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フェリクス・フローディック 1

 ミナッツ王国本土の海辺の都市ナルマーに午鐘ごしょうの音が響き渡った。都市貴族たちは俯いて瞑目めいもくし、聖職者たちは顔、首、胸の順に手を合わせて祈り、職工しょっこうたちは食事のために仕事から手を離す。変わりないのは、鐘の音と絡める様に鳴く家畜の声と如才じょさいない商人たちばかりである。普段は市壁の外で野良仕事に精を出す百姓は鐘の音が耳に入ったとしても農具から手を離さないが、市の日の今日は陽に焼けた無骨で逞しい両手で祈る。

 西区中央広場は次の市の日までの小麦、らい麦、烏麦からすむぎや豆類、菜物を入れた木桶や籐籠とうかごを抱えた市民たちが飛沫のように行き交っていた。都市人口増加に伴って高騰する農作物の値に憤る市民と百姓、商機と見てしゃしゃり出てくる商人との泥沼を臭わせる言い争いが起こるも、そうしたいさかいに目を光らせている番兵の数が今日やたら多く、市民は嫌味を言いながら渋々金を払い、百姓は売り言葉に買い言葉、商人はちぇっと舌を打った。この三者のその後の行動だけは一致していた。教会の前に誂えられた大舞台は修道士や模範信徒たちが<御血書ごけっしょ>か<神教侍史しんきょうじし>のありがたい一説を視覚に訴えかける装置ではない。台上には背もたれのない長椅子に腰掛けた身分ある男たちが三人一様に厳めしく顔を引き締めてい、舞台の反対端に設えられた、角を金具で固定された頑丈な木格子に捕らわれた若い男を、先ほどの市民、百姓、商人たちが向ける視線と全く同じ質合いで見ていた。

 裁判は間もなく始まる。太陽が天頂に達して鐘の木霊さえ消え行くと、裁判開始を告げる鐘が鳴った。舞台上の貴族の一人、端に座っていた巨漢が中央に進み出た。この巨漢の体の大半は脂肪。大げさな身振りをすると二の腕が特にぶるぶると揺れたが、その脂肪こそが張りと音量をよく生み出していた。都市には必ず一人は彼のような布告官がおり、大きくよく通る美声にはどのような身分の子であっても一度は憧れる。実力を判断した市民の入れ札で選出され世襲が認められない数少ない役目で、任期中に限り貴族の栄誉と特権を得られる。ただ、古の世に神に選ばれた世襲貴族と、今の世に人によって選ばれる官職貴族の隔たりは大きく、世襲貴族との繋がりを築こうと考える者はこのナルマーでは少なかった。あの肥満の布告官が、貴族であって貴族でない弱々しい地位に声が涸れるまで直面し続ける糧というのは、大都市が自負する人間の自決主義であった。それに、産業構造が多くの同業組合によって強固に固定されているナルマーではよほど特殊な技能を継承させてゆかない限り世襲貴族の立場の方が低い。この裁判に同席しているのは権力によってではなく貴族に宿った権威を借用したい他方の要請に他ならず、自らの能力に誇りを抱くが故に体格以上の貫禄と風格を漂わせる布告官に、都市貴族の弱々しい地位を見抜ける政治的洞察能力が備わっていたわけでもなかった。

――お前はすきを持つ身分だぞ。お前は網を投げる身分だぞ。お前は釘をつくる身分だぞ。

 と言い張って、ナルマーをも包含ほうがんするこの教圏と呼ばれる地域の人々は別の身分への侵犯を極力抑えてきた。それもあらゆる方向で。即ち貴族には貴族の、聖職者には聖職者の、百姓には百姓の身分ごとに区別された世界があり繋がりがあり法があった。この一線を踏み越えられる強力な権力は声だけで獲得できるものではない。

「これより、照覧しょうらんにおいて罪人を導く! 漁師リトバル・フローディックの息子フェリクス・フローディック! 組合人への暴行の罪、暴言の罪、足蹴の罪である!」

 特に組合を結成した職工しょっこう・富農の揉め事というのは組合内で解決されるのが筋で、組合間の問題でも上や外からの介入を許すのは稀であった。一世帯完結の百姓と違って、海上での団結と連動を要する漁師の組合をナルマー市は公認していたし、規律にかけては峻厳しゅんげんで知られた男が親方であった。古来の伝統に従えば組合の一員が市所有の木格子に閉ざされて多くの蔑視に晒される所以はない。つまり、このフェリクスという少年は組合から追放されたのだった。如何なる独立も如何なる孤立も認められないこの時代、追放刑とは一つの集団に帰属したままの死刑よりも重い。縛り上げて棍棒で頭を叩き割って葬式も墓もなく遺棄する私刑というのが本音であるから、この裁判によってそれら三つの罪の責を科せられるまでもなく、フェリクスの命運は尽きたに等しい。

