漁師の息子と証明する決闘でやられっぱなしで終れるほど、フェリクスは虚無の世界の安住していない。必死の抵抗を示した。海だけでなく、怖いものに最初に向かっていったのが足だった。足で打たれた対手の漁師は自分が何をされたのか認識するまで時間をかけた。その隙に腕に噛み付き、耳を噛み切った。興奮する漁師は教義に背く攻撃方法、蹴りに動揺したまま、誰もが痛がる金的で地を転げまわって悶絶した。頭を何度も踵で踏みつけ、得物を奪って幾度も幾度も叩いてフェリクスは決闘に勝った。相手は頭をしたたかに打ったせいで狂人も同じになって教会の施養院に収容されてしまった。この大騒ぎの裁定は漁師組合の厳格な親方に任せられた。フェリクスが拾われ子ではなく、フローディック家の正真正銘の子供と決闘の結果で認めたが、決闘という神前裁判で神と人を蔑する足蹴をし、降参を聞き逃して再起不能までやってしまった内実は峻厳で信仰厚い親方の堪忍を遠く越えている。組合追放は即座に決定された。数年前ならここでフェリクスの頭は棍棒でかち割られていたが、決闘禁止令をはじめ王の法制の実施を進めるミナッツ国本土代官にして都市同盟盟主、ナルマー市参事のグリゼリウス家の影響力は最早、組合の慣習さえ蝕もうとしていた。命からがらナルマー市に引き渡され、ウニヴェロッサに贖われ、いまや剣闘士奴隷……。
――それでも俺は神に認められて父リトバルの息子だ。漁師の息子だ。
命がけの綱渡りを強要されてきた中で、唯一つこれだけがフェリクスの誇りであり意志であった。
「待て」
森で呼び止められるなど珍しい。人里は近いのだろうか。全く世間知らずな考えだ。森で一番怖いのは自然の猛威や強力な獣性ではなく、やっぱり人間だ。森の王たる狼だって好き好んで人間を襲いはしない。森は馬を疾駆させるようにはできていない。どうやらグリゼリウス家領を遠く離れてしまっていたのだろう。かちゃかちゃと金属音が次第に近付いてくる。恐らく騎士。辺りは始末に負えない下級騎士の根城で、彼らはかつて変わらず肉体と槍剣の鍛錬と、水路ではなく陸路でなければならない深い理由ありの人々の気配を掴んでは手段を問わずに金銭を巻き上げる。通行税という重要財源なしにはどんな貴族も生き残っていけないのは昔からだったが、ここではその伝統がもう山賊とも区別がない。
「通行税を頂こう。ほほう、馬に乗っておられるな。合わせて金貨二枚である」実に法外な値だ。
「いや、当方の誤り。三枚頂く」
良馬を見るや更に値を吊り上げる。フェリクス自身と馬を引き渡せば、大体それくらいになる。支払いを拒めば腕ずくで奪い取る魂胆だろう。フェリクスは馬を下りた。山賊はたじろぎ、息を呑んだ。
――な、何たる体躯ッ。
やはりガス族だからか、たった数ヶ月の剣闘士養成だというのにフェリクスの肉体は見違えるほど鍛えられていた。養成所で奴隷たち全員が喜んだのが食い物で、肉も果実もたらふく食えた。鉱山や櫂船の漕ぎ手であった頃は夢にも出ない食物ばかり山と出た。栄養充実な食生活と代償の激しい訓練を繰り返した結果、
――この野郎ものになるな。ギナも心中で認めるほどだった。
「これを見ろ」
中は引き締まり外には膨張するフェリクスの逞しい左内腿に赤い傷跡が残っている。靄の中で目を凝らした山賊は「あっ」と悲鳴に近いものを上げた。傷跡の形、円の中に二本の横線というグリゼリウス家紋は所有物を意味する。剣闘士養成所に送られて最初に食らったのがこの焼き鏝だった。これにはどんな辛い境遇を耐えてきた奴隷も悲鳴を上げる。
「本土代官の!」虎の威光のお陰で艱難払って無事にゆくと思ったら甘い。「おおいっ、てめえたち集ま――がゃっ!」どうやら仲間を呼ばれた。最後まで舌を使う前に、大振りの果実のような力瘤に物を言わせたが、まずい。森は馬を走らせるには適していないし、地形地理は見当しかつかない。靄と木々に遮られて弓矢はないが、手綱を引いて逃げるフェリクスはすぐに囲まれた。総勢四名。
剣闘士といえども組織化された生業である以上、きちっとした規定がある。集団戦の分野はあるが、多対一というのはよほどの罪を犯した者の末路を見せしめる公開処刑か八百長、稀に世に出る怪物じみた実力の剣闘士でなければ開催されない。漁師に似ているという理由でフェリクスが選んだ武具組合せ規定では、三叉槍と網を手に持ち、頭部の防具は帽子さえ無く、身のこなしに支障がでない程度に一枚布を巻き付ける古風な格好に、網を持つ左腕につけた護身具の籠手と広い肩当のみと定められている。攻撃力の面から言えば一対一の相性は優れたが、代償として防護に脆い。複数を相手にするべきではない。
