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ウニヴェロッサ・グリゼリウス 5

 泡騎士たちがグリゼリウス家荘園館に戻ってみると、ウニヴェロッサはあちこちに傷を負って休んでいた。事情を伺いたくても、フェリクスはどうした、と先を取られた。ガレー家に一切を頼みました、と伝えると、

――その手があったか。よく気付いた。

 傷もないように三人を称えたが、顔色に陰が差したのはやはり痛みのせいか。正体はなんだろう。剣闘士は解放されてもう一人も残っていないし、周辺の泡騎士、廃貴族の仕業でもない。畜生一体誰がやりやがった、とさして広くはない館をうろうろしていたら真っ先から似たような傷を身に付けたギナが来る。こいつだ。はっきり直感した。

「ウニヴェロッサさまの傷、知ってるな」

 根っこどころか、まだ枝葉までちゃきちゃきの泡だ。返答次第じゃあ即座に喧嘩沙汰を起こせる習性。主をあれだけされたならその腕でも切り落とさないと済まない。

「俺だがどうした」

 一句でも選び損なったらいきり立つ三人が対手というのに、ギナは白状というより、正当な理由を主張できる雄々堂々たる態度で受けて立った。泡騎士の常識ではまずこういのを対手にしてはいけなかった。どんなに小さな負い目でも感じているなら寄り切って理屈も割にも合わない要求を呑ませるが、自分一人の足でがっしりと自分の寄る辺で踏ん張っている手合いは手間がかかる。泡にとって強請たかりは生活の元手だから、面倒はかけられない。足蹴でもされてよっぽど頭にきたなら別として、普通はもっとたやすい獲物を探す。しかし、名誉を重んじる騎士ならば、我が意を通すために自分の寄る辺で踏ん張って根比べをせねばならない。どうもクロスコスの毒が効きすぎたか、かつてはありとあらゆる無益な危険を敬遠した泡騎士たちは今、グリゼリウス家の力瘤を端的に表すギナの前に立ち塞がって睨み合った。

 水滴一つ落ちた拍子にでも血の流し合いになりかねない険阻な雰囲気はガス族の勇士ギナの方から解いて和らげた。

「その調子で守ってやってくれ」

「え」

 引き返して行くギナはどこへ向かうつもりだったのか。この先にはウニヴェロッサが休む居間しかない。さては見舞いにでも来たのだろうか。

 ギナの奇特な態度を怪訝けげんに思い残す泡騎士を率いてウニヴェロッサはナルマーに帰った。荘園館にはゾルムとギナが残っている。

「ウニヴェロッサ奴、御家と廃貴族どもに挟まれながらあそこまで粘ってとうとう形だけでも逃がしてみせるとはなあ。歴代頭首が手を付けてもできなかった万能者、遂にできたのかもしれん。それにしては日頃の腑抜けはどんなものか」

「あれは自分を嫌っているのだよ」

「ほう」

「――奴は物の理をよく承知していて、こうすればそうなる、そうすればああなるという目算が確かで鋭い。そういうのは長く続くと人間を卑屈にする」

「というと」

「人間はいつも理屈どおりに動くと限らん。同じ人間が同じ場面にいても、気持ちの置き所で違う働きをするだろう。奴は物の理に基づいた予測と、実際の観測が違うとそれだけで一目置いて、違った反応をした理由を分析しているようである。……あいつは、自分が物の理を知りすぎたとも知っていて、出来るならば自分もまたその自分が立てた予測を越えようとしている。あの泡騎士、廃貴族、ナルマーの一市民でさえ自分の予測を越えるというのに、自分だけができない。……ウニヴェロッサはいつからか知らんがきっとそういう日々を送ってきたのだろうよ」

「奴を鍛えた中にそうした一面があったとでも」

「腑抜けで卑屈に見えても、ウニヴェロッサはあれで相当にしぶとい。力を発揮させたくば、追い詰めるだけ追い詰めるといい。それだけ力を出す。剣闘士会で見せた裏業うらわざといい、この前の仕置きといい少々驚いた。この俺に膝を付かせ、これだけの傷を作らせたんだからな」

「あの仕置きか。ふっふ、予測と言うなら、奥業おくわざというのを衆人に晒したというのがあそこまで悪いとは思わなかったぞ。奥業おくわざをかけられたあの馬鹿でかい剣闘士に刺客まで放ったろう」話だけは横道に逸れて行くがゾルムの頭脳だけは行き迷わずに回っている。

