ウニヴェロッサ・グリゼリウス 7
ロッシュローとの合意によって示されたナルマー帰還の条件がフェリクス本人に拒絶されるとはウニヴェロッサも予測できていなかった。予想外の観測を得ながらその興に喜べず、俯いて細長いため息をつかせるほどに追い込んだのは主にその理由である。
――神明に誓われてリトバルとユルヴァの息子である。
決闘という神前裁判に占わせて出生を勝ち取ったこの主張は教義と慣習に基づいた正統なもので、これが聖公座の影響力と慣習が一致する中原の都市なら、凱旋するような帰還にもなったかもしれないが、ナルマーの流儀とはまるで容れ合わなかった。フェリクスがフローディック家の子であると保証するのは神の認許によるものであり、その力強さはフェリクス自身が望んだとしても撤回を許されない。神の名においてという聖界論理の規定に依ってこそフローディック家の子ではあるが、慣習を由とした俗界の決定に変更を迫る実質的な力を働かせるには神の威光から遠すぎたのだ。決闘で出生を勝ち得たと共に、漁師組合の規律違反によって追放処置が下された贖い主裁判直前の法人格に立ち返ったというだけでなく、聖界と俗界で相反するフェリクスの帰属権利は本人の自覚を交えたことでより窮屈な形象を作り、ウニヴェロッサを取り巻く外的環境さえも複雑にしてしまった。
こうした不均衡を均すには組合の決定をどうにかして覆すか、フローディック家の一定の血縁が市を出て流民となって今日の飲み水の在処も分からぬ身に落ちるかが無難な段取りであろう。ウニヴェロッサとしても前者が望ましい。漁師組合は落魂するリトバルとユルヴァへの同情を示しながらも、峻厳な親方はフェリクスを組合に迎え戻すつもりはなく、父と母は別としてフローディック家の親類に自らを流刑にしてまで再会を膳立ててやろうとする意気もまたなかった。これでまず詰みである。
極限られた者にしかできないまったくの例外と数えられる解決策がただ一つだけ残っていた。決闘の結果を改めるのである。その者の力が神の力と同質であれば、神前裁判が下した審判を正当な権限で変更できる。この論理をウニヴェロッサを巡る外的環境と内的性向に代入すると顕著に変質した状態で導出される。追放された自分に唯一つ備わる権利の主張をしたフェリクスにはまるで身に覚えのない要求ではあったが、ウニヴェロッサはついにフェリクスにも王になるよう強要されてしまっているのである。何故ならば、決闘の勝者を保証する神の力と同質の聖界の力を持ちつつ、俗界の既定にも介入できる強力な権限を宿すのは、教圏南部において王だけである。それも事実上の王では得られない。聖公座に公認されてしか属さない。
その力は聖別といわれる儀式によって齎される。恩寵。本来が自然的なものであるか弱い人間が、この儀式を経、まったく偉大な超自然的な存在へと移行する。偉大な権能を生まれながらに持つ超自然的存在が乗り移って同じ聖性を発揮させるのである。王権の力の源の一つを神に求めるこうした政治神学の発達は教圏北部、中原では見られない。教圏の拡大に伴って深まる聖公座との熾烈な争いのとある局面で、その聖性を取り込んで対手の優位と並ぼうとする西部と南部で見られる。メルタニアのシモンに包囲されたヴォレヌスに救援を求められたヴァイサーン王ベニベニは、逆に聖公を捕囚するという古今比類のない暴虐な手段でその聖性を奪おうとするが、真珠島の大学は洗練された学問と慎重に組み上げられた論拠によって、王に神にして聖なる性格を付帯しようと努めてきた。全ての権力を一身に集めていた大王ルイジェセンの肉体は滅び、王冠を経てその体内に宿されてきた聖なる存在感が次なる宿主を求める今、ウニヴェロッサは王に、そして神にならなければならなかった。
実質的な影響力を教圏全域に行き渡らせようとする聖公座の政策を阻む南方最大の障害であったミナッツ王国との争いは、ミナッツ王権が聖俗両界を渡るほどまでに肥大する今、妥協の余地はほぼなくなっていた。大王は遺言を残さなかったというが、臨終に立ち会ったルシャートら王宮顧問団や真珠島、軍艦島、小麦島の三長官、司教でありながら熱烈な国王派だったケース、対立司教ケジは後継者をノルベルンと指名する遺言を銘じている。聖公座はルイジェセンの遺言を認許しない姿勢を明確にしていたが、グリゼリウス家が担ごうとするジェソンを援護しようとしているのでもなかった。そういう露骨な依怙贔屓はどちらが覇権を握っても後の摩擦に繋がる。婚姻と後継に口を挟むいつもの遣り口、従来の外交路線そのままの形だった。ならばミナッツ王国王宮顧問団としても受け方は既定の通りだった。いつものように後継者が実力を示せばよい。
かつて金貨王ロヨラを遺言によって継いだ軟弱王ルッジェーロは、エステ帝国との国交を断つなどの様々な譲歩を重ねたにもかかわらず聖公座の支持を得られず対立王を立てられ、本土で継承戦争を起された。派遣した将軍たちが重ねた不甲斐ない負け戦を挽回すべく親征したところ、王者の貫禄というのか、本土諸侯を糾合して望んだマザネの会戦で劣勢を覆してしまった。軟弱どころか苛烈と渾名してもいい実相のルッジェーロに捕らえられた対立王はルーリックに封じられた。王国と聖公座が互いの主義主張を標榜して公平かつ限定された空間で競争し合える地域を見返りとして与えて初めて金貨王ロヨラの遺言が公式に認許されたものだった。
