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余章

 寒波の到来があと五年遅かったら歴史は大きく変わっていた。

 国家形成を一つの現象として捉えた場合、衛星ソルンの衝突が果たした役割はとても大きい。サーニー帝国の滅亡が自然現象に因らず、中枢が緩やかに衰退する中で力を付けた地方勢力が取って代わったのなら、以後その地域の興亡はこの公式を伝統とした。大陸東部の大国デーンは始国フトから数えておよそ八番目に同地を支配したが、七番目の支配勢力の中枢から程良く離れてい、財産と能力を有する難民が多く逃れ着いてから急激に発達し、遂には主権を奪い取った。その前も、その前の前も王朝の交代はこの類型的な展開を辿った。同程度に発達した地域が対立し合う戦国時代はその公式が生み出す副次現象であり、戦国の覇者が主権を獲得した例は一七回に及ぶ交代劇の中で僅か三度。その内の一つは、国家形成の類型的展開が異なる外域の侵略なので厳密には二回しかない。通例では類型外の外異国が握る主権は概ね長続きせず、その崩れ方も中央の混乱を脇目に興った地方に力が集中したいつもの現象で、戦国の英雄や建国者などから後付けの虚飾を剥げば如何に取るに足らない人物であるか明瞭である。逆に言えば、その地の伝統的な公式を封じさえすれば労せずして腐壊できる。たとえば戦争こそが主権交代の条件の国に内外問わず戦争を禁じればそれで終いだ。新陳代謝が止まった状態で八十年から百年でも寝かせれば、鼻がもげるほどの臭みを漂わせる腐れ振りを見せてくれる。

 その地にはその地に宿った国の作り方というのがある。その行程を無視しても決して上手く運ばない。サーニー帝国を滅ぼした原因は絶後の大寒波に違いなく、帝国崩壊後の空地に国生みをした者たちの、その後の公式になった当地の主権交代の類型的展開手法が単なる略奪と蛮性であった事実を教圏半島の地誌から直視しない限り、人物論をどれだけ重ねても徒労でしかない。洗練には程遠いそれが本土の流儀なのだ、と言ったウニヴェロッサは全く正しい。だからルーリックに集めた諸侯に苛烈な略奪を煽った。寒波はただ北淵からヴァイサーン人という白魔を呼ぶだけ。寒波が引けば彼らも立ち去る。長続きしない類型外の条件。ルーリック周辺で吹き荒れた略奪は開国の狼煙のろしだったのだが、聖公という頭にして魂たる主権保持者が健在の内に気付く者はなく、ドロス経済破綻の目論見も未遂に終わった。半島に蛮性を解き放ったのはその不在を端的に宣告した追放処置に他ならなず、その異様なる作為から意義深い通牒を感知した者もやはり非常に少なかった。教圏半島と呼ばれた地からは法も秩序も神も正義も姿を失くし、生きていて幸福だったと覚える全ての原因は排除されていたのに、半島の人々がその事実を否応なく認めるのは実際に略奪と蛮性に晒されてからだった。

 乱発され権威を失くした恩寵こそが教義という鉄鎖で緊縛していたその厄災を召喚し、封じ込められていた皇帝はその化身として復活する。聖公追放と皇帝破門が物語る事態とは、既定の対立の域を越えて新たな主権保持者を選出し、新たな主権領域を組み立てる開国の類型的展開手法が主流となることを意味した。ただただ略奪と蛮性とによって。

 略奪と蛮性の権化のようなヴァイサーン王ベニベニは狡猾で目敏くいといもなく敵を毒殺する。熱心な教義信仰者でありながら聖公座せいこうざ劫掠ごうりゃくし、聖的権威の象徴聖公を捕囚して教義再編・聖公座せいこうざ刷新の目的を達すべく利用しようとする強烈な行動力がある。ただし、寒波があと五年遅くともベニベニではこの戦乱を乗り越えられなかった。教義は聖公よりも古く、略奪と蛮性は教義よりも古い。もしも数字のように実在し永続して個人差が起こらない認知を強いる神が国を作ったのなら、教義が開国を定めたのならベニベニは勝ち残っただろう。そうではなかった。教義と聖公は略奪と蛮性で国を作った者たちが同様の手法で奪われるのを恐れ、支配の根拠を生み出す安全装置としての権力を与えられたに過ぎない。その霊的力は治国の法であって開国の法ではない。その取り違えが敗因となった。ひどく荒っぽいやり方ではあったが、ウニヴェロッサは聖公追放を決議したあの時点で何が起こっても相討ちに引きずり込める政略を整えていた。聖公を手中に無制限の恩寵に浴せる王は法であり秩序であり正義そのもの。神と至近の存在と見なせるも、その霊的力が通用する教圏という地域が聖公の追放によって半島北西部の支配域まで著しく縮小していた。聖公捕囚の構想とはかつて民会の上位に立ったように、半島、教圏、教徒全てに影響を及ぼす聖界の拘束力を克服し我が物とした絶対の権力だったのに、躊躇ちゅうちょなく聖公を切り捨てたウニヴェロッサに呆気なく崩された。大多数の人々は略奪と蛮性が半島を覆い直した事実にまだ気が付いていない。慣習に馴染みきった民衆にそれを伝え、目を覚ますには聖公追放という衝撃は大きすぎて時間がかかる。もっと身近で起こる衝撃が要、じきに救世主を求める声となる。

