表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/35

フェリクス・フローディック 5

 ウルフィラを追う逃避行は所有主が行動の自由を帰由した奴隷に、意図不明の殺意を抱く第三者が放つ追い手に付きまとわれる不条理話であったが、世の裏側の世故に長けて屁理屈とゴリ押しを得手にする泡騎士ならばこそ、波が引くように合点して疾走する狼のような躊躇わない手際。

 ともかく北から北。教圏の枢府ヴォレヌスまでの遙かな暗路を追鬼に怯えながら逃げるのではあまりに分が悪すぎるが、その中ほどまで行き着かずともすぐ目の前にもあるローブ・シ・ガレーの縄張り。匿った親切人まで窮地に巻き込むほどの大事を背負った訳有りの旅人や命危うい逃亡人なんかも援ける駆け込み場。ガレー家。というよりローブという男ただ一匹であってもグリゼリウス家さえ手を出し難き対手。聖公を補弼ほひつし奉り教圏信徒の危難を慰撫する按察使あんさつしの要職を務めるフロック家のハーコンとも旧知であるから、その知恵と威勢に頼れれば踏み出したばかりのこの旅路もぐんと楽になる。事情を知ればローブの肚はきっとこうだ。

――そんな理非のない事情でしたら承知しました。その身元はあたし一人の信義にかけて請け合いやしょう。

 ドロスに贈られた家名を借り物と思って、どんな難事でも引き受けるに己の首を引合いにして尚、絶大な信頼を集めるこのローブも、青年の頃に生涯を祟るある過ちを犯した。

 生家というのが何代も前からレストン流域随一と知られた豪農。鉄製の農具や重量鋤を幾つも保有して四方見渡す限りの耕地を有するのも豪儀だが、貨幣経済の流れに上手いこと乗ると、百科の特産で唸るほどの金を産み出して金貸しみたいな真似も始めていた。そうした豪家で不自由どころか冗費にまみれて育った。代々の百姓だから飯の有難味は親父や祖父に骨身に叩き込まれたが、貸すに任せた金の醍醐味を知らなかった。カネ。口に入れて消化するような代物じゃあないから借りておいて返せないていう理屈があるものかと思っていた。祖父の代で貸していた金は臨終と一緒に冥土越し、つまりはチャラにしていて合点がゆかなかったから、親父の代で貸していた金を返せと、まあ取立をやった。借りなければならない先々の連中に返せる金があるはずもない。

――借りといて返さないたあどういうこった! おどれはてめえの農具を借りられっぱなしで腹が立たねえか、こん盗人輩奴ッ!

 ぼんぼんの不良という奴じゃあなかった。根が律儀でおまけに世慣れないからこんな無茶をやった。とうとう腹を据えかねて、本人はちょっと懲らしめてやるつもりで殴ったんだが、人の生き死にというのの不思議でどうしてか即死。大騒ぎになった。尚悪いのが遺族の親戚に聖公座せいこうざで下働きをやってる奴がいて、上役に伝わる毎に尾鰭が付けられる。按察使あんさつし長が耳にしたローブの所行は現代の金融業者委託の滅茶苦茶な取立屋そのもので、追及の厳しさもかつてないほどだった。按察使あんさつしというのも常に正義の味方、弱者の味方というわけでもなく、吸い着ける相手には吸い着いて私腹を肥やすのが正業なんだか副業なんだか。気を動転させたローブは上流の未開の森に逃げ潜んだが、サア大変なのはその家族だ。

 聖公座せいこうざの憎らしい按察使あんさつしがどんどんと送り込まれて被害者の側に立って手品の限りを尽くす。普通の場合はまずこうした後難を恐れて、罪作りの子弟は人別から引いて勘当。放浪人に仕立てて一族を守る。ところがローブの親父ときたら子の方を可愛がって、この金を出せば上に話を通して罪を消してやるから、手配に穴を空けてやるから、秘密裡に会わしてやる、別の人別に差し込んで暮らさせてやるとかの見え透いた官製詐欺の典型にほいほいと金を遣ってしまう。

――俺が死んだら家の一切は全てローブ奴のものなんだから。

 止め縋る周囲に言って、虎の子の土地までやって、弱ったとなったら周辺豪族の的にもされて流石に傾いてしまった。そうとは知らないローブ、親の心子知らずで放浪人になっているものと思い込んで森を逃げ回っている内に出会った隠修士いんしゅうしに死者の平安を祈ってもらっていたがそれしきでは心が澄まない。が、何にしても按察使あんさつしに追われている身の上では満足ゆく弔いもできない。悔いを抱えた放浪六年。雨天に暗夜を次いで遂に生まれ故郷に戻ると、新月の夜にそのちっぽけな墓前で、

――物の知らねえ糞餓鬼のしたことです。どうか許してやってください。これよりは残されたご遺族の前に自訴いたしまして積年のけじめをつけさせてもらおうと思います。

 ところが、その家がない。ご遺族ばかりじゃなかった。その頃には、レストンの川は尽きてもあの家の金は尽きないと言われた一族と財産が影も形もなかった。だんだんと事の正体を知って地の底まで沈み込むくらいにがっくりきた。並大抵の性根ではここで生涯の地目を定められて決して浮かびきれないが、

――火で焼けてまったく消えてしまったわけじゃねえ。持ち主が変わっただけなんだから、また俺の手にだって戻ってくるだろうよ。そうだ、あの家はきっとこの俺が手にもどして見せるぞ。