大王ルイジェセンさえも即位直後は父王の遺言を公式化しようと聖公座に配慮している。ルイジェセンという名自体その現れで、肥大するミナッツ王権に危機と反発を抱く聖公座の印象を和らげるために真珠島の歴代王で王権確立に遠い幽王ルイジェセンの名を襲った。
幽王には華々しい事績がまったくない。即位後すぐに王宮顧問団という内閣を創設し、生涯を専ら学問と思索に費やした。本土締付政策をとる内閣筆頭の暗殺事件を発端にした本土との抗争で食料輸送と貿易船を抑えられ、真珠島が餓えてさえ表に出てこなかった。諸侯会議で降参に等しい本土諸侯の特権承認に姿を見せるまで実在さえ疑われていた。小麦島の設置、ゲート船団の一端に過ぎなかった特殊工作船団トッレの直属化、王権の正当性に強力な論拠を発し続ける大学の開設、長期の経済政策などは総てその内閣の功績に帰されて、その存在感の希薄さはいっそ神秘的でさえあったが、治世にまるで興味を見せないでいながら実は王権の確立を目指し、実現を数代先に見据えその準備を着々と進める王権の補佐役のような王であった。大王ルイジェセンは幽王の企図がようやく充溢した姿であると共に忠実な後継者でもあった。
大王ルイジェセンの政策には幽王を偉大な人物として研究し、模倣している節が所々見かけられる。王宮顧問団の設置はノルベルンの素行に不良を感じる前から、即位して初めての決定がその人選であった。幽王治世の頃とは大違い。数代続いた君主色の濃い王によって形骸化していた王宮顧問団は、都合のよい者をはめ込む実権のない名誉職に過ぎず、かつての内閣が常に王権と癒着する形で権限を得る者たちで占められて多発する問題に処してきたのに対し、王の目と手の届くところに固められてとどめの鉄槌でいつ撃滅されてもおかしくない聖公派の寄合になっていた。大王は彼ら内閣の成員に本土諸侯と全く変わらない特権を認める。ご丁寧に本当にそう明記されている。
――王宮の顧問を務める者に、王は王への忠誠を強く求める。忠誠なる者には(本土諸侯と)同じくする援助と権利が伴うのは自然であるによって、下記の特権を授ける。
特権は所領の領邦化に繋がる、大王ルイジェセンの志向と肥大し続ける王権とはおよそ相容れない危険な内容であったが、王領三島に寸地であろうと所領を持ち得る聖公派などいない。聖公座とて阿呆の寄せ集めではないのだから、これを遺言の公式化に足る取引材料とは取り上げなかった。王宮顧問団の権限には一言もなく、王が王であるために必須の能力として保持し続ける、職務を怠慢する者や虚偽をした者、汚職などを厳しく罰する権限と、功績ある者を賞する特権と武力財力だけは公式化から別問題として継承されて、この点、内閣は幽王の時代でも代行者に過ぎなかった。ルイジェセンは瀕死の聖公派に認めた諸特権を未だ素案の状態だった本土入植計画と絡めて聖公座に呈示したのであった。本土での働き次第で教圏南部の大国ミナッツ王国に聖公座の堅盤な拠点を建設できる確かな望みが急浮上したわけである。ミナッツ王国としても聖公座の承認を得て本土入植計画を実施できる。文面上どちらの損もない上等の取引であった。損は競争に負けた側の役目という前提も整っている。しかし、入植計画を主導するのは真珠島なのであるから、聖公座は正当にも保険をかけようとした。王領の人口過多の弱味を握って、本土入植支援の名目でイシュー地方への通行許可を要求。聖公座勢力の南限ルーリック地方の脅威を除こうと目論んだ。
既にこの時、イシュー伯にはドラテロルが封じられている。傭兵隊長として中原を荒らし回っていたが按察使を対手にやりすぎ、苦杯を舐めさせられた聖公座に目の敵にされて南部に逃れてきたのを活用している。より重要なのは、ドラテロルが王家以外との忠誠契約を一切結ばない専属忠誠であることで、外敵の侵入を受ければルイジェセンには保護の義務が生じる。聖公座が強硬な要求をし続ければミナッツ王国と互いに歩み寄る機運は萌芽にして失われる。座内でもその要求については意見が割れていた。ルーリック辺境伯を動かしてイシュー地方を占領し、ミナッツ王国内に聖公座勢力を一気呵成に拡大しようとする急進派と、入植計画を協同して進める穏当なやり方で着実に勢力を拡大しようとする穏健派。ルイジェセンの工作が中って戦争になった。真珠島から聖公派を駆逐する真意を秘めていたのだから、本土入植に聖公座という邪魔者を引き入れる気も初めからなかったのだ。
