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ウニヴェロッサ・グリゼリウス 9

 ナルマー騒擾そうじょうの調停を果たしたウニヴェロッサには返礼を受け取る権利があった。タムストール宮から差し出された目録は金五十枚、宝玉二十種、駿馬六頭、武具馬具、牛車一杯の果実酒、食料品などで調停の成果にしても実に法外な礼物れいもつであった。

――退去料というわけだな。

 ウニヴェロッサは渉外官その人を冷たく見上げた。困ったら引き込んで用が済めば金目を渡して追い出す誇れない構図というのに困惑の色もなく平然としているのはやはり人物だからか。ここで密殺、謀殺でもすればナルマーもなかなか一人前なのだが、ちょっとそうはいかない。次の議長を選出するまでタムストール宮は有力組合の親方衆の合議で動いてい、ジェソンの取り扱いは甚だ紛糾した。ここでも大王ルイジェセンの庶子かどうかの真偽は二の次だった。グリゼリウス家が周到に定着させてきた存在感に重ねてノルベルンの恐喝がより一層の保証をお仕着せて、議論の焦点はジェソンを市内に置くか置かないか。換言すると海を越えてとうとう押し寄せてきた王権を、思慕の象徴とするか畏怖の象徴とするか。

 驕慢な破王ノルベルンは、大王ルイジェセンの怜悧さでなく、叔父ルシャートの魅力でもなく、思い込みと被害妄想に裏打ちされた野蛮さという不退転かつ速やかな手法で王権の樹立を本土に訴えた。これは数少ない功績に数えられる。何故なら現実に基づいた確実なやり方は時間がかかるし、常に変動する状況は侵攻海路を喪ったヴォレヌスやメルタニアのように依って立つ前提を崩す。大王の偉大さはその所要時間の劇的な短さと後の禍根を予め刈り取っている手際であった。際だった一個人の魅力はその人の衰えと共に消え去る。精確には先王たちにも、速度と明瞭さを関係者に押しつける力強い蛮性は垣間見えるが、ノルベルンにはそれしかなかったのだった。いずれにせよ次第に乱世の様相を呈しながら緊迫する半島事情には、その尖った性格が求められてい、道理を越えた勢いを起こしたのは確かだった。

 ロットフィル家の失脚で新興勢力の勢いが霧散した今、自他共に最有力者と認めるグリゼリウス家の代表者が、ジェソンの処遇を討議する市参事会になかった。ご養育の甲斐なく騒擾そうじょうの誘因と手ひどく裁かれた身の上、是非どちらを唱えても市民感情はろくな噂もするまい。金貨三十枚の罰金は即日納入し、騒擾そうじょうの後始末諸事はそこから出るようだが、安息を害された市民は更なる誠意を求めている。グリゼリウス家は応じて閉門謹慎していた。表向きを取り繕う建前だ。サウダージの暴露や暗殺も議論空転の参事会の動向も全部筒抜けに入っている。黙っていればいるだけこちらの値が上がるんだから自分から出ていくつもりはない。その内、向こうから頼みますと頭を下げてくる。

――謹慎なんてそんな格好付けをしてる場合か!

 親方衆もそんな政治力学くらいはきっちり弁えてはいるんだが、グリゼリウス家の底知れない実力と市民感情の板挟みにあって日は無為に過ぎてゆく。当のウニヴェロッサはどこにいたかというと、市が没収したロットフィル家を当座の館に移り住んでいた。

――出るなら出ろ、いるなら居てくれときっぱり言ってほしいもんですな。

 市の煮えきらない対応に退屈していた泡騎士だったが、ウニヴェロッサはそれどころではない。春までの数ヶ月間が勝負だ。ここで準備を成さなければ首が飛ぶ。正に命がけの日々であった。

 大誤算に接したグリゼリウス家もその辺りは同様だった。中原の侠雄きょうゆうローブ・シ・ガレーが縄張りを明け渡したのは世界中の誰にとっても思いも寄らない出来事だった。大王ルイジェセンが生きていたとて、

――なんとな。

 と驚いたであろう。エステ女帝アシュタルテも驚いて、それはどこの地の出来事か、と初めて教圏半島の地図を用意させたのだから。

 グリゼリウス家に降り懸かった問題は特に重大だった。中原港湾都市の多くがヴォレヌスとドロスの手に渡ったことで、都市同盟の南北は事実上分断され、ナルマーを、グリゼリウス家を盟主とする内部構造に不満を抱いていたボイル市とオスカー市が早くもノルベルンを正統な王と受け入れる使者を出している。幸いにも両都市はイコット半島より北にあるので軍艦島ぐんかんとう船団の上陸地として機能しないが、船団が容易に停泊できて補給を受けられる港を確保し後背の危難を取り除いた優位は大きい。

 また中原から南部への要路を構築し得るようになった聖公座せいこうざヴォレヌスはもはやミナッツ王国内の争いに荷担する必要がなくなった。独力では折角の和解にひびが入るから、ドロスとの合同になるだろうがルーリックを踏み越えて南部に雪崩込む戦略が新たに芽吹いた。素性怪しからん二人の王子どちらと手を組むかという逡巡は過ぎ去り、ジェソンに公式王位を授ける交渉を始めようとする直前に、ノルベルンの説話を支持して大王の庶子を騙る偽者、つまりは偽王と宣告。教義に反した生まれの背教の子ノルベルン・レプルスを破門。故に破王。お馴染みの二枚舌もとうとうここまでやるか、と呆れる程の剛腕で史上名高い偽王と破王の継承戦争という構図が現れる。あとは両者の疲弊を待ちつつ中原各領地の通行許可を得、ルーリック辺境伯へんきょうはくバスタールの妻アレクシオスの血縁の幼子を正統な王と公認して教圏連合軍を南下させればよかった。

 シモンの南下によって半島北部で熾ると思われた戦火は、奇妙奇天烈な時の勢いに逸らされて南の大国ミナッツ王国で開く。いよいよ教圏を覆う狼煙のろしが上がる。

 この存亡のとき、もはやグリゼリウス家も謹慎を装うなんて矮小なことはしてられない。ガレー家の破業宣誓の報せが届くや直ちに開門。家長ロッシュロー・グリゼリウス、長男ロドリーゴ・グリゼリウス、家令ゾルムは馬でナルマー市行政庁舎タムストール宮に馳せ着けた。前回の議会でサウダージをやっつけた説得力抜群のゾルムの口から危機が告げられるや日の内にロドリーゴのナルマー市参事会議長就任が内定。もしももへったくれもないんだが、もしも外敵の侵攻が始まった際には、ロッシュローを市全権独裁官に任命すると定まった。それまでは渉外官として都市同盟や周辺勢力の手綱取りに専心する。

 今、ロッシュローはウニヴェロッサと対峙している。事ここに至って思惑は大きく違ってしまったが、グリゼリウス家代々に流れる不敵の血はやはり危機に際して大きく沸き立つのであった。

「退去料というわけだな」

 調停の返礼には過ぎる目録を見、ウニヴェロッサは言った。そういえばちょっと前までは、お父様と呼んでいたが今やどちらもそんな気配は微塵もない。父子、養育、主人と奴隷、王族とその家臣とまた随分と節操なく色々と変転してきたが、もうこの辺で落ち着くのがいい。

「いかにも。殿下にはパイロン湾を望む西の漁村に引き移って頂きたい」

「殿下と言ったな。ナルマーは余を認めるか」

「ウム。この情勢、驕児きょうじの手には余る」

「だろうよ。だが、それにしてはこの礼物れいもつは安いな」

「欲しい物を書き加えるがいい。何であれ俺が通してやる」

 ウニヴェロッサは、ナルマコック四隻、グリゼリウス家所有物の職工しょっこう職人リンク、船大工、船材を要求した。母の名はアナールとフレデンツァどちらもなかった。

「戦取りはヨルムブレヒトであろうな」

「当然だ」

「呼べ。余が完勝の知恵を授けてやる」

 ナルマー市はまず聖公座せいこうざと同様に手を差しのばす余地を残しながら静観の態を取った。ジェソンを退去させたのはナルマーが生き残るためだけのその場凌ぎの姿勢に見えるがまずその通り。見せかけの恭順。戦とは和解の試みがすべて絶えた果ての無理ない必然である。

 ナルマーの反応はトッレが報告し、ノルベルンはひとまず満足した。しかし、後の追加報告はジェソンの容易ならざる企てを示唆していた。退去には従騎士三人に加えて対手役と呼ばれる側近団が十二名、更に要注意人物の上位に挙げられていたガス族の勇士ギナと彼が参集させた四十名以上のガス族と多くの船大工が随いていた。一行は船の難所パイロン湾近くの漁村を襲撃し、ここに居を定めた。ここなら海側からは手を出しにくい。哀れにも襲撃された漁村とはかつてフェリクスを奪った泡騎士たちが逃げ込んで来たのを匿って、更にウニヴェロッサに一芝居打って騙したあの漁村である。

――余は嘘を好まぬ。村長よ、あの嘘は高くついたな。まったく高くついた。

 泣いて詫びをする漁民にも炎上する家屋を見る目にも情動はまるでなかったが死者も怪我人も出さなかった。漁船に乗せてナルマーへ放り出せばそこで面倒を見てもらえる手筈だ。現況では、こうした偽悪でも演じなくては落着場ひとつ手に入れられないのである。状況はノルベルンの圧倒的優勢であった。

――彼奴等を皆殺しにできたならいくらかすっとするのだがなあ。

 しかし、フェリクスの遍歴を因縁付けたこの漁村の虚偽に恨みの表層を現出させられて止まないウニヴェロッサは、大波よあの漁船を飲み込み給え、と呪詛していた。あれらの命は必然性故に安堵しただけであって、時さえ合えば絶滅を志している。