フェリクスは馬体にくくりつけていた三叉槍と網を持って両腕両足を広く開け、前かがみに構えた。一対一の戦い、急所臓器を極力護る剣闘士独特の構えで。一方、追ってきた者たちは皆に貧しいようだ。古く短い剣を両手で持ち、盾を持っていない。帷子は綿を詰めたようなものであちこちに繕った跡がある。だが、この装備の差違も頭数の有利の前では大したものではない。ゆっくりと取り囲む山賊の一番右端の男にフェリクスはあっという間に取り付いた。剣の方が有利な距離だが、剣よりも有利な武器をこの男たちは知らない。
蹴りについて、フェリクスは色々と研究していた。例えば、足首から人差し指一本半から二本分上をぶつけると大変に痛いことは、日常生活中の事故で誰もが知っている。この部分を凸凹した金属で包んだ足で蹴ればどうなるか。最も少ない労力、小さな動作で効果を得られる打撃で、脛蹴りよりも優れた方法はない。皮や合成樹脂で作られた靴でも悶絶するのに、鉄で蹴られては外皮裂き肉破り骨砕く。予想もしない箇所に予想もしない方法で打たれた山賊は樹海一帯に響く叫び声を挙げ、痛みを訴える。反撃などとんでもない。口の端からうめき声を漏らして丸くなって震えている。
「け、蹴った!」
「こいつ蹴りやがった! うわっ、あ、網だ」
蹴るという行為を目の当たりにして慄くばかりの山賊たちの隙に投げられた網が二人を文字通り一網打尽にした。フェリクスの網は実に巧みだった。いつか船に乗れるようになる日に備えていつも練習していた投網がこんなところで活かされたわけだ。フェリクスが身につけている防具が他の剣闘士の形態と比べて落ちるのは、武器の長と好まれる槍の所為ではなく実はこの恐るべき網である。尖った武器や帷子の金具に一度でも引っかかったら最後、脱するのは難しい。もがけばもがくほどあちこちに絡んでしまって、とうとう腕さえ動かせなくなるのだ。あとは煮るか焼くか思いのままだ。観客に生死を決めさせたっていい。
「そっち、そっちを緩めろ」
「バカヤロウ、引っ張んじゃねえっ」
駄目押しに体当たりを仕掛ければ、まず立っていることは出来ない。受身もとれず地に転がった。しばらくは起き上がれまい。あっという間に残り一人。フェリクスの三叉槍は小ぶりで腕二本分の長さあるかない短槍だが、槍は槍。剣とは比較にならない性能を有している。突く。素早く細かく。突く。ギナから教えられた通りに。剣闘士は一人で兵士二人分の強さと勘定できるそうだが、一人前の剣闘士には少なくとも二年間の訓練が要る。
未熟なフェリクスの槍は空を突くばかりだった。痩せても枯れても騎士の端くれである、武器の取り扱いにかけては対手がぐっと上だった。金属が掠れ合う音が数回森に響いた。
――なんだこの槍は。下手くそめ。
海の恐れを克服しようとするフェリクスは恐怖こそが試練と定めた。今も出し抜けに始まった斬り合いを恐れている。その試練を踏み砕こうとする足蹴は、しかし、未だ卑小な勇気であった。踏み込みは浅く、槍はかすり傷しか付けられないだろう。騎士の技量なら打ち払って剣突きをし、間合いを詰めるくらいはできるが、おかしなことに槍よりも尚恐ろしい蹴りが虎の威になっていた。敢えて心身の危険を冒すよりも、仲間が網を脱するまで、脛の痛みに慣れるまで待つ方が賢い。
激しい運動のせいで靄が晴れてきた。網を切り抜けた二人に囲まれてしまったフェリクスは窮地の只中にいる。脛蹴りを食らった奴は歯を食いしばって、二度と網を使わせまいと這いずって体の下に隠した。恐れ入るほどの根性。そこへ、思いがけなくも一矢が放たれた。二の腕に矢傷を受けた騎士がたまらず声を挙げる。
「何者か!」
馬上から弓を構える者の正体は、まだ少年を思わせた。この期に及んでさえ彼らの欲目を引いたのは都市で洗練された者特有の佇まいを増幅する豪華な装飾品の数々。すべて朱染めの絹の服を着込み、都市参事一党を表す黄色の外套の留め金は純銀にして花細工が施されている。跨るのは大きな農耕馬に近い品種で、森に適した大変いいものだ。何よりもこの小僧が穿いている膝上までの裾丈の身分に身代を訴えれば夢にも見れないほどの金になる。目標は変更された。
「その鏃はクロスコス族の毒であるぞ」
「え」
「――値踏みの暇などあるのかね」
もう一矢。今度は腿をかすった。ブレンダン地方北部を制するクロスコス族が狩猟に用いる毒は人間にも有効で、これが体内に入ってしまうと高熱を誘発する。呪い祈祷の呪術医も蔓延る時代では、高熱だけで生死に関わる。誰がどうして見つけたか簡単な解毒法は確立されていて、飲尿によって毒性を抑えられた。誰にでも作れる解毒薬なのに、この毒には欲目を覚ましてしまうほど敏感だ。そこには複雑で繊細な、血液と精液の禁忌という問題が絡み合っている。