――万能性の故に嫌って押し込めている能力を引き出すには、使ってやむを得ないほどに追い詰めるか。命の危機というだけでは自らで操るには深すぎる。ではあの剣闘士奴隷を取り返そうと躍起だったには別の説明が必要。物の理に基づけばもっと早くに屈服するべき廃貴族の観測に喜ばず、機嫌を悪くしていたようだしまだまだ木石ではない。生命と。機嫌……感情か。理性。

「確かに、自分の行動が自分の予測を上回るなどそうはない。理性で理性を仇にする限り、ウニヴェロッサ奴は自力でそれを越えられまいな」

「そうだろう」

「だが、それが幸いだ。このまま順調に行けば、お館様の考えられる通りのやり方で先々代さま以来の課題が片付くぞ。ウルフィラを巡礼に出したのは早まったかもしれんが、あれは仕方ない。これで本当に定まった。ところでお前、様子がおかしいままと思っていたらウニヴェロッサ奴に同情し始めたか」

「お前こそどうなんだ。先々代、巨匠リャド殿が手をかけた<万能なる者>としては、ウニヴェロッサのあんな有様に何も思わんのか」

 ウニヴェロッサほどの露骨な名は頂かなかったが、シニウス語でゼルは十、ゾルムを百と言う。リャドが活かした百体目の活性奴隷は別にいるし、その辺の奴隷商と変わらないそんな血のない名づけをするなら、巨匠とは尊ばれまい。そしてその巨匠リャドは、自らの手で為した万能者ゾルムを確かな傑作と自負しながらも、グリゼリウス家千代の宿願であった万能者活性には今後手を出してはならぬ、という新たな掟を作って、孫の中で一番見込みがあったロッシュローの教導対手役に方針転換した。だからゾルムは<万能なる者>の精神構造と幾分共通する形式でもって、グリゼリウス家の名声を更に高める商品価値しか求めていない。

――感情の働きを知らないことをか? しかしな、それが奴隷というものだろう。役割さえ与えてやればそれをただ遂げるさ。王という役は都合よく常に命がけなのだから、奴には実に合った役だ。

 ロイターを下る馬曳き舟の上で、感情の動きに乏しいゾルムの冷ややかな毒舌を納得できず追いやれもできないギナは、そうかもしれないと思った。ウニヴェロッサに同情しているかどうかという心象。

 ギナは懐に携えた手紙を取り出して、陽に透かして見た。中身はウニヴェロッサが泡沫ほうまつ騎士群生地域でやった今回の顛末記と商品価値の修正報告だろう。それが弓で射たような風に吹かれて川に落ちた。心の何処かしらの願がそんな風にさせたのかもしれない。廃貴族との抗争の際、安らぎを求めて家族の元に帰ったこの強者が、昔のようには妻子と顔を合わせられなかった。諧謔かいぎゃく詩人の戯れ詩も楽しめず、肝の部分をうっかり聞き逃して、おかし味のありかを失い、家長の大笑いを待ち受ける家族の笑顔とも疎外されてしまった。慰みは団欒だんらんとふれあいでこそ得たられたが、心喜ぶ慰みをもたらしてくれる家族に胸を張れない。異変に気をもませるだけで事情もろくに話せない。

「あ」

 川舟を引かせている御者が川に落ちた手紙を見てロバを止めた。ギナは振り向いて浮かんでいる手紙を見やってはいたが、腰を上げようとしない。御者はここは俺が取りに行くべきかと迷ったが、手を伸ばしても足を伸ばしても届かない川面に浮いている。その内に水が染み入って、浮力を失わせて沈み込ませてしまった。果たして川舟を進ませてよいものか分からない。聞こえよがしにロバの毛並みをさすったら、大きな岩でも落ちたような水音がして、振り向くとギナの姿がない。ややあって川舟によじのぼるその手にはちゃんと手紙があったが、どうして思ったか、やにわにそれを支離滅裂に破ると今度こそは自分の手で叩きつけるように川に捨ててしまった。すると、

「わっわっわ!」

 と、胸を張って四囲の深い森の樹冠を駆け巡るような大笑いをしたのであった。顔色もまるで違ってずっと清々しく――いい笑いっぷりだなあ。と御者もロバも聞き惚けてしまった。

「進めい」

――俺は恥を知っていたに卑怯であった。ふん。あんな腐った企てはもう糞くらえだ! 止めだ止めだ。俺はもう下りた。だが逃げるわけではないぞ。どうせ救いようのない奴だから身の丈知らずもほざかぬがな。ウニヴェロッサ奴……

