ウルフィラ 8
奪い取った捕鯨船は目的地をガイロプリット西の植民地に定めていた。ベニベニに反抗した政治犯二二名は亡命先で活動を始める。ヴァイサーン王の代名詞だった旺盛な行動力は、常に海を隔てた遠景から脅かされるようになり、野放図な強靱さがなくなる。二つの入植地の関係は次第に険悪になり、西の海路で大陸に進出しようとする聖公座の起死回生の戦略もまた潰えた。布教街道を戻ってくる聖職者が吹聴する評判はいずれも酷いものだ。教義聖断を私し、破門されたエステ人聖職者を重用するにさえ余りあるに、あのジャジャを “神の代理人にも似た人物”を裸に首縄括りつけて裁定するあの構図が痛く気に障った。聖公座は利用価値がなくなったこの非公式の王に差し向ける対立王の選定に入り、この反応がヴァイサーン入植地同士の緊張をより深めた。教圏は北にメルタニアのシモン、西にヴァイサーンのベニベニ、東にドロスのイル・ロッソ、南にミナッツ王国の新王という各々性格を別にする、いずれも難敵に違いない人物に囲まれて危機はいよいよ目前まで迫っている。
フェリクスとウルフィラはその時宜をまだよく弁えていない。二人は捕鯨船を途中下船してメルタニアの西岸部に上陸した。船上でウルフィラの容態が急激に悪化した為だ。ジャジャがやった数多の仕置は当然にもその命脈を深刻なところまで削り込んでいた。
――あんたは俺たちの命の恩人だ。何か頼みがあるなら言ってくれ。
ウルフィラを背負って行こうとするフェリクスに、亡命者たちは多くの贈り物をくれようとしたが、
――ガレー家の男なら貰わないだろう。
と思い込んで、いずれをも遠慮した。これはヴァイサーンの礼節を反故にしてかえって恥をかかせる行為だったが、しかし、ただ一つの頼みを叶えてくれるように言って両者は穏やかに別れる。
――もしあなた達がベニベニを倒しても、ジャジャは生け捕りにしてくれ。あの阿魔だけは俺の男にかけて殺さねばならないから、俺に殺させてくれ。
彼らはじっくりと頷いて、きっとそうする、と手を握り合って約束した。砂浜に立つフェリクスには捕鯨船が小さくなるまで見送る暇もなく、まずは人里にたどり着かなければ。速やかにメルタニアの都にリオンを頼らなければならない。ウルフィラはもはや危ない。
これまではただ鋭く激しい論調に過ぎなかったウルフィラの言説と思考はヴァイサーンを経て大きな変貌を遂げる。理の実存と大いなる権能を証明しようと常々持ち越してきた研究は、ジャジャと争った神の全能性を討議した場でひとまずの方針を導き出せた。ベニベニは己の立場故に拒絶し、愚かにも全能の神をも超えてしまったが、人間に万能の神性を見出すのは可能である。では万能の神性と全能の神に表層変化を起こす理の真性とは同一か。でなければ合一を果たす法とはなにか。段取りを重ねてゆくならばこうした行程を一進一退で踏むはずであるのに、突然飛躍する。
ウニヴェロッサが実力を発揮する条件の一つは生命の危機であった。追いつめれば追いつめるほど手強くなる。しかし、こうした傾向は独自ではなく生命の反応と言えるもので、アティルム実験の生存者たちはより強力に発揮する。もう一つは、かつてゾルムが見当をつけた、廃貴族やゼルが見せた楽しまざる非理性的な行動に損なわれる機嫌を均そうとする反発が行動論理である。または非理性的な行為が理性的な善行を上回る、またはその埒外の新奇なる出来事と遭遇した場合、これを模倣消化しようとする。
ではウルフィラはどうだろう。理を証明し、合一に身を焦がすほど熱望し、思慮の上にも熟慮を重ねて到達しようと試みる青年は、危機に際して肉体と感覚の動作を駆使するフェリクスとは程遠く、己にも偽りがきかない正義同然の一枚岩の精神を保有してウニヴェロッサとも違う。肉体とも精神とも違う独自の異能とは殆ど魔術と区別できないほどの頭脳の働きであった。自らも属した教義に平然と疑義を抱く好奇心、物事を分析し本質と鋭く接触する感性、人と神を同位にするなど摂取した知を垣根と分断を跨ぎ越して別分野へと適用する野蛮じみた柔軟性は確かに優れていた。それらの能力を極限まで増幅させる生命の危機に囚われて、その脳内で一体何が起こったのか。ジャジャの仕置はただでも鋭い剣が越えるべきでない一線を越え、鋭すぎて何の役にも立たない状態まで鍛え上げたようなものだった。仕置の都度、頭内には新たな着想が湧いてきたが、死に近づけば近づくほどより正しく思えるような天啓が降り注いだ。理を証明しそれに自存を供託して永遠を保とうとしたウルフィラは、死に際してこそ正しさを獲得するというアティルム実験の生存者たちの中でも最も異質な特性を発揮したのであった。