 一念に誓った。その壮語はよかったが何にせよ人殺しの兇状きょうじょう持ちで逃亡中の身の上だから、その日の飲み水にも困ってしまった。故郷はすっかり聖公座せいこうざの領地のようになってしまって、天与の御法に叛いた身ではここでうかうかもできない。どうするべえかあと考えて、結局その身を沈めたのが放浪中に覚えた博奕ばくちだった。いわゆる采の目遊び。二振りした出目の計を読むものと丁半を中てるものの一緒で、教圏ばかりか世界中を熱狂させた。かつてエステ帝国の空隙を攻めた教圏連合内でも博奕ばくちの蔓延は甚だしく、軍律はまったくのざるで、むしろ布令た側が熱中の有様。第二次教圏連合軍の悲惨な失敗の原因と武勇礼節に傑出した聖騎士不在を、この博奕ばくちに持っていって嘆く教会記録のなんと厚顔か。聖職者だってこれに夢中。その時代の領土争いが剣ではなく采の強さで決められたともっぱらの評判。射的や的倒しという娯楽にもまず賭博が絡まない事はなかった。ただ、上流の支配階級の嗜みでもあった博奕ばくちには、勝った側にも負けた側にも行儀作法が見られたし、賭博の代になったのは実の土地ではなくその土地からあがる収益だった。馬上槍試合や決闘に比べれば死者も怪我人も出さない平和交流を目的にした室内競技とも言えるもので、かあーっと熱くなって身代潰しまで毒される軽率な者などはなかった。過ちを呼び寄せた元凶は都市の発展と身分秩序の崩壊、土地や砦といった不動産と違って賭け事を簡便かつ気安くした貨幣の登場であった。刺激と抑制を知らない民衆に爆発的に広まった博奕ばくちは、これを抑えようと聖公座せいこうざが出した禁令も既に手遅れであった。

 ローブは采の目博奕ばくちが強かった。強いと言うより采に懐かれていた。覚え初めの頃にはさんざ巻き上げられたが、盆を眺めているうち気付くところがあった。極意は誰に話しても継承されないで終わったが、ともかく異様に強かった。自分が親なら十度振れば十度意図した出目になるのは当たり前、対手の親であっても不思議にぴーんと当ててしまう。これでどうやら食うには困らなくなって、俺こそが教圏一の博奕ばくち打ちであると言う手合いとあちこちで打って負けなし。コルトセットの潔癖公セルも五千ダーフの星を作った。教圏屈指の博奕ばくち打ちと誰にも認めさせたはいいがあまり名を盛んにし過ぎ、勝負事で情を憎くした馬の骨から按察使あんさつしに密告されて逃亡中の凶悪犯と素性が知れて、いよいよ捕まったのにも裏があった。

 聖公座せいこうざが接収したにも見えるローブの家の小作人たちが、新しい課賦租かふその重みに耐えかねて抵抗を始めていた。抵抗といっても打倒とか反対とかを唱和をするほどあからさまな示威行動に訴えるほど野蛮でも小賢しくもない。百姓の抗議行動はもっと無邪気で幼い。例えば、川に橋を渡す労役を科せられて必要な木材を伐採しに行く。建材に最適な大木は聖公座せいこうざが我が物にして立ち入りさえ許さなくした森の奥。何本か切らないと運搬の際に身動きとれないので、許可を得ようと来る。どうせ数本くらいのものだろう、切り倒した木は干して薪材に、冬に高値で買わせようと皮算用して許可を出す。ここに百姓らの砥いだ牙が急所にがぶっと齧り付いた愉快味がある。大木を道沿いにして縫うように運べば数本で済んだかもしれない。ところが横に寝かせて運ぼうと馬鹿を演じられたものだからたまらない。村まで一直線、巨獣に抉り取られたような切り株だらけにされて、豊かな森はなくなってしまった。

――む! むわわッ!

 森の死を目撃してこんな頓狂声でも示したかもしれないが後の祭り。そこへと運悪く巡祭がやってくる。体中をぶるぶる震わせて青くなって弁解する様子を腹を抱えてげらげら笑いながら愉しむのである。百姓の戦法は万事この調子で、思いもよらない頓知こそが彼らの武器だった。使いようによっては凶器のこれを無知で包み込んで容易に底意地を晒さない狡猾さにはウニヴェロッサも騙された。自我の発育と教義が同調してしまった単細胞の世間知らずの聖職者で束ねるのは無理である。ローブを召し捕ったのは百姓の遣り口を知る差配役を探していたからだった。

 博奕ばくち罪で捕まったローブは前犯共々ヴォレヌスで裁く定まりになったが、移送された矢先に危篤に陥る。

――や、やりゃがったな……。

 絶えそうな気息でぶっ倒れた。毒を盛られたんだともっぱらの噂だったし、ローブも強くそう信じていたが、牢内研究によるといくら囚人対手だってそうそう簡単でもないらしい。まずは毒の入手とイチコロの調合からして難しく、どうやって飲食物に含ませるか、牢内食は同囚の争奪戦だから間違いなく当人に当たらせられるか、よしんば上手くいっても牢役人らの目を欺くのも難しい。穏当な病死か悲惨な毒殺の見分けくらいは誰にでもつくから、いずれ誰彼の口の端から走ってしまって総勘定すると、大が付いてなおかつ裁くに裁けない巨悪でもないと割に合わないのだという。入牢直後に体調を崩す者の多いのは衣食住環境の劇的悪化に因るもので、医者も頼り難いからまずそのまま死ぬ。

 半死半生のローブを仮牢にして引き取ったのが後の後援者ヴォレヌスの名家フロック家で、環境の改善と死地で蘇った青年の日の誓いに励まされて驚くような快復を見せる。

――ま、まだまだまだ。俺は、俺はあんな采遊びでちやほやされるのにいい気になって、こうやって人を殺そうとしながら裁かれもせずのほほんとしてやがる腐れ外道連中から一つだって取り返してはいないではないか。う、うぬ、うぬぬぬぬ!