 寒波が地域主権交代の主な要因であるのはエステ帝国が支配している大陸西部一帯だった。南下したヴァイサーン人との交際が寒波去った後の勢力拡大の強い要因になっていた。彼らをお客として丁寧に迎え入れて頼母たのもしがられる評判を得る。間違っても弓槍を手に追い払おうとしてはならない。白魔、氷雪の人形などと言われても恩讐は知っている。誰のせいでもない自然現象で流浪する彼らに情をかけられるかどうか。サーニー帝国はこの新たな蛮族相手に対応を誤って滅び、帝国と契約していた辺境蛮族首長の一人娘に過ぎなかったアシュタルテ一世は数多くの血族を保護して勢いを得た。多産を伝統とするヴァイサーン人に多くの女を提供し、一説には自分をも提供したという話もある。最有力血族との政略結婚に尾鰭が付いて伝わったものだろう。時移って、この言い伝えを真に受けたヴァイサーン血族があって至れり尽くせりの避寒が終わって土産に帝王の娘を要求した一件が実際にあった。上り調子のエステ帝国と辺境の一血族とでは釣合わない。否応なく政略色を含む帝室だけではなく、避難民を受入た者たちにヴァイサーン人の習わしとして要求されたが、女性を深窓で尊ぶエステ人特有の気質は強固で叶える者は少なかった。物が物だけにウルフィラが傘を望んだようにはいかない。ガイロプリットとフィーローズの太守がその要求に応じた理由は、治国の法が主流となった中央と一途に拡大し続けなければならない帝国の宿命を帯びる地方が開国の法を奉じ続ける原論より端を発す。ガイロプリットの場合、征服できる土地がすぐ果てた為にヴァイサーン人を社会悪と捉える中央色に染まって三重の城壁を築き、寒波の際には城壁間に監視居留させる処置を採った。しかし、フィーローズ地方の場合は、広大な土地が遙か東の彼方まで続いていた。エステ帝国の誰もが女性だけは決して土産に呉れないのにフィーローズは、そんな大事な物さえ与えてくれる太っ腹な印象を世界中に広めた。アシュタルテ二世の死後にフィーローズ朝が分裂した事件には凡そ人為らしき人為が見あたらない。治国の法が主流の中で唯一、開国の法を奉じ続けなければならなかったはみ出し者の地域が異物として弾き出されたので、当初この出来事には分離という穏当な語句が当てはまった。巨大すぎる帝国行政を迅速簡便に行き渡らせる役割分担の方策として認知されていたが、当のフィーローズ朝が地は続いても開国の類型的展開手法が異なる地域まで征服したのを期に国策の基を治国の法に、即ち主権を獲得する政策から維持主張する政策に切り換えた際、帝国に帰属する単純な話が何かの条件でもつれこんがらがりねじくれてひねくれあって分裂した。

 アシュタルテ三世が今回の寒波と直面したのは、元にさかのぼれば全くの無意味としか言えないフィーローズ朝エステとの決戦直前だったが、治国の法同士の争いで開国の法を用いては過ちの元になる。女帝アシュタルテ三世が嫁入りするにしろ婿取りするにしろ帝位が他民族に渡りかねない。アシュタルテ一世が後継者を指名して早々と表舞台を降りたのはこれがためだし、私的な愛人を幾らも抱えたアシュタルテ二世も帝国を夫としたと自称した。女帝の威を着て綱紀を乱した浅慮あさはか者には、

――それほど女に憧れるならなってみるがいい!

 怒りを示して、局部を切り落とし牛の乳房を縫合させた反吐が出るほど情けない姿で宮廷から追放したという。色々な書き物に猛女と記されるぐらいだから本当かもしれない。

 治国の法に切り換えた時点でヴァイサーン人を必要としないフィーローズ朝も、征服地と支配力を拡充するのにこれから必要なのは単純に見えて実は扱い難い兵力ではなく、真珠島しんじゅとうの商人が金の力でヘダイブ半島を席巻し、デーンとの互いが互いを必要とし合う経済であるという新時代の到来を既に認めていた。

 戦争では敵の敵を味方とするのが常。争いの最中に敵の敵を、敵と結んで追い出そうとするのは、幼稚な喧嘩か、意地尽くの戦いか、獣の争いでしかない。いずれも蝸牛の角で争うような規模であるはずが、エステ帝国とフィーローズ朝という二大強国の最高の理性を結集した決戦でそれが起こった。むしろヴァイサーン人たちが今回の寒波を尋常でない規模と察知してい、避寒地をより南方に策定していたと言う方が適切かもしれない。寒波がきついから戦は延期した方がいい、と勧める親切な助言も活かされず、ヘダイブ半島周辺は血みどろの戦になりうる。ならば既にメルタニアのシモンによって道が通じている教圏半島がより安全ではないのか。

 略奪と蛮性を象徴する白魔は文字通り雪崩込んできた。メルタニアに移ってシモンの半島攪乱を支援するガイロプリットの太守はコルトセットから接収したばかりの関砦を駆使した防御戦をやらずにおとなしく彼らを通した。数え切れない規模のヴァイサーン人の群また群。正しく大群。塞ごうと思えば塞げなくもないが、突破を諦めてメルタニアに住み着かれる方が大事。点に拘って面を失う脳足りんの戦など知らない。ここに至るまでも数々の略奪を働いてきている野蛮人連中がもっと南に行きたいと訴えるのなら行かせてやればいい。いずれ関砦を塞いでしまえば半島に誘引された連中は袋の鼠。その日こそ、黒犀クロサイと呼ばれた男の防御戦の業が光る。おびただしい数のヴァイサーン人を放り投げてシモンには少々悪いことをしたが、あれはあれで優秀な男だから巧みに裁くだろう。やり損なって馬鹿馬鹿しい紛争になったとしても、ガイロプリットから引き連れた練達の守備兵と半島に手を出せずに過ぎた十年の間に肥沃なメルタニアで培った兵糧がたんまりとある。

――そうなったら笑い者にでもしてやるか。

 以心伝心か状況の要請に素直に従ったか、シモンもまた柳に風と新手のヴァイサーン人を無難にやり過ごした。彼らはベニベニと戦うか戦わないかという選択肢が示されたが、北西部の入植地で吹き荒れた粛正から逃れた者たち以外にベニベニと争う理由はない。自主封建的散居傾向の強い個人主義の集団が選ぶ答えは考えるまでもなかった。