背負われる半死半生の態のウルフィラは意識さえ明らかでない。生命の深刻な危機を迎え、感性は無くが如きに研ぎ澄まされ、頭脳の働きは全方位に回って猛々しいが、自らの能力を最大限に発揮できるこの状態を意識して望むように使役できない。箍の外れた制御できない状態は香木によって正気を失わされたフェリクスに相当するが、本能と蛮性の発露とはならなかった。傍に手頃な女もいなかったし、ある薬物が効いていた。ウルフィラの場合は人間には考えつけない、形而下の手法では到達できない、浮き彫りにはできても会得できない理を、周辺部を明らかにして後にそれらをすべて打ち捨てて目に焼き付けていた空白部分を、
――これこそ理なり。合一を果たしたり。
とする逆説に拠った証明を促した。合一を果たしたかどうかは当人にしかわからないが、ちょうどフェリクスは、
――うーん、白い。ここは白い。白ばかりある。なにも、なにもないじゃないか。白く何物もない間。
正気の人間が口走るとは思えない魘されたような呟きを聞いている。
「馬鹿野郎、しっかりしろっ」
逝きかけているのか、精神が落ち窪んだかと思ってフェリクスは頻りに声をかけて危うい均衡の上にあるウルフィラの生命を呼び戻そうとしながら獣道を駆けていく。
ウルフィラのこの体験は苦行か神秘主義で到達できる恍惚状態ではあったが、死にゆく者の段階としては五分かせいぜい六分程度の似非た代物であっただろう。蜃気楼にも似た錯覚と、見せかけの浅薄な希望を用いて危うきに陥った生命を奮い立たそうとする無意識の自己暗示に過ぎない。あんな代物を生きる希望として召喚したウルフィラも随分だが、幸いにも肉体というのは頑丈にできている。生還できるぎりぎりの一線にある、分離共働の心と頭の一致さえもが分断されて、痛みも苦しみも消え失せるあの死にかけの状態。どうやっても自己しか思いやれないあの境涯でいながら肉体の境界が消えて万里の果てまで手が届きそうな一体感。外界と自己に狭間なく、かえって自らがひとひらの流葉の如きでしかなく、自然の様々な物に生かされていると開眼する臨死体験には及ばない。ウルフィラはそのぎりぎりの死線の向こう側に追いやられる寸前に、何とか何とか生命を繋いで生還した。
メルタニアの都はまだ遠くあり、先にウルフィラの手当が必要と、通りがかりの小都市でグリゼリウス家の手に掛かった解放奴隷を頼った。人口一三〇〇人ほどのナトンにさえあんなに多くの奴隷がいたのだ。一人ぐらいはきっといるだろうと当て回ってみると、四人見つかった。初めの一人は物乞いの類と信じてくれず、次の一人は礼金の支払いを止めた解放奴隷で、グリゼリウス家が送り込んだ対立奴隷商人と争っていた。旗色はどうにも悪いようだが、瀕死のウルフィラを見捨てるあくどい真似もしないで迎え入れてくれた。土間に麦藁を編んだ筵を敷いて横にして着衣を脱がせたら、衣服の内側に縫いつけてあったロッシュロー裏書き入りの巡礼許可証が目に入った。
――ご先祖様の恩人が今や敵の総大将かあ。
解放奴隷の旦那さんはそんなことを呟いたがウルフィラは係争の外様であるし、これは人間一人の命の問題であるから、ぐっと飲み込んで手当に尽くしてくれた。この家の所帯が苦しいことはフェリクスにも看て取れる。ぐっと感謝して、せめても家の雑事などを手伝ったり日雇いの力仕事などしてウルフィラの目が開く日を待った。主人家族、訪れるお客にはガレー家の男がするようにきちっと折り目を正したお辞儀や威勢のいい挨拶をするから、商売競争の不首尾のせいで沈鬱になりがちな家内に新しく活気が生まれたようだ。
――どこで見つけたかぴちぴちと活気のいい奴を雇ったねえ。
そんな声も聞かれた。
ところでどこから耳に挟んだもんか知らないが、商売敵の対立奴隷が顔を見せにやってきた。お使いを任されたフェリクスの目にも必ず飛び込んでくる、この都市の大路に面した方形の二階建てというすごい屋敷に住んでいる。グリゼリウス家の商機情報を元に儲けも大きいようで、真珠島にも品薄のロミオの藍染服を着て、成装をぱっと見ただけじゃ奴隷とはわからない。
「どんなご用で」家の雰囲気はいつしかフェリクスに応対まで任せるようになっていた。
「うん、ウルフィラさんていうのがいるだろう。お命が危ないようだから、私らの力を貸してやろうかと思ってねえ。ここで死んでしまっては私らも御本家に顔向けができんから」
フェリクスは驚いたが、この奴隷の顔つき態度がちょっと気に食わない。客でこんな申し出でもなければ怒鳴り返していたかもしれないんだが、すぐに頭にくるようじゃ駄目だ、と思い直して話を伝えにいった。主人はきっと眦を釣り上げて、ぐぐっと歯噛みした様子。今日までによっぽど腹に据えかねる仕打ちを受けてきたんだろう。怒脚して自ら出て行って顔を合わせると、睨み合いになった。すぐ奴隷が負けた。