戦いを厭わぬ騎士や戦士やいくさ人らは、矛盾しているように思えるが身体に傷を付けられるのを極端に嫌う。この風潮を遡ってゆくとフェリクスの足蹴に恐れ慄いたように、やはり教義に突き当たるのだった。尊崇すべき教父オロシウスが神の在り処について、神は心に宿るとサーニー語で説いた教示の正否はともかく、神は心におられる、とシニウス語で誤訳されてしまって以来、人間の心がつとに神聖視された。オロシウスの言説は、人の心に神が宿った状態を聖と呼ぶ、と解説したのであって神と聖との間に一線を引き、無分別な神聖視よりも無批判の信仰のみを奨めたのであった(なぜならば神が信じよと仰ったからである、という強力な常套句を見よ)。だとしても、肉体の定義について解消し難い問題の発生を、あの誤訳のみに求めては筋違いであろう。肉体に関わる命題とは宗教が、真理を明らかにする行為、この場合では神を用いる学問の究明活動に晒される上での少々大きめの過程として覚えられるだけに過ぎない。
――神のおられる心を包む肉体は一種の聖櫃であり、これを守って一生を終えた者に死後の平安と幸いは訪れるであろう。
残置されてきた肉体に関する教義上の定義を設け、聖公座は教圏の人々の肉体を通して文化と歴史を操作する術を見出した。生まれたままの姿かたちが好まれ、女は処女、男は童貞が修道者の肉体条件となり、俗世にも静かな影響を与えた。聖界が色欲を淘汰した為、肉体の中でも邪な象徴たる性器については蔑視を免れえず、尿や精液といった排泄物もまた忌避され、薬という方便があっても小便を口にするという行為の重大事を和らげる効果に乏しかった。解毒法を知りながらこのクロスコスの毒に倒れる者が多いのは、この悶死しかねない相克に悩む間に短い効果時間を過ぎてしまうからであった。
「行くぞ」
三人目の騎士にも無慈悲な毒矢を放ったウニヴェロッサはフェリクスに声をかけて悠々と引き上げようとする。これを騎士たちは呑まれてしまったかのように遠巻きに見送るだけであった。
「うむ、お前たちもこんな始末では残念だろうから」とウニヴェロッサは懐から皮袋を取って、騎士たちの足元にぽーんと放り込んだ。「それをやろう。銀十枚はある」
せっかくの好餌二人に去られた四人組は皆、思案顔で取り残された。
「ふん、クロスコスだって必ず死ぬと決まってるわけじゃあねえんだ」
「そうだなあ。吹けば飛ぶような貧乏暮らしの俺たちだって騎士は騎士。貴族は貴族だ。命惜しさに小便口にするなんざあ、できるもんかい」
「でも、死ぬかもしんねえ。今はこいつを使ってこの世の憂さをまとめて払おうじゃねえか」
「医者も呼んでくれよ。野郎、奴隷ごときが蹴りやがって……」
身の振り方の結論を出すまで、彼らは示し合わせたようにあの奴隷と馬上の若者の素性の詮索を避けていた。あの小僧が自分の素性を名乗っていたなら、ただではすまなかったことを、武芸の業前よりも身分と立場を持つ者にとっては重要な、王の威厳を始め地位の力関係を測る感覚で感じ取っていた。まさか本土代官の御曹司が、所有奴隷を巡って他家の騎士と大立ち回りをしたと知れたら、貧乏貴族はひとたまりもない。危うく破滅の橋を渡るところだった。
フェリクスを助けるために彼らと同じ橋を渡りかけていたのはウニヴェロッサも同じだった。本土代官の息子とはいえ、騎士に叙任される直前の半人前が、賤しい剣闘士奴隷を巡って歴とした騎士を傷つけたと知れれば、自重を知らぬ粗忽者と後ろ指を差されかねない。ナルマー市内でならばともかく、特にこの周辺ではグリゼリウス家は敵役。一致協力でもされて騒がれては面倒事になる。一本の危うい破滅の橋を彼方此方から渡りかけた二人は、自衛心に基づいて互いに引き返したのだった。教圏のつまらない小競り合いから絶妙な政治的力関係までは、まさしく無思慮でありながら尚一致するというこの部分に集約される。
「何のための駿馬だ」
「は」
「素直に逃げればよいものを、あのような野盗風情に捕まるとは」
「――どういうことでございますか? 逃げるとは、あの者達からではないと」
「フェリクス」この時、ウニヴェロッサは初めて自分の所有物の名を呼んだ。フェリクスは身体を堅くした。きっと、のっぴきならない事情を打ち明けられるのだと直感した。「今後十分に用心せよ――お父様は、お前を殺す気のようだ」