 理性では凌げないほど過酷な環境に性質を育まれ、理性に最も遠いヴァイサーン人を寒波以外の手法で統率するベニベニは曲がりなりにも力を持った代表者ではある。しかし、ヴァイサーン伝統の民会の存在が語るように、彼らは神よりも人に導かれたがった。神格化され民族の原点に配置された衛星ソルンが氷雪の女神ソルンと転じても尚、人格はひとかけらも存在しない。理性から遠いヴァイサーン人は神の力を引き出さないまま人の力のみを重要視した。それは人間に許された三十のうち五よりは引き出さないまま残る二五の偉大な力に思いを寄せない、理性からも神性からも遠い故に野蛮の域を越えない人間の力、大部分を空転によって消耗する儚い個人の力だった。個の力を誇るせいで、血族、個人同士の強い結び付きに囚われたヴァイサーン社会は自主封建散居という独力で維持しうる限りの規模も深度も小型なものしか築けなかった。もしも、ベニベニが外から現れてそれら小さな社会を各個に撃破し、覇権を握って教義を広めて治国の具としたのなら。暴力を伴う布教で事を成したのなら認識の差と矛盾は生じ得なかったが、内側から拡大したベニベニの覇権とは、あらゆる面で取り違えられた手法に必然と立ちはだかる障害を力ずくで乗り越えて形成されたのだった。民会という治国の法を壊滅させながら治めようとし、代用品はヴァイサーン社会では一本の薪よりも頼りない神という存在で、あろうことか自らを裁定者にして執行者、神にして聖、正義そのもの、ソルンの加護を受けた真の王、法であり秩序であり神であり正義であるとまで宣うに至った。その神の力でさえ、今や有効に用いられるはずの教圏は実際上、ベニベニと聖公を繋ぐか弱い線でしかない。ベニベニは懸命に支配し、問題と苦闘したが、理性に遠いヴァイサーン人社会を国という状態まで緊密にしようとするその手法は、群島という隔絶地で発展した理性に因らない治国の法<民会>を移入した外域で、理性に因る治国の法<神と教義>を開国の法として展開する図式なのであり、しかも革新するべき社会の内側にいたベニベニならばこそ破綻するしかない難問に他ならなかったのである。

 ヴァイサーン人が支配者に求める像を敢えて想定するのなら、神ではなく人。きっと絶対の家父長権を持つ父ではなく頼れる兄か友のような存在なのだろう。神の如きベニベニと人を繋ぐ唯一の架け橋だったジャジャの権威を自ら剥奪した軽挙こそ正に致命傷。神と人を繋いでいた糸を断ってしまっては神は漂流するしかない。ソルン、神、聖、正義や法、秩序などなど、人々が思い描く尊きものから息継ぎするように顔を出して、私はここにいる私はここにいると呼びかけたところで、その尊厳を用いて達成しようとする目的がそれぞれ異なる主権の構成員に、即ち公的務めを解さずに私的渇望しかない無理性の大衆に利用されるだけだ。神に味方するだけでは飽きたらず、自ら人の身に宿した者の末路などこうしたものだ。そして過てぬ重圧は自ら宿した正義に幾層倍にもさせられ、やがて自らこそ秩序阻害者であると認識したその瞬間、思い上がりの精神を刈り取る。

 ベニベニはヴァイサーン社会では誰にでも備わっていた執行者の権限に、裁定者という側面を足したあの状態で留まるべきだった。王ではなく神でもない一人の人間、兄として友として振る舞い、巨大ではあるが内実は空疎なヴァイサーン社会を信義で以て緊密にすれば、その実効支配はよほど長く続いたし、暴虐の冬王という汚名を被りもしなかった。大王ルイジェセンが志向した理想支配者の姿で留まるべきだった。清純な信仰心こそが過ちの元だった。奪い取った聖公に許されたのはただただ王のために恩寵を生産する役割だけで、教圏で唯一司った神と人を繋ぐ役目は剥奪されていた。ここに現れた本来ならあり得ない捻れた構図に着目してみよう。神としか言えないような権威で自らを身動きとれないほどがちがちに固めたベニベニが、何故、聖公という代理人を介してから恩寵を得るように順逆を曲げたのか。これはもう神学上の何らかの制限を自ら定めて重苦しい荷を軽くしようと努めたのではなく、教義教徒に向けた単なる自己顕示に過ぎない。無痛の精神の保持者ならば、

――惰弱!

 と一刀両断するような甘えが露呈している。ただの駄々だ。絶望に囲まれたそうした窮地で握り締めていた命綱も聖公の追放によって断ち切られて、今や信じられるのはただひとつ。ヴァイサーン社会が代々認めていた個人の力量による支配だけであったが、ベニベニが神だの正義だのの駄肉で膨張させる以前のヴァイサーン伝統の形態であれば個の極致として問題なく共感を得られる実力行使も、神も経済も可能な限り単純化した状態でしか知らない無理性の民衆とそうした聖性を無定見に付け加えるだけ加えて得た主権の最小公倍数で求められる結果に、つまりは暴虐と変化するより他になかった。ベニベニは大正を行使した。しかし大正を知らない人々は、自らは遵守じゅんしゅしないのに他に遵守じゅんしゅを強制させる単なる暴虐と解した。この社会の恐るべき化学変化によって、目指した安らぎは一向に訪れず、気を抜くと己の失策に苛まれる日々が続く。

――共に戦ってくれる友はこのまま残り、戦う力のない家族はこのまま進みなさい。

 一方で、シモンは新手のヴァイサーン人にこう伝えた。典雅な人物には戦を好き過ぎると辛評されるとはいえ、柔弱なメルタニア人相手の押し引きを大過ないまま成し遂げてきただけはある。百聞は一見に如かず。直に見るとヴァイサーン人とは単なる無邪気な子供だった。自分の欲望しかない目先暗い愚物ならば無邪気に立ち返ったとかいう爺婆より遙かに扱いやすい。隘路あいろの関砦を抜け、今回の寒波を避ける半島に入ったからには、大群が一塊のまま同じ方向に移動する困難を継続する理由も彼らにはなかった。シモンの心情に惚れ込んだ命知らずが戦士としての自己を刺激されたというのもなくはなかろうが、西に移動する集団と南に移動する集団に分離したと見るのが妥当だろう。個人主義を鉄守する八割がレストン川を渡る。対岸にも争いが起こらないとは限らない。

――さて、ローブ・シ・ガレーとやらはどう扱うか。

 半島に侵攻する構想をひっくり返された礼だ。どうか受け取ってほしい。

 半島北部の邑里は大概がシモンとベニベニの略奪に遭った後だったので、レストン川を渡ってからが白魔ヴァイサーン人が略奪と蛮性を発揮する最初の機会だった。身近に起こったこの衝撃によって人々の現実観念は、教圏と呼ばれていた治域が消失していたという既成事実に追いついた。それまでの彼らは例年になく厳しい冬を越せるように、災いに見舞われた聖公さまがご無事でありますようにと懸命に祈っていたのだった。中原の王侯領主には自分の土地を守る以上の力がなく、従ってそれ以上の頭脳もない。今や半島全域を守る務めを果たす主権者の不在は誰の目にも明らかになった。無防備に荒らされるしかないと思われた中原を救ったのはやはりガレー家。