「ね、どうだろう、ウルフィラさんを人質にくれないか。医者でも薬でもきっとこちらで工面するよ。商売争いもちょっと手を引こうじゃないか」肝の秤じゃ負けたが、懐の重みじゃこっちの勝ちだと奴隷は色々言う。
「よし。じゃあ医者と薬は頼んだ! が、この家からは指一本だって出さねえよ」
「え」
「こっちだってただの慈善で引き受けた訳じゃねえんだ。頭ごなしにこられて、へいそうでやすか、つって落とし物みてえに渡してたまるか」
「えっ、へっへっ、いやあ存外人が悪いねえ。治ったらいくらかふんだくろうってお考えでしたか。あっはっは。そうだよ、あたしらは商売人だからねえ」
「うるせえ! 馬鹿奴! てめえそんな下司た考えしかできねえからいつまで奴隷なんだ。意地ってやつがねえのか、意地ってもんが!」
「いやっは、ま、まあ、ともかく手配しましょう」
この都市の医者はどこにでもいる藪で、腕のいい信用できる医者は三日先にしかいないという。フェリクスが使いに発つと、ひとっ走りで、その医者と道具を抱えて四日で往復してき、戻った途端にだーんとぶっ倒れてしまったには吃驚したが、こっちは命に問題ないようだ。半日で目を覚ましてウルフィラの容態を聞くと、
「ともかく酷ぇ目に遭わされて衰弱したところへ海原の風に当てられてろくな手当もないから酷いもんだ。おまけにこの長熱は毒によるもんだな。よっぽど心頭まで憎まれたな。冷酷な奴でもこの毒はそうそう見舞わんからなあ。これでいきなり命を落とす奴はそうないが、副反応で金玉の機能を壊す非道な代物だ。下着には尿と精液と血が混ざって乾いていたからまず間違いねえだろう。あのウルフィラって奴はもうてめえの子供を産ませられねえよ。こればっかりは俺にも治せねえ。女も知らねえ内に去勢されるたあ、可哀想な奴になっちまったなあ」と沁々言う。
「どうだかな。女などそう大したもんじゃない。ろくでもない女に引っかかるよりましだ」
「はっは、さてはお前さん引っかけられたな。よければお前さんのその病も診てやろうか。この家の娘さんの顔色を読んで知らんぷりをしてるのもその病のせいだろう」
「いらんっ、治し方は知っている。それよりウルフィラは治るだろうか」
「うーん、どんな病でも五分ってのが俺の信条でなあ。坊主の言い分としちゃあ重くても助かる奴は助かるし、軽くても駄目な奴なら駄目だ。医者の言い分だと毒はもうほぼ抜けて、体力の回復を待つところだが、ここはちっと病人に向かねえ。あっちの奴隷の家に移して静かにさせれば請け合うが、ここじゃなんともな」
結局、ウルフィラの病身は奪い合いになりそうだった。あの剣幕で奴隷をどやしつけたからには、旦那さんも容易には引かないではないかと危ぶんでいたフェリクスの心配は杞憂だった。
――医者が言うんなら仕方ねえ。
さぱっと割り切ってウルフィラの身柄を渡したのはフェリクスも感極まって涙ぐんだ。さがない都市の人々もその潔さに感心した。
教圏教義コンカーサ派の司祭補でもありながら、この医者はなかなか出来た。教圏半島にも聖職者と医者を兼ねる者はいるが、この男はより俗っ気を目立たせながらも両者を明確に区別している。雇用料や薬代ほか日常に費やされる用立ては向こうの対立奴隷が言葉通りによくやり、治療の方途も的確であったので六日目にはウルフィラはしっかりと目を開けて礼を言った。更に一四日目には立ち上がって、体力を取り戻しさえすればまず完治元通りといった案配だ。が、医者の顔色は少し怪しい。
フェリクスは付き添いでと招かれても決して対立奴隷の家には行かず、ウルフィラの分まで恩義に感じ入って、根を生やしたように最初に面倒を見てくれた解放奴隷の家から動かなかった。金だの物だのに転ぶような真似はあまりにも人を馬鹿にした考えだし、人の命を助けるために自分の意地を取り下げるほどの男気に泥を塗る愚劣な行為である。数字も少し覚えたし、倍の量を半分で片づける勤勉な働き振りが評判なので家の景気もやっと持ち直してきた。一足早い春のようである。相変わらずその娘子の視線に気付かないふりをしているが、顔を見せに来た医者が街路に連れ出して忠告する。
「ウルフィラだがな、死にかけた奴の人が変わるっていうのにはちょくちょく会ったが、あれぁどうもいい変わりように見えねえ。死にたくて死にたくて仕方のねえ奴が死に損なったわけでもねえからひょんな気も起こさねえだろうが、ちょっと気をつけておけよ。それとな俺ぁ、とうとうこの家の娘さんに泣きつかれっちまったよ。おめえあんな華奢子を受け止めて参っちまうようなひ弱じゃねえだろう。恩を感じる心根が人並みにあるんなら女心くれえとっとと何とかしやがれ」ばしっと肩を叩いて自分の都市に帰って行った。