――偽者奴は船で何処かへ落ち延びる気か。

 不利を覆そうとするジェソンの日々は船造りであるという。ノルベルンの凡庸な読みと裏腹にウニヴェロッサの腹案は抗戦一筋であった。なんで勝てる対手、勝たねばならない対手から逃げるものか。だが、勝つにはどうしても船が要る。速力、安定性、復元性、耐航性、柔軟性、弾力性、防水性、水密性、方向舵のいずれの性能も標本として持ち込んだナルマコックを上回る船がなければ勝てない。陸戦にさほどの心配はない。係争の種だった北砦を使うまでもないだろう。散発の小競り合いであっても一、二度で全体を膠着状態に追い込める。問題は海戦で、敵は世界最強の軍艦島ぐんかんとうゲート船団。並々の対策など呆気なく食い破られる。ヨルムブレヒトが展開した紙上の模擬戦によると、運が味方してどう頑張って上々の戦果を挙げたところで引き分けがやっとらしい。結局、海港側の有力組合の抵抗が根強くて港湾側に砦のないナルマー市内に上陸を許し、陸戦を引き受けた市民兵も撤退するしかなくなる。これで詰む。

 そこでウニヴェロッサが授けた完勝の知恵。いささかか政略的な発想を含むも策としては有効。模擬戦の勝率を五割まで跳ね上げた奇跡の一手。不可欠なのはやはり船。だから今こうして寝る間もなくして造っている。設計素案はナルマーでできていた。泡騎士たちはロットフィル邸でウニヴェロッサが両足の間隔を色々試しながら腰を下ろして重心を下げる様子や、腕を伸ばすのに掌を上にするか下にするか、腕を垂直に上下したり水平に上下したり、駆け出して突如止まるのに慣性を尊重する様子を目にしていた。

――それはガス族の鍛錬でしょうか?

 と聞くと、

――何を悠長な。そんな暇があるものか。

――はっ、では。

――余は船を造っているのだ。が、そちらの発見もなかったわけではない。握ってみよ。

 ウニヴェロッサは左手の人差し指を向けた。とても小さく細かった。指し向けられたアンフェルはとりあえず右手で握るというよりは包む感じ。

――もっと強く握れ。

 そう言われても泡騎士にはあんまり畏れが強い相手、どうにも遠慮が勝ってまともにはできない。

――何だそんなものか。お前はあんまり力がないな。これでは何も任せられんではないか。

 こんな挑発をされちゃ泡騎士も名誉づくで躍起になる。ぐっと握りしめた。折ってしまうかもしれない。

――あっ、あ、あっ!

 アンフェルの身体はゆっくりとゆっくりと右肩が上がって、重心も上がって、左肩も上がって、上体が反れていって反れていって、とうとう堪えきれなくなって背から地に落ちてしまった。

――くはっ、い、今のは。

――簡単な裏業うらわざだ。そして船が転覆する原理である。今のアンフェルのように船というのは多少傾いても元の正立状態に戻ろうとするが、限界を越えると転覆するのである。ちょうど上体を反った角度が筋骨の耐久を越えて背から落ちるように。これを復元性という。お前たち、大海原で落水の憂き目は見たくあるまい。

――そ、それはもちろん。

――だが、この復元性を追求すると幅が広がって速度が犠牲になる。速い船というのは細長がよりよい。そうなると船の形は自ずと限られるな。

 図案は対手役のジョン・レスが描いた。復元された素描画集にも残っている。ウニヴェロッサが自らの人体の感触を用いて造られた船は、細長の二隻の船を甲板で繋いだ船体。人間が船になったかのような形状の双胴船と呼ばれる物であった。実物は素描画にない複雑な構造が大幅に取り付けられていた。

 甲板上には帆を開く空間も、船の両足たる支舟には櫂を漕ぐ空間もあり、甲板内部には新動力の車輪が備え付けられてあった。これはナルマー市内でも見かける水車で閃いた。支舟まで突き出た車軸棒を回して駆動する。水面下に没していない車輪は文字通り空転して無駄な動力であるから、深度を調節できる三段階の変速型だ。第三船速となれば左右四人係で回す。設計者のウニヴェロッサは気流と水流の類似に既に気が付いてい、風車と螺子を参考にした螺旋型推進装置スクリュープロペラまで考案、試作させたがこれは水槽実験の段階で耐久度と運用方法に問題が見つかった。まず馬と綱を繋いで駆動させたところ木製の羽根は水の抗力に耐えられずに破損。鉄で補強して再度実験すると一体どこから沸くのか推進装置の表面に多量の小水泡が生まれ、激しい振動を起こして実験は中止になった。優秀な対手役も熟練の船大工もこれがベルヌーイの定理に基づく空洞現象とはわからなかった。更に対手役が弾き出した理数計算によって、狭い支舟では螺旋型推進装置スクリュープロペラは非効率と判明。船の歴史を変える発明は風力と人力以外の新動力の誕生まで長い眠りにつく。

 年明けからおよそ十日、ナルマコックを支舟にした実験機は早くも海上実験を果たした。

――化け物のような船だ……。

 横風を受けて帆を漲らせ、支舟では一心不乱に櫂を漕ぎ、第三船速の車輪の三つの動力が一体になった海上の乗り物が、果たして船と呼べるのか。

――竜にでも乗っているかのようだ。

 問題点はやはりあった。まず車輪はこれを甲板の完璧な正中に合わせて設置することができず、羽自体も僅かに歪むので自然と船首尾が左右に揺れてしまう。車輪の位置を支舟外側に移す両輪案は横波や戦闘時の破損を考慮し却下。支舟の漕ぎ手配置と櫂形の長大を調整する解決案に落ち着いた。次に帆を張る際、船の重心が上がってしまう問題。帆船航行状態で突風と波の同調現象が起こったなら、強い横揺れと共に転覆もしくは甲板破断の恐れがある。内海なら嵐にでも遭わない限りそんな大波はなく帆を畳むだけの話だが、真珠島しんじゅとうを中心に北東から西にかけての海域は外海と呼ばれて常に波が高い。櫂と車輪の効果は著しく低下する。そこで両支舟外側の船底湾曲部に翼を設けた。後にビルジキールと呼ばれる横揺れ軽減装置は蒸気船の時代を迎えて以後の造船法上どんな船にも欠かせないが、史上初めて用いられたのはこの双胴船である。風があろうとなかろうと安定した滑空飛行で空を周遊する鴎か魚の鰓を見て思いついたという二説ある。その為、翼の幅と長さの比率が揚力を利用する幅厚になった。あくまでも船速に拘った船。速度こそが次の海戦では何よりも求められている。帆船状態の重心均衡に最も効率のいい、船底から水中に垂らした尾の先端に重石をつけたセンターキール案を見送った理由でもある。しかし、こうした速度至上の船造りは常々原因不明の限界を来す宿命法則がある。近代に入って解明されたが、船足がフルード数で導き出される一定の速度を越えると突然加速が鈍くなる。これを造波抵抗という。その名通り、船が空気の八百倍の抵抗力を有する水中を切り裂いて造る波そのものが船足を引っ張るのである。特に双胴船に働く造波抵抗が支舟の両内側に負わせる抵抗は通常の船を遙かに上回る。だがその抵抗を逆に利用したのが双胴船の甲板中央にある車輪だった。螺旋型推進装置スクリュープロペラにしても車輪にしても、できるだけ遅い流れ、即ち伴流の中で作動させられればより高い推力を生み出せる。通常、水車や風車はそこに固定されてより強い流体に晒されてこそ様々な作用を生み出す原動機として機能するが、この船の場合は逆に、原動力が人であり車輪が穏やかな流体を蹴って推進力を得る作用力なのであった。その伴流を生み出す流体抵抗には大きく造波抵抗、摩擦抵抗、粘性圧力抵抗の三つがある。

 粘性圧力抵抗とは船のような強い流れに巻き込まれた流体が剥離された勢で渦を巻き、その渦が船の前進速度を吸い込んで引っ張る負の圧力で、造船の伝統は流線形の採用でこの抵抗を未然に抑えてきたが、この際はその伝統をも捨てなければならない。

 世界最強のゲート船団との海戦に勝つのは誰がどう見ても不可能だ。しかし、その不可能事に挑まなければならないウニヴェロッサが造った船は、リンクが建てた客屋敷以上に異端であった。異様に細長い流線形の支舟の内側には、甲板の車輪が最大の効果を得るための伴流を生み出す抵抗板が備えられ、これは臨機応変で取り外しできる細工が施されている。また原則的に造波抵抗と粘性圧力抵抗の軽減は両立し得ないと思われていたが、水面付近の流線形船体は先端の尖った方を、水面下では先端が球状の方を前にした上下あべこべの合体船型が想像以上の効果を上げた。後に画期的なこの構造名を尋ねられたウニヴェロッサは、とっさにヴォレヌス構造と答えた。

――いわば水を騙しているのだ。船の邪魔をする抵抗がその抵抗同士で干渉し合ってくれればこれほど楽なことはなかろう。聖公座せいこうざの二枚舌が水にもきくとはな。

 支舟と支舟を抑える甲板の耐久度には最後まで悩まされた。実際、双胴船の最大の弱点が甲板で、ここが崩されれば支舟単体の復元力では沈没、転覆は免れない。甲板強度の問題では車輪の存在が裏目に出た。車輪が回転できる空間を確保するために甲板中央は切り込みが入って、ただでも脆い。車輪を覆う構造も重心の位置と帆走の邪魔になるので見送られた。車輪が邪魔になって甲板を綱で縛ることもできず、やむなく支舟同士を鎖で繋ぐ応急処置が取られたが、細長の支舟にかかる負担が増して、数度の航海で修理するか取り替える必要がある。

 こうして完成した双胴船は適戦期の春までに三隻間に合った。船型名ヒッポキャンパス<竜の落とし子>。一番船から順にパイロン、ギュロス、ギュベレの名が付けられた。その名に恥じず、当時最高の船乗りゲート船団の航海士たちの常識をも越える、竜か、神か、悪魔か、半神半人かと思わせる化け物に仕上がった。