「ふん。あわれな奴だ」

――今頃もきっと酷い目に遭っているんだろうよ。

 大王の隠し子ジェソンをナルマー市民はどう迎えただろう。

 都市とは、既存の支配階級と同様に、その成員の民衆から都市代表者までもその自処理念は自決主義で一致していた。王や領主の過当な支配から逃れたいと願った者たちの、あれこれと他人の指図を受けず、自らが自らの由を握るという考え方の巨大な結晶。まともにやって拒絶反応なしに迎え入れられるわけがなかった。門外の権力者を受け入れるまったく唯一の例は、津々浦々で起こる抗争の調停であるが、利権を巡って起こった大多数の権益闘争の場合は折角の調停者よりも強力な位格の者が無効を主張して大抵すぐに破られた。その為、大王ルイジェセンのエステ帝王捕囚は例外として、数多の戦いを制したコルトセットの潔癖公やイシュー伯ドラテロル、グリゼリウス家所有物ヨルムブレヒトのような名将よりも、巧い取りなしで長期に渡って闘争を鎮めたミナッツ王弟ルシャート、ルーリック辺境伯へんきょうはくバスタール、ローブ・シ・ガレーといった和合人の名こそが好感を得てその入来を歓迎される。

 加えて、ナルマーは自治に目覚めた民衆が領主から特許状を勝ち取った解放都市ではなかった。起源をさかのぼるとサーニー帝国の後期に、放免になった罪人や浮浪者が行く当てもないまま放置されて社会不安を醸成する前に援産場として拓いた一種の就業支援場だった。大工や農作業や裁縫なんだとか、そういう手に職をつけてやる施設の集まりで、これを時の皇帝フツヌスに進言して開催したのがグリゼリウス家。ロッシュローが頭首を張るグリゼリウス家の興りと伝わるが、根拠というのがこれまたとんでもなく怪しい代物で、歴史学の分野では帝国崩壊で続発した奴隷反乱のどさくさ紛れにその古グリゼリウス家を乗っ取ったものだという説にほぼ定まっている。サーニー帝国が滅んだ以降のナルマーの都市年輪が若い頃まではグリゼリウス家こそナルマーの領主といって過言でもなかったが、職種、更には工程ごとに分裂と独立を繰り返す定めの都市自決主義の台頭で領主色は急速に色あせ、商人と顧客を越えた殆ど同盟関係といえる縁故えんこと聖俗の権威がもたらす平和と安定、そして何より際限なく繰り返される都市自決主義に抑制と接着を司る金の力によって、ナルマー市民はグリゼリウス家の君臨を認容してきた。しかし、王の庶子ジェソンの到来は、ナルマーが経験したことのない特定人物の支配という悪寒と都市が向かう定めの市民による意思決定という進行方向と逆行する気配を帯びる。力を蓄える新興勢力でなくとも、これを歓迎する向きはまずなかった。

 ロイター川を遡行して西の狩人門からナルマーに入ったウニヴェロッサは、久しぶりの市内を歩きたいと言って泡騎士らも置いて、木材組合の荷捌場でナルマコックを下りるとモール通りに出た。市民の反応は予測していた通り、こいつは何をする気だろう、という目に変わっている。期待などされていない。ただ警戒。ウルフィラを見る目とは違う。朝晩くたびれるまで歩いたって、もう挨拶一つしてくれる者もないだろう。横道から盗み見てひそひそと内緒話をしている気配も感じられる。ただ一人、爛輝らんきとした瞳の乳児だけが手を振った。犬に大きく吠えられた。首切り役人メトロの飼い犬。ウニヴェロッサの心身びくともせず、単なる動体としか認めていないような異様な眼光で捉えようとするので、三つ半でまで吠えたら感じ覚えのない怖気がついて遁走して行ってしまった。

 市壁に閉じられ潮風も果てて届かないナルマー西区の夏は暑い。暑気払いはロイターの川岸、橋の下。そちこちから顔を見せる市民は、アダマー橋の上で不気味に佇むウニヴェロッサを、こいつは何をする気だろうという目でしか見ない。

――人は孤独。人とはみな孤独よ。ふん、大したものではないわ。こんな変わり映えないもので何を思い知れるのか。孤独と知っても尚、人はみなそうではないと足掻くのではないか。そこにもそこにも人は一人では歩いておらん。