「しかし! この男が罪は午鐘ごしょう夕鐘ゆうしょうの間にあった。この男の罪を贖おうとする者は前に出よ! これは神の計り知れぬ思し召しを行為によって代える聖誉である!」

 フェリクスが九分九厘落とした命を拾う機会は黙っていても拒否してもやってくる。図々しいほどに。教圏では犯された罪が朝鐘ちょうしょう夕鐘ゆうしょうの間であった場合、どのような罪であっても贖い主を求めることができた。値段は罪に応じて。一方、夕鐘ゆうしょう朝鐘ちょうしょうの夜間に働かれた悪事には規定の倍の刑罰が科せられ贖い主を求めることはできない。これは日が暮れれば鼻をつままれても分からないほど暗い夜の治安を図る俗界と、夜は怨霊や悪魔の時間でありこの時間帯に悪事を働いた者はそれらと約した者と主張する聖界とが決着した定まりである。贖われた者は贖い主の奴隷、所有物となる。身代金は都市と教会の折半。

 贖い主を希望する者は三人現れた。その三人の服装と丈の長さからその身分が分かる。膝から下、踵まで隠れるほどの長丈は世襲貴族と聖職者にしか許されない。膝か上腿の中ほどまでは職工しょっこう農民で、腰巻ほどの丈しかないものは奴隷である。女性の服装に規定はないが、装飾品の材質に自ずと現れる。地位によって鉄・銅・銀・金。丈は作業着以外、身分を問わず膝から下。最近は商人と金貸しの区別が付けられ始めてきているが、多くの都市で脚袢きゃはんの着用を許されず、あべこべに格が高いほど丈が短くなった。服の材質は麻が主流で、用途によって毛織物や樹皮、亜麻布、動物の皮が用いられる。絹取引はミナッツ国王の独占で、胡椒や金細工、絨毯、硝子ガラス琺瑯ほうろう工芸と同じで政治価値の方が強く、大市を除けば本土には絶対に出回らない。罪贖いを望んで前に出た三人の中、脚袢きゃはん姿は一人、これは貴族。襦袢スカート姿は二人、膝から上の商人貴族と膝下の中流商人である。

 この商人貴族をグリゼリウス家といった。取り扱っている品は人間。教圏屈指の奴隷商人である。現当主ロッシュローは教圏一番の名誉 “七度の贖い主”を済ませ、聖公座せいこうざから免状と黄色の外套、ナルマー市からは銀の指輪と石造りの屋敷を建てる許可を贈られている。通常、一つの都市で一人の存命中に帰属集団を持たずそれでいて市民でもある希有な身分の罪人を扱う裁判が七度も行なわれることはまずない。それは聖公座せいこうざが贖い主制度を始めてから二四〇年経って王族・大領主以外で初めて、商人ロッシュローが所有物を用いての自作自演でその権威を得た事実が物語っている。

「グリゼリウス家のウニヴェロッサはその者の罪を贖うのに銀貨十五枚を出そう」

 このウニヴェロッサはグリゼリウス家の三男坊であったが、歴とした世襲貴族の御曹司でありながら幼い頃から何故か襦袢スカート姿を強制させられているこじれた立場の持ち主だった。

 他の二人も銀貨十五枚を申し出たがこれはこの競売の規範だった。教圏がいつの間にか作り上げていた理想人物は銀貨三十枚で一人の奴隷を救ったといわれている。これが同等かそれ以上の代価をいきなり払うのは無礼という理由をつけられる程のしがらみがある。それにしても群集ばかりか台上の人々を見惚れるほどに感嘆とさせたのはウニヴェロッサの振舞い、声音、言葉が隣の脚袢きゃはんの貴族よりも遥かに格調高く、優雅で貴族的であったことである。あの幼子がよくぞここまで成長したものだ、と昔の面影を知る者の感慨も深い。木格子の中で覚悟を決めたように神妙にしているが、三つもの罪を犯した野蛮で生臭く薄汚い漁師の倅と同い年とは、と身分というものを意識させずにはいられない。