 ミナッツ王国軍艦島ぐんかんとうのゲート船団が本土沖に姿を現したのは、もう初夏も近い頃だった。春を予定していた出帆は昨秋からの天候不順に祟られて延びに延びていた。まず向けた船首はイコット半島。王宮顧問団筆頭ルシャートの不慮の死によって頓挫の気配さえ漂う本土入植地域に四千もの軍艦島ぐんかんとう陸戦隊を積み降すと、しばらく沖に停泊した。ノルベルンが初めて主導する本土入植の第四次入植団の建前だったが、平和事業を推進しにきたはずがないと瞭然だった。泡沫ほうまつ騎士群生地域に留めるつもりもあるまい。なんで攻城兵器が必要なのだ。

「バスタールの遺臣どもが旗を立てて奮戦しているようだが、泡騎士と廃貴族という烏合うごうの衆では如何ともなるまい」

 ロッシュローは全権独裁官に内定したが、タムストール宮と市内の粛正はロドリーゴとゾルムに任せて、丘の上の邸から動かずにいた。全権独裁官とは市民を戦争に動員し、命令を下す権限を持つ軍事色強い将軍職で、万が一にも参事会と結びつくのをナルマー市民は好まない。ヨルムブレヒトこそが事実上の指揮官だが、奴隷に号令されるのも市民には感情が面白くならないだろう。とりあえずこの場は使われる側に収まるのが誰にとっても一番いい。戦というのに気楽だというのも実にいい。

「静観していれば後々の聖公座せいこうざの介入に厄介な案内人になっていたでしょうが、これで後の憂いの一つはなくなりました。真珠島しんじゅとうの陸戦隊にも目の明いた奴はいますな。これならうまく協調して聖公座せいこうざの介入を防ぐ戦振りもやれるでしょう」

「ウム。その辺の交渉事は俺がやる。ただ不気味なのはガレー家のバベルとかいう奴。ヴォレヌスかドロスが来るまで縄張りは死守りにするとは、なかなか食えん奴らだな。彼奴等が案内人になることはないか」

「やらんでしょう。人死にのお手先を働いて快しと思う連中じゃありませんよ。落人の逃げ込み先と調停役として巧く動いてもらいましょう」

「やはり問題は海戦か。あれは後片づけの方が大変そうではないか」

「なあに勝てばいいのです。勝てば」

 海港側の要塞化は進んでいる。河口に岩石、碇、破砕した小舟を沈め、海底に打ち込んだ丸太を鎖で繋ぐ、海上標識を取り除く、軍艦島ぐんかんとうが払い下げた旧型の櫂船で封鎖する。要塞というには簡素で急拵えだが、どうせ勝つ必要のない戦線だからこれくらいの手間暇で十分だろう。

「大分古くまで遡って調べましたが、ゲート船団は上陸戦の経験が非常に少なかったのです。ブライスの海賊退治やジェルダン海戦など海戦は破竹で無敵の船団でしたがね。そこは歴代王たちの政略でもって予め寄港場所を用意している並外れた手際を褒めるべきでしょうが、陸であっても海であっても軍隊というのはいくらかでも無理と無茶をさせておかないといざという日に役立たないものです。あの防備で撃退できるとは思えませんが、大分手こずるでしょう。その間にジェソンさまが事を済ませば戦は終わります」

 ナルマーの役割は時間稼ぎ。勝敗を決定づける主因はウニヴェロッサが担っている。

「パイロンとギュベレの右揺れはやはり収まらん。外海に出たら方位の調整を怠るな。星図を頭に叩き込んでおけ」

 双胴船の操練から戻ったある日のこと。真珠島しんじゅとう入植団と泡沫ほうまつ騎士群生地域での戦いの決着は明確になり始めている。ルーリック騎士道の華とやらを見せつけたいのか、バスタールの遺臣たちは勝ち目のない悲壮な戦を続けている。

――馬鹿よ。だが、陸戦隊はその騎士らしい戦振りに慣れて民兵特有の恐るべき戦に対応できまい。

 ウニヴェロッサが岩礁を伝って漁村に戻ると、ボルドーが来客を告げた。いかにも広場でおかしな連中が待っていた。男二人女一人、荷物持ちの従僕二人。是非とも王子ジェソンに願うところがあるという。それにしてはあの女の衣装は一体何事だ。降嫁こうか仕度ではないか。

「何者らだ」

「は、北西のアティルムの丘付近の豪農です。大王陛下の例の実験に土地を提供した見返りに特権を得ているらしく、真珠島しんじゅとうとの繋がりもないわけではないようです」

「そんな糸まで手繰るとは、奴らのやり方もいよいよ見境ないな」

「いえ、どうもトッレは関係ないようなのです」

「用件はなんだ」

「どうも訳深いようで、願いの向きは殿下にのみお話したいと」

「女をあんな出で立ちで同道させるようなら余程だな。会ってやろう。が、警戒は怠るな。五日前にはギュロスを焼かれかけたのだぞ」

 双胴船の端材で作らせた椅子に座って聞いた客の話というのがまた妙なものだった。男たちは嫁入り支度をした女の父兄で、娘も明日にも輿入こしいれという。その前にどうしても清めておかなければいけない問題があった。適任者を方々に求めたが、なかなかこれはと思うような人物に中らない。大王の子ジェソンが漁村を襲撃して占拠している話は知っていても、そんな荒くれだったら尚恐ろしいと避けていたのだが、血筋は申し分なかった。だんだん噂を探ってみるとロマックでは娼婦を厳罰に処そうとしたと知って、これならば、と見込まれたようだった。

「実は殿下に初夜権の行使を乞いに参りました」

「はっ?」

 てっきり娘を差し出して特権とやらの継続でも狙っているものと思っていたら、とんでもない話を打ち上げてきた。ウニヴェロッサも自分の読みがこれだけ見当外れをするとは思わず心底から驚いた。これは大いに観測に値する件だ。変化の様相を秘めた内核が興味津々に躍動しているのを感じる。

「十年以上も前にあの丘で大王様が妙なことをしていたんです。その見張りをやってた兵隊がまた変な野郎で、まだ幼かった娘に色々なちょっかいを。初めの内は菓子とか櫛や銀細工なんかもありましたかなあ、そんな物を呉れてやって、割と口が達者なものだから私らもころっと騙されて……く、く、悔しい! 悔しくも! あ、あの、野郎奴! けっけだもの! けだもの奴っ!」

「間違いがあったのか」

「あの頃たった九つですよ! ちょっとすっ転んで膝を擦りむいただけでも、おお大丈夫かと心配するのが人の情けでしょう! そ、それを、それを奴は! 痛い痛いと泣き叫んでいるのに、ああ、ああああっ……」

 そうなるとこの女は二十代半ばという計算。かなり婚期を遅らせている。それもこれも一件のせいか。

「と、ところがですね、娘を気に入ってくれて、よいそれでもよい、と言って貰って下さるお人がついに現れたんです。あたしらは本当に嬉しがって、何としてもあの穢れを取り去ろうとしたんです。あの獣を捜し当てて金玉を掻き切るのはいずれの日として、今はこの娘を、この娘を清めてやりたいばかりで」

「だから初夜権か。その目の付け所からもそなた等の苦労が忍ばれるな」

「は、で、では」

「その親心に感じ入ったぞ。出歩かず夜を待て」

 客たちは地に着くようにお辞儀をして、ウニヴェロッサが外に出る物音を聞いてやっと頭を上げた。が、本当はまだまだ油断ならない。心配は続く。

 初夜権。領主が支配内の婚姻に際して花婿、若しくは花嫁に先だって共寝をできる権利という。悪名高いのは悪名を呼ぶ使い方をしたからだろう。この娘のように不可抗力で処女を、魂を守る聖櫃せいひつを穢された者の救済は教義に定められていない。生涯、来世でも苦しむ。ならば世俗の者が救ってやらなければならないと誰かが思い立ったのだ。支配者が処女証明すれば、少なくとも支配域では平和と共に保証される。寝る寝ないは問題ではない。当初は紛れもない善行に基づく救済措置であったのを不心得者が悪用し、支配内からの逃亡防止と正しい用法で得られる大事な税収を自らの短絡な快楽と引き替えに遺棄してしまったのだった。ウニヴェロッサに願うまで初夜権行使者の人選に苦慮したのは無理もない。人物が半端では真に受けて婚姻直前の大切な体をわざわざ食い物にされてしまうのがおちだし、機転を利かせられる世慣れた人物が必ずしも支配者であるとは限らない。その辺の草むらのような一人物が処女公認したとして何の役に立つ。噂の限りでは女嫌いの王子ジェソン様というのは最適任者だったわけだ。

――だが、余は既に百姓共の狡猾を知っておる。

 夜になった。さっきまで出ていた月は雲に隠れている。

 ウニヴェロッサが家屋に入ってみると、筵の上に足を揃えて女一匹正念場である。見込んだ相手が人面心獣というのは多々ある。ここで豹変して襲いかかられたらどうにもならない。取っ組み合って抵抗すれば、子供のような背丈の対手だから逃げ出すのはできそうだが証明は得られない。女は一心不乱に心の中で祈った。教会に身を避けた父兄らも祈った。

――どうか何事もありませんように。

「服を脱げ」

 畜生だった! 女はわあーっと泣きそうな顔になった。

「勘違いするな。証明には血が要るのだ。お前たちは初夜権の古法に自ら辿り着いたが、手続きというのを知らん。その衣装を血で汚したくはあるまい」

「は、はいっ。こ、これは母も着た衣装ですから。きっと私たちの子供も」

「そんなことは聞いておらぬ。早く脱げ」

 ちょうど月が雲間から顔を出した。女の裸体が明かり取りから指す銀色の光の向こうに陽炎のようにうっすら見える。ウニヴェロッサは降嫁衣装を掴んで改めた。武器の類はないようだ。短刀を手に女の体をじっくりと眺める。