 橋脚の中でぐるぐる回る水車仕掛けで小麦の粉挽きをする震動が足元から響いて鼓動の心音をかき消して、当たり前の情動をさせない錯覚を施すからか、ウニヴェロッサは何万人分もの疎外の波濤はとうにも怯まずに川の流れを見ていた。

――ふ。みなみな同じ目の色で見るならば、彼らは孤独ではないのだろう。だが、それがわからぬ。どうしてか、どうしてああしているのだろうなあ。

 だが、孤独を人間の普遍的な状態と思って抜け出す必要性を見い出さない奴隷の如き無情なる心性には、彼らが見せるこうした観測は常に予測を越えたものなのだった。相違する極に立つ者同士、互いが当然としている行為をどのように捉えるか。それを引き寄せて己のものとしなければならない万能性を植え込まれたウニヴェロッサと違って、彼らにはそんな特殊な事情はない。こうしてできた他者との隔絶した距離感は、しかしジェソンという位格を得てからの新たな習慣でもなかった。幼年からずっとこうした日々を過ごしてきたのだった。集積された観測とウルフィラの市中話を参考に真似事ならできるようにはなったが、それは情動の働きに基づかない似非た仕草なのであって、人と人との距離を縮めるには至らない。

 ウニヴェロッサはアダマー橋を過ぎて姿かたちは中央広場。ナルマー市行政庁舎タムストール宮、幼年の頃に大祈願などした教会堂を過ぎて足の向くままか誤ったか裏通りへ。

「なにを湯女ゆなごときが無礼な!」

「へん、なにが無礼だい、自分で望んで奴隷の服を着込んだ恥知らず奴なんざ、爪垢つめあかだってあたしらにゃあ毒だつったんだ。けえれけえれ!」

「おのれ今や我らジェソンさまのお対手役であるぞ! その我らの背なの相手どころか門前払いか!」

「へん、そうやって対手主を振りかざすのがお役かい。そこいくと同じ対手役でも頭のウルフィラは違ったもんだったよ」

「な、なに、ウ、ウルフィラ!」

「へん、そうさ、対手主の名をひとつだって出さず、身ひとつであたしらとだって語った奴だよ。それがお前らはなんだ! へん、対手役の名が呆れてるよう」

「な、な、なんだと!」

 対手役らと揉めているのは湯女ゆな屋の女将イル。どんな勝算かあってか無理をねじ込もうとしたんだろうが、相手を選び損ねるにしたって、これはどうしたって悪すぎる。見所はここからだ。追い込まれたとしか分からない対手役らが、すごすごと退散するか、予測を越えたどんなか観測を見せるのかというところ。ウニヴェロッサは目を皿のようにしてみた。

「あ、ジェソンさまだ!」

 恥をかくにしても、まだ少ない見せ方で済ませられる道を探そうとして後ろを振り向いた対手役に見つかってしまった。見つかれば観測もない。いつまで他人のふりで高みの見物も湯女ゆな屋に迷惑だ。自業自得とはいえ所詮は鼠のような連中の浅はかさ。蟒蛇うわばみなぶられる前に助け舟を出してやろうという気持ち。ため息はついた。

「湯が欲しくば館に帰るがよい。背ななら互いに洗うがよかろう」

 湯女ゆな女将の計算違いの強情で片足がはまりかけた虎口からともかく逃れたい一心だったので、渡りの船と対手役らは対手主も置いて退散して行ってしまった。

――つまらぬ奴らよ。

「お前様、さっきからずーっと見ていてねえ。いつまで見ているお気でした」

「成行次第」

「さよですか。ともかくお助け下さってありがとございますよ。けれどもね、連中はきちんと抑えてくれないと困りますよ。今目にしたようにお役の名前が同じだって誰も彼もピンキリなんですからねえ」

「思い当たる」

――ちぇっ、間を嗅がせない小僧っ子だ。こりゃああの対手役どもも手に負いかねた嫌がらせもするのかねえ。あっ、そうだウルフィラといえば!