 フロック家の引き取り人ハーコンは親切な男だった。なかなか博奕ばくち好きで、病床にいたローブと打ち合って盆毎盆毎飛ばされるのに、少しも悔しがるところもなく金払いも実にすっきりとしていた。が、その表情と素振りが教える。どうやらわざと負けている。そんな事さえわからねえで博奕ばくち打ちでつとまるか、貰い金で食ったらその日で游侠ゆうきょう人はおしめえだ! 啖呵を切ったら一層にこにこっとして、

――いやあ、負けるが勝ちということもありますから。

 目論見では気持ちよく勝ってもらってある頼みを聞いてもらおうとしたが、病床にも唆されないローブの博奕ばくちは目算を越えていた。かくなる上は開き直るだけで、話の要は聖公座せいこうざの権力争い。ローブの生家の財産を最後の最後までしゃぶりつくした按察使あんさつしが、農商人を脅かして役得実入りの多いその長に成り上がっているらしい。引受人フロック家は権益のどこかでそれを面白く思っていないので共闘を持ちかけたわけ。

 少々は好くなったがどうやらローブはもういけない。レストンの流れの向こうを見れば郷里だが、目に入るだけがいっそ辛い。屍になるなら故郷の土がいい。嘆願は受理されたが、もちろん真っ赤な嘘。出鱈目でたらめ。切願を心得直して身も心も洗い立てのようにピンシャンしている。

――思えばあの一芝居ほど多くの方々に助けられたことはない。死病人の化粧拵えで周囲を欺けてくれたドロスの芸人一座スロアーガさんに、あたしを輿に乗せた間際に仮病と勘付きながら何も言わずに上手く調子を合わせてくれた駕籠かき屋。郷里の人たちなんかは憎いはずの兇状きょうじょう持ちのあたしを迎え入れてどんなにか力を貸して下さったか。あの日からだ。あの日から、あたしの命はあたし一人のもんじゃねえってのを覚悟したよ。

 郷土に戻ったローブはいきなり賭場を開いた。死に詣で博奕ばくちとかいう題触れで、俺はもうすぐ死ぬからこれまで博奕ばくちだけで稼いだ金をここで全て込めるという趣旨。一等賞がコルトセットの潔癖公署名入りの五千ダーフの借用証。教圏の誰もがこの貨幣との両替を望むエステ帝国公用金貨が五千枚。これを巡り合った博奕ばくち争いは、心ある者なら両の目を失くしたいと切実になるほどの悪徳の総見本市であったという。この畜生道を目の当たりにしてローブの男の肚も一段上になったのだと思う。

 死に詣で博奕ばくちは突然に按察使あんさつしの横槍を受けて中止にされてしまった。上手く釣れた。五千ダーフもの大金をあの強欲が食指を動かされないわけがなかった。古き斎月期であるからそこは慎めというお達しであるが、そんな月の言い伝えは誰も知らない。その斎月期とやらが終わる前にローブが病死でもすれば力付くで介入してその借用書を我が物にする算段だったろうが、噂に噂が重なって博奕ばくち打ちはもちろん、堅気かたぎの人、百姓までが続々と集まり始めて本当のお祭りのようになって誰の手にも負えない。何にしろ五千ダーフだ。誰だって吸い寄せられる。ヴォレヌスからも人が大勢駆けつけて産業が停滞したというから物凄いことになった。

 放置していては社会不安にも繋がるからやらせておいて解散させるしかないとフロック家のハーコンが唱えて、聖公の黙認を得られたので改めて死に詣で博奕ばくち開催。聖職者の参加を禁じていたにもかかわらずあちこちに姿が見える。この頃になるとローブの死に損ない演技もなかなか堂入りになってきて、手取り足取りひとつ見ても死病に芯までやられて、死力を尽くしている外には思えない出来であった。当初藪から棒に開かれた大賭場は、精々が付近の百姓や話に早い卑賤の者らが主だったが、十分な期間を経て再開した日にはヴァイサーン人、ヴァイサーン人でも教圏西岸に殖民した者たち。エステ人も二通り。フィーローズ朝のエステ人とのあちこっちでいさかいが止まない。遥か東方のデーン人のような奴も見えるがよく分からない。互いを仇敵と見なすガス族とテンカ族は喧嘩では済まない戦争をおっぱじめそうな気炎を吐いているし、博奕ばくち打ちに限ったってそこは事のある道だから、いついつ刃傷沙汰に及ばないとも知れない。どうやって一等を決めたらいいのかも分からない。そこここで私的な賭場が開帳されちゃってるんじゃ、まったくどうしようもない。賭場の一つ一つにローブは入っていって何盆か打っていくが上手くない。どんどん負けてゆく。

――鳴りに鳴り響いたローブも病にゃあ勝てねえなあ。

 采を放じるさえ億劫。手零しする場面をも見て、みーんなそんな印象を持っただろう。博奕ばくち打ちなら勝つも負けるも自由自在でないといけないという本元のところを忘れて。

 世界博奕ばくち大会とも言えそうな複雑怪奇な様相の場もだんだんと勝つ者と敗ける者の二色に分かたれていったが、この日は最後に勝った者こそ勝者だと誰もが肝に銘じていた。五千ダーフに比べればただの小銭を取り合う勝ち負けなんて単なる調整程度にしか思わない。全員の気持ちが着々と同じところに逸っていった。誰の手にも負えないと思われていた群集の心理がひたひた着実にひとつどころに結集していった。

――ドニ!