「あ、あの」

「黙れ。斬るべき位置がずれる」

 位置を変える。横からも後ろからもじっと視線が刺さる。

「両手を前に伸ばし両膝を着け」

 後ろから髪に触れた。串、紐、薬の類はない。

「もうよい、服を着ろ。出来の悪い義弟奴がいつどのような抹殺を企むか知れんのだ」

「は、はあ。あ、血を。でもどうかあまり目立つところは許して下さい」

「もう足裏を斬ってある。仕上げに余がこの血を踏めば教義上、この血は最も卑しい血となる。証文は古典サーニー語で書くから修道院の者に読んでもらうのだぞ」

 いささかか儀式めいた処女証明は終わった。が、ウニヴェロッサはまだこの女に用があった。一つ聞いてみたい話があった。

「お前の結婚は政略とは別のようだ。ならば愛というのを知っているのか」

「は、はい、もちろんです。愛なくして殿方と一緒にはなれません」

 女は初めて胸を張って答えた。淀みの取れたいい声だ。

「愛。何だそれは。神の愛と人の愛は同じくする物か」

「それは――私のような百姓の娘では分からないことです。でも、私たちはみな私たちの形をした愛であると、修道女様に教わりました」

「分からぬ。ならば愛とは人により異なるのか。父と母でも、そなたの夫となる男はどうだ。お前はお前を犯した下郎を憎んでいようが、愛と憎しみは相反するものか。余は余の形をした愛と答えられても、愛とは何かという問答が成立していないように思えるのだ」

「私たちが生きること、それがもう愛の働きそのものではないのでしょうか」

「ふむ。では、奴隷はどうだ。生まれながらの奴隷は数少ないが、そうした者も愛の具現であると言うのか――ああ、百姓の娘と討論する問ではなかったか。余には親友がいたが、去年の冬の入り頃から急に手紙が途絶えてしまってなあ。長く引き留めたな、去るがいい。式に遅れぬようにな」

 ゾルムもそうだが、ウニヴェロッサも深く考え始めるとこうなる。変化の様相が総動員されて支離滅裂な思索と言動をするのであった。女は脈絡のない台詞だなと思ったらもう追い出されてしまっていた。去り際に、

「誰でもおかしくなったら笑いますよね。私も、そうでした。男の方を恐れて、憎くって、でもあの方に語りかけられてからはただ愛しか感じられないのです。王子さまにもきっとそのような方が、きっと」

 学がないのは悲しいことだ。詰まりながらやっとこれだけを言えた頃、月は再び雲に隠れていた。ウニヴェロッサは独りになって考える。ウルフィラからの手紙に書かれてあった聖職者の妻帯についてのとある分析をふと思い出した。

――公的には独身の状態ですが、私的の状態にあって結婚しているというのです。

――愛とは人間が公的状態にある場合、制限され許されぬこともある。そういえばウルフィラはこうも書いていた。公私の別とは自由人の特権であると。だったら公私を別せない奴隷はいつ愛せばいい。公的にはジェソン、私的にはウニヴェロッサであるような奴の場合は。そしてその者はかつての祭りで、自らの逆を、隠された本性を奴隷と定めてあるのだ。その者はいつ誰を愛せばいい?

「余には分かりえぬ」

 悲しき独言は空気を裂いて響く笛の音に消えた。またトッレでも出たのかもしれない。放っておけばギナたちが片付けるだろう。ウニヴェロッサは深く目を閉じた。涙でも流れればいいのに、

――卑怯である。

 心中はその情動の働きを惰弱と非難した……。

 夜が明けて、ウニヴェロッサは密かに女たちの後を尾けて結婚式を遠くから見届けた。体裁というのが花嫁の処女を奪ったという身だから、まさか参列するわけにも行かない。初夜権を行使して処女を確認したという文書が読み上げられても混乱はなかった。唇を重ね合い、抱き合っている。笑っている者あり、泣いている者ありの感情の坩堝。幸せなのだろうか。

「おい」

 ウニヴェロッサは同行の泡騎士三人に聞く。

「あ奴らは本当の本気の正気であんな騒ぎをしているのか?」

 鳥肌を立てたような絶句が答えだった。

「引き上げるぞ。すぐに戦だ。せめてあ奴らの愛とやらだけでも守ってみるとしよう」

 泡沫ほうまつ騎士群生地域での戦いは終わった。誰の手にも負えない野蛮と暴力の地は、より強力な同傾向の力で統べられた。バスタールの遺臣たちの抵抗は根強く、王の威厳に刃向かうという臣にあらざるべき行為に激怒したノルベルンは投降者の処刑を命じた。

 陸海の軍勢は南へ、ナルマーに向かう。理屈はなんとでもつけられる。偽王ジェソンを放逐ほうちくしただけでは済まさないとか、放逐ほうちくしたのが王家への叛意はんいだとか、漁村を拠点にしたジェソンへの巨額の援助を追求するとか、ボイル市とオスカー市が唆したとか。当初から不可避の戦はともかく始まるのが当たり前だった。

 ナルマー沖の船影およそ六十隻。軍艦島ぐんかんとうの中核ゲート船団を半数近くも動かしたようだ。事実上の継承戦争。とっとと終わらせるに限る。船団を指揮する提督は、傍系ではあるが真珠島しんじゅとうの英雄ブライスの子孫を誇るオロハス。有名無実の海洋調査船団コルティーレの観測船を旗艦にしていた。甲板の船室から船首まで出てナルマーの防備を直に確認する。

「あっ、ありゃ水牛号ではないか。お、シャチ号や鰐号までいるぞ」

 封鎖線を構築する旧式の櫂船のいくつかはオロハスの知っている船だった。隣に立つ副長も知っている。

「懐かしいなあ。俺たちを一人前の船乗りにしてくれた船だ。うーむ、ヘダイブ半島か中原都市に払い下げられたと聞いていたんだがなあ」

「この市の奴隷屋か同盟が手を回したものでしょう。ああして相互に繋がれていては海戦の脅威ではありますまい」

「せめて俺らの手で引導を渡してやれるのが幸いだな」

「はあ、それもそうでしょうが、分を越えて気を大きくしなさいますな。海戦には陸戦のような理外の理はなく、冷静な認識と徹底した計算の先に勝利があるのです」

「然り然り。教官そのものの口振り、ありがたく思うぞ」

――オロハスはちとルシャートさまに感化されすぎているな。もう少し猜疑が強ければ提督も及第なのだが。よし、それが俺の役目か。

「気球を打ち上げますか」

「そうだな。上陸戦は苦手なんだがそうも言っていられんわ。観測気球打ち上げ用意、高度二五、六〇、一二〇」

「観測気球打ち上げ用意ーっ。高度二五、六〇、一二〇」副長が復唱。

「観測気球打ち上げ用意ーっ! 高度二五、六〇、一二〇!」馬鹿でかい声の甲板長が船全体に言い渡した。

 コルティーレの観測船最大の特色は船首に建つ船楼。この中の二人がごそごそと動いて、布が丸く膨らんだような人の顔ほどの浮遊体が三つ姿を出した。

「観測気球準備完了っ」船楼から報告。

「観測気球準備完了!」甲板長から報告。

「観測気球準備完了」副長から報告。

「観測気球打ち上げ」

 命令を受けて、三つの気球が糸を引いて浮いて行った。潮風に見えない階梯かいていでもあるようにぐんぐんと空に昇っていく。船員は皆でそれを見上げる。空気よりも軽い気体のみを抽出して集めれば船と同じ原理で空に浮くとは教わったが、羽もないのになんとも不思議だ。

「どう出ると思うね」オロハスが聞いた。

「そうですな、良・良・可でどうです」

「では俺は、良・良・良だ」

「はは、強気ですな」

 上空の気圧変化によって気球上部の弁から、内部で充満していた赤色の煙がゆっくりと空に線を靡くように漏れ出した。風と大気に流されてゆく。

「二五気球、良!」

 次の気球は倍以上高い位置で同様に赤色の煙を出した。

「六〇気球、良!」

 最後の気球はもう点のようにしか見えないが、観測船の花形、前後上下左右を見渡す船団の守り手、船楼の観測手は抜群の視力の持ち主でないとなれない。赤い煙がゆらゆら揺れているのを見た。

「一二〇気球、可!」

 副長が的中だ。提督オロハスは、えーいくそう、と言いながら銀貨を五枚やった。子供の遊びのような単なる博奕ばくちだが大人の嗜みだ。言うほど悔しがっているようには見えない。

「観測気球収納。高高空の青がすこし薄い、二日後あたりに天候が崩れるかな」

 軍艦島ぐんかんとうでは人間を搭載できる大型気球の開発も進んでいるが、気球観測の技術はまだまだ発展途上だった。天候が予測できるのは最長でせいぜい一課節分(三時間)ほど。かつて何度も海難死しかけたオロハスのような経験豊富の熟練の船乗りなら二日先くらいまで勘通しが立つ。

「定時観測して報告いたします」

「任せる。では、まずは小手調べといこうか。波長観測、波高計算に入れ。後方の砲船に前進指示」

 ナルマー港湾側の防備は、沖に鎖で繋いだ旧式櫂船六隻の腹を向けて半円状の防壁としている。船壁の左右に狭い澪筋みおすじが見つかるが、まず海底に障害物を沈めて航行不能にしているはずだ。ならば、船壁の後ろにいる二隻の櫂船の狙いはなんだろう。戦況の行方によって左右の澪筋みおすじから出てくるなら、どちらかの澪筋みおすじは航行できるのか。定石通りで打ち合えば戦力に上回る方が勝つと定まっている。下回る側は定石に外した策を講じて自分の土俵に引きずり込まねばならない。予想される抵抗は船壁から矢を放つか、船底近くから射出口を延ばした投石機によって接近する船を攻撃する程度のものだろう。いずれも射程は短い。櫂船を突撃させて突き崩すのも勇猛でよいが、わざわざ対手のしたい戦いに付き合って犠牲を出すような義理はない。