当時のルーリック辺境伯デリクスは懐刀のイルザックに大無茶をやらせようとした単細胞という風説悪評で安く見られがちだが、イルザックを右腕と恃むのだから、世上の評判通りの安い男ではない。北からの強い風に煽られるようにイシュー地方に攻め入るも、百戦錬磨のドラテロルと真珠島が資金源の傭兵団に苦戦を強いられると、すぐさま講和を選ぶ。和平交渉の最中、王を暗殺しようとする目論見が露見してしまうが、どうやらこれは使者が無惨に殺されるか前代未聞にも王の暗殺未遂という怪事件を起して泥沼までの戦争継続を狙う聖公座の陰謀と推せる。自刃したイルザックにはルーリックから聖公座の影響力を排して独立領邦を樹立しようとする望みがあり、その手腕と見識と一致する目的の崇高さをルイジェセンに高く評価されていた。英雄の質あり、とするいつもの人評の数少ない真っ当例であっただろう。死に際して無念のイルザックは王家とルーリックで合同を果たして中原に攻め入ってほしいと願ったか、汚名のまま命をなげうって聖公座の陰謀そのものを隠蔽してルーリックをルーリックたらしめる王権からの独立性だけは保持したか。遺体は辺境伯側に返還されて、大逆未遂の凶悪犯というに葬式と立派な墓をたてる許可が真珠島からも聖公座からも出ている。
イルザックという危険人物の排除には成功した聖公座はイシュー地方を一時的に諦め、当初案が和解としての力を振るって、ミナッツ王国の本土入植計画を承認。やろうと思えばイルザックの弔い合戦と称してルーリックと奇跡のような連合で中原を火の海にできたルイジェセンはこれをせず、暗示して遺言の公式化を迫った。このように実力を遺憾なく示した新王に遺言の公式化と公認王位が恩寵と共に齎されたのは、即位して四年もかかってからであった。
強固な王権を受け継ぐミナッツ王であっても、継承の公式化はこれほどの犠牲と活力を振り傾けてでも得ておかなければならなかった。真珠島の大学が本来は分断されている聖界の力をどれほど巧みに王の権威に流入させようとも、聖公座の公認という実際上の源泉を欠かしてはならなかったし、ルーリック辺境伯の存在が物語るように、公式でない遺言によって継承された王はどんなに権勢があっても教圏西部のベニベニのような事実上の王に過ぎず、弱り目に立つ対立王に祟られて衰弱させられてしまう。外交問題においても重大な役割がある。公認王たちとの付き合いが心もとなく感じられるのは、公認の王が事実上の王との約束を破ったとしても聖公座は不当なものとは見做さない。甚だしくは事実上の王が公認の王に侵略されても聖公座は平和の行使と解釈する。神という実際には有り得ない尺度によって教圏を制する聖公座の実力とは、いわば王位認定機関とも言えるこの点に集約され、王権の確立とはこの力の克服であり、これは真珠島さえ未だ成し得ない偉業であった。
ジェソンとノルベルンの継承戦争の序盤はこの公式化をかけて静かに争い合われる。驕児としか伝わらないノルベルンの実力が質されている情勢下、元より聖公座との関係が芳しくない真珠島の戦略はルイジェセンの遺言の認許を得ようと望みながらも、手段は間接的なものに限られていた。幸いいつであっても健在の聖公座の二枚舌外交によって、交渉の余地は僅かながら残されてあった。ルシャートのいつもの気前の良さはルーリック地方の返還まで打診しているが、いくらルシャートの腹にしても太すぎる。王国の重大案件として進む本土入植計画の成果を先王ルイジェセンとの和解を根拠に交渉材料として迫られ、これを検討する返答までしても、所詮、大王ルイジェセンの遺志を継いだ王宮顧問団が画する引き延ばし策であった。綱渡りの連続で獲得した時間は主にグリゼリウス家を攪乱する活動に費やして、結果的に聖公座の興味を真珠島に向けさせようと企むも、王宮顧問団とグリゼリウス家の両者が一致して恐れるのもまた、聖公座が想定している二枚舌外交の筋書きである。本土王権樹立の象徴ルーリックを返還するのは痛いと思えば痛いが、すべての城塞は破砕済みであるし、即時の脅威とはならない。取り返せない事態とはルーリックを得た聖公座が陰から推進する継承戦争の推移によって、イシュー地方を担保に調停及び加担する場合。これだけはロッシュローもルシャートとても呑めない。険阻に守られたルーリック南の出入り口にあるイシュー地方と要塞を奪われれば、語派を始め独自文化を開かせる南部が中原に呑まれる。公認を得る時期は継承戦争が盛っても聖公座の介入が深すぎない頃合いを見計らわなくてはならなかった。
その慎重にして繊細な機を伺いつつグリゼリウス家と聖公座の真ん中に立って、両者をいなし捌く一連の政治工作の地となる副王領ロマックと、真珠島の橋頭堡の本土入植地域を結びつける時間がどうしてもほしいルシャートは爽快な男ではあったが善人ではなかった。それは命取りになる。敵と見定めた対手にはきちんと厭らしい手を使っている。グリゼリウス家が泡沫騎士群生地域を防波堤に時間稼ぎをしようとするなら同様の手を打つまでだった。
ナルマー市に軍艦島特殊工作船団トッレの工作員バルボアの姿が再び見られた。こんな情勢になってロットフィル家と接触するなら荷揚組合を操った倉庫の火付けや海船を沈めたような脅しでは止まないだろう。打つ手を間違えればどちらが先に地の底へ落とすかという争いになる。ここまで及べばグリゼリウス家もトッレとの暗闘を先延ばす気はなかった。準備は出来ている。参事会議長の権益が呼び込む汚職を防止するナルマー都市法の定めに従ってロットフィル家血縁の身柄はタムストール宮に移ってい、議長サウダージとの対面や陳情は厳密な申請書に加えて素性を証明する保証人が各分野の組合から三名必要という難関を築いている。トッレはそれしきでは怯まない。バルボアの行動は悪巧みに類するし、裏道はなににでもある。