 世界中を結んでいる世の裏街道の要衝ガレー家に人種だとか民族だとかのちゃちな問題はない。いつどこでも裏の世界に身を落とす奴輩が絶えた例はなく、サーニー帝国時代のナルマーに援産所を開いて社会秩序の回復に臨んだ古グリゼリウス家も、

――軽事犯けいじはんを善導する要諦ようていはただただ政道の真正誠実にあり。基治めずして末治まらず。重き罪科刑罰にて脅迫せしは末のまた末なり。

 実の苦慮を思い返して訓言を残した。ましてや聖公座せいこうざ按察使あんさつし汚職蔓延はびこった中原に於いてをや。諸国の掃き溜めガレー家。目の色髪の色肌の色の違う奴らの中にはヴァイサーン人だって大勢いる。十人衆バルクハルトだってその産ときた。レストン川を越えてきて無体を働く大集団の真相が猛烈な寒波に脅かされた避難民と知っては、弱者を味方するガレー家では力ずくで追っ払うのもできない。弱者。ならば難しい考えは要らない。いつもの流儀を果たせばいい。ガレー家のヴァイサーン人は血族という血族の間を走り回って、冬越しの地を提供すると伝えた。縄張りの上にいる領主たちにうんと言わせたのは、潔癖公も人柄を認めた十人衆やローゼットらの腕っこきの靴組。

――あの人らには強い冬を越す知恵と寒地でも育つ品種作物がおありです。無駄な血を流し合って悪くした場合両者が共倒れてしまうよりも、お互いの持ち物を寄り合って力を合わせていくのが一等じゃないでやしょうか。略奪に見舞われた方々の補償やこれからの面倒事なんやかやはあたしらが一切を請け合います。

 受入地に当てられる縄張りは公会議で文面上返還されていたが、教圏が消失していた事実が衝撃なしに衆知されなかったように、縄張りの返還が現実に達成されるのにも一定の衝撃は必要だった。縄張りを譲られた聖公座せいこうざとドロスは公会議の結果に反発し続けられる状態になかったが、ドロスの交易所はともかく聖公領内に含まれる縄張りの返還交渉が問題の焦点だった。特に按察使あんさつし聖公座せいこうざヴォレヌスが劫掠ごうりゃくされた時点でベニベニと同じく綱を切られたたこで、野盗にでも成り下がるしかなかったが、こいつらの悪事は日常茶飯で皆慣れっこだから真実を喚起する役さえ果たせない無意味な穀潰ごくつぶしに等しかった。殆どの按察使あんさつしは司教だの修道院長だのの聖界領主の元に身を寄せて私兵に成り下がってい、強硬な世俗領主が時勢を読んで連中を叩きのめした事件も地域差があり伝播でんぱ力に乏しく、何より既定の争いを越えた代物ではなかった。ヴァイサーン人侵入という教圏史上初の事態に際して、後ろ盾を無くしてそれぞれに癒着先を得た按察使あんさつしと、潔癖公に代わってミナッツ王国が後援のガレー家の利用価値は比較するのも馬鹿馬鹿しい。ローゼットは縄張りの多くを聖公座せいこうざの取り分にしてしまった責を感じ、聖界領主の元をよく訪れて縄張りの返還を説いて回った。

――我々は聖公さまを奪い返すべく雄志を募っています。按察使あんさつし長を勤めていられたローゼットさまがガレー家ともども加わってくれれば千人力でしょう。どうかお力添え願います。

 顔見知りの按察使あんさつしなんかはり寄って来てこんな恥知らずを口にして、ローゼットばかりかアウグスタリア金貨三千枚を手にした噂のガレー家をそそのかして甘い汁を搾り取ろうとするんだが、もうそんな手は食わない。

――そうかい、勝手にやんなさいよ。

 あまり冷淡にうっちゃった破落戸ごろつきローゼット、外敵との戦い方の心得はあり、聖職者のやり方を知悉し、按察使あんさつしの身勝手な性質を身で学んだだけあって実に巧みに進んだ。迫る白魔は聖俗の別もないからぼやぼやしてもいられない。ヴァイサーン難民受け入れに、家を割ったばかりのバールとも組み、伝手つてという伝手つてを使いきったガレー家は中原での略奪行為を最小限に食い止め、ミナッツ王国ルーリック地方に姿を現したヴァイサーン人は僅かだった。

 その年は冬の厳しさが深まるまま閉じた。明けても出口の在処が分からない真っ白い箱の中に閉じこめられてしまったような日々を安らいでくれる神はもういない。

――冬はもう終わらない。お怒りになられた神様は人間を皆殺しにするおつもりなんだ……。

 この時点で、人々を救い教圏半島を再生する救世主に最も近いのはローブ・シ・ガレーだった。崩壊の強迫観念にすたれた先住民と難民のいさかいは起こらないはずがない。ガレー家はどんな悪天候の雪道でも苦労を厭わず調停に現れては理非を明らかにし、依怙贔屓えこひいきはなく筋の通らぬ方をやんわりと諭しては、

――縄張りの騒ぎを治めるのは当然の努めでございやす。まだまだ終わりそうもない冬ですが、どうか挫けずにいきましょう。

 不足の物資を置いて調停の礼物など受け取らず両肩に雪を募らせて帰ってゆく。幾人かは遭難して二度と戻らなかった。この伊達姿がヴァイサーン人理想の指導者像ときっちりはまってびくともしない。胸を打たれて一度調停が果たされた縄張りでは滅多には次の騒ぎは起こらなかった。ガレー家ごと一括りに游侠ゆうきょう者を悪者にする者は、

――なあにそんな健気な連中なもんか。取り返したばかりの縄張りを固めるために生真面目なヴァイサーン人に博奕ばくちを覚えさせては、いかさまでふんだくったんだ。

 とよく言わない。煙が立つんだから火がある。いかさま博奕ばくちはどうやら本当らしく、各地の縄張りで足りている物と足りていない物を調べて、どうしても替えてくれない相手にやったのだった。