 負け続けてきた者が一発逆転を願ったものか、勝ち続けてきた者が最後までの勝利を確信して言ったものか、誰が口火を切ったか知らないが、欲望を抑えるたがが弾けとんだ。ドニ、ドーニ、ドーニ! 勝負を求める声で一杯になった。小細工じみた削り合いはもう止しにして、いよいよ決着をつけようじゃないか、五千ダーフを手にする世界一の博奕ばくち打ちを決めようじゃないかと。当然それは俺なんだとみんな思っている。俺こそが最強の博奕ばくち打ちだと。

――ドーニ!

 レストン川を背にいつのまにか拵えられた高座にローブが立っていた。利き手の左手のその人差し指と中指に一つ、中指と薬指に一つ采を挟んで顎の高さまで上げた腕は震えていた。もっと高く、頭上に、陽光を浴びせてやりたいが今の俺の体力じゃこれが精一杯なんだと眼が詫びているように見えた。

――ドーニ!

 出目の計が偶数と張るなら左手を、奇数だと張るなら右手を上げろと伝わり切るのに夏の陽はもう西に落ちようとしていた。一投目、

――二、五、七!

 投じた采は六面体通数。多面体乱数じゃあ、何しろ目に一丁字もない連中ばかりだから、どんな数字が刻まれているのかを通知するだけに数日がかりになる。一投目は手堅く確率を重んじる者が勝った。あちこちで俺は右手を上げていたぞ! いや、お前は確かに左手で張っていた、という怒号があっちこっちで挙がって、さーあ最初の大乱闘。ならず者連中がよくぞ今まで耐えたとむしろ褒め上げたものか、二投目を投じる目処もつかない。何せ奇数と張って中った者らは右手を下げるに下げられないのだから、ほとほと殴られるに任されるのである。一方で神秘的な勘に頼って偶数に張ったものは右でも左でも殴りかかるからすぐに分かった。按察使あんさつしはそれと気付いてレストン川に放り込んでしまった。川から上がったような風体で濡れていればもう脱落と、子供でも分かる目印をつけられてようやく二投目。空にはまんまるい月が出ているが、あちこちに篝火かがりびを焚いて辺りはまるで昼のようだった。

――六、四、十! 十!

 二投目でちょっとした波乱が起きて出目偶数。今回はまだしも抑えが効いていたがやっぱり暴れ者が出た。こいつがまた滅法な暴れ者で、何処の国のものかも知れない言葉で喚き散らしている。教圏の人もブレンダン地方の諸部族もエステ人ももう中りの左手を上げたまま逃げ散るしかないのでデーン人かもしれない。ともかく見事といえる暴れっぷり。中躯でありながら片端から打倒する手際は、ここに集った者に分け隔てなく煮え湯を飲ませた按察使あんさつしを対手にするだけいっそ惚れ惚れするものであった。足蹴を禁忌に思う信心がこれっぽちもない近付き難い物騒な男を取り押さえたのはガス族の男。家出ついでの物見遊山で来ていたロッシュロー・グリゼリウスと意気投合した友人である。剣闘士会だったら虎狼対決といった大見出しでもつきそうな死闘で、高座から見ていたローブが死病演技を忘れるほど凄まじいものだった。

――てこずったな。

 ロッシュローが聞いたら、

――テンカ族の前じゃ使えぬ業もあるよ。

 使えば次も勝てるとは言わなかった。

――俺らはどうも教圏の教えなんてのを知らず知らずに守って、足蹴を疎かにしていたかもしれない。

 故郷に戻った彼はこう言い触らして、ガス族の間では密かに足蹴の復古が行われた。

 三投目。二投目の偶数のせいで生き残りはぐっと少なくなった。張りの変更は読み上げの直前まで認められる。人種も言葉も違うのに、同じ習俗で結ばれてでもいる結社かなにかのように両手を耳の高さまで上げて、丁半咄嗟の閃きどちらにも即応できる格好をしている。ローブだって実は彼らに負けず劣らず正念場である。臓腑に染みるほど憎ったらしい按察使あんさつし長を勝たせなければならない。それには奴が読む裏を読んで表にひっくり返しもしなければいけないし、逆にこちらから意と気を読ませて張る手を操らなければならない。

――四、四、八! 八! 八!

 三投目にしくじると八つ当たりに暴れる余力も残らない。疲労か取り返しのつかない敗北に圧殺されてその場にへたり込んでしまう奴までいる。さっきのデーン人らしき男の大騒ぎで按察使あんさつしのほとんどが使い物にならなくなってしまったので、同郷人が手を貸して退場を手伝ってやる。自失を直そうと自棄糞になって自ら川に飛び込む音がざばーん、ざばーんと聞こえる。四投目にしてざっと残り五十人ほどか。暑い夏の夜に吹く生ぬるい風が生き残りの総身にへばりつく脂汗を一層気持ち悪くさせた。

――五、二、七、七!!