グリゼリウス邸にあってタムストール宮にない物、それはパン焼き釜と浴場である。強大な火を扱いつつ高い公共性を果たすには安全を保つだけの備えが要る。総石造りで丘の上にあるグリゼリウス邸は飛び火の恐れを絶ってあるが、タムストール宮はナルマー中央広場に位置して一部石造り、半分以上木造という危険な立地と構造の為に設えられていない。参事会議長一党の入浴は定まった時課に公衆浴場を利用するようになっている。市民の入浴への要求が強くて一般客を断った貸切にもできず、誰であっても入浴が許されている。真っ裸で逃げ場もない浴場で市民との直の触れ合いが名物慣行になって、御利益満載の御用達を得ようと浴場は躍起になったものだという。
「けえってくんな。ここぁ島っぽお断りだよ」
バルボアは予想外にも浴場の門番に締め出しを食わされてしまった。卑賤な仕事と思われがちの門番というのは、実際には誰を入れるか入れないかを選ぶ権限を委ねられているのだからどこも中々の奴がついていて、素人が一日二日やらせてもらえる仕事ではなかった。殊に浴場の門番ときたら客の着替えや小銭をくすねて稼ごうとする狡い奴を入れるまいとどこでも目が高い。バルボアを島の人間と見抜いた流石の門番はナルマー市の番兵をやって評判の勤め振りだったのを好い気にして、迂闊にも刃物を持った対手と地に転がっての捕り物で足を刺されてしまい浴場の門番に鞍替えしたわけがあった。
手はまだまだある。トッレの調べでサウダージには贔屓の湯女がついてい、毎回の入浴に同行している。イルという女将がやっている湯女屋で、いずれ湯女の組合ができたなら口利きを得てきっと女親方になるだろうと目されるほどの評判の店。バルボアは苦笑いしながらイルの湯女屋へ向かった。
――それにしても島っぽとは言ってくれる。
ミナッツ王家が島に流された頃を言っているにしても、数百年以上も古い話だ。それをまるで一まとめにしたように。本土は時間を解さない者ばかりとはいえ、なんと蒙昧な。
「湯を恵もうか」
「はいよっ、ありがとさんようっ。ああ、お客さん島っぽだね」
またか、と思ったがどうも邪気を込めた揶揄で言っているようではないらしい。やっぱりこれも時の力で、羊のように従順な連中に代々の用途だけが猿真似のように伝わっているのだろう。
「さては断られてきたろう? 浴場の旦那衆は島っぽを嫌うのが多いが、うちの娘子を連れて行くんならどこだって大丈夫だ。上へ行ってお相手に恵んでやっとくれ」
事態の推移によっては湯女にも工作の片棒を担ぐ役を負ってもらわなければならない。この人選は大事である。余計なことを考えない頭脳と敏い心遣いを持つ女がいい。サウダージもそういう湯女を贔屓に選んでいた。浴槽で市政評論をふっかけてくる市民の素肌に何気なくそっとひと触れするだけで、荒肝を和らげて大人しくさせてしまう妙な技があった。バルボアがもう一つ求めるのは、おめでたい馬鹿な感情を併せ持つ愚かな女だった。控え部屋の湯女たち一人一人を見比べてみても、思い通りに踊りそうな女はいない。誰も彼も凛々しく逞しい面魂の職人顔をしている。女将イルの賜物をしっかりと守って、何をどう頼まれても嫌なことならやらないと見える。部屋の隅の仕切りから物音がした。てっきり物置かと思っていたら何者かいるらしく、覗き見ると周りの湯女たちが「あ」とか呟いた。
――く、これはいい。
正に拾い物。うってつけの手駒が隠れていた。ウルフィラに恋煩いして弱っていたところを、薬か毒かでもと招いたウニヴェロッサに猛毒を山と盛られてとどめを刺されたあの湯女である。
「恵もう」
「――はい」
生気が失せた蛻の殻のような声で返事をした。
「ちょっと、その娘はお休みですよ」
「――いいんです。もう働けます」
「病もちか。では遠慮しよう」
「い、いえ、そんなことは。ただ、あの、首っ丈がなるやつで」
――ますます都合がいい。その男をいかようでも操るなり、間に立ってあることないこと吹き込むなりして精々役に立ってもらおうか。
女将のイルの言った通り今さっき門前払いだった浴場には打って変わって入場できた。惜しくもサウダージは一足違いで浴場を出ていたので、バルボアは湯女を思うままに操る糸できつく繋ごうと試みた。自分に惚れ直させようなどとは無駄な試み。トッレにはトッレの女の操り方がある。煩わせたのが目下の敵ウニヴェロッサの対手役頭とは都合悪く出来ていてくれるが、うっかり釣られてウニヴェロッサの話をさせるのは短慮である。湯女にはじっくりとウルフィラの話をしてもらう。その話に頷いて同調して否定しない。そして褒め上げるのは湯女の一途ではなく決してウルフィラの方である。女性の行動様式、輪というのか、女が自らごと結わう観点、これに様々なものを無理性に引き寄せて同和しようとする習性を狙うのがトッレの遣り口であった。その輪を外部から動かそうとしても頑固で労力が要る。自ら中に入り込んで輪の総意、願いであるように見せかけて操る方が遥かに効率がよい。ましてこの湯女はウルフィラで結った輪の中で自ら孤立し、同意者などまったくいないたやすい獲物。女将イルなどが呼びかけて元の輪に引き戻そうと必死だが、それこそトッレが忌避したような労力の要る作業。湯女はバルボアの遣り口にすっかり転んだ。傾きっぱなしの精神が他者の共感を支えに持ち直して、イルの湯女屋の常連入浴客が、