 競りの参加料で掛け捨ての銀貨十五枚に加えて、暴行の銀貨十枚、暴言の銀貨四枚、足蹴の銀貨七枚を足した三六枚もの銀貨がフェリクスの罪を贖うのに必要になる。グリゼリウス家と競り合っただけでナルマーでは評判を得られる。無論のこと評判だけで元は取れない。どう活かすかは各々の器量に拠るが、グリゼリウス家を前に銅貨を少し積むだけで競りに殆ど参加しなかった貴族と後々を睨んで風評をさえ育もうと決意した商人との差は劇的でさえある。銀貨五三枚という法外な高値でやっと競り落としたのも家格が招いた不可抗力であろう。ナルマー市民の目は成人前のウニヴェロッサさえ金貨二枚近い大金を動かせられる方に注がれた。

「フェリクス・フローディックの罪はウニヴェロッサ・グリゼリウスに贖われ遣わされる為であった! 市民たちは神の思し召しに服すこと。一切の異議を口にせず、心にさえ思わぬこと! この日目撃した模様を来る旅人に偽りなく語ること! 以上である!」

 ウニヴェロッサは台上に上がり、金貨一枚、銀貨二三枚と交換した鍵で木格子の錠を外した。フェリクスは差し伸べられた手をじろりと見るばかりで取ろうとしない。名だたる奴隷商グリゼリウス一門のウニヴェロッサは商品の扱いを心得ている――フェリクスは打たれるのを覚悟した。

「許されていたのは銀貨五十枚だったけれど、君が気になった。手を取ってくれないか」

 ウニヴェロッサはフェリクスの耳元で囁いた。目を大きくして見ると、相手は目を細めている。子にとって家長父権とは絶対を意味する。命じられたら命じられるとおりにするのが当たり前、背くのは沙汰の限り。土壇場どたんばで極刑を免れた極悪人フェリクスがどんな不当な目にあっても考え付く悪行ではなく、罪はよほど深い。

 フェリクスが主に従って手を取ったのは、早くも奴隷という己の身分に落ち着き、義務や主への思いやりを発揮したからでも、自惚れたからでもない。その顔をじっくりと見、主の言ったことにただただ共感したからだった。何故か気になった。

 罪なくば互いに重なり合わないはずの生涯だったろうに。

 調達された奴隷はフェリクスだけではなかった。この日だけではない。昨日一昨日を合わせておよそ二十人。様々な人種の奴隷が集められ、さながら教圏人種の総見本市の様相である。男ばかり、鉱山や製塩所、櫂船で過酷な労働に隷従して生き残った経歴を物語る強靱な肉体の保持者ばかり。その中にあってフェリクスの肉体はいかにも弱々しい。

「漁師の息子ではなかったのか?」

 石造三階建てのグリゼリウス家の外庭に集められた奴隷たちを検分している男をギナという。ミナッツとは別の国、駿馬と強兵でつとに知られる半島西方ブレンダン地方の勇猛なガス族の出自である。武具を上手く扱い、馬術にも熟達。ガス族伝来の戦技能を活かしたグリゼリウス家人の護衛と荒事全般を任されている。奴隷商グリゼリウス家の売物ではなく、歴とした所有物であった。いくら積まれても売りには出されない。厚遇を頂き、市内に自分の家と妻子を持つ。仕入れの段階で選定された他の奴隷たちと違い、別口で入荷したフェリクスを改める。罪状と素性から粗野といえるほど逞しい肉体を想像していたのに当てが外れた。

「こんな野郎に銀五十も出したんですか」だとしたら見る目がない、そんな風に聞こえる。

「五三枚だ」

 奴隷たちは許されていないので騒がなかった。肉体の他に財産を持たない奴隷たちは自分よりも遥かに高い値で競り落とされたフェリクスをちらちら見た。本当に、なぜわざわざこんな奴を、と思われている。