 中ったにしろ外したにしろ阿鼻叫喚の騒ぎ。

――五、五、十!

 三十人を切ったあたりで異変が起こった。二投しても減らない。全員が右手を二度まで挙げて中った。上から三十まで数えられるような博奕ばくち打ちはやっぱり目端が利いている。ローブの奴、八百ってやがるなあと、誰を勝たそうとしているか一目瞭然で、この場に残るはずのないカモの聖職、興奮した顔色の按察使あんさつし長に乗ったのだった。もう一投して一人残らず中ればどんな馬鹿だって胡乱うろん博奕ばくち看做みなすだろう。ローブ、ここにきて追い詰められる。だが、放じなくばならぬし、また勝たねばならぬ。

――三、五、八!

 みんな残った。せめてこの博奕ばくちの顛末を目に焼き付けてゆこうと残った者から、ぐわあと不信の気配が熱風のように広がった。ローブの続投がもう少し遅ければ、この場で打ち殺されていたかもしれない。真打らに目を移すと今度は右手左手を挙げて膠着を崩して、さっきの三度の出目を完璧に読んだのは身の毛もよだつほど高い力量の者らが見せた拮抗だったんだろうと落ち着けた。

 采を弄んで暮らす博奕ばくち打ち、游侠ゆうきょう人らの者の間に――かたり話にゃ三五八、ということわざがある。どうしてそうなるのか分からない。人をはめようとする旨い話にはこの数字が悪目立ちするほどに顔を出すのだという。盆の上でかたりをやる場合、これは詐欺ですとはまさか言えない。標的に知られぬところで出目三五八を出してそれとなく報せるのが盆の作法であった。残る三十士の博奕ばくち打ちは誰も彼も己一人の名だけで世の裏街道を渡っているような大物の游侠ゆうきょう人である。采の強さよりも人望の高さを心意気としたもので、八百長と解したからにはローブの筋書きも目から鼻に抜けるように勘付いて、一枚も二枚も噛む。あの憎たらしい按察使あんさつし長を金輪際こんりんざい負かすための場に。

 博奕ばくちの世界に半生を沈み込ませてきたローブの体験と実感が伴った渾身の一擲いってき。のるかそるかの大博奕ばくち。勝った。参加者は順調に減ってゆく。按察使あんさつし長は残る。期待と興奮と不安で、中途から自分がどちらに張っているのか判断つかない有頂天。もう思考も神経も操られている。采を持つ手を少しでも上に持ち上げれば右手を、下げれば左手をぴくっと動かすのであった。

 いよいよたった一人残った。

――さあて、いよいよその喉ぶえ食い千切ってやるべえ。

 夜が明けていた。最早自分がここでなにをしているのかも分からない夢心地を突き抜け、武者震いと激しい鼓動が心頭の明瞭さを錯誤させている。これでも十分だがそこへ十二分の更なる泥沼に引きずりこむ刺客が一人。見た目百姓だが、やっぱり正真正銘の百姓。まともな判断ができないときに、こんなに怖いのがいるだろうか。

――あ、あんたら、こんなに大勢でいったい何の集まりで?

――なあに他愛もない博奕ばくちですよ。

――へえ、なにを賭けておいでで?

――ダーフ金貨五千枚。

――ひえっ!

――ねえ、こんな世の末なところをまっとうなお百姓さんが見てしまうと目の毒ですから、ほうら、もう、日も出てきていますしありがたい野良仕事をしてくださいよ。

――いやあ驚いた。正真正銘の金貨を五千枚も賭け合うお大尽がこうして二人もおられるなんて、ああ、驚いた驚いた。

――な、な、なに、なにい。ま、まてまてまて。

 按察使あんさつし長、五千ダーフの賭け合い博奕ばくちと聞いた刹那、そんな飛んでもないぞ! と金切り声を上げる。張られた罠の仕組みを見抜いた者らはもうここから笑いが止まらないが、あの欲深坊主を逃がしてはローブの心血で築いた賭場が元も子もなくなる。体をぎゅうと抓ってこらえようとするが、それで止まらない奴はレストン川に顔から突っ込んで、あばばばばばという大笑いをしている。言葉が通じないで場の雰囲気に遅れているヴァイサーン人、エステ人に二人の確執を通訳するサクラがあって、合点がいった奴から何の別なく笑った。

――へ、な、なにが違うんで。百姓のあたしもたまーに気を晴らすくらいの博奕ばくちには手を出しますがね、それだって勝てば勝っただけ、負ければ負けただけのものがありますよ。それが博奕ばくちっていうもんでしょう? 勝ったら勝ち負ければなしなんてそんなのは神さんが許しませんや。

 人のよさそうな好々こうこうやの百姓から聞かされてみると確かにそっちが理屈だ。そこへ百姓仲間が続々やって来、かくかくしかじか。ああ、そりゃあ爺さんが正しいよ。取るか取られるかの場に座るまでを決めるだけなら、負けなしでもいいでしょうが、いったん取るか取られるかになったんなら賭け合いが博奕ばくちの本道でしょう。いうまでもなくこれもローブが仕込み。