 だが、そう、なんでローブが自ら求めて半島を治める新たな王などにるものか。いやしくも裏街道を行く者、表の方々とは謙譲と遠慮をどれだけ重ねたって対等のお付き合いなどしてはならない。お百姓さんに会えば必ず自分から挨拶をし、領主さまの権威をあらわすお触れや刑場に遭えば回り道をしてお目こぼし頂いている身分をはばかった。数十年もなかった厳冬に虐められて家人全員に靴を許しても堅気かたぎの方の前を行く場合はわざわざ懐に隠す念の入り用。教圏在りし頃ガレー家がお上様からお預かりした按察使あんさつし添え役のような御役も裏街道の奴がしでかした馬鹿の始末だったり、捕縛の協力などで、旅游侠ゆうきょうの世話や治安維持の延長を出ず、馬鹿を渡世とせいからはみ出させた大迷惑をぬぐう性格と合致せねば謝絶しなければならない鉄の掟。芝居<蔵の前>を――喧嘩を美化しすぎるから、と封じにしてもらったローブがどう頓転とんてんしたって王になどなるわけがない。荒唐無稽が許される御伽話ならローブが王冠を被るのも幾つかある。ただ、見習いがそんな与太話を作ったのを知って怒髪天を衝いた四代目スロアーガは、本気で足蹴を顔面に食わせて炎を発すように怒鳴り散らしているうちに中風ちゅうふうを発して死んだ。侠圏だとか侠圏国だなんてのは下駄らない駄洒落にしかならないにしても、ガレー家を深く知る者ならそれがどれほど有り得ないかが分かるのだろう。

 ベニベニの大器は欠け、シモンに半島の野心なく、ローブ・シ・ガレーが辞退するのなら、教圏の再生を叶える救世主は皇帝を称するウニヴェロッサを除いて他にない。ルーリックにまで到達したヴァイサーンの集団に混ざっていたウルフィラがイシュー地方を抜け、ロマックに入ったのは年が改まってすぐのことだった。

「や」

「やあ」

 ここに、二つの龍が集った。再会の言葉としてはひどく味気なく、ささやかな宴席さえもないので、泡騎士やネギなんかは二人の仲を語った評判もあんまり当てにできたものじゃないな、このお方と円満に付き合う法を伝授して貰えればどんなにか助かったのに、と残念がった。その矢先にウルフィラは役格を得て旅の疲れを癒す間もなくロマックを後にしてしまった。普通、際立った能力と余程の縁故えんこなくしてなれない財務官というミナッツ王国での出世第一歩にどんな権限が付帯されているのか、特別という言葉まで付けられて。ネギは僅かに覚えるところあったが泡騎士の混乱はより複雑になった。

 暦通りなら春のはずが今年からは一味違うらしい。北の方では雲がやっと白んで、時折覗く青空はひとまず冬を抜けたように思わせる。春を感じさせるのは降り止んだ雪ばかり。日差しは薄雲にも遮られて風の冷たさは耳を抉るように厳しい。そんな中でメルタニア・ヴァイサーンの同盟と暴虐の冬王ベニベニが戦闘状態に入った。情勢は大きく変わりつつあった。エステ帝国とフィーローズ朝の決戦は、戦場に立った両軍の士気を激烈な寒波が凍てつかせ、ヘダイブ半島の真珠島しんじゅとう商館が仲介に立って停戦が約されていたから、半島を攪乱してミナッツ王国を引きつける当初の戦略的意義は乏しくなっていた。シモンは、停戦はなし崩しに休戦、和解に繋がるだろうと読んでいた。莫大な戦費は無駄になった。帝国領の大半が凍土と化してはこの寒波をどう切り抜けよう。国力の回復も長くかかるだろう。女帝なれば帝国のまとまりは維持できるとしても、フィーローズ朝併合の偉業は達成目前で遠く去り、後の務めは指名する後継者が十分に諸侯を押さえつけるほどに国力を回復させる地味なもので終わるだろう。地味だが非常に繊細かつ重大な問題。間に合わなければ帝位を軽んじる者たちが分裂の動きに出るだろうし、中途半端な回復では内乱を呼び込む。もしもの場合を考えるとシモンの居所はすこぶる悪い。微妙な仲のガイロプリット太守にメルタニアに居座られ、コルトセットの関砦に塞がれて味方とは言い切れないヴァイサーン人共々半島に閉じこめられている。ドロスの帝国商館長に依頼して黒犀クロサイ太守との関係修復を見込む催しを開いて貰ったところ、向こうとて盆暗でなく帝国の行方の察し様はシモンと互角。肚は迂闊に見せないが行動全般に腰重い黒犀クロサイ殿が易々とガイロプリットまで退くとは思えなかった。

蒼海そうかいは槍を立てるように荒々しく商船の往来危難によって西の関砦解放し南北の商業の旺盛を刺激し女帝陛下の御心の安らぐ一助としては如何か」

「半島に蛮族奴を閉じこめ一網打尽にしうる好機にあの関砦は不可欠である。解放など以ての外」

「破砕とは言わぬ。封鎖の如し現状の重囲は行き過ぎと助言する」

「砦は極秘裡に増改築の途上であり情報流出を恐れる。他に一つフォール山を越える道があるのでは」

「フォールの冠雪平地の比でなし。到底人足にて踏破できず」

 帝国西方の実力者三名が寄った会談でああだこうだのこの有様であれば、半島北西部のベニベニを討ち、ヴァイサーン人との仲を親密にしつつ陸海両面からメルタニアに帰還できる手筈を整えるのは無為ではない。教圏半島勢力を封じ込めてきたシモンが、封じ込められてきた聖公座せいこうざの戦略を模倣しなければならないとはね。ただ、寒波が短期間で引く可能性を考慮すると、ミナッツ王国の攪乱を速やかに再開しなければならないので、別敵との戦は長期化させてもいけない。その年の戦闘は、決戦に至るまで積み重ねる評価戦闘、小手調べの散発的な戦闘に終始した。頭数だけだったベニベニの優位は南下したヴァイサーン人とも組んで打ち消していた。暴虐の下で嫌々戦う規律なき対手は隙と誘いの区別も付かず、わざわざシモンが対手するまでもなかった。評価結果と探り込みが描いた地図を比較検討し、補給線、戦地、戦法、損失を想定して、保護下の政治犯にベニベニからの離反を、古き善きヴァイサーン社会を取り戻そうと働きかけさせればいい。戦争は理論上終わった。シモンの計算では次の年の夏の終わり頃にはベニベニの首を落とせる。