「その者が気にかかったのだ」

「――お前、漁師の息子ではないのか?」

「父リトバル・フローディックは勇敢な漁師だ」

 言うやフェリクスは殴られた。柔らかい腹筋はこの暴力を弾き返すことができないので、うぐっとその場に屈み込むしかない。

「口の利き方に気をつけろ。お前は物だぞ」またフェリクスを殴ろうとするギナをウニヴェロッサが遮った。

「やめよ。物に違いなくともお前の所有物ではないのだぞ」

「その代価を持たせて下さった旦那様にも同じお言葉が言えますか」

「申し上げるとも」

 こう言われてはもう家内の問題だ。所有物が口を挟める領分ではない。ギナは諦めてフェリクスのことはウニヴェロッサに任せる素振りをした。

「お前の肉付きは漁師のものではない。もしや他に徒弟とていに出されていたか」

「一族は漁師ですが、私は船に乗れません」

「悪酔いか」

「海が、怖いのです」

 予想もしなかった答えに、周囲の奴隷たちがぷっと噴出した。両足に鉄鎖の跡を残す櫂船の漕ぎ手奴隷は海の恐ろしさを見聞き味わって熟知していながらも嘲笑した。家業と組合の仕事ができないのでは追放も致し方ない。

「ふん、干し魚や網作り、女どもの仕事をやっていたか」とギナ。フェリクスはもう怯えているのでギナには頷いて答えた。この利口なところも性根の脆さもギナの癇に障る。「これじゃ使い物になりません。とても剣闘士会には出られねえ!」

 とんだ笑い話に顔を緩ませていた奴隷たちは一気に凍りついた。予想していた者でもどうやったって驚かずにはいられない。

 剣闘士は奴隷仕事の中では安全な部類に入る。鉱山、岩塩の採掘現場は常に崩落と粉塵ふんじん爆発、有毒瓦斯ガスが恐れられているし、戦もすれば嵐にも遭う櫂船も難破転覆の危険と常に隣り合わせている。これらの恐るべき事故は一度でも起これば剣闘士会数十回分の死者を出す。せっかく育てた剣闘士を死ぬまで闘わせることはまずないからである。しかし、奴隷が最も逃亡を図る仕事こそこの剣闘士であった。剣闘士という仕事はそれくらい異質であり、肉体は自前の物だが命は主人の物という奴隷の本質を教えている。死ぬまで闘わなくともよいが、殺すつもりで闘わなければならない。さもなくば主催者と観衆の不興ふきょうを買ってどちらも殺される。相手を、見ず知らぬの恨みもない、危険極まる仕事に隷従してきた同じ奴隷を……潜在的には都市の組合やどんな共同体と比べても決して後ろを取らない同族愛を有する彼ら奴隷だけが、同じ奴隷に刃を向ける殺し合いを演じなければならないのであった。ただ奴隷というだけで。だが奴隷だからこそこの役目が回って来ても否とは言えない。

 車裂きか皮剥ぎ、もしくは金貨五枚。これが殺人を犯した者の身体罰と贖罪料である。それほどの重罪であった。剣闘士は、それほどの罪を犯せと命じられているのである。教義に対する重大な侵犯ではある。しかし、教義が教圏を覆って数百年、幾回もの公会議を経て若干の手直しは行なわれても、殺人に関する規定が緩められたことはない。殺人が喚起する罪悪感は、信仰という精神を穿つ強力な装置によって数世代増幅し続け本能をより鮮明にした。――当たり前、というやつに。決して神を畏れたものでもなく、教義を理解したものでもなく、他人を思いやるものでもない、この幼稚で恐るべき総意。剣闘士奴隷は、その総意を対手に奴隷というか弱い状態で立ち向かわねばならない。

 渦中の奴隷たちは、とうとうこの役目が回ってきやがった、と観念した。観念しただけである。容易にできる観念こそ奴隷の得意技であり処世術。ところが、奴隷たちはすぐにも思い知る。剣闘士という仕事がどれだけ奴隷の仕事からもかけ離れたものであるかを。どのような悪環境の仕事場でも奴隷の観念を覆すことは難しく、そうして奴隷は奴隷で生きていけた。まるで剣闘士はその惰弱を矯正しようと何者かが用意した最後の作為かのようである。当世の人々には神の慈しみも届かないと思われる剣闘士になって初めてそんな機会が。そうした得難い機会を逃亡を図って台無しにしてしまった剣闘士とは、即ち心身までの奴隷、と評してはあまりに無情だろう。奴隷状態から自我に目覚めて剣闘士の仕事から逃げた者を人間として祝福する者は少ない。

 ロッシュロー・グリゼリウスはその一人であるのに、なぜ。

 グリゼリウス家に集められた奴隷たちは川舟に詰め込まれ、ナルマーの北門から出でて内陸の私領に運ばれた。そこでみっちりと剣闘士の技術を叩き込まれ、来る日、ウニヴェロッサ・グリゼリウスの成人式の余興の一つとして、腕を振るわねばならない。

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