――はて、あのように美しい娘子は新顔であろうか。
と見違えるほど華やいで輝くようになった。惑わされて湯を恵もうとしても、所謂お手つきという奴で滅多には恵めない。本土入植で来た真珠島の商人というのがいい旦那役。これがあちこちの珍しい色々な銀や玉の服飾で飾り付け、得意としていた舞踊の手直しに加えて真珠島の流行の指導までして、ただの湯女とは思っていないような仕込みようという。
――今こそ変な男に引っかかったら形無しになる。
そう思って、湯女ら一同徒党を組んで手も触れられぬよう守り手となっている。
だが女将のイルだけはきりっと目端が利いている。
――どーも臭い。あれがウルフィラの熱を下げてる様子がないんだよ。
バルボアの帯びる命令は奇しくも二通りあった。ロットフィル家と接触しナルマー市で騒擾を起してグリゼリウス家を撹乱させる王宮顧問団下達の正式な指令。ならば、ジェソンの名実の他まるで実力を有さないウニヴェロッサの調査は疑問である。この指令きっと別口だな、とバルボアは見ている。評判にした湯女を振る舞って他の入浴客に、商いのご縁を探していますがという風に聞けば、みなみなすんなり口を開いた。ところがウニヴェロッサの他見は同一人物のどこを見ているのかと言いたくなるほどまったく一致していなかった。わからない、という答えが最も多く、エメレスに遭難した母アナールの生還を祈り続けた大祈願を指して、
「篤信な方という評判を耳に入れた覚えがあるんですが」
とつついてみても、ああ、という納得と、いやあ、という返答が五分と五分。本当に篤信であるなら、即座にそう答えられる。篤信に基づいた行動様式がどこかに散って何者かの頭に残るはずである。詳しく聞いてみると、毎祝祭日の礼拝や集会にウニヴェロッサは一度も出席していなかった。名家なら家付きの礼拝堂と司祭がいるといっても、教会外での儀式は非常に簡素化された補助的な代物。騎士叙任式での話もそうだ。仮にも聖堂という場で剣闘士を対手に真剣勝負をし、まだ式の途中というに所有物を連れ去った泡騎士との戦に行った。
ウニヴェロッサの信仰の強弱などは机上に乗せてどうこう議論するものではない。多民族・多文化・多宗教の真珠島ならずとも権力者にとっては信仰などいわばその人の事情かその場の方便に属するものであって、こじらせて聖公座に忠実であるかどうかを見定めるのがこの役目の眼目だった。もしも、イシュー地方を差し出せ、真珠島も差し出せという要求に応じるような大馬鹿者であれば、この別口指令者も下手な考えを改めて暗殺指令に切り替えるかもしれない。望むところだそれが一番手っとり早いというのに、そこは聖公座の外交を真珠島と同様に恐れるグリゼリウス家が手を打っている。ウニヴェロッサはイシュー領主のドラテロル伯の下で騎士見習いをし、痕礼まで授けられた間柄。封主という上位者の大王ルイジェセンの保護義務よりも強い拘束力で家士という下位者に当たるウニヴェロッサには掩護義務が生じる。ウニヴェロッサとドラテロルを結ぶ騎士と領主の主従関係は名目で、より優先されるのは王の血を引く者とその家臣の関係の方だといっても、イシュー地方を犠牲にする取引はどのみち生じにくい。それを敢えて反故にできるほどの信仰心もあるように思えなかった。
――どうも篤信などではないらしいな。いや、並前の信仰心さえあるかどうか。
その通りだった。かつて大祈願の御利益あってアナールが生還できたことで信仰に目覚めるきっかけは蜜のように甘美で喜ばしいものだったというのに、ウニヴェロッサはその得難い機会を持ち腐れたままかつて意に留めなかった。それに比べれば破門と市外追放を受けて散々な対手役ウルフィラの信仰上の罪科とは、神と信仰に根拠を求める不毛な形態というだけで根気強い善導によってきっと救済し得る。決して神の不在を証明しようとする批判的な研究なのではなかった。そもそも神の定義とは、個人を自覚したその人の精神の性向に由来するのであって、無痛の精神ウニヴェロッサの心中は救済という形象の信仰が芽を吹かせるには不毛であった。でありながら、神を信じぬ者が神にならなければならず、これが強い反発の元になっていた。
――卑怯である。