 後から見れば、シモンは自分の流儀から外れてでも、果断ではなく焦慮に駆られて、独自の理詰めではなく半島を覆っていた略奪と蛮性に従って、次なる冬に怯えながらでもこの年の内にベニベニを打ち倒しておくべきだった。というのは専ら農学的見地から言えることで、問題はシモンの広い視野に現れない地の中で起きていた。

 寒波の訪れ、ヴァイサーンの南下と共に、文字通り半島にまき散らされたとある種子が問題を生んだ。その穀物は過酷なヴァイサーンで品種改良されたしたたかな種。半島で伝統栽培されていた麦類がほぼ全滅しても、冬のような春、冷夏でもすくすく生長し、白い花を開いて多くの穂を実らせて今年も繰り返される過酷な冬越しに備えられる収穫をもたらした。成育は非常に早く年に二度も三度も収穫できた。ヴァイサーン人もその穀物のかつてない豊作を喜んで、半島の伝統祭事、教義の節句行事、ヴァイサーンの風習が混ぜこぜになった奇っ怪な収穫祭で祝った。問題は早くも二年目に判明した。痩せ枯れの土地で繁栄を強いられてきた穀物は栄養になる地中のカリウム、窒素、燐酸を効率よく摂取するよう変化してい、深く広く伸張する根から分泌する化合物で栄養にはならない物質を包み込んで吸収しない生態を会得していた。こうした種が肥沃ひよくな土地での無見識で強引な繁栄を許された結果、豊作の対価以上の地力を奪っただけでなく、別の要因が土壌の酸化を急速に進めた。雪解けの軟水が土壌の塩素を流出させただけでなく、半島の天然硬水に含まれているカルシウム塩、マグネシウム塩を希釈きしゃくさせてしまったからだった。三圃制さんぽせいという伝統農法を適用し、年毎でなく収穫毎に畑地を変えたのは大きな過ちだった。二年目の収穫は目に見えて落ち込んだ。地の色は薄く失せ口にした百姓は、べえっ、と吐き出した。

 足下の問題に気を取られず、メルタニアに大量に備蓄してある穀物を取り寄せればシモンの戦略は断行できていたのだが、本来メルタニア行政の全般に一切の権限を持たない黒犀クロサイ太守が帝国本国の要請で、大事な大事な兵糧を女帝の元に送ってしまっていた。シモンとて同様の要請があったのなら断れっこないんだが、権力の侵害という構図は二人の間に修復し難い深い傷を付けた。地底から表れた兵糧の問題に立ち塞がれてシモンのベニベニ討伐は延期を余儀なくされる。

 同様の問題は中原でも起こっていた。一人前の百姓の面もあるローブ・シ・ガレーは、土の色、味、感触、穀物の味などから地力回復の法を的確に見抜き、

――灰だ! 畑中に灰を撒け!

 縄張り中に達したが、付け焼き刃の応急処置の域を出ない。上記の理由で消耗した地力を元通り回復するには自然堆肥だけでは足りず、アルカリ性肥料を必要とするが、そうした化学化合物の発明は遙か先だった。問題は一層酷い問題を呼んだ。半島西部の諸族地域ブレンダン地方に響いた新種作物大豊作の噂が冬王ベニベニらヴァイサーン人に圧迫されていた上に寒波の訪れを露知らず、影響を大に受けたガス族とテンカ族らの諸族を誘う好餌になってしまった。彼らが支配者として認めるのは頼れる兄や友のような詩情芳かぐわしい存在ではなく、ただただ部族内で最強の人物でしかない。悪いことにガス族とテンカ族の猛火のような略奪でガレー家の若いのが巻き添えを食って命を落とした。ガレー家に尊崇に近い念を抱き始めたヴァイサーン人は恩返しと落とし前をつけようと燃え上がった。平時ならガレー家とて只では済まさないんだが、争いが別の次元に転移して互いに恨み合う破局に行き詰まる闘争に陥りかねない。問題の要点は変わらない。ガス族とテンカ族にだってヴァイサーン人と同じく食い物が必要だ。が、もう縄張りは手一杯になっていた。

「手に余すようじゃ仕方ない。頭下げてくるよ。いいかえ、決してお客さんらを早まらせちゃいけないよ」

 行き先を濁したローブが向かったのはミナッツ王国ロマック。ウニヴェロッサに事の次第を告げ、援助を願い出た。顔も見たくない人の皮をかぶった外道だとはいえ、君臣ではない、後援者とも違う、親分子分でもない、名状し難い一応の上下関係が通っている。

「よかろう。中原の秩序を整えるよう罰した余にも同様の責はあるのだからな」

 曰く、二人の関係は看守と懲役奴隷のようだ。

 半島南部でも食糧問題は深刻であった。伝統作物の小麦大麦の類は何とか育ったものの、収穫量は例年の七~八割というから凶作に違いない。ガレー家に回す分は王領小麦島こむぎとうの収穫を当てる。アレモ海の暖流の恩恵を受ける小麦島こむぎとうは幸いにもよく育って豊作。しかも本土植民によって真珠島しんじゅとうの人口が減じた今、昨年来の収穫を消費しきれず価値が下落している。特別財務官ウルフィラは中途報告で小麦畑を縮小してより利益の出る殖産を勧めていた。ローブの援助要請は実に良い機会だ。フィーローズ朝のように高値で売り捌くのもよし、

「小麦は十分な量を無償で提供しよう。ガス族、テンカ族はラト山の麓まで南進するように伝えよ。ただし武器の携帯は一切禁ずる」

 別の政略に費やすもよし。

 今更ながらウニヴェロッサは聖人君子などではない。ローブは公会議一件でこの小僧の悪辣あくらつ、ギナが密かに逆業ぎゃくわざと名付けたおぞましいやり口をはっきりと肝に銘じている。