幼い頃からナルマーを追われるまで、ウルフィラとフェリクスにまともな接点はなかった。どんな不注意かで桟橋から海に落っこちたのを荷揚組合と漁師らで助けたのはあったが、それっきりであった。
「改めて礼を言うよ。本当に駄目と思ったから」
「いいんだ。俺の事情でもあったんだ」
「うん、ぼんやりと覚えているあんな大無茶で危ない橋を渡る事情っていうのは?」
「俺はナルマーに帰りたい。何とかならないだろうか」
「なんだそんなことか」
歩いて行け船で行けなんて指図と先立つ物が欲しい訳じゃない。ナルマーに帰りたくとも帰れない、漁師になりたくともなれない深い事情を語ったが、尚も、
「なんだそんなことか」
やはり児戯のように取り扱った。破れ破れてこんな異境まで流れ着かせたフェリクスの悩みを、ウニヴェロッサが挑んでも決裂してしまった難問をもひとひねりと言わんばかりだ。どんな手かというと、
「ウニヴェロッサが王になればいい」
「え」
「夏くらいにはきっとそうなってる」
「や、そ、そんな簡単には」
「なる。色んな奴に祭り上げられる。わたしもあなただって棒を担いでいるんだから」
「俺が? 俺はなにもしてないぞ」
「はは。鈍感というか、無知かな。ともかく時間の問題だよ。後は自分の身の振り方を誤らないようにすればいい。わたしは他の考えごとが沢山あるので、ちょっと横にならせてもらうよ」
聞き違ったかと思った。疑問は歩いて晴らす流儀と知られたウルフィラが横になって考えたいと言った。歩き回るまで回復していないのか。いや、だとしても医者の手が放れるほどに安定したなら、この気取った対立奴隷の家を礼を言って出て、最初に命を助けてくれた解放奴隷の旦那さんの家に戻るのが本道ではないのか。フェリクスは少しむっとした。
「こうしなければ分からない物もある。あなたもよっく考えてジャジャを許してやったらどう?」
「うるさい。あの阿魔は許しちゃおけないんだ」
感情を更に逆撫でされたフェリクスは臍を曲げて出て行ってしまった。
ウルフィラがいつもの流儀を曲げたかったには訳がある。これからじっくり考えたい相手と結びつけられるきっかけは、恐らく歩いては見つからない。もしあればこれまでの経験で明らかにできる。死線を彷徨った中で最後に意識したあの白い空間は何だったのであろうか。
――あそこには何もなかった。あれに比べれば悪徳を宿す感情任せもまだましだ。あそこは虚無。虚無の間だ! 怖かった。本当に怖かった。わたしが得てきた物、思考した物すべてを吸い取られるかと思った。いや、実際に五体が満足でなかったから、うわあっ、と叫びもできずにあそこにずるずると引き込まれてしまったんだ。わたしはジャジャに食わされたあの仕置の最中、閃くこと多かったというのに今やほとんどを思い出せない。わたしが生まれてからずっと身につけてきたものをあのまま引き剥がされて、飲み込まれたらどうなるのだろう。意識をまったく失ってあの虚無の間から偶然にも逃れられたのは幸不幸どちらだったろう。あの先は、あの奥は善きところか悪しきところか。全快したならば、もしや、自分の意志で自分の力で、危機と判断して戻って来られるのなら、少しずつ少しずつ行けないだろうか。コンカーサ派やエステ帝国には香木や薬物を用い、時には自傷によって忘我、法悦の状態に陥る者がいるという。今ならばやれまいか。そうだ。多くを虚無の間に奪われたわたしにもまだ残っている。善きか悪しきか本当はどうだろうか。疑いを抱ける心はまだ残っている。ならばわたしは見極めなければならないんだ。
あの白い間の幻覚はウルフィラに歪つな感慨を催させているが、生命を失いつつある窮地から脱する底力を奮わせようと脳の自存本能が見せた一種の希望。頭脳を鼓動の高まりで補助する心筋の働きがあの希望は危険で恐ろしいと警告の悲鳴を上げるが、覚めた理性はより近づくように求める。
――もしやあの奥にこそ、わたしが求める理があるのではないか。そしてこれこそ理と合一できる法ではないか。
命を救ってくれたお礼をしたいと、ウルフィラはあの医者を訪ねて行って、礼の上に厚かましくも神秘主義者が使う薬物が欲しいと頼み込んだ。
「体悪くしてまでしてえことか! 俺もいろんな馬鹿を見てきたが、せっかく助かった命を歓楽に潰そうってえ野郎はこれまで聞いたこともねえぞっ、この大阿呆奴が! どこのどいつに毒されやがった」
横っ面を思い切りぶん殴られた。
「違う! 歓楽なんかじゃないっ。理性の証明に、理の到達に必要なんだ」
「どいつに毒されたか言え! あの連中は今じゃお題目だけ大仰な、毒と薬の区別もつかねえ屑見たような中毒者だぞ」