と。その卑怯な行いというのがウニヴェロッサの中でどのように定義されてあるかというと、どうも都市自決主義によって培われて、自らの由を自分以外の何者かに委ねる行為全般、<万能なる者>としての独自には自力の余地を残しながら他力に頼もうとする性根であるように思える。ハルナ橋から見えた流葉が川の流れの次第で一枚が水流に圧されて沈んで、もう一枚が流れ行くのを見、同じように行く末を占って欲しかった気の迷いを正したのも、ギナにフェリクスが狙われる理由を質そうとし、すぐさま思いとどまったのも、アナールに僅かでも縋る機会に際しながら呻き声を上げて強力に抑圧したのも。ウニヴェロッサ唯一の神頼みはアナールの生還であったが、あれは確かに子供の力でどうにかなるものではなかった。祈りしかなかった。だから、篤信という見せかけの姿は、ウルフィラが副反応の弊害と見込んでいたように、やはり常套的性格を持たなかったウニヴェロッサの真空地帯に流れ込んで、様々の誤解と曲解を招いたままに形作られるドロスの共和という最上象徴にも似た虚構の姿に過ぎなかったのである。都市自決主義と<万能なる者>という独力自尊が高い純度で結び合ったこの性向では、神の由を得た王の姿というのも、他人の由を得てこそ存在するその姿を、
――奴隷なんて嫌いだ。
かつてこう呟いた際の同定手法とも合致して卑怯な姿であり、延いては理性による予測を越えられない自らにまでも適用されるのであった。
――王もまた同じだ。神の由を得なければならぬなど奴隷と同じではないか。
――卑怯である。
――いかにも卑怯だ。あれは卑怯な姿だ。
隠修士のように狭い生活圏の知り合いの全てに望まれて、既に不可避と判断していた王位をどのような性質のものにして引き受けるか、ウニヴェロッサの悩みの次元は最早そこにある。計画の首謀者ロッシュローは王の性質までは特に企図していない。どうであれミナッツの王でよかった。フレデンツァとアナールが慕う王権の性質は真珠島が代々培ってきたものでやはり固定されている。しかし、他の者達はそれぞれ別々の面を要求していた。フェリクスに望まれる王権は上記の通り聖俗の権能を兼備する。泡騎士に望まれる王権は死後の平安を約する聖界というより神的な権能を有する。ウルフィラもまた最近の手紙で実現させるよう暗に迫るのは、秘法を駆使して神と人とを繋ぐ媒介者としての権能である。
――これでは救世主だな。
容易な話ではないが、彼らの要求全てを完璧に満たす存在がサーニー帝国の皇帝権力であった。
――まあよい。神の由を得た王などよりは余程ましだ。
隠修士スレイマンはそこまで行けなかったが、それに重度に依拠して今があるなら、過去の知はたとえ大きく歪まされた状態であろうとも古さという異様な説得力を持ち、真理へと誘う妖力を会得する。当世風の思想と様式によって脚色し直されるのは避けられなく、かつての姿そのままには復活できなくとも常に真理を指し示す本来宿された役割と共に目覚める。必然性さえ満たせば善悪を考慮しない特質と情報統括能力によって、怪僧ウルフィラを生み戻したグリゼリウス家書庫から古くして新種、王にして下僕たる変種が発生する。が、しかしその特殊な存在は自らの渾身で予測した救世主という存在感さえも上回る観測を自らの手で成したいとする卑屈なのか高邁なのか定かでない望みを抱き続けているままであった。
湯女伝いでサウダージ・ロットフィルもトッレの加勢を知った。百人力と喜んで、いついつ対面して今後の方策を練るかと待ち望んだが、バルボアは一向浴場に姿を現さず、贔屓の湯女の亜麻布の下にああせいこうせいという手紙を含ませて寄越すだけだった。トッレといえば草の根さえも残さない積極果断な劫火のような遣り口と耳にしていたのに、王の庶子ジェソンに市民へ対して所信を開かせる演説をさせよというのが腑に落ちない。まるでトッレにも決めかねる逡巡があるようだった。
思わぬ人物の協力を得、ロットフィル家を使ったナルマー騒擾などは二の次になったのだった。グリゼリウス家のアナールの信仰はエメレス巡礼をするほどだから、秋の訪れを告げる旬節祭を狙って教会で待ち伏せていれば接触は容易だった。
――その節はお船をありがとうございました。
アナールはバルボアを覚えていた。そして、ウニヴェロッサの調査の一環だったが思いもかけない話が聞けた。女の無力を知りながらロッシュローの計画を阻止しようと決意していたのは無根拠の浅知恵ではなかった。この機会を待っていたのだ。アナールはトッレとの結託を企図してい、ジェソンに属する王位の継承権を破棄する代わりにウニヴェロッサの身柄をグリゼリウス家から引き離し、匿って欲しいと持ちかけた。フレデンツァを証にしてジェソンの実在を広告した今になって旗印を奪われれば替え玉もたてようがない。お陰で話が随分と分かりやすくなった。この緊急報告を受けた王宮顧問団も、かつて真珠島貴族であり、教義信徒といっても神の御前にいる王の似姿ごと信仰する真珠島式の慣習教義を理解し王権を尊崇する旧チコ家のアナールの提案を受け入れた。感情のままに無闇な闘争に陥るほど愚かではない。たった一人をさらうだけで王国の危機を回避できるのならどれだけ効率がよいか。手元が狂って戦にでもなれば、建造、維持、運用すべてに金を食う海軍を主力にする真珠島は大きな出費を迫られる上、本土入植が大きく遅延して人口問題が限界を越える。奴隷商人如きが纂奪を狙った罪の償いについても、継承戦争として起こっていないこの段階ならば首謀者ロッシュローの隠居あたりで穏便に済まそうとルシャートらしく考えていた。まずは丘の上にあるグリゼリウス邸の客屋敷にこもるウニヴェロッサを引きずり出さねばならないが、これにロットフィル家が大いに役に立つ。