「砲船十二隻配置完了。投石機の組立に入ります」副長が手旗信号を読みとって言った。「たった今、砲撃船陣の要請がありました」

「よろしい。全船、砲撃船陣を取れ」

「はっ、砲撃船陣」

 各船の間で手旗信号の交換とかけ声が一段と激しくなった。船上から筏船を放り出して綱を持った船員が船と船を往来する。最前面には護衛艦の役割の櫂船八隻が、ナルマー側の船壁のように腹を向けている。右翼が右向き、左翼は左向き。砲撃の効果が得られれば旋回しつつ突撃する手筈。その後ろに投石機の組立が進む砲船が後方左右からV字型に櫂船や補給船と繋がれてゆく。こうしなければ、甲板上に築いた投石機が稼働する際の重心の激しい上下縦運動と波の上下動が同調現象を起こして、船が非常に危険な状態に陥る。ましてや漕ぎ手満載の櫂船では投石機の資材や石弾を十分に積めないので砲船は帆船が原則。そして船首方向に石を飛ばす以上は帆柱まで外さなくてはならなかった。もしも砲船だけで投石機を使用すれば、一波長間の船の横揺れ、縦揺れ、上下揺れの何れかと同調、励振れいしんし、揺れを大幅に増幅させてしまうのである。特に危険なのは上陸戦で多々ある追波で、船が波に乗せられる状態となり、まず操縦不能に陥る。帆を畳んだ状態の帆船では手の打ちようがない。舵も効かず錐揉み状に流されて急激な旋回によって生まれた遠心力が復元力を越えて、転覆させてしまうはずである。そんな悲劇を阻止するために船同士を繋ぐ陣を敷いて、砲船の重石となってがっちり支えなければならない。前面の櫂船も万が一には身を挺して砲船の漂流を止める任務がある。危険で手間もかかる。熟達のゲート船団でさえ船陣の発令から完成までに半課節近く要するがそれだけの価値はあった。陸上専用と思われていた強力な投石機を海上から、決して反撃されない距離から放てるのだから、射的の的みたいに標的が動かない上陸戦での優位は明らかであった。

「波長観測出ました。検算願います」航海士が副長に駆け寄って計算式が書かれた用紙を提出した。指を沿って確かめる。正答。しかし副長の見方では方程式に当てはめた波長の間隔値が少々甘い。若干の修正を施して提督に提出。にっこり笑った。

「よろしい。船楼員、二番曲用意。一番船試射用意!」

 船楼の船員が憧れを集める理由はやっぱりこの喇叭らっぱかもしれない。信号喇叭らっぱは七曲まであって、観測された波長に対応する。一は緩やか七は急。短い曲の終わりに投石機を起動すれば波の同調現象を避けて比較的安全に射出できた。ただ、どんな寝返りを打つかまるでわからない自然が相手だから絶対とは言い切れない。単なる目安に過ぎない。個々別々に撃ちまくるのではなく歴とした統制によって一斉射出できる効果が重要だった。何故ならば、周囲の味方が連続して倒されるのと、まったく同時に倒されるのとでは戦意を圧迫する効率が四倍も違う。陸海を問わず一大攻勢を予告する喇叭らっぱの音色が死を振りまく合図と恐れられるのも納得できる話だ。

 砲船の列中央に位置する一番船から唸りを挙げて石が飛んでいった。射程距離は船底に構えた投石機と比べて三倍から五倍はあるだろう。砲船を繋ぐ命綱がびーんっと緊張した。射出時の揺れで船が右に傾いた。石は船壁を越えて着水。

「着弾せず。対象まで目算負の一九」船楼から報告。

「修正計算急げ」

 すぐ出た。信号喇叭らっぱを一小節半省略、石の重さを一段階増が最適。ただし同調現象の確率も上がる。提督オロハスは積極採用。一番船は綱で繋がる二隻の巧みな操作で傾きを立て直し、砲船全船からも射出準備完了の手旗信号。喇叭らっぱが鳴った。十二隻の砲船から一斉に石が飛ぶ。

「着弾確認。着弾数七、着弾数七!」

「砲船を立て直し砲撃再開。八隻まで直ったら撃ち放て」

「やはりあの船壁は臭いですな」

「うむ。この距離で投石されて狼狽えもせず櫂一本動かないなら空船だろうな」

「しかし、後陣の二隻から移乗すればいつでも防壁として機能しますから、やはりこのまま撃ち沈める他ありませんかな」

「それが良かろう。掃海作業は難航しそうだな」あっ、第九砲船を繋いでいた綱の片方がはち切れた。「上陸は予定通りと鳩を飛ばせ」

 海上でありながら陸と同性能の投石機を運用できるとは計算になかったが、元より海戦は捨てている。時間も必要程度は稼げそうだ。これで陸戦にも計算違いがあったらナルマー北砦を使うしかなかったが、そこは杞憂だった。軍艦島ぐんかんとう陸戦隊の指揮官たちもまた勝利のための努力を怠りはしなかったが、陸戦特有の理外の理ばかりは計測しきれなかった。ヨルムブレヒトと陸戦隊長は互いが互いの虚実を見抜き合う接戦を演じて、勝敗は兵の質に委ねられた。各戦線を突破したのはナルマー市。ロイター川に沿って南下してきた軍艦島ぐんかんとう陸戦隊はたった今、潰走かいそうした。命辛々生き残った敗残兵は地獄の底から逃げ出してきたような怯えきった表情で、ひたすら北の泡沫ほうまつ騎士群生地域へと逃げていく。逃げ着いてもまともな防御陣地もない。追い攻められればそれこそ一巻の終わりだ。

――なんなんだ奴らは。奴らは鬼か、悪魔か。

 都市国家ナルマーはかつて一度も特定領主の支配を受けたことがない。恩寵も恩赦も特権も頂かない。そんな彼らの戦法は、騎士や傭兵といった戦の専門家や、領主に民兵を提供する義務がある解放都市とはやや毛色の違う容赦のなさと結びついてしまっていた。市伝統の独立を保守するため無我夢中で戦ったのだろうが、ナルマーの市民兵には、中原と北部はおろか、真珠島しんじゅとうさえ一致する教圏共通の戦作法がまったく浸透していなかった。戦の専門家は得てして無用な殺し合いはしない。商売の基本は生け捕り。身代金が払えないなら身ぐるみ剥いで容赦なく奴隷商人に売り飛ばす。殺してしまえばいつか恨みの百年目を買うし、第一の懐が潤わない。暴れ回るしか能がない騎士は常に不作法の謗りを招いた。そんな寝呆けた対手に、ナルマーの市民兵は殺戮をもって応報した。降参は何の意味もなかった。

 市壁の中で流血沙汰を野暮と忌避していたのはなんだったのか。ナルマーの都市自決主義は市民の死生観にも強い影響を及ぼしていた。無抵抗の対手を虐殺して恥じない彼らとて命をいくつも持っているからこそ、あんな非道をやって省みないわけではない。何度でも死ねて、あの死に方は良かった、あの死に方は忌やだったと引き比べられて、次もあんな死に方をしようと志せる身ではなく、誰とも同じに一度しか死ねない。生涯ただ一度きりの贅沢品! そんな大事なものを呉れてやるのに、掏摸すりの仕損じだとかのちんけな理由じゃ間尺が合わない。首切り役人なんて身分卑賤な者に斬られて死ぬなどは、死に方が数あろうとも化けて出ても取り返したいと願うほどの不名誉である。命の重大さを、命を使ってできることを、自らの由を自らで決めるナルマー市民は誇っている。しかし、人口十万人近いナルマーは大き過ぎた。こんな死生観は珍しくも口外するものでもなく、市壁の外も同じだろうと思い込ませて、市外の現実認識を麻痺させるほどに大き過ぎた。戦などは好まない。しかし、もしもやるならば、躊躇なく、許容なく、容赦なく、慈悲もなしにやる。命の奪い合いという方程式では、ゲート船団のように多くが奪い方を濃密に工夫するものだが、ナルマーでは命の値が空恐ろしいほどに大きかった。そんな奴らが命を捨ててかかってくる。金儲けとかの競争程度の考えでろくな覚悟をしていない対手などすぐさま砕かれる。

――命なんて大事な物を質に入れてきたのなら、どんな目に遭う覚悟はできているはずだろう。そんな人をおちょくるような不明で戦をしてやがるのか、だったら命の価値も分からねえてめえみてえな屑肉は死んだ方がましだな。

 常日頃を命がけと自らに課すナルマー市民兵の戦は、火を吐くほどに激烈であった。

 歴史上、戦闘の専門家でない者の方が、戦闘の専門家よりもよほど非道な戦禍をまき散らしてきた。禁忌と規則がなければそうもなる。しかし、ヴァイサーン王ベニベニが覇権を手にしたのも、ナルマー市兵が軍艦島ぐんかんとうの陸戦隊を壊滅させたのも未開の野蛮性があってこそだった。無知と野蛮性には、余所で進んだ技能をそのまま振り出しとして受容できると同時に減衰していない強く純粋な勢いで更に発展しうる効能がある。初戦で大勝したなら追撃という鉄則も知らない。指揮官ヨルムブレヒトの指示は、並大抵の軍隊なら揉めるが、戦なんてつまらない仕事よりももっと大事な仕事に命を懸けているナルマー市民に受け入れられて追撃しなかった。同じように、もしもウニヴェロッサに造船の深い技術と経験があったとしたら、あんな双胴船を思いつけただろうか。ウルフィラから観測し自らのものとしていた柔軟な頭脳の働きを用いて、まっさらな下地に異分野の外部知識を詰め込んで造られた双胴船ヒッポキャンパス。陸戦隊撃退を報せる狼煙のろしを合図についにパイロン湾から出撃した。

 観測気球で得た予測通り、少しして風が吹き始めてきたので海上投石は打ち切られた。綱が左右両方とも切れて流されてしまった砲船を前衛の櫂船が危うく食い止めてくれたのが潮時。その場で投錨とうびょうする。