 元は潔癖公の借用証が一等賞だった勝負事。そこをばっちり指摘するならきっとこの虎口を逃れ得たはずだった。小狡い手で出世したなら平静それだけの頭は持っていた。が、小心だ。気が動転してしまうと、この場に踏ん張るか逃れるかでしかで考えられなくなってしまうのが、猪口才ちょこざいなくせに身の丈知らずな男の限度だったんだろう。欲が身の丈を越えた者の末路などこうしたもんだ。

――なあに、あんたはここまでこのお人に勝ち続けとる。次もきっと勝てますよ。さあ、お前ら、この人の言うとおり、こんな勝負事をおしまいまで見たらきっと百姓で生きてはいけないから、俺たちはれっきと土をいじって生きよう。

 最後の最後、勝てるかもしれませんよという望みもくっつけて去って行く。按察使あんさつし長のくせに、ローブがいかさまで勝たせてやっていたとも、三五八の符丁さえ見落としていたから、本当、盆暗だった。勝てるはずがないのに一縷の奇跡に縋って受けた。ゆくゆくは聖公の身である俺にこそ、神秘は起こるのだとでも考えていたのだろうか。もっとも万が一の間違いで勝てたとしても次の二枚目の策で潰れていたんだから無駄な信心だった。

 あんな博奕ばくち勝負ごとは無効だ。態勢を整えて博奕ばくち罪などでまた捕まえてくれる、とヴォレヌスまで戻ったら、弱り目に祟り目。フロック家のハーコンがたった一夜の粛正で聖公座せいこうざを掌中に収めていた。高位聖職者でありながら博奕ばくちなどに手を染めたとして、前夜来、市外に出ていた者は悉く破門、追放という荒療治。この一件の後、聖公座せいこうざの記録から突如として消え失せた按察使あんさつし長と同名のシピンという、どこでそこまで博奕ばくちの奈落に落ち込んだのかと思うほどうらぶれた坊主崩れがナルマーの博奕ばくち場に出没しているが、これはその本人である。

 一方、あの死闘を経たローブは残りの生涯、けして自分からは采の目博奕ばくちをしなかった。顔見世や付き合いで打つだけにして、勝つことはせず負けすぎもしない。あの場で目の当たりにし続けた、男の誉にほど遠い人の欲の浅ましさにほとほと愛想が尽きたのだともっともらしく伝えるが本当のところは、生まれながらの博奕ばくちの才が、とうとう入神の域に達してしまったのだった。ガレー家の流れを汲む貴族にひそかに残されている話。

――むかしの心の届いた博奕ばくち打ちというものは采のお手元ばかりか普段のちょっとした行いだけで、相手の器量をすっと承知したものなのだそうです。本とうのお話かどうかちょっと分かりませんけれど、ご先祖様のローブが一切の賭け事から離れておしまいになったのは、賭けの場を見るだけでお終いまで分かるようになってしまってもう馬鹿らしくなったからというのでございます。人に誇れるような才を持たない私のことですから、そんな境涯を知る由もありませんが、ご先祖様はきっとそうだったのでしょうと信じております。

 教圏を我が物のように歩いて私腹を肥やしたシピンを燃えカスも残さず失脚させたローブの名声は一夜にして一介の博奕ばくち打ちのものではなくなった。名のある游侠ゆうきょう人の面前でやったあの大仕事。単なる売出し中の博徒ばくとが、歳も格も遥かに上の豪族とも俺お前の仲になる。慕う乾児こぶんは日に日に増えて、取り返すと誓った先祖伝来の身代しんだいを大きく越えてとうとう教圏中部の大豪族ローブ・シ・ガレーというのになってしまった。巷間に山ほど出ている一世伝から事実濃厚と思えるものを抜き出しただけでもこんな半生を歩んでいるから人物が練りに練れている。特に、聖公座せいこうざの実権を握ったフロック家が断行した按察使あんさつしの改革に側面から睨みをきかせては、小役人の役得と半ば公然化されていた賄賂わいろや汚職などは、ぐうの音も出ないほど締め付けて、百姓商人らの間でローブの人気というのは絶大なものであった。教圏中部から東部にかけて流出したガレー家の賭場で使われる賭け棒がまったく現金同様に通じ、それを持ってゆけばきちんと現金に換えてくれたという。ドロスとミナッツという強国がこの異色の大豪族をなんとか自陣に組み込もうとあの手この手を使ったが、与せずの考えは翻らなかった。それでいて家名にしろ関札せきふだにしろ貰うものは貰うという姿勢にちょっと鼻をつまむ者もいたが、そうした権力の使い道が弱者贔屓びいきだから、これがやっぱり受ける。

 フェリクスの駆け込み先としてこのガレー家こそまず一等。泡沫ほうまつ騎士群生地域の縄張りに飛び込んだ。かくかくの次第ですが、何とかお力を借りれないでしょうかと頼み込む。

――なあに、世の中こんな事くらいはあるさ。

 泡騎士たちはそのかくかくの不条理話を淡々と受容していた。

「べらぼう奴! てえっ!」

 しかし、貧乏百姓であっても奴隷であっても堅気かたぎ人には、あれほどの大身でありながら相対する者の気がその謙譲にいっそ哀れみを抱くほどだといわれたローブは、乾児こぶん游侠ゆうきょう渡世人とせいにんの躾には極度に厳しかった。博奕ばくち打ちの間ではガレー家の修行は寿命が半分まで縮むとまで恐れられたから、飛び地の縄張りを任される男ともなると、いつでもどこでも立派な親分で通じるほどの徳望があった。グリゼリウス家が犯そうとする世の裏街道でも滅多にない悪道に唾棄しようとする様のこの親分は真っ赤にした顔から湯気でも出すんじゃないかと思うほど血が熱かった。流石にけだものの泡騎士と病み犬の廃貴族が集まって混迷する泡沫ほうまつ騎士群生地域で、一切の刃物を置かないまま縄張りを死守りにしてきた偉物えらぶつである。