「ところでお前様、うちのかわいそうな娘子に湯のお恵みを呉れないかい。うわさに聞くと北でけだものの泡騎士どもと一戦もしたそうじゃないか。それじゃ精々水浴でしょう。気持ちのいい湯に肩まで浸かってねえ、身なりをぴんっときれいに揃えてお帰りよ」

「湯か」

「そう湯。ちょうど腕も芸もいい娘子が空いてるんだよ」

「湯なら館にある」

「そ、そんなつれない。それに館の湯なんて、さっきの対手役の連中がさあ。あんなんらと一緒じゃ湯もまずくなるでしょうよう。うちの娘子はさあ腕もいいし、器量自慢なんだよう。ねえ、恵んでやって呉れよう」

「湯か。湯か」

――湯代だけ出せば、きっとこのイルは本性を露わに喚き散らすだろう。

――あたしら湯女ゆなだってねえ乞食やってるわけじゃねえんだ! やったことのきちっとした代価で生きてんだい。なんだっ! このイルがこんなはした金ほしさにお恵みをと頭を下げるか! へん、そんなんだからあんな対手役どもしか集まらねんだよう!

 まず別の観測は得られない。

「では恵もう」

「ありがとさんようっ」

 屋内で商売道具の手入れをしていた徒弟とていの少女らに「一等物を用意しな」と言いつけると、二階までひとっとびで逆昇って大部屋に飛び込んだ。その隅、二方に仕切りがしつらえてあって、なにやらその辺りに気鬱の溝がある。市中の仕事終わりのかき入れに備えて身繕う湯女ゆならもその先を見て見ない。イルは一目散に仕切りの中に顔を入れて、

「仕事だよ。さ、とっとと仕度しな!」

「……おっ母さん。無理よう。いけないよう」

「馬鹿! いつまでぐずぐずとしてんだい。おどれ今はあたしらの施しで露命ろめいを繋いでるってわかってんのかい。お客の背も洗えない奴をいつまで置けるほど、世の中の懐は広かないんだ! さあ仕度だ仕度。お客は一等物だよ。弱った心を吹っ切ってくれるお客だよ!」

「無理よう。おっ母さん。ゆるしとくれよう」

「おっ母さん、あたしが代わって出ますから、せめてもう少しだけ」

「いつまで甘やかすんじゃない! いいかよっくお聞き、このお客はあの石館の奴だよ」

「え」

「三男坊のウニヴェロッサ。今はジェソンかなんだか知らないが、ともかくあいつだっ」

「ええーっ」

「すぐ下に来てる。いいかい、この名代の湯女ゆな女将のイルが湯を恵んでくれろと頭を下げて引いてきたんだ、しくじりでもしてあたしに生き恥かかすんじゃないよ!」

「は、はいっはい。きっと、ええ、きっと。櫛を。ああ、誰かあたしの亜麻布を取ってちょうだい!」

 教圏の大開墾以来、山の湯治場か、そうした所を古くから拓いたナトンのような都市でしか見られなかった湯女ゆなの姿も、浴場のある都市ならどこでも当たり前に見られるようになった。ナルマーでは組合はまだなく、料金も内容も統一されていない。各店主人は競争してできるだけ多くのお客を物にし、ゆくゆくは自店が手本の組合でその頭になろうという魂胆。中には勇みすぎて娼婦まがいの売りを品にした店もあったが、驚くほど高額の罰金が科せられ、色を売ったその湯女ゆなが都市法に拠ってすべての広場で顔晒しの厳罰で裁かれたのは、公序良俗に反したからではなく娼婦組合の職域を荒らしたからである。では湯女ゆなはれっきとして市民かというと都市公認の組合に帰属しておらず、特定の常連客の奴隷でもなければ、入門証を持った外来者というわけでもないまことに奇妙な人種であった。

 公衆浴場は曜日と時刻とによって男湯女湯で分けて営業し、混浴を厳しく禁じたが、板の間の稼ぎを防ぐために脱衣籠を見張らせる奴隷を置くのと同じように、事情を抱える浴場側が湯女ゆなの連れ込みを認めていた。仕事着は敷布のように長い白衣、これを体にぐるぐる巻いて、逆上する男客から貞操を守るため結び目もちょっと見ただけでは分からないよう中に隠す。店によっては結び目を露わにしつつ工夫された結い方でより華やかに見せて、客の背や手の届きにくい箇所を洗い、香油を注ぎながら按摩する仕事の中身が大きく変わらない湯女ゆな業の差別化を図るが、女将イルの店は断じて外には出させず、結び目の堅固さも一番で、ほどき方も年長の湯女ゆなしか知らない特別なものだった。

「止せ」

 頭髪の洗浄に入ろうと手を伸ばしたが、ウニヴェロッサは頭部に手を当てられるのを嫌って、自分でやってしまった。有名な短躯の体は、素肌を晒してみると驚くほどに鍛えられていた。重たい物を持ち上げて作ったような分厚く堅い筋肉ではなく、体内で循環する勢いを活かす淀みのない肉付きはまるで女の柔肌のようで、仕事柄多くの人肌に触れてきた湯女ゆなにも初めての肉感だった。