――まずろくなこたあしねえだろう。

 あたった。ローブを送り出した直後、ウニヴェロッサはネギに命じてドラテロルを長にした千人を越える軍団を召集。ラト山に潜ませ、小麦島こむぎとう産の良質な小麦に釣られて現れた空きっ腹で丸腰のテンカ族の一団を虐殺させたのであった。忠しくも誓約を果たしたが故に、為す術なく倒れた勇士の遺体は悉く坑道に埋められた。墓穴というには余りに粗末な穴を掘ると、実に三七〇体分もの人骨が無造作に折り重なっていたという。先にミナッツ王国の援助を受けて事を示し合わせていたガス族はテンカ族本拠に急襲を仕掛け決定的勝利を手にした。これにて半島西部ブレンダン地方の覇者はガス族と定まり、諸族問題も遂に解決した。まったく反吐が出るほど卑劣な戦略を画きながら、略奪と蛮性の正統性を認める龍の心中に一切の動静があろうはずもない。そもそも張本人の心性が心性だから。むしろ今や最も騒がしい中原を経ない西周りの陸海路で半島北西部に居するベニベニを伺う素地を得た。道なら働き者の黒蟻会修道会にでも作らせればいい。聖山ミラノでも聖公の座でもくれてやる。

 騙し討ちの片棒担ぎをさせられて一度ならず二度までも親方ローブの面子に泥を浴びせられたガレー家の憤激は並大抵ではなかった。どうにか助け出せたテンカ族もガス族と結託したミナッツ王国を一族連綿の仇敵と定め、思いは一つの二つは数少なくとも戦意火炎のようである。更にもう一つの火でも点いたなら如何にローブといえども抑え難い。その、というか、万事の火種ヴァイサーン人もガレー家が何らかの侮辱で名誉を汚されたらしいと察したが、凝縮された社会と個人主義の狭い視野に映った結象は、身から出た錆、という非情なものだった。南国の王にだまされたのはテンカ族であってガレー家ではないと考えていた。手ぶらでのこのこ参上したのも間抜けな話だと。テンカ族の略奪を被って激された情も混ざっているのかもしれない。残念だ。ヴァイサーン人の協力もあったら、さぞ大がかりな仕掛けができただろうに。いくら何でも正面切って反乱を起こしはしない。百姓の反抗と一緒の愚かを装ったやり方で筋を通す。逆捩さかねじを喰わされた側がいくら悔しがったってどうにもならないような意地の悪い無邪気で。だからこれは喧嘩ではない。度の越した悪戯と思えばいい。どんな理由でも先手をとらないローブも、この“祟り”に関しては、

「加減は気をつけなさいヨ」

 注意するくらいだ。堪忍袋の緒を切って飛び出したガレー家の“祟り”は、堅気かたぎさんの無邪気ほどには優しくない。按察使あんさつし長だったシピンを失脚させた大芝居が元だから、まさかり団が苦しめられた喧嘩よりもいっそ性質が悪い。ローブの気に懸かるのは、対手がちょっと得体の知れないあの非人という点。万が一には厄介にもなりかねないから、よほど巧みにやらないといけない。第一、肚では“祟り”に不賛だった。

 ガレー家十人衆にバビロンという実の兄弟がいる。双子にしたって明鏡に映したようにそっくりで、母親さえ見間違えるほどだった。悪徒に堕ちたのも一緒。得意技は今も流行の投資詐欺という奴で、世に二つきりというほど似た顔を入れ替わり立ち替わりで持って行き、それぞれ別々のことを言い触らす。

――前に言ったのと違うじゃないか。

 と言わせれば機先は制したも同然。

――え、あなた様にこのお話をするのは今日初めてでございますが。私以外の者がこの儲け話を知っているはずもありません。

 そこからの手練てれんには独特の勘所となかなかの芸風というのが必要で、一度この兄弟の型にはまったら疑心に囚われた思考迷路から抜け出すのはとてもとても容易ではない。素寒貧すかんぴんにされてやっと正気に戻るという罪の深い業。この兄弟の演技力ときたら四代目スロアーガの四点を授かったというほど達者だ。おまけに、詐欺をやれるほどに算盤に強く、商産業界にも明るいから言うこといちいち説得力ある。ミナッツ王国が新銀貨を鋳造ちゅうぞうする噂をいち早く掴んだガレー家はこれを利用すると決めた。

 店は勿論、気の利いた番頭や不平屋の徒弟とてい、年寄りの小使い、債権者に債務者、縄張り中からかき集めた金貨銀貨を用意するなど手間を惜しまない下準備をし、中原都市アンテフィクスの両替商と騙って現行銀貨の回収と新銀貨の交換を格安で請け合うと要路に働きかけようとしたところで、

「お前らの気持ちは骨身に通って嬉しいが、なあ、今のこんな悪天奇候のただ中で堅気かたぎさんの誰も彼もが力を合わせて乗り切ろうってしてるってえのに、あたしらが面の一つや二つでかたり話をしてどうするえ。あの王様のあくどさには拳骨を食わせて足りないくらい頭にきているが、王様の下には数え切れない人たちがいるってえことを忘れちゃあいけない。どうしてもやるって積もりなら、あの人だけを狙ってきちんとおやり」

 親方ローブが待ったを突いた。ある理由があった。

 スロアーガの芝居<蔵の前>の舞台になったガレー家の蔵にある、馬鹿な渡世とせいの奴が人さん同様に世間様を歩ける靴、縄張りを死守りにするためやむなく前に出るための刃、男の道を全うするため死に姿を汚さない真新しい下着といった物の具は、値を付けたとしても大した価でなく、ローブがてっぺんのガレー家で所有権がどうあろうとも自侭で扱える物ではない。同じように、王の所有物と王国の所有物というのも断然として別なのであると自悟してい、ロマックに食料支援を要請した折に見たウニヴェロッサが王国の所有物を費やして王国の要請以上の豪勢を求める混同の有様なら “祟り”を起こすのに躊躇いはなかった。非常に質素で慎ましい暮らしであった。

 バビロン兄弟は延期を決めた。そうすると少し落ち着いてきたのか、怜悧なトッレや利け者の財務官を対手にする無謀を思い知って脂汗を拭った。

――ち、ちっとどうかしてたぜ、頭に血が上りすぎてた。こんな薄い作りじゃ連中の監査を欺けやしねえだろう。よし、ここはもっと腰を据えてやるべえ。

 アンテフィクスに築いた両替商が本当に稼働するのはその日からだったが、バビロン兄弟はこちらの堅気かたぎの商いに面白味を見つけて游侠ゆうきょうの道から足を洗うのでミナッツ王国対手の両替詐欺を働くことはなかった。たとえやったとしても特別財務官ウルフィラの目が逃さなかっただろうから何気ない足の踏み場で長命が決まっていた。