「毒されてなんているもんか! わたしはわたしの考えだけで動くんだ」
「――おめえ、独力でそこに行ったのか?」
「それは知らない。いろんな人といろんな物を見てここにいるから。でも、ここで行き詰まってる」
「――おい、使う量と使い方を間違えないと誓えるか」
「うん。他の使い方は知らない」
「――使うんなら必ず命の預け役を置け。うっかりすると死ぬぞ。死んだらてめえの馬鹿を笑いながら小便引っかけるが、いいな」
「わかった。フェリクスに頼んできっとそうする」
フェリクスだってここで熊みたいに寝て冬を越そうとしている訳じゃない。ご厄介になっている店の手伝い、寸暇には日雇いの労働、軍師を母親にした娘さんが合間合間に緊張で震えながら気を引こうと迫ってきて、これをひらりさらりとかわすのに骨を折っている。迫るといったって、まさかジャジャみたいな阿婆擦れたやり方じゃない。お使いを頼んだり、お供をさせようとして会話のきっかけを探る健気なもんだ。得物を持てば人体ごと鎖帷子をも貫けるほどの大男が、まるでままごとみたいなのに逃げ回っている。女性不信、恐怖症の気味もあるが、ガレー家への憧れがそこまで徹っていたのだった。游侠の心意気とは、例えば博奕の席で靴を質に入ってすっても、どこかで別の靴に履き代えはしない。質とは今では大分意味が違ってしまったが、この星を取り返さない限りは靴を履かずに裸足で過ごすという誓約なのであり、代をどう扱うかは仕掛ける游侠人にとっても受けて応じる親分にとっても一種の貫目勝負なのであった。フェリクスは自分の病の治し方をそのように定めている。貞操を強奪したジャジャを血祭りに上げない限りは決して女に親しまない誓いを立てていた。誓いと聞けば誉れっぽいが、あれは思い返すにも情けなく、語るには尚も恥ずかしい。だから、いっつも素っ気ない態度でやり過ごすしかなく、それはそれで胸が痛む。軍師なら表に出てこないもんだが、可愛い娘の恋着のこと、短くした気が早くも切れて直にやって来、勢いったらまったく糾問だ。そこにウルフィラがすぐに来てくれ、と使いを寄越したからありがたき助け船。
「ジャジャは性交の際に香木を使ったって言うけど、どうだった?」
のこのこ来るんじゃなかった。本当に嫌なことを聞いてくる。
「どうって」
「答えにくいかもしれないけれど、どうしても教えてほしいんだ」
渋々と答えて言った。甘い香り、頭痛、思考停止、嘔吐、意識混濁。ふーむなるほど、と納得して終わりかと思いきや、ウルフィラが望むのは肉体の反応だけではなく、精神及び理性の働きも含まれる。ふわふわと浮ついた感じ、現実とは違う妙な居心地だった。分かりづらい。
「快楽は? 常よりも感じたかな? 例えば一晩目と香木を使った二晩目とは違った感じがあったかな」
「おいっ」さすがに怒った。形相が変わりかけて腕が震えている。
「すまない。揶揄ってはいないんだ。つまりね、そうした導入剤の使用が法悦に至る唯一の手段なのかを知りたいんだ。もしも、香木を使った状態の方が気持ち良かったなら、不可欠なのかもしれない。わたしとしては、殺意でもいい自意識を明確に認識できる理性を残した方であってほしいんだ。あなたは、その、言いにくいけど、香木を使われて一日中も耽ってしまったと言うから」
フェリクスは苦味走った顔と忍耐の結晶を見せながら、香木を使われた方がよかった、と証言した。悔しい。なんていう屈辱だ。畜生奴! こんな恥を知ったウルフィラをもばらばらにしてやりたい。
「そうかあ。先に恥ずかしい話をしてもらった後で悪いけれど、実はね、わたしもそうなんだよ。いや、わたしは実際そうだというわけじゃないんだけど、理を想うと、合一を想うと、体がね、妙に熱く疼いてしまうんだ。あれはとても気持ちがいい。自分の心が空になって、息吹の風が吹き抜いて行くような清々しい気分だというのに、情欲が邪魔をね。あれは何だろうねえ」
「知るかっ! そんな下らねえ与太話にいつまで付き合ってられるか。おい、俺はもう帰らせてもらうからなっ」
「待った待った。用っていうのは、わたしの命を預かってほしいんだよ」
「え」
「医者から薬を貰った。これで香木を使ったような気分を体験できる。ただ悪くすると意識を失ったまま息が詰まって死んでしまうらしいので、見張っていてほしいんだ。話して分かる内容なら使うまでもなかったのだけど、これはどうしてもやってみないと分からないみたいだ」
――こ、こいつがこんな阿呆だとは知らなかった。
止めるとか文句を言うとか怒るとか、もう呆れ果てた。どうぞご勝手に。もう好きなようにしやがれ。