 全身の洗浄が終わって浴槽につかれるが、先客がいた場合、湯女ゆなを入れてもよいか尋ねる浴場作法を忘れてはならない。湯船に色香を混ぜたいのはそこは人情だから、まずこれは了承される。次いで、どこかかゆくないですかと尋ねて、どこそこがと言われたら湯女ゆなに命じて按摩させた。これは別の料金を支払わなければいけないが、湯女ゆなを連れ込んだ者の社交辞令で湯の楽しみの一つ。湯船にいた六人の客全員に振る舞いをしたウニヴェロッサは、

――愛想なんぞは一つもねえが、下々のしきたりに詳しいじゃねえか。

 湯の力と湯女ゆなの腕で初めて悪くない印象を認めさせた。

 浴槽から出ると床に寝て全身に香油を塗りつつ按摩あんま。これで湯浴みは一段落。湯女ゆなの愉しみは実はこれからを味わう。火照りを冷ますまで、湯女ゆなそれぞれが得意にする楽器や歌唱や踊りなどを観賞する。浴場内は利用客が多くて狭いので大抵は専用の別宅があった。店の質を確かめるにはこの別宅を目安にするとよろしく、湯女ゆな屋は市内の空き部屋の情報に目がない。実際に不動産の紹介も兼ねていたという。イルの店が持っていた別宅はロイター川沿い。二階の一間というからまず一等。窓からは川の流れがよく見えた。既に見習いの徒弟とてい少女が準備を終えてい、机には柑橘類を絞った果汁が用意されてあった。目線の先には一段高くなった舞台がしつらえてい、徒弟とてい少女が舞台脇で奏でる竪琴の音に乗って湯女ゆなは舞踊を披露する。技芸は瞥見べっけん程度にウニヴェロッサは窓辺に立っていた。時折振り向いて踊りと音色を眺めてはいたが、背を向けていた方が多かった。

 湯女ゆなたちを店まで送るのが客の務めで、この仕事だけでは中々食べるので精一杯の彼女らは仕事道具の装飾品などを、この道すがらに常連や気に入りに言葉巧みに買わせた。こちらが凄腕の湯女ゆななどはほとんど詐欺まがいの手練で客の懐をすっかり奪ってしまう。ウニヴェロッサはさすがにそこまでは知らなかったが、意表をついた先手を打った。

「何が聞きたい」

「えっ」

「呆けるな」

「あ、あのう」

 あまり出し抜け、それも遠慮もなくずかずかと、腹を裂いて暴こうとする乱暴な問い質しに、図星の湯女ゆなも閉口している。ウニヴェロッサにしてみれば、さしたる義理もない対手役の身代わりに捕まったイルの虎口から逃れる一考で恵んだ湯。はっきりしないこの湯女ゆなの含み腹が距離感を微妙にいじるのにはなっから不快だった。

 緘黙かんもくの内に湯女ゆな屋に着いてしまって、ウニヴェロッサは湯女ゆなの逃すまいとする執念のような視線のせいで立ち去ろうとしても立ち去れる気もしなかった。イルは不首尾に勘付いて――どっちもなにをやってやがるんだ、と打って出てやろうかとする気を抑えている。

――並々の事情には見えぬ。

 しかし観測は了った。湯女ゆなは一人手に口を開けないだろう。ウニヴェロッサはあれでも機会を与えたつもりであったが、かよわい子女にはあまりに抜き身すぎたのだ。

「イルを呼べ」

 心にかかる重みが偏って姿勢を横に傾かせてしまった湯女ゆなは店に追いやられた。イルは成果あがらぬ湯女ゆなの頬を張ったが、心体の偏重を均してやろうとして張ったのだった。

「あれは足がいけないな」

「え」

「左足の小指だろう。そんな怪我人に湯働きさせるものではない」

「ほ、ほ、ほ」

 イルはウニヴェロッサが見抜いたには心底が跳ね返るほどに驚いたが抗弁弁解一つとせず微笑んでいた。

――怪我を承知に客をとらせ、聞き出させようとしたか。

「あれはね、厄介な奴に惚れっちまったんだよう。お前様の対手役頭ウルフィラにさあ」

「なにッ!」

「そ、そんな大声を出すかい。おうお驚いた。ともかく、どんなに普段が悧巧でも、惚れるとたちまち馬鹿になるのが女さあ。どんな身持の悪い男にひっかけられたって、あたしだけは別だって天から思い込む阿呆だよう。あれはねえ、ウルフィラを追ってナルマーを出ようとしたのさ。そこを一夜思い止まらせて、あれの、そうお前様の言った小指の爪を剥いで足を止めたってのに、まだ諦めをしない。お前様からウルフィラの居所を引き出させて、それが毒でもよし薬にもなればよし、まあそんなところ」