タムストール宮にあってグリゼリウス邸にない物、それは広場である。名誉と特権とを引き替えにして丘の上に退いて、多くの市民を一ヶ所に集めた宣伝工作に最も重要な設備である広場を手放していた。広場があってこそ自身の所信の表明も広く市民に開陳でき、闘争でも起これば集合場所などの拠点として機能する。そうした物理的な拠点を持たないからこそ、市政を裏側から強力に影響する力は欠かしてこなかった。その力を一時曲げてロットフィル家の議長選出を容認したのは、トッレをおびき寄せて対抗しやすくするため、そして計画を終わらせる最後の一手を打つためだった。
ある日、市内の布告官たちは次の祝日、タムストール宮前の中央広場でジェソンを迎えての市政方針演説があることを告げた。
下話もなにもない藪から棒の話だったがロッシュローらはさほど驚かなかった。ナルマー市にとって招かれざる客のジェソンが “こいつは何をする気だろうか”という疑心を抱く市民の不安を取り除くために自らを表明しなければならない機会はいつしか訪れる。できればその機会はやや挑発的な場であればよいと待ち構えていたのだから原稿はとっくできている。しかし、ウニヴェロッサはその原稿の受け取りを初め拒んだ。
「余は余の口でもって余の語りたいところを語る。心配せずともよい。余はこれに反した考えはもっておらぬ。多少付け足すだけのことよ。これで見納めになるのだ、それくらいよかろう」
原稿を一言一字違えずに記憶し、自分は都市と市民の権利を擁護する者であり、その停滞と後退を強いる暴虐な権力と闘争する騎士を自任する旨の演説をして、ロットフィル家の迂闊な追求を逃れつつナルマー市民の疑念を払拭しようと努めた後、ウニヴェロッサは私論として更にこう述べた。
「余は恩寵によって王であることを望まぬ。余は秘法によって王であることを望む」
結論から口火を切った後は、天ほどに遠きところから地のほどに近きところへ、古き頃から今へ至る正統的な手法によって論理を組み上げて、結論をよりよく補強していった。演説が対外通牒へと移っていたのは了解したが王権の仕組みに疎いナルマー市民には話の大半が何のことか誰を対手にしているのかも分からない。分かっていたらこんな白けた顔ではいられない。大騒ぎになっている。
――受けのいいことを言ってくれる。だが遅かったな。
辛くも間に合ったとバルボアは安息して聞いていた。ミナッツ王権の擁護機関であった真珠島の大学は、結局のところ聖公座の公認なしには発揮できないような王権を薄弱なものと見做していた大王ルイジェセンによって、たった今ウニヴェロッサが説いたような瞭然たる大正を実現する秘法に王権の論拠を見出すように指示され、発展途上のいくつかの理論を大王に提出していた。ウニヴェロッサの演説は、大学の理論よりもやや下るものの、延長線上には大王ルイジェセンとまったく一致する理想が控えてい、大学が上呈する王を失った今、真珠島の一部の層には非常に受けがいい内容だった。この談話をもう少し早くやられていれば、島内に不穏の種がばら蒔かれていたかもしれない。
逆に反発を示したのは聖公座。市の評判とロッシュローの紹介で篤信者と思い込んでいたのに、まるでその死を肴に祝い酒をしていた大敵ルイジェセンが若返ったかのようだと警戒を強めた。ナルマー司教スティール、修道院長カーンの頭も越えて書簡が送りつけられた。
――汝の近き対手の唱える邪なる説をその耳に入れて、理性によって省察せず信仰に満ちた正義の心で真実を見ぬままに口にするのは善き行いではない。
あの説は決してお前の本心ではないだろう。不信心者の過激論に毒された若気の至りを寛恕する旨で締められるこの書簡はウニヴェロッサの手元に届かなかったため、王の認証を巡る知性上の争いは延期された。つつがなく新たな敵も作らずに演説を終えたウニヴェロッサはグリゼリウス邸への帰途、トッレに拐かされて忽然と姿を消してしまう。護衛のガス族は奮闘したが、
――ジェソンさまにやられた。
という奇妙な証言をしている。ほとんど対手に迎えられるように去って行ったという。
すぐさま真珠島に送致されたであろうと思われたウニヴェロッサの身柄は、意外にも真珠島までの海路の半ばを本土へと引き返して行った。ちょうど本土入植地域に来ていたルシャートが今の内に会ってみようというので呼び寄せられたのだ。バルボアに別口指令を下していたのはどうもこのルシャートだったらしく、入植地域の仮庁舎でウニヴェロッサの調査報告を受けた後、顔を向け合った。
「聞いていたよりも小さいな甥殿」
「はあ」