「よしっ、請合った。そちらのフェリクスさん、きっと送り届けよう」

「頼みます。主はきっと感謝を述べられるでしょう」

「お礼と言われてはかえって恐れ入るが、お前らもやっとまっとうな道を行くようになったな」

「はは、そういじめんでくだされ」

 これでまずはよし、とアンフェル、ボルドー、ワットの泡騎士三人組は取って返した。実は渦中のフェリクスなどは密かに殺してしまってウニヴェロッサとグリゼリウス家の緊張の元を消してしまおうかと傾いた泡騎士たちだったが、対手は手強かった。不意はつけず、一度きりの機会だった寝込みも不発に終わっている。数ヶ月前に森で遭遇したかつてと今の面構えがここまで違って、強い威圧の相を備えていた。絶体絶命だった海上から陸地に上がって尚命がけであるかのような顔つき。手取り足取りまで窮地の神経が行き届いて、うかつな踏み込みも忌避された。殊に足場選びが慎重。凹凸の起伏、地面から飛び出た根、木陰で濡れたままの落ち葉を避けて、身体が崩れない足場をよく選んだ。夜も木に登って立って寝た。

――火を焚けば狼だって来やしないよ。

 泡騎士らはそう木の下で殺意を潜めて招いたが降りてこなかった。てっきり手の内を読まれたかと苦々しく思ったが、フェリクスの心根までは善良のままだった。まさかウニヴェロッサが託してくれた泡騎士にまで命を狙われているという考えは、とんでもないことだった。

――俺は臆病になったかもしれない。

 どんな小さい生命の危機にも過敏に反応する自分の頭脳と神経の変化に戸惑って、木の上で内省していたのだった。

 泡騎士は泡騎士で一時の逆上とも言えるような向こう見ずの策戦が壁にぶち当たるとだんだんと頭が冴えてきた。こりゃあ駄目だとなると、良心という悪事には最大の敵が立ち塞がる。無頼の生涯は止そう、もうちっとまともに胸を張れるような生き方をしようじゃないか、主ウニヴェロッサの初めての命令を駄目にしている身で、重ねて不義まで働いたら、もう泡騎士とも名乗れないただのならず者になる。ここが悪人を脱しきる踏ん張りどころと、フェリクスの処遇を巡って三人の間で意見を交わして夜中問答。その結果、

――ナルマーからヴォレヌスまで行き返るだけで数ヶ月。ヴォレヌスに行くとだけ言っているウルフィラの探索を加えれば、これは三人の力では荷が勝ちすぎる。その間、我らが主ウニヴェロッサ様はただお一人となる。グリゼリウス家はもう退けない一線を越えているんだ。その悪の巣にお一人では……悪事で鳴らした泡騎士に芽吹いた良心はそこまで行って、ローブ・シ・ガレーを頼ろうと決めた。それだけに、

――お前らもやっとまっとうな道を行くようになったな。

 こう図張ずばりと言われたら、てっきり自分らの真っ暗な謀が破れたことまで見透かされたような気がして脂汗でいっぱいになってしまった。その姿のまま逃げ出すようじゃ泡騎士としても失格だから、顔は意地をかけてぐっと上げてふてぶてしく構えたが、妙に居たたまれないようなこそばゆいような感触を心に秘めたまま、しょんぼり萎んだように戻って行ったのであった。

 預けられたフェリクスは何の非もない窮地の堅気かたぎ人。客分の扱いで、上があるなら寸差のところにも置かれて、家中の人々の丁寧な態度もこちらから頭を下げてしまうほどのものだった。ローブの見込みが立って親株を分けられたこの親分にだってれっきとした名がある。自分をあっしと呼ぶし、縄張り中で親分とかしか呼ばれないが一度だけ確とバベルと名乗った。

 バベルはフェリクスの件をすぐさまガレー本家と各地の親分衆に順達して道のりを整えた。ウルフィラという坊主の行方もその次第で伝わってくるようになるだろう。

 ガレー家に預けられて四日目に出発。守人もりとはリオンという耳馴染みのない名だった。バベルが一の子分と相談した選任だったが、リオンは探り込みである。糸の根を握っているのはどうもメルタニアのシモンらしい。それと知って平然と使っていたのも並々ではないが、シモンまで筒抜ける密偵に各地の縄張りを見せてやるというのだから、やっぱり豪いものである。

「ちぇっ、お前様、もう見つかってますぜ」

 ウニヴェロッサの意向を無視して、グリゼリウス家の追い手はやはり来ていた。こっちでさ、と言う早足のリオンを精一杯追いかけて、

「へっへ、この辺でまず安全でさあ。縄張りじゃ誰にも追いつかれっこありゃしませんよ」

 この台詞はまことに頼もしく感じたが、日暮れにはもう様子はおかしくなっていた。

 これはウニヴェロッサからの誤算であった。泡騎士ではもちろん、バベルの予測をも越えていた。彼らが想像した追い手人は短距離も長距離も駆けられる化物のような馬に跨って、同じ奴隷を対手であっても容赦をしない孤独さに却って悲哀を覚える人相の男が、果ての先までも馬の嘶きと蹄の音を鳴らして執拗に迫る悪夢だった。リオンは確かに尋常とは違う目線にはまって、