後にウルフィラも、薬物を使用して神秘体験を志したこの一時の過ちを振り返って、生涯中の汚点、大失態だったと嘆いている。あの凄まじき把握しきれないほどの多幸感、夢幻と極彩色の世界が錦織りなし綾幾重。千変万化に飛び込んで異様な興奮は得られたが、騒々しいだけのまるで正反対の世界だった。似てはいるが。
――あそこは違う。医者なら止める道理の悪徳の極地。理性なんてどこにもなくて、自ら退こうと思っても退けない場所。だったら、あの白い間は虚無の間とはなんだろう。ただ白一色、音も光も消え失せたような変化のない、何にも無い世界。理性と悪徳が対立するのなら、あれが理性の極地だというのかしら。如何なる私物も許さずに没収するのが。分からない。分からないけれど、一つだけ意地にかけて言えることがあるんだ。薬物などという外部の導体、外法を用いてしか到達できない境地には、羽を休む渡り鳥の如く立ち寄れたとしても人間に元々宿る能力では至れず、ましてや繋ぎ止めて置くなどできない。でも、あの虚無の間が理性による産物なら、自ずと到達し得、自らの力で繋ぎ止められるはず。これこそ理との合一でないだろうか。
「フェリクスよう、あれはひどいなあ。も、もう二度とやらない。残りの薬は医者に返しに行くよう。目に毒を見せてごめんなあ」
法悦状態からやっと戻ったら、矢先に詫びたのでフェリクスも少しは落ち着いた。意識を飛ばしてしまったウルフィラを揺すって起こすのに、手ではおぞましく足蹴を使った。あれはもう罪人にも値する乱行であった。
「もう一つ分かったんだ。あなたはもしかして自分に怒っているのであって、きちんと詫びたジャジャを弱目に見て八つ当たりをしているんじゃないのかな。でも、あんな乱行は正気が続く限りはできないよ。あれは香木や薬のせいだよ。自分を叱るまでもない。癖にしてしまったとしても悪いと思ったらぱっと止めて、それでおしまいにできるよ。ましてあなたは香だの薬だのを憎んでいるんだから、自分に怒ることも、ジャジャを恨むことも、ましてそちらの娘さんを邪険にするのは行き過ぎじゃないだろうかなあ」
「うるせえ! 俺ぁ呼び出されてまで説教聞きてえ訳じゃねえんだ」
「なにを言ってるのさ、今のあなたに必要なのは説教だよ。無知も大概にした方がいい」
「何んだと」
ウルフィラの言い分は直裁に過ぎたが、ごもっともだろう。游侠の道の心構えを説いた金言にも、
――馬鹿で成れず、利口で成れず、半端者では尚成れず。
という不思議な世渡りを示すものがある。頑なになっては大成できない。そのしがらみに苦しんだ練れた人物でなければとてもとても歩みきれる道ではない。
ジャジャの恨みに囚われたフェリクスは馬鹿で利口ではなかった。男の操を汚してくれた仇をとる執念を捨てるのは、利口なのかもしれないが馬鹿である。ウルフィラの説教は有り難き物だったが、これをまともな形で受容できないのもまた、利口ではなく馬鹿であった。
――まあ、それもいいさあ。うーん、では、殺意や恨みもまた理性に含まれるというのかなあ。
薬物はウルフィラの頭、体、心を疲れさせた。意識を取り戻してすぐに休息を求めて深い眠りに落ちていった。フェリクスは帰る。帰途、小物屋にある飾り物を娘さんに贈ろうかとも悩んだがやっぱりやめた。
――俺は、許したいのか?
フェリクスは悩む。ただ思い悩む。
ウルフィラは理を追いつめ、合一へと至る新たなる手がかりを得た。だが、今回導き出されたのはあくまでも方程式である。それも定かならぬ方程式。その上、とある問題を解き明かすよう組み上げられた式ではなく、半死半生の状態で突如閃いた不知の方程式によって導出されたとある答例を、独自の方程式によって問題に証明還元するという困難かつ無駄なもので、復元できたとしても、それが唯一の問題とも特定しきれない。何に当てはめるというのかというと、ウルフィラが見定めた理の体現例ウニヴェロッサの他にあるはずもない。問題が明らかになって足がかりになってこそ初めて、ウルフィラの熱視線の先にある理との合一に目処がつくのだ。しかし、手法定かならず、答例は絶対でなく、問が唯一ではないとすれば、
――合致するわけがない。けれど、実体験に基づいているわたしの考えに欠陥があるとも思えない。そりゃ意識朦朧と正気曖昧の状態ではあったけれど。でも仕置の最中に閃いた考えほど忘れてはいない。ウニヴェロッサに会いたいな。今のわたしならあいつから何を見いだせるだろう。きっと理を。千々に分かれたる前の、あらゆる変化を内核に治めた理を見いだせるんじゃないかしら。え? ……理を? おかしい。おかしいな。どうして理そのものと思ったものが、悪徳の境地と理性の境地に二分している。違う。これは違う。浅かった! まだ奥があった!