「ふん」

 人助けといえば人助けなんだが、知らぬは本人ばかりなりというやり方で王子ジェソンという役を唐突に背負わされ、そうした手法を忌々しくしているウニヴェロッサ。頭にきて、さあどうするか。

――どうするか。

――知るものか。

「ヴォレヌスに行くそうだ。折を見定めて教えてやるがよい――」

 イルはきっぱりと礼を言ったが、今度も自ら立てた予測を自らで越える観測を果たせないままだったウニヴェロッサの頭の中からはもうイルだの湯女ゆなだのは弾き出されていた。僅かなきっかけを得、フェリクスを巡った廃貴族との戦いで放置していた、王子ジェソンというもう一つの身体をどうするかという、心頭を押し潰し擦り減らそうとする苦悩が再び芽吹き始めてきた。

 ウニヴェロッサはまたもロイター川を跨ぐ橋の一つに佇み、川の流れを見下ろしている。向こうから落ち葉が流れ寄るのが、まるで輝きを放つように目に入って背けられない。二枚の葉はこのハルナ橋の脚までは寄り添うように流れてきたが、一枚は橋脚にぶつかって乱れる流れの藻屑となって二度と姿は見えず、もう一枚だけは、この身を呑むような奔流がどこにあるのかというように無事に抜けて流れていった。ウニヴェロッサは右の欄干から左の欄干まで替わって、流葉の行く末をずっと見ていた。

――二つは立たぬ。一つきり。どちらか一つ。

 なんという風に物事を引き寄せるのか。だが、これぞ迷いの深みの恐ろしさ。

 守人もりとも遠い自侭な日は今日限りであろうに。

――よし。ならばすぐにこの橋から落ちては。あのように海に出ればジェソンだが、あのように水底に沈めばウニヴェロッサ。よし。

 しかし、うまく言い繕い、言い訳をする頭に対し、ウニヴェロッサのどこかが、

――惰弱ッ。

 と断乎する。当人は頭脳が示す言い分を尤もだと受理して、気持ちもすっかり誘われて無理にも納得させようとするのに、

――卑怯である。

 として、ウニヴェロッサの肉体のしがらみを増して強くする。

――これは卑怯か。

――卑怯である。

――そうか卑怯か。

 橋を乗り出そうとする筋肉の働きとジェソンの位格が苛む苦悩も解かれて、向こうも見ず、まるで夢遊の人のようにウニヴェロッサはハルナ橋を渡ってデュプレ路に。羊毛商組合と教会の席次を振り回したダ・パンの商家も舞台役者上がりの悪い後妻と意図引きの黒幕に狂わされて、左前の果てにとうとう破産してしまって、ずっと戸が締めっきりになっている。ダ・パンは西地区貧民街で淋しく暮らし、息子は組合に引き取られたが、零細暮らしで肺をやられて寝たきりになり、娘姉妹はかどわかされてどこそこで客を引いていたという噂。デュプレ路を抜けた小広場に面するのが、こんな詰め殺しに等しい一家離散を企てたロットフィル家の屋敷。家長ザウダージは教圏外国家ダルトワ帰りという。教圏では文頭と個人名の始めを濁音半濁音にしない文法の決まりを律儀にして、教圏に戻ってからサウダージ・ロットフィル。シモンのダルトワ攻めから逃れたものすごい財産に物を言わせてとうとうナルマー市参事会議長に成り上がって、一党は中央広場タムストール宮に移った。いわゆるグリゼリウス家に対抗する新興勢力の首魁である。参事会議長といえども、参事会は独立心旺盛な都市公認の組合親方衆が割拠しているからあまり露骨な真似もできない。ならばとサウダージは市内の組合の複合化で逆撃を狙っている。