「あの船壁は頑丈すぎます。無人でありながら喫水が深いのも船底辺りに水密区画を造り、杭を海底に打ち込んでいるものと予想されます」

 夜になって船室で戦況分析。提督、副長、甲板長、航海士、船楼員が集まって討議する。

「無人であるなら我々が移乗して船壁の乗っ取りを図り、多少の損害は覚悟で後方二隻の櫂船と交戦。この抵抗を鎮めれば、澪筋みおすじの点検によって速やかな上陸が可能です。仮に掃海が必要としても、船壁を全壊させるよりは遙かに早上がりです」

「私は反対します。いずれの要因も想像の域を脱しておりません。このまま攻め急がずに砲船を駆使すれば被害を出さずに勝てることは明白です。我々の任務はあくまでも陸戦隊の支援。陸戦隊が市の民兵を打ち破るまでは慎重にいきましょう」

「私もそう思います。ですが、あの船壁の頑丈を解き明かすのには賛成します。明日は砲船でもって船壁の一角を集中した後、前衛の櫂船に強襲偵察させてはどうでしょう」

「よろしい。その案を採用する」

 解散になった。船室を出ると三日月というのに空が真っ白く明るい。星はいっぱいにまき散らしたようにあちこちで光っていた。オロハスはいつもの癖が出て夜空の光も何もないようだ。戦術策定の後は決まって船首に立って船団を見渡す。

「またお悩みですか」副長だ。

「うん。もっと他のいいやりようがあったんじゃないかと、いつでも思うよ」

 ルシャートを気取った大人物の真似事はやっぱり無理で、オロハスは繊細な男だった。戦の指揮官だって心配のしどころは百姓や職人と同じように仕事の成果だ。訓練は適正だったか、船団の編成に誤りはないか、科学的な観測と長年の経験の取捨、仲間を死に導きはしないか、見落としてはないか、敵の狙いは。きりがない。偶然が味方して巧くいった戦果であっても計算でしたと言い張って虚勢を張らなくてはいけないこともある。偽善を演じるだけならこんな楽な商売はないが、偽善どころか誤魔化しようもなく提督の役割を果たせる能力が、時に身の程を越えるような重責に感じる。

「訓練に上限はないとは申しますが、訓練ばかりでは船乗りは腐ってしまうものです。多少無茶であってもその成果を身に刻ませてやりませんと、結局は使う側が心配で心配で何事もできなくなります。海で遊んでいたガキ大将の私らがトッレにさらわれて、スクードの船漕ぎを振り出しに今日まで生き残って大船団を率いるようになった経歴を思い出してください。一体何度、生き死にの境の修羅場をくぐり抜けましたか。地獄の一丁目まで落ちなきゃ拾えない賜物たまものだってあるでしょう。嵐や負けや仲間の死にこれでもかと落ち込まされて、それでも反発してここまできたではないですか。それを私らだけ一部の人間で独り占めして、甘やかそうとするのは他者の成長というのを除こうとする傲慢な行為ではありませんかな。それは戦では無縁の優しさでしかありませんよ、オロハス」

「そうだなあ。本当にそうだなあ。お前はまったくいつも情け容赦なく正しい。おお、気づけば今日の月はまた格別の切れ味でないか。明日はあれくらい鋭く攻めてみたいものだなあ」

「よかった。正直、船団を指揮する提督閣下が空の模様にも注意が払えないままでは困るのです」

「はは、まったくその通りだな」

 次の日は波が若干高い。喇叭らっぱは三番曲を吹いた。オロハスの好きな曲だ。四小節も省略しているから砲船の危険はかなり大きい。原則では五小節以上の省略では海上投石はまず行われないから、なかなか無茶だ。砲船を繋ぐ綱は試作段階の鉄芯入りの特別製に交換させた。今日の標的は船壁右端から二番目。かつてシャチ号と称された船。

「砲撃開始」

 昼過ぎになってやっと船壁の一角が崩れた。砲船も半数以上が横に傾いてこれを直すのは一日がかりになるだろう。

「強襲偵察始めえっ」

 左翼最前の櫂船四隻が動いた。櫂の操作で緩やかに右旋回してゆく。やがて三隻が船壁と並列するように陣をしき、弓隊が船腹側に集まる。最後尾の一隻が船壁の左端に衝突を果たした。梯子はしごをかけて移乗準備完了。素早い。

「あれが訓練の成果ですよ」どうです、といった顔をした。

「こんな時まで調子に乗るな」今日のオロハスはなかなか厳しい。

 やはり船壁はどれも無人だ。後陣の二隻から弓の反撃応射があるものと思われていたが、ずっと沈黙したまま。甲板を走り、船と船を繋ぐ大鎖を曲芸のように伝ってシャチ号へ。投石でこじ開けた穴から中を覗くと、やっぱり船内は浮力の限界近くまで補強されている。船底はどうなっているだろう。あ、確かに杭が突き出ている。おかしい。二重底の水密区画になっていない。杭が船底を貫いている。なぜ浸水して沈まない。奥に小窓があってそこから少し明るい。その光力だけではよくわからないが液体らしき気配はある。なのに水位が安定している。水? あれは水なのか? 銅貨を投げてみる。音がした。水の音ではない。もっとこう粘り気があるもの。暗さに目が慣れてそこかしこに枯れ草や巻き藁が括り付けられているのも見えた。

「あっ、油か! こいつら船底に油を張ってやがるのか!」

 だから無人にしていたのだ。この船壁を敢えて乗っ取らせ、あの小窓から火種を投げ入れれば。そもそもどうして無茶をして軍艦島ぐんかんとう払い下げの櫂船を手に入れて、これ見よがしに船壁としていたか。ゲート船団の現役船と全高がほぼ一致していては、まるで演習のように気楽に移乗されるのは分かりきっている。

「そろそろ付けますか」

「ウム。こちらの反抗力をここで見せよう」

 ナルマー市港湾側の守将はロドリーゴとゾルム。海上からの投擲には度肝を抜かれたが、今度はこちらが敵の荒肝を抜いてやる番だ。

 船壁後陣の二隻の櫂船の陰から小舟が出てきた。トッレの報告で知っている。ナルマコックだ。乗組員の盾壁が火種を守っている。冗談じゃない、あんなものを投げ入れられたら。他の船壁を調査していた仲間たちも船底の燃料の存在に気がついた。

「たっ、退避! 退避ーっ!」

 シャチ号に付けたナルマコックから火種が投げ入れられた。すさまじい勢いで燃え上がる。オロハスの旗艦からでもよく見える。

「これが船乗りのやることかよ!」

 拳骨を思い切りもう片方の手に叩きつけた。聞こえる。オロハスたちには今、火柱に飲まれたシャチ号の叫び声が聞こえる。

――熱い、痛い、苦しい、助けて、助けて!

 船乗りにとって船とは親でもあり子でもある。どんな窮地に遭遇しようと捨てる決断は最後の最後。離れ難い気持ちを振り切って、沈没する船を涙とともに見送る。油に火を付けて自沈? 火船を突撃させる戦法とは話が違う。

「外道共がっ! なんて真似をしやがんだ!」

「ゆ、許せんっ! 断じて!」

 涙ぐんでいる者がいる。とても直視できない者がいる。胸を押さえて反吐がでるのを堪えている者がいる。そこに船楼に鳩が止まった。足元に手紙だ。船楼を降りて、かつて数えるほどしかない不機嫌の副長に提出。

「閣下、陸戦隊が壊滅しました」

「それで」

「陸戦隊再編まで攻撃を続行せよ」

「馬鹿か! 言われでんもわかっているわ!」

「どうか冷静に。本島からの増派がなければ戦力不足は明らかです」

「――櫂船を戻せ。一斉突撃で船壁を粉砕する」

「船壁の強度計算がまだですっ。闇雲な突撃では反対にこちらが衝力に耐えられず損害を受けます。まずは偵察隊の報告をっ。オロハス!」

「――くそっ!」

 オロハスは激昂を誘う最悪の挑発に耐えた。海戦では冷静な認識と徹底した計算こそが勝利の秘訣。自分がここで投げ出してどうする。身の内で猛り狂う理外の理の出番はまだ少し先だ。地に足がついたら奴ら、

――ただじゃおかねえ。

 夕方に緊急の戦況分析。惨劇を見せつけられて浮き足立ったせいで砲船の建て直しはまだ半分ほどしか進んでいない。あの封鎖線の悪辣あくらつな仕掛けは判明したが何とも攻めにくい。船壁の強度は概算値が出た。微妙なところだ。突撃決行と見なしていた明日は、しかしオロハスの勘が中って天候が崩れる。砲船は問題外。荒れ海では櫂船の櫂が水を満足に掻き出せず突撃衝力も低下する。明日はどうにもならない。明後日は。突撃に絶好の条件が揃ったとしてどうする。粉砕できようが、卑劣にもまた焼かれようが、結局は海域に大量の木材が散乱する。海中には杭や碇が座礁させる機会を狙ってい、浮遊する大小の破片を掃海している最中にナルマコックが妨害するだろう。船壁から漏れだして海水表面に漂う油には火がつくのだろうか。類焼しないだろうか。陸戦隊の増派再編はいつ完了するのだ。

「着実に船壁を削り、地道に掃海するしかないように思われますが」

「時間がない。石弾、兵糧は補給すればよいが疲労する船員はそうもいかん。本島の船団と交代するにしても、その間に対手が封鎖線を修復増強するだろう。ましてや真珠島しんじゅとうを一時丸裸にしてまでとれる手段か」

 戦力に劣る側の定石と常識に外した汚い手でまんまと泥沼にはめられた。各自明日一日考えて結論がでない場合、全船会議を開く。この沼を脱す案を持つ者がこの船団に誰か一人くらいはいるかもしれない。ぽつりと出た撤退論をやむ得ない形まで大きく育てることも、或いは。

 海戦三日目。ナルマー側から使者を寄越よこしてきた。ナルマコックを漕いで荒波に揺れて一進一退、苦労して苦労してやってきたのはゾルムとヨルムブレヒト。

「本土副王ジェソンさまが間もなく西の海から到着されます。提督と調停を含んだ会談を持ちたいと」

「調停?」

――そうか。本音はともかく、建前ではこの遠征はまだ偽王誅滅ではなかった。最大の後援者ナルマーが叩かれる前に慌てて出てきたか。ありがたいのは手詰まりのこっちだったかな。