遠ざかられた。またしても。何度も捕まえかけたのに。けれども今回はいつもと違った。もう少しで触れ合えると想うと高鳴った胸は急速に萎んでゆかない。まだ先を考えられる。飛躍できる。一歩一歩着実である反面もどかしさを強い、言うに言われぬ快感とおぞましさで終結させられていた肉体の反応がない。ベニベニに食わされたあの薬のせいだ。肉体が起きあがらない。理を、ウニヴェロッサを想うと熱くなる身体の興奮がない。想い想って焦がれてついには膨張する秘所から放たれる精のせいで虚脱してしまっていた頭脳の囁き、煌めきが止まらない。まだ行ける。まだ往ける。
肉体という安全装置は薬物によって破壊されもはやなかった。
――でも、もう一息。道は一筋しかない。悪徳の境地にはもう行く必要がなく、正気を保てないのならその向こう側へ通じてはいない。理性で。あの理性の境地を、虚無の間の奥へ。先へ行かないと。わたしの何もかもを捨て去ってでも。そこにいればよし、いなくともよし。うん? これもおかしい。どうしただろうわたしは。こんなに頭の冴えない訳はなかったのに。どうして捨て去ろうとしたんだろう。今のわたしを成さしめる一切を捨ててどうするんだ。理に到達するのに、理性から離脱する必要がどうしてある。違う。違う違う。変だ。おかしい。大事なところを見過ごしている。どうして、どうしてだろう。どうしてあれ一つしか方法がないと思い込んだのだろう。落ち着いて。わたしはどうしてウニヴェロッサを理の体現例と思ったんだろう。どうやって体現しているんだろう。どういう方法でそうなったんだろう。ああ思い出した。仕置で閃いたのはいずれもウニヴェロッサに関わることだ。あいつの今まで理解できなかったところを、余さず理解できたと思ったのに、あの虚無の間にすべて奪い取られてしまったんだった。どうして。どうしてあれを持っていかれたのだろう。
――ああ、胸が早鳴ってる。頭が、目が回る。でもここで立ち止まったら駄目になる。きっとここはすごく大事なところだ。あ、ああ、苦しい。胸が苦しいよ。考えて考えて、考えよう。わたし、と、ええと、誰だったかしら、あの人、えっと、ウニヴェロッサ! そうウニヴェロッサはわたしとは別の人。同じ方法で体現、理に合一できるとどうして思い込んでいたの? 痛い。胸がもう痛くなってきた。怖じ気付くな。もっともっと考えて。もう分かったから。わたしは何一つ捨て去る必要なんてないんだ。離脱するのは理性なんかじゃなかった。理性を曇らせる象徴なんだ。わたし、わたしにとってはあの人。あの人のことを。ああ、目が曇って、先が白い。しょっぱい。泣いている。わたしは今、泣いている。ウニヴェロッサ? それがなに? それがどうした! それは何だっけ? より大事なものがあったんだ。もっともっと大切にしたいものが。ここでつかまないと! わたしは理性を捨てない。象徴を! 象徴を捨てるぞ! ああ、白い、ああ、辺りが真っ白だ。でも、わたしは何も捨てない! 虚無よ、あなたが奪うのはわたしの中の拘りと囚われだったんだ。たった一つだけだった。でもわたしを成さしめてくれていた一番大事なものだったけれど、そうと見せかけていた根源。わたしがずっとここにいたのに! 離脱しないと離脱しないと、離脱しないと!
「ウニヴェロッサ! わたしはあなたを今ここで捨てる! それがわたしの望みになったのだから! 詫びることはできない。でも、あなたならゆるしてくれるでしょう?」
なってみると分かるが、理と合一する瞬間というのは案外あっけない。生まれるか死ぬのと同じくらいだから、そう大したものではない。よく一度死んだ気分とか、生まれ返った気分と言われる。陳腐で単純すぎる表現だが、これしかないんだから仕方ない。口伝のついでには女神と遭遇したとか、そうでなければ天使だの妖精なんだのが登場する。稲妻のような光に打たれたとか。そんなご大層なもんか。実際は寒い冬の朝にぬくぬくと暖かい布団から出るのとおんなじ要領だ。なんだこんなものか、大したもんじゃない。ウルフィラの著作<人間の理性について>にもある。
――合一の悟りを得たぐらいじゃ人間はまだまだだ。やっと半人前になった程度のものである。
ウニヴェロッサとウルフィラは合一し、人から龍となった。
ミナッツ王国のルイジェセンは自ら大王の尊号を唱えたが、在位の中から多くの人があの方は龍だと囁き合った。龍ほどに実在不確かな影絵のようでいながら世界中で存在を信じられる怪物はいない。空を飛び、火を噴き、死なず、都市を壊し、人を殺す。傑人も龍にたとえられる。ルイジェセンは稀に現れる大傑物だったが、この人はむしろ悪口の部類でそう言われた。
――龍は人を介さない。どれほど優れ、讃えられ、おののかせようともその産物は人の役に立つことがない。火は強すぎて何物をも焼き尽くす。パン一つも焼くことができない。その爪は堅すぎて何人も加工することができない。その翼が開く時、世の全ての物は吹き飛ばされる。瞳は千在彼方此方を見通して通暁するも人に教える舌を持たない。耳は己を侮辱する者を探す為だけについている。龍は人を介さない。非人の学である。人の役には立たない。