 たとえば教圏大開墾の反動で高騰した浴場の薪材の費用を湯女ゆな屋が何割か受け持つ。入浴料は据え置かれ、湯女ゆなはその浴場と専属契約を結んで、タムストール宮とは何らかの条件と引き替えに混浴などの本来は認められていない特権を授かる。単純化すればこうした図式。複合化する組合の事情や個別の契約毎に中身はだいぶ異なったものの、概ね一貫しているのは既存の有力組合と結びつくのは湯女ゆなのように組合こそ持たない弱い立場だが、競争意識と強い上昇志向を持った新興産業だった。サウダージはそうした新興産業を巧みに利用しつつ組合改革を行いながらも自らこそ守旧派と誓って、グリゼリウス家の前に萎縮する組合の復権をよくよく強調して野心をあらわにはしなかった。いわゆる諸国の掃き溜め、生き馬の目を抜いたダルトワで成功し、引き際も心得える傑出した男だったが、王の庶子ジェソンを擁立するこれまでとは比較にならない動きを目の当たりにされて焦りがでた。そこはウニヴェロッサもグリゼリウス家もよく予測、洞察しうるところで、

――軽はずみなければよいが。

 起こりうるであろう騒擾そうじょうを憂え、サウダージが予測を越えた忍耐で日を運ぶよう願いつつウニヴェロッサはロットフィル屋敷を折れて海に向かって歩いた。

 家長以下親族はタムストール宮に移ったといえども、親類を管理人に置いて空き家にはしていない。呼くものも吸うものもやめて隙間窓からウニヴェロッサの出方を伺っていた。今回は何事もなくやり過ごして行ったが、

――あ奴は何をする気だろうか。

 それがまったく知られないので、無用な心配が募ってゆく。

 ウニヴェロッサは漁師組合にやって来、フェリクスの父リトバルと母ユルヴァとの面会を望んだ。元よりフローディック家に異存あるはずもない。ナルマーの海域で泡騎士との同舟を目撃したリトバルは陸に上がってすぐグリゼリウス家に駆け込んだが、留守居の所有物らは事態を何も知らなかった。次の日には贖い主の強い怒りに触れて、ナルマー護送の途上、泡騎士に強奪されたと知った。――そうと知ってさえいれば奪い返したものを!

 フェリクスは拾い子だった。漁師の息子でありながら海上を恐れた。同僚を足蹴して暴行を働いて追放された。フローディック家の跡取りがほしいのなら甥や親戚の子、もしくは勤労に励む奉公人を養子取りすればいいだけの話だ。跳ね回り扼腕やくわんさせる親の情がそう思わせない。組合から来客の報せを伝えられた二人が駆けつけると、一本の幼木がそこにあるようにたたずんで、港から海を見ている。足音を耳にして振り向く。正しくウニヴェロッサ・グリゼリウス。フェリクスの由預人。

「む、息子は! フェリクスは無事なのですか!」

 ユルヴァは足元にすがり付いて聞いた。ユルヴァでなければリトバルが肩を掴んでそうしていただろう――大げさな、とは易々いえない真面目。ウニヴェロッサの動揺は、大げさな、と言えないところに表れている。

「無事である」

「あわせて、あわせてください。せめて一目でも!」

「好きにできよう。フェリクスはもう帰由しておるから」

「え、ほ、ほんとうに」

「だが、故あってガレー家に預けておる。そして、しばらくナルマーには戻れぬ」

「え」

「フェリクスはどういうお子であったか。これを聞きに来た。あんな善良な男が狙われるのかわからぬのでな」

 ウニヴェロッサは海沿いに港を歩いて、夕凪の海を臨んだ。いったんは河口まで歩きついたそこに、つい先ほどジェソンと見定めた流葉が無数に流れ着いてひしめいてあるのを見て、背を向けた。数歩の内に立ち止まって、性根を入れ込んでそれを、そして海を見る。広漠無辺の海と空が夕色に彩りあって、潮騒は掻き消えそうに静かだった。流葉の群などないもののように。

――奔流に沈もうと、流れつこうとも、ひとひらは、ひとひらに過ぎぬ。どちらであれ大したものではないのだ。

 これも世の拗ね方の一つであったかもしれないのに、ウニヴェロッサは惰弱とも卑怯であるとも感じなかった。

「いよいよ暮れますので、お戻りください」

 どこからかずっとウニヴェロッサを警衛していたガス族の男が寄って帰邸を促した。

「まだ少し歩く。近くにおれ」

「は」

――フェリクスも拾われ子であったか。

 目端が桟橋さんばしを拾った。幼い頃、あそこで母の面影に夢中になって海に落ちた対手役がいた。

――ウルフィラも、拾われ子であったな。

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