「西海上に船影三! 船型、船型不明!」船楼から報告。不明とは何だ節穴奴! 甲板長が飛んで行った。

「お着きのようです。ご返答はいかがですか」

「いいでしょう。古来より調停人は尊ぶもの。まず話だけでも承りましょう」

 オロハスは西を向いた。甲板長からの修正報告がなかった。本当に見たこともない船が来たのだ。それだけでも一見の価値がある。

――な、なんだあの船は! 双胴船? この荒れ海でなんという船足だ。

 その驚きは精一杯表には出さなかった。

「車輪停止の後引き上げ」

――甲板に車輪? 更に上下に動くのか。なんと奇妙な船だ。

「全船停止。追波に注意せよ」

――あの小男がジェソンだな。

「オロハス提督、何をしている、早く綱梯子を下ろさぬか」

 堂々と命じてきた。なんて奴なんだ。本物のジェソンだか偽物だか知らないが本当に王になる気でいるのか。

 甲板上に姿を現したジェソン、聞いていたように子供のように小さかった。

「あの船室で話す。ナルマーの代表者ゾルム、ヨルムブレヒト。ゲート船団の代表者オロハス、もう一名を指名せよ」当然副長が選ばれた。

「調停というのは名目だ。互いが次の機会を伺いあう休戦期間を定めるだけのな」

「は」

 それなりに物はわかっているようだが、だからどうした。競争対手を駆逐するまで続く継承戦争では、原理上、調停はあり得ない。しかし、利害の一致と互いの了解があれば王家とルーリック辺境伯へんきょうはくの関係に見られた長期戦という形式の一時的な休戦はありうる。額面通りの期間が守られる保証などない偽約が前提だといっても、約を結ぶのならば何らかの名目が必要。その軽そうな身なりでどんな材料を担いできたのか。調停役が調停相手の力を借りては公平を欠く。ナルマーの手は借りられない。私有財産か実力だけで半島最大の都市と世界最強の海軍双方を納得させて面子も外聞も汚さないような調停案の用意があるというのか。

「オロハスよ、余の船団はこれより真珠島しんじゅとうを襲い、叔父ルシャートのご遺体を奪う」

「えーっ!」目の前が白黒に点滅した。信じられない規模の、いっそ法螺ほらに属するような話。耳から針を突き刺されたかのような衝撃だった。

「本土に戻って後、義兄らの木像があるアティルムの丘で葬儀を出す。休戦期間とはそれだ。もしもこの間に手を出そうものなら、本土ばかりか真珠島しんじゅとうにも反発を起こす者がいるのではないかな」

「そ、それは恐らく。いえ、まず間違いなく」オロハスの物腰が丁寧になってきていた。

「葬儀には真珠島しんじゅとう貴族の参列も認める。叔父上の平安を皆で祈ってほしいのだ」

 ウニヴェロッサが完勝の策と言って授けたのは、ナルマー市とゲート船団の争いなどではない。そんな他人事の卑小な問題ごときはこの時点で、口先だけで半ば達成された。ノルベルンとの継承戦争が聖公座せいこうざの介入を招く顕在上の出来事にならないほどの短期間で終わらせるのに必要な本土諸侯と真珠島しんじゅとう貴族の支持こそを真の狙いとしていたのだ。

――なんて奴だ。一手だ。たった一手で詰まされた。ルシャートさまのお棺を奪われれば殿下に勝ち目はない。あれは、あの驕児きょうじはこの挑発に乗る。体面にかけて乗るしかない。

「どうかオロハス。この案に不服あるなら申してみよ」

 王権を尊崇して死守する務めのある真珠島しんじゅとうの貴族としては不服も不服だ。だがルシャートを盾にされては言えるものか。言えばあの驕児きょうじとも釣り合う大馬鹿者にされる。

「――いえ、ルシャートさまの魂が安らうなら、願ってもないお話。異論ございません。もしもお棺を手に入れられ、葬儀挙がり島民の総意叶えられるならば、このオロハスありがたく調停案受諾いたします」

 立ち上がって船室の隅にある櫃の錠を開けた。

「あ」

 オロハスの行動が副長にもわかった。軍艦島ぐんかんとうの船乗りとして自殺にも等しい行為だが、気持ちは分かる。長年のよしみで報告しないでおこう。

「海図です。真珠島しんじゅとうまでの航路にお使いください」

「断じて許されぬ」

「え?」

「余は王の臣たる者が王の法を曲げるを快しとせぬ。速やかに櫃に戻せ。さもなくば法によって定められた罰を言い渡す。副長よ、この場合いかなる罰が適当であるか」

 謝辞でも拒絶でもなかった。明らかな怒り。威信と威厳を傷つけられた王が、大王ルイジェセンが見せた尊厳の発露とまったく似た――。

 未知の海の情報は喉から手が出るほどに欲しいはずだ。本気で言ってるのか。海図なしで軍艦島ぐんかんとうが誇る防衛線を回避して往けると思うのか。いや、そんな腹芸とも思われる枝葉の言い分よりも、誠実にして峻厳しゅんげんな態度、王権の矜持きょうじに自らを捧げて惜しむところのなかった大王ルイジェセンに瓜二つではないか。

「恐れながら、王国に属す物は一つ残らず王家のお持ち物でございます。殿下にはその海図をご覧になられる権利を自然的にお持ちなのです」

 副長はこう言って相手を王子ジェソンとして容認する気配を漂わせつつ死罪になりかけたオロハスを庇ったが、論点をはっきり見落としていた。

「たわけ。浅学せんがくのたかが船乗りが王を語るな。ふん、民を統べる王の喜びとはな、王が自然的に持ちうる諸権利を人為的な作為によって獲得した臣民へ、祝福と聖性を分与するを至上とするのだ。王の権利が如何に多岐にわたり強力であろうと、王一人の力など多寡がしれておるではないか。父王がイシュー伯始めそなた等見込んだ者たちと力と権威を共益するのを省みるがいい。それ故、オロハスよ、お前のその行為は他の権威分与者を侮辱するものであり、余は一時とも喜べぬ。余がその海図を用いるのは父王の王冠を引き継いでからか、そなたの能力と忠誠を受けた余が聖性を付与してからである」

 思いやりで情けを示したオロハスが相手を見誤って寝返りを迫られるという、きつい逆捩さかねじを食うえらい目に遭った。

 真珠島しんじゅとう特有の政治神学において、王とは厳密にいうと人間ではない。人間の特性を備えた別の存在。時に人々の常識通念を、独自の価値観や通念で覆し干渉しうる超常の存在である。現在ではそんな独善的な奴は、あんた何様? とか正当にも思われて反発を招き寄せるだけだが、どういった形であれ王が望まれて、秘法にせよ恩寵にせよ厳重に保護される空間にあってはウニヴェロッサのような奴がかえって吹き当てるものだった。

「な、ならば殿下、私の能力と忠誠と共にお受け下さい」

――ノルベルンとは格が違いすぎる。今の内に寝返っておくとしよう……とでも思っていような。

 だが、ウニヴェロッサはオロハスの寝返りをまだ心底のものとは思っていなかった。裏切りと言えば裏切り。不当な扱いではないだろう。

「よかろう。では、見返りに余が設計したあの双胴船と図面を授けよう。王が王の私物を誇っているようでは、大したものにはなれぬからな。その海図と見合わせ最適な航路を導くがいい」

 ルシャートの棺を奪う船団は正確な海図に基づく適正な海路を得て出発した。一番の問題が取り除かれて、成功の確率はかなり高いだろう。如何にして奪うか。既にナルマー騒擾そうじょうの調停中に掏摸すり名人リッツに手伝いを頼んである。サウダージの北砦返還交渉団に紛れ込ませて下調べをさせていた。実際の難度は組み合ってみなければ分からない、とウニヴェロッサに言われた通り、アンフェルとワットが話を持ち込むのには大分な骨を折った。

――馬鹿野郎。それならそうと言いやがれ。あー、くたびれた。

 掏摸すりには以前の恨みがあってと見下して、追いかける一方じゃそりゃあそうだ。リッツは悪事で身を立てているんだから、当時調停官のウニヴェロッサの配下に追いまくられれば死に物狂いで逃げるに決まっている。大の大人が命がけの真剣味でやった追いかけっこはなかなか見物だったらしい。やっと頼んでみると、ナトンの番兵隊長だったカデンの一件で弔い事に関しては考えるところのあるリッツの返事はあっさりしたものだった。

――万金にも勝るあの棺、抜けそうか?