 埋もれ火になった “祟り”は後に別の形態で噴出する。発案者は誰か分からないが、遣り口からしてこすからい悪知恵の働く奴だろう。親方ローブがシピンを失脚させたのはフロック家に提案を持ちかけられたからで、同様の形式ならば“祟り”は成立すると思い込んだのだ。そんなわけがない。そもそも詰め殺しに等しいシピンがなぜナルマーで博奕ばくち三昧の日々をのうのうと送れたのか。ロットフィル家に潰されたダ・パンが一家離散の惨状だったのに、この差は一体。義理、若気の至り、復讐心、言葉では何とでも言えるが、シピンの落ちぶれた姿を聞いて知ると悔いが棘のように刺さった。元々まで辿れば、自分で犯した人殺しの兇状きょうじょう沙汰こそが原因で、自業自得で按察使あんさつしシピンの生臭い遣り口に口実を与えた。シピンの博奕ばくちの糧はローブが負担していたのだった。死んで後に金が余っているようじゃ親方としては失格と言われるが、多く遺ったローブの借財の中からこれがやっと判明したので皆びっくりした。

 担ぎ上げた頭に異議を申し立てさせて自分は活発な手足となって動く。裏の黒幕と暗躍した聖公座せいこうざとはまた少し違うが、万能帝への反逆、中原の僭主ガレー家を生む素体はこのように準備される。ローブ・シ・ガレーの大器は死んでも割れず、理数世界に馴染めない者、理数世界の構築を望む者、私怨を抱く者の別なくウニヴェロッサを祟ろうとする者を集め続け、じきに本土の流儀と結びつく。

 寒波が世界中の社会活動を冬眠させて四年目、ベニベニが自滅した。ウニヴェロッサの政略に苛まれて、寒波なくとも十年と保たなかったろうからまず奮闘した方だろう。敵手という敵手を上げればきりがない。他方から寄せる主要な敵というならば評価戦闘と称した略奪で着実に支配域を蝕むメルタニアのシモンと組んで伝統支配の復権を狙う政治犯、ブレンダン地方を抑えて半島西岸部に安全な停泊地を得たゲート船団の海上投石と沿岸部略奪を繰り返す特殊工作船団トッレを派遣したミナッツ王。政治犯との和解など有り得ず、教圏を移築した神の如き王ならば神敵と公認されているシモンとジェソンとの交渉もできず、是非なく誅滅ちゅうめつしなくてはならなかった。

 シモンに対しては略奪に略奪を用いて抗する小規模な戦いが続いた。そうした戦法は明らかにベニベニの不利だった。社会の緊密化に失敗したヴァイサーンの自主封建的散居傾向は他の敗北を別の勝利で収拾できない。一点の失策を全体で補うような戦略を描けず、ベニベニの支配域を構成する拠点もまた一月ごとに少しずつ少しずつ潰されていった。散居といってもたとえるなら陸の孤島のようなもので、他の集落との連携には乏しい。総数としてはベニベニの兵力が上回っていたのに、これを効率よく運用する総体と化せずに個別に撃破された。戦術面ではヨルムブレヒトが最強の一つに数えたエステ帝国の武具が猛威を振るった。中でも板金鎧は配備数こそ多くないが、着用した重装歩兵にはまるで刃が立たない。

 海上から岩石を撒き散らしてくるゲート船団にも為す術はなかった。船団の規模も船の大きさも段違い。ベニベニはヨルムブレヒトがナルマーに仕立てたような沿岸の防備をしつつ船団の停泊地を襲撃して根を絶とうと試みるも、その先にウニヴェロッサが目を着けたルシャートの棺ような完勝の策があるわけでもなかった。それにブレンダン地方はガス族とテンカ族の覇権争いに横入りして破竹の連勝を遂げていた頃とは事情が変わっていた。防御力に秀でたガス族を頂点にまとまり始めた鉄壁をどうしても抜けず、雪のように止まないゲート船団の投石とシャチのように獰猛なトッレ船団の厳重な哨戒しょうかいによって海の恵みをも絶たれた半島北西部の飢餓状態はこの寒波で最悪のところまで陥った。

 結局、ベニベニは公平ではあっても無私ではなかった。教圏の人々に清純な教義の履行を求めようとする私情がある。ベニベニの公平感覚はその私情に裏打ちされたもので指導者には不可欠であるのだが、その私情を満たさない者をも導く統治者として採用できた手法は、治国の法としては大正から最も遠く離れて最底の暴虐なのであった。基学の新説を言い寄って操ろうとしたジャジャを逆に柔軟に利用し続け、神を中心とした人の世の理想を夢見るほど明確かつ健全な常套的人格を有していたベニベニは、ウルフィラが嘲け笑ったように、人と人との交際の用具に神を宿して常套的神格を手にしたが為に孤独を呼び寄せて負けた。なぜならば、人間の正義と理念を神に捧げたとて、神は人間に正義と理念を賜りはしない。ありとあらゆる正義と理念を蓄える理から、人間が見出した価値を必要に応じて引き出して使用するべきが、裁定者にして執行者のベニベニは暴虐という手法に頼ってしか教義を振りかざせなかった。ベニベニの暴虐、圧制、そして敗北にはこうした背景があった。否応なく自分が自分の理想に反した行為に使役されている矛盾と過ちに気付いても、好ましい矛盾でもなく過ちを改められない情勢が強固に構造化していては。そもそも神の苦悩は人には救えず、超越刑の他、如何なる処置も薬とは成り得なかった。心身の負担が限界を越えたベニベニは自ら調合した毒をあおって死んだ。その行為が自殺か自死かと思ったかは分からないが、ウニヴェロッサとウルフィラはむしろ社会奉仕的なこの末路を自決ではなく自滅と呼んで殊に冷徹だとは思わなかった。むしろ、死の瞬間こそやっと手放した安らぎを得たものだろうと共感を得たのだった。

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