――あ、見つかったな。

 と感じた。メルタニアのシモンが教圏奥地まで放った探り込みにぴーんと来た直感は違わなかった。いかにも見つかったようだが、見つけたのは影のような奴だった。北に行っても、東西にさ迷っているように見せても、南に戻っても、どこからの視線でじっとりやられてしまう。街道、森の中、川舟の上であっても。数が知れない。しかし間を詰める様子がない。

 追い手人の視線の濃さで正体は温泉地ナトンでようやく分かった。ナトンの人口およそ一三〇〇人。奴隷八十人。その内、グリゼリウス家を経た活性・解放奴隷、

「二四人もいやがる」

 追い手を出す必要などなかった。逃げた先に目がある。教圏、世界中を覆うこの天網にかかるのを待てばいい。ならばヴォレヌスは危うい。

――聖公座せいこうざさえグリゼリウス家の奴隷なしでは立ち行かない。

 かつてウルフィラも言ったように、ヴォレヌスにいるグリゼリウス製奴隷の数はナトンの比ではない。のこのこ行ったら簡単にひょんなことでも起こるかもしれない。もし起これば聖公座せいこうざはきっと騒擾そうじょう人を懲らしめたとかなんとか作るだろう。

「こりゃ甘く見た。あっさりとはいかないねえ」

 ナトンの縄張りを任されている親分バロンも頭を傾いで嘆息したが、こいつらはどいつも諦めを知らない。用はウルフィラと引き合わせるのである。いくら奴隷が居所を伝えても結局はそれだけで行動しない、いわば案山子。ちょっと気を利かせれば手を振って近づいて、しゃあしゃあとグリゼリウス家までの伝言を頼めるだろう。

 目下一番の問題は、肝心のウルフィラの足取りがヴォレヌス以来途絶えて、フェリクスがナトンから先に進めない現状だ。ガレー本家からも音に聞こえた男たちが八方に出払ったが、まるでそんな奴が本当にこの世にいたのかというほどきれいに消えてしまっていた。

「レストンの北に蔓延はびこるちんぴらと揉めてるご本家にこれ以上の人掻きをさせちゃこの道が明かせねえや」

 ウルフィラ探索の陣頭指揮を執りもしにガレー本家に伺候したバロンは、しかし、ローブにやんわりと、

――おうい、なんでフェリクスさんを連れてこね?

 とやんわり叱られてしまった。これこれと心を通した誠言を聞いたローブは、

――お前サン気持ちは嬉しいが、それじゃあ一人の背負い物ばかりにしちゃあ幾分多すぎらあよ。ウルフィラさんの当て探しはお前サンにきちっとやってもらうから、さ、こっちの肩にお寄越しヨ。

 そんな訳でフェリクスの身柄はとうとうガレー本家が預かった。

「こちらの手際が悪いせいでウルフィラさんはまだはっきり見つかりませんが、さ、どうかゆっくりと旅路の疲れを癒してください」

 両手を地に付けて慇懃にする様子にフェリクスも頭を下げた。十分かなと顔を上げたら、ローブはまだまだずっとその姿勢のままでいて、まんまるい土饅頭どまんじゅうのような巨体がまるで球体のようであった。これっきりでもフェリクスにこれまでの親分衆との格の違いがはっきりわかった。隣にいる探り込みのリオンなどは目端の利いた探り込みだけに、ぱっと面を見て瞬時に相手の器量を知る游侠ゆうきょう世間の修行に念を入れたわけで、あっという間に踵まで一気にごくんと飲まれてしまったように覚えた。

「みっちりやんなさいよ」

 この頃の親方と子分はなかなか気難しいもので、滅多には話しかけてもらえない。向かい話なんて論外だった。不意に話しかけられちまってリオンもすっかりうろたえて、探り込みとすっかり知られているんだから気の利いた台詞でも言っていいのに「はいッ」と大声で返事してしまった。ローブの若い日に負った傷で大きく飛び出ている左目の視線に当てられて、全身がびっしょり汗みどろになっていた。

 フェリクスとローブ・シ・ガレーの縁が結びついたこの頃から、教圏に潜在していた危機は次々と噴出し始める。

 西からは半島西岸に入植したヴァイサーン人の長ベニベニがクロスコス族と合同しブレンダン地方や教圏地域に無差別に侵寇。北部では教圏の混乱とフィーローズ朝との決戦の機会が重なった女帝アシュタルテの命を受けたメルタニア総督シモンが南進を開始する。そして、半島南部ミナッツ王国では偽王ジェソンと破王ノルベルンの継承戦争が勃発する。

 采の目遊びで成り上がったに過ぎない游侠ゆうきょう豪族ガレー家はドロスから名誉の家名を送られ、ミナッツ王国からは関札せきふだを預けられ、シピンを対手に共闘したフロック家からは生家一帯を縄張りにする尽力を授かり、コルトセットの潔癖公セルには経済上の援助を頂いて、情勢緊迫する教圏半島の中心地にいた。お目こぼしと有難い下され物の数々、何よりも爪先ほどの罪科もない堅気かたぎの方々をお守りするためにこそ、ローブは奮闘を始める。がしかし、その孤軍奮闘の大活躍こそが教圏史に悪名高い僭主ガレー家誕生の端緒となるのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