――腕一本の掏摸すりの流儀には外れますが、他所で騒ぎを起こすんならやれるでしょう。

 陽動はロミオ・グリゼリウスが手配する。ゲート船団との戦いに備えてナルマーが工作員を送り込んで、軍艦島ぐんかんとうの樽を狙っているという噂を立てた。北方ヴァイサーン人の南下によって木材価格は世界的に奔騰ほんとうし、森の騎士団を操るドロスはジェルダン海戦の恨みとエステ帝国との密約で、真珠島しんじゅとうには決して売らない。もしも樽をやられれば原材料の調達からして費用も時間もかかる。生木のまま作られた樽は内容の水や食料品を早期に腐食させる。兵糧攻めか。現実味はある。ならばすべての樽を環状巡回しているゲート船団に積み込んで手を封じる。しかし、船速が遅くなった。双胴船は環状巡回のゲート船団が東の海域に入った明け方頃を見計らって真珠島しんじゅとうに侵入した。東南の海域は外海、波が高く櫂船では急行できない。帆船も腹に積み過ぎた樽のせいで船足が遅い。

「殿下自ら手を下す仕事ではないでしょうに」

「余が庭先を荒らすからこそ、あの愚弟は手を出すのだ」

 空はまだ暗い。目の先に開けた手の指は一本ずつ明らかに見えるから夜明けは近いだろう。

 真珠島しんじゅとうの中枢は樽材を狙う噂が陽動で、本命は手の内にあるロミオ・グリゼリウスだと思っていた。染め物屋の周囲は番兵がとぐろを巻いている。どうやって海図を手に入れたのか、軍艦島ぐんかんとうの防衛線をくぐり抜けて、港からの注進で侵入に気づいた時には車輪機関を回し櫂を漕いできたガス族の集団がすぐ目の前まで迫っていた。率いるのはもちろんギナ。何人かはひどい船酔いだが、いったん始まれば気にしなくなるだろう。体調不良でも戦える鍛錬くらいは当然のようにこなしている連中だ。

 敵を騙すにはまず味方から。この騒ぎで一番驚いたのはロミオで、本土に戻される話を今になって初めて耳にした。

「な、ギナよ、実は別れを告げたい女がいるんだが行ってきていいかな」

「一人二人ならともかく、駄目に決まってるでしょ」

「やっぱり駄目か。王冠が手に入ったらまた戻ってこよう」

 こんな暢気な会話ができるんだから、ロミオの救出だけが目的ならもう終わっている。当番制で月いくらかの給金で区画内の住人が無気力でやっているような番兵じゃまるで対手にならない。脅かしてやれば腰が引けて、煮るなり焼くなり思いのまま。見た目だけはせいぜい派手に打ち合ってともかく人目を集めなくては。

「この店を燃やします」

「なにっ、馬鹿な、これは母のチコ家からの持参金、グリゼリウス家の一存では」

「アナールさまはご納得済みです。ロッシュローさまも本土に帰った貴方を結婚させるおつもりです。色恋の未練などはこの場できっぱりお断ちなさい」

「ま、待てっ」

 ギナは待たない。大通りの交差点にあった篝火かがりびを持ち上げて丸ごと店に投げ入れた。すぐに火がつく。店内の布地やとりどりの染料と反応して、弾けるように火が緑や赤、橙の色に変わる。早くも火災を報せる鐘が鳴った。この音を合図に向こうが動くだろう。面倒なのはここから。真珠島しんじゅとう貴族だとか、王宮の衛士といった腕のいい奴らがやってくる。立身出世を望んで張り切るだろう。

 陽動は上手くいった。ルシャートの棺はノルベルンの意向で王家菩提寺に埋葬するさえ許されなかった。故人と王家の栄華を忍ばせるものは、多くの人々の献花の他なにもない質素なものだ。民衆のように火葬されなかったのが前非を悟った末の温情か。名誉の回復と改葬の日が待ち望まれて、ルッジェーロ軟弱王がマザネの会戦での大勝を記念して造らせた凱旋門に置かれている。リッツの報告通り棺は地に打ち据えられていて重い。予定通り斧で打ち壊し、遺体を包む真綿ごと大布でぐるぐる巻きにしていこう。

「ああっ、ルシャートさまのお棺を!」

 夜明けの火事騒ぎに便乗した墓泥棒と、にわかに騒然となった。今にも飛びかかってきそうな奴がいる。いち早くウニヴェロッサが立ちはだかった。

「余は本土副王ジェソンである。墓泥棒などと、著しき誤解で騒ぐでない。愚弟ノルベルンの蒙昧もうまいな仕儀にて、無実の罪で抱き落とされた叔父ルシャートの魂の平安を求めるべく参った。本土に戻り次第、王国の発展と危機に立ち向かったこの英士の昇天を願って葬儀を設行する。道を開けよ! あの驕慢なる餓鬼の片棒を担ぎ、まだ逝き迷わせたいか!」

 葬儀、ルシャートさまの葬儀、と呟く声が聞こえるがまだ少ない。もっと平易な言葉で訴えかけなければ。

「弔うのだ。本土で、ルシャートの、葬儀を! ルシャートに安息を、ルシャートに安息を!」

 少しずつ伝わっていく。もう一息、もう一息だ。

「王たる余は、お前たちの願いを叶えねばならぬ。申してみよ。お前たちの願いを申せ。良心に恥入らぬ望みであれば、余が叶えよう」

「――ルシャートさまのご葬儀を! ルシャートさまに安息を!」

 よし、ワットの奴いい間だ。一人でも動き、一人でも声を上げれば、集団心理の気持ちが和らぐ。扇動者が一人で足りないなら二人。

「ご葬儀を! どうかあの方に平安を」

 二人で足りないなら三人。これでどうだ。よし、人垣が裂けた。布でくるみ終わった遺体を担ぐ。喜びと歓呼の声が聞こえる中を速やかに引き返す。

 離宮にいるノルベルンが叩き起こされた時にはもうすべてが終わっていた。人質にしていたロミオ・グリゼリウスは無様にも正面から奪い取られ、強奪犯は見たこともない船で既に海上。トッレが誇る快速船でさえ追いつけなかった。火災は類焼を防げず、高層住宅上部に住む貧者四百人余りが犠牲になったというからやりすぎた。災害時の流言飛語とばかり思っていたルシャートの遺体が持ち去られた噂が真実と判明したのは、島内の混乱がやっと静まったその日の昼過ぎであった。

――本土で葬儀などさせてなるものか! 余を陥れようとする策謀に決まっておる! 速やかに船団を召集せよ、余自らが軍勢を率いてくれるわ!!

 無思慮で無節操のなんと操縦しやすい男であることか。

 ルシャートの遺体を擁したウニヴェロッサはイコット半島に上陸した。入植者、軍艦島ぐんかんとう陸戦隊の本拠地の説得工作はオロハスがうまくやったようだ。実際にルシャートの亡骸を携えて来るまでは返事を保留していた慎重な者たちもここでの仮葬儀を機に態度を決した。歴史は繰り返すというのか、かつてジェソンを旗印にしてロマックに入城したルシャートのように、ウニヴェロッサはさほどの抵抗もなくロマックに入城。ここで本葬儀を開いた。この間およそ二十日。アティルムの丘での最後の葬儀には真珠島しんじゅとうからの参列者も間に合って実に盛大を極めたという。

 ノルベルンはこの歴史的な葬送からも、時代の流れからも置いていかれていた。イコット半島の入植地では出迎えはなく、ロマックでは入城さえ拒否された。進退窮まって本当に血迷ったのかもしれない。なぜかナルマーの北砦を電撃的に占領、後援者のナルマーの窮地を演出しジェソンを誘引して雄々しい会戦で雌雄を決する思いつきの戦略を拵えたが、兵数は五百にも及ばない上に毎夜毎夜の脱走者を出す始末であった。

 当のウニヴェロッサはそんな妄動など歯牙にもかけなかった。葬儀、埋葬、後祓いをこなしてやっと腰を上げた。真珠島しんじゅとう貴族を何人も遣わして説得に向かわせたがまるで聞く耳ないなら仕方がない。

――だが、今ここで死んでもらっては余としても困るのだ。

 ナルマーから僅か二日ほどの距離しかない北砦は、窪地にあって防備に長けた立地ではなかった。その狙いはナルマー沖に造ったあの船壁と同じに敢えて敵に取らせる罠城である。構造は攻めるに易く守るに難い。門は道と繋がった四方にあり、塔には銃眼もなく、階段は左回り。並の軍事知識でもあればこんな恐ろしい城に立てこもりはしない。試作したナルマーも露骨すぎて結局は使い道がないので困っていたところを、大王ルイジェセンが所有権を買い取り、ジェソン擁するグリゼリウス家を宿すナルマーを攻撃する最前線拠点として相応しい大改築を試みようとしていたのだが、それも果たせなかった。父王に強く憧れ、その事績の全てを頭に入れているノルベルンは金貨二百枚と引き替えたという事実だけしか知らなかった。文底を読めない阿呆読者。それほどの価値がある名物とだけ思いこんで籠城している。

――あ奴一体どこまで愚かなのだ。こんな分かりやすい罠に引っかかるとは。およそもう現実などは見えておるまい。しかしこの場合、親が子に祟られたのか子が親に祟られたのかまるでわからんな。

 あっと言う間に陥落した。最後の際まで抵抗したのはノルベルンの子種を授かった面倒見役の一族。ルシャート横死おうしの際に離宮の外から錠前をかけたのもこいつらだ。きっとそそのかしもしただろう。戦って死んだ者も捕らえられた者も揃って八つ裂刑に処された。肝心のノルベルンはどうやら逃げた。

 公式にはノルベルンの没年は四十年後とされるが、実際にはもっと早かったと思われる。命辛々で真珠島しんじゅとうに舞い戻り、離宮に駆け込んだのを最後に見た者はいない。離宮の扉は動物園の錠前で封印させられて、数日は内側から叩く音とか叫び声がしたがそれも途絶えた。因果応報だ。扉には、猛獣注意とか開放厳禁、餌を与えないでください、とかの落書きがあったとかいうが、いくら何でもあまり悪趣味すぎる。実際、不出来とはいえ王の血を絶やすのは真珠島しんじゅとう貴族の望まないところであった。その切望にウニヴェロッサはあくまでも毒で応じた。

――余はかつてロマックに軟禁されたことがある。それまでの余は落ち着きがなく支離滅裂な言動で多々他人を惑わせたが、ああして一人で考える時間ができると次第に自分が落ち着いてならされていったのがわかった。愚弟にもそんな機会は必要かもしれん。それにな、古来よりらい病みは世から隔離される倣いではないか。そして余の本性を眼を開いて見るがいい。王の血が一滴たりとも流れぬような者でも王の存在感を出せるなら、死者にさえ生者の、生者にさえ死者の存在感を出せるだろう。真珠島しんじゅとうの統治は王宮顧問団や王冠に祝福され聖性を付与されたそなたら貴族に一任する。表面上は愚弟の意向を受けて余と対立するように見せ、中原の介入を避けよ。お前たちはただ離宮に錠を仕掛けるだけでよい。

 こうして、ミナッツ王国の継承戦争は事実上終結した。季節は夏に移ろうとしていた。

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