グリゼリウス家から切り離されて今、ウニヴェロッサでもジェソンでもある必要性をなくしたこの青年は、正しくも素の状態だった。この期に及んで甥殿などと呼んで不自然にジェソン扱いするルシャートからは決意じみたものが伝わってくる。本土副王後見役の頃、自分の不手際をきっかけに三人もの甥たちを若死にさせて、今となって後継問題の素因を作ってしまった責を感じていたルシャートは、ノルベルンの擁立とジェソンの命の安堵をこの身最後の命題と自覚して髪一本ほどの隙もなかった。
「気宇は奔馬のようらしいな。秘法によって王であろうとは」
「はあ」
「どうだ、その真理を大学で究めてみんか。王国と王権に仕えるよい機縁ではないか」
「はあ」
「グリゼリウス家もノルベルン殿下のご即位を祝う恩赦ということで特別の計らいで大目に見てやろうし」
「はあ」
「まあ、慣れない船旅をさせたからな。休んでから考えるといい。答えは次に会う日にでも聞こう」
ルシャートはバルボアに――いかがでありましたか、と尋ねられたその人物を、
「あれは奴隷だったよ」
と寸評した。
「やっぱり巨匠と呼ばれるだけにリャドは偉かったなあ。あれはあらゆる能力を高い水準で備えてありそうだが、純粋で大事な物が足りてない。ロッシュローも随分なガラクタを活かしたもんだ。誰かに使われなければ力を発揮できないなど、まったく哀れな奴じゃあないか」
魂を込められていない奴隷にするのはグリゼリウス家の流儀からずっと逸脱していた。代々の頭首が活かしてきた万能の奴隷にはずっとその同じ欠点が続いていた。何でも出来るはずの力を自分の意志を果たすためには使おうとしない。それは奴隷の分ではないし、ウルフィラが中原の裁判で見、警告したように秩序を乱す元になる。リャドが万能者育成を禁じたのは万能と奴隷の間には噛み合いがないと解釈するロッシュローの手口は、万能を求められる王という領分に送り込んでの解消であった。秘法によって王となるという演説は入れ知恵か真珠島の大学を参考にしたものだろうと思って、ウニヴェロッサの特質にはまるで気付かないルシャートは無害な奴隷と判断した。
害意を抱いているとしたらノルベルンだろう。何をしでかすか分からないあの驕児のこと、真珠島の大学でとは言ったもののジェソンの身柄を下手な所に移せば命も危うい。本土入植地域の守りは脆弱で、曲者揃いのグリゼリウス家所有物に嗅ぎ付かれて奪還されかねない。ノルベルンの目も届きにくく、グリゼリウス家も手が出しにくく、聖公座の影響力も乏しく、ルシャートの地盤と言い得る地は、
――ロマックだ。
盤石の妙手だと思えた。グリゼリウス家の主導によってジェソンがロマックに入城してしまえば継承戦争は不可避になっていた。人口や経済力こそナルマーには遠く及ばないが、ロマックには本土王領の中心地という名分がある。本土全域を運営する勝手知ったる行政庁舎と旧知の本土官僚がずらりと揃って、玉璽の保管庫もある。真珠島の主導でジェソンをロマックに入城させればグリゼリウス家は手が尽きる。ロッシュローの本土代官の役を剥奪し、ジェソンを副王の格で用いて操れば聖公座対策も本土入植計画を含めたあらゆる本土政策も迅速に進められる。アナールとの約束を反故にするのはルシャートの気の引けるところであるが、王国の将来のための一時的な起用と納得できる。グリゼリウス家の野心を挫き、聖公座の南部進出を阻み、ノルベルンの王位確立が済めばそれなりの地位を約束して解放してやろうと考えていた。
ロマックに卸した奴隷がジェソンの入城をグリゼリウス家に知らせてきた。ルシャートを先頭に立てた一行の前にロマック市門はなんの抵抗も示さなかったという。
――勝った。
正念場の嵐の中に入り込んだばかりのルシャートではない。勝利を確信したのは旗印を奪われてにっちもさっちも行かないはずのロッシュローだった。ロマック入城を最終目標に設定していたグリゼリウス家が大王ルイジェセンの死後もどうしてウニヴェロッサともどもナルマーで足を止めていたのか。ロッシュローとジェソンの一行ではロマックの鉄門は決して開かないからだ。外来の権力者を好まないのは都市の通例である。ナルマーがジェソンの到来を不安を抱きながら許容していたのは個人の魅力であるわけがなく、都市自決主義が促した組合の分立化があからさまな敵対姿勢を示さない内の合同した拒絶を想起させなかったからだったが、ロマックの都市構造は根本から違う。本土官僚たちがあらゆる実権を握って支配下のロマック地方を切り取って私腹を肥やしている。本土代官と副王はその権益を根底から覆す正当な権限を持った邪魔者という共通認識の下でロマックは頑強に抵抗するだろう。調略によってロマックを制圧することはできるかもしれないが、真珠島の本気の介入を誘発してグリゼリウス家の負けが定まる。そこで王国内で抜群の人気を誇り、本土官僚に多くの知己を有する王国の実権者ルシャートに目を付けた。トッレを利用してウニヴェロッサを引き渡したのは作戦だったのだが、ただ一つの誤算はそれがアナール独自に動いた想定外の発動であったことで、予定行動の折々に用意していたいくつもの安全策が働かず、今や無意味としか断じられないグリゼリウス家とロットフィル家の抗争を勃発させる事態となる。