ウニヴェロッサはその合一を自らは望まず、授けられるように手にした。ただ母性を誰よりも欲していただけだったのに。たとえ砂を食わされ、水で責められようとも恋しさが勝った程に。エメレスより生還したアナールの過激なまでの変貌に喜びよりも戸惑いを抱かせられて、頑なな状態で保持されていた母性という象徴は一撃で粉砕されてしまった。理の個室でひっそりと粉微塵のように残っていた僅かなものも、騎士叙任式の日に抱いた疑心暗鬼に暴かれて完全に消え去ってしまった。理そのもの、ウニヴェロッサの生存戦略、人は変化するという信念は強度に結びついてもう混沌と混じり合って区別がない。誰よりも深い位置で理との合一を果たしたのだったが、理を象徴たる何物も経ないまま志なく授けられた為に誰よりもその下僕であった。
ウルフィラは理性によって合一に至ったが、肉と心が拒絶して自己保存本能が働いていたように、これとてもあまり幸福なやり方ではなかった。しかし、その窮地こそが頭脳の働きを最も活性化させる条件であったのだから他にどうする術があっただろう。ウニヴェロッサに比べればまだ理性を宿した龍でいられたが、やはり龍は龍。それ自体はまったく人の役には立たない。鋭すぎて使い物にならない剣。重すぎて持ち上げられない盾。これより後、更に多くを見、夥しきを聞いて怪僧と呼ばれるのも当然である。純粋な真の信仰を会得しながらも、終に聖人と尊ばれなかった原因はここにある。信仰による神秘体験、信仰による合一、信仰による龍化であったならば。理そのものでは近すぎ、正義そのものでも近すぎ、理性でもまだ近すぎたのだった。不幸中の幸いにも、ウニヴェロッサやベニベニのようには理の絶望的な下僕として囚われるほど近付きすぎてもいなかった。難解で浴びせかける程の無理強いをする他の合一者との仲裁役、全ての人間と理の仲介役、理の擁護者として多くの示唆に富む論を残すに不可欠の、一つだけ人間であった頃の思い物を持ち続けた。ウニヴェロッサのことはもう忘れた。生涯持ち続けたのは、本当にそうだろうか、というあらゆるに適用できる問である。
――本当にそうだろうか。
ウルフィラは自らが合一した手段を、理性に従って唯一の物とは決めつけず、他の手段もあるのではないかと思い定めた。この究極の形、問いと答えが完全に調和した状態を表す、ウルフィラをウルフィラたらしめるかの有名な一語はエステ帝国の自然科学の知識を経て述べられる。
そしてもう一人の龍の落とし子フェリクス。未だ龍に成りきれない幼いままの蛟では、多くのナルマー市民がウニヴェロッサの人物を、龍の性質を理解できるはずもなかったように、ウルフィラが対立奴隷の家に人質として留まることにより、負けた側を離散に追い込むほどの商売争いが回避されていたという仕組みも察し得ないまま別行動をとる心を決めていた。好印象があったわけでもないが、薬物で正気を失ったウルフィラの命を預かったフェリクスはそこで記憶をなくしたいと思い悩むほどの、頼みにした冷静な知恵者が大いに乱れる姿を目の当たりにしていた。その姿が正に自分とジャジャで繰り広げた恥辱の極みたる乱痴気騒ぎと一脈通ずる獣の所業と見て取り、未だ己を蔑むが如く、未だジャジャを憎むが如くに新たにウルフィラを見損なった。相手の作為の一分をも関知しようとしない一方的な決めつけであったが、これこそが年相応分に余りあって迸る若さであった。この荒々しさもなくして人物など練られようか。
別れの日、見送るウルフィラがかけた言葉にも返事さえしなかった。メルタニアの都に行くという。リオンが餞別にくれた言葉を頼るつもりだった。ウニヴェロッサが王になれば簡単だって? どこまでも人頼みの卑劣な策に乗って恋い焦がれる故郷に帰るのは男のやり方じゃない。どんな条件かあるにしろ、自分の力でできるならやっぱりそれが一番だ。それがナルマー流だ。
「お世話になりました。どうかお元気で。よい旦那さんとお幸せになってください」
娘さんにやっとこれだけ言って発って別れたのは男の意地であった。頷くだけで、フェリクスが見えなくなるまで涙をこらえたのは女の意地であった。
ウルフィラとて恥はちゃんと知っていた。フェリクス出立直後にグリゼリウス家に出した手紙には、奴隷が世話してくれた一切の品物が完璧な記憶に基づいて明記されてあって、グリゼリウス家への過大請求が発覚する。穏当な落とし所を願ったが、金の出し入れに厳しいゾルムの目こぼしがあるはずもなく、真に礼と遠慮をしなければならない解放奴隷のためにも、グリゼリウス家は新たな対立奴隷を送らずにこの都市から撤退した。その奴隷ならラト山に送られた。小にしろ大にしろ悪事なんてのは栄えないもんさ。




