ウルフィラ 4
ナルマーの名物は、一に奴隷、二に鰹、三に掏摸。
掏摸なんて悪行をその三番目にしたリッツもとうとう捕まっちまった。
これまでが不思議だが、なあにリッツを引きずり込んだ組合の筋が通らない遣り口も気に入らないから、大目に見られていたんだ。それにリッツの掏摸の手際というのもまた不思議なもんで、
――う、やるな。
と重々思って身を捩らせたり工夫するが、どうしても抜かれちまう。うっかり感心しちまうほどの冴えなんだ。抜かれた奴にゃあ組合に補償を求めに来る奴もあるんだが、こんなんに組合の積立金を費やそうったって組合員が承知しない。親方だとか幹部連中がとうとう音を上げ始めたんだ。そ奴らの思惑に踊らされてリッツの手を縛ったのは誰かといえば、ナルマーの奴じゃあない。よそ者だ。ナルマーの同盟に加わるナトンていう内地からの使節に同行した番兵隊長カデンも余計な漢気なんてのを出しやがったからいけねえ。
――番兵が正直者を泣かす悪漢をとっちめて見せしめにもしねえでどうするんだ。
奴はリッツの悪名を耳に入れて奮っちまったのさ。
後先も考えずによ。
リッツの奴にしてもあんだけ罪を重ねたんだ。ちった身の回りを張っときゃいいのに、悪目立ちするような橋の上で舎弟分と話しているとこをあっさりやられちまった。悪賢いのが捕まるのはこういう魔が差したようなしくじりが元さ。
リッツという男、今じゃ虚飾ばかりなんだ。生まれからしてだ。ナルマー周辺の農村、森の猟師、炭焼き人の子、生まれ年ともども明瞭した所がない。葬式は一十五〇年三月二二日にあった。市関係の記録のあっちもこっちもがはっきり書いたが、肝心に死んだのは、謀殺されたナトンの番兵隊長カデンの息子イニエスタが挙げた葬式より大分前の、怪僧ウルフィラが著した<問答集>に登場する前後なんだろう。
異説もあってレストン川南部中原の大豪族ローブ・シ・ガレーが骨折りで、何をやらかしたか知らないがミナッツにいられなくなったリッツをアルルに逃がしてやった。聖公の乗った馬車から印を盗んだとか、ミナッツのトッレ船団の機密をばら撒いたとか、掏摸で貯めに貯め込んだ財産を教圏のどっかに隠したなんて名高い逸話はまず拵え話。口八丁手八丁、二枚舌三枚舌でどんな極悪人でも御許へ招かれるための助言を書いた<問答集>がきっかけで、何も彼もみーんなリッツの仕業にしやがったんだ。あの世に堕ちたリッツと審判者との弁論で、
――悪漢には悪漢なりにもピンとキリがあって、技と術があるんだぜ。俺をそこらのこそ泥と一緒にすんじゃねえや。
これを認めて聞き入れた審判神が御許に引き入れたから、奴のせいにすれば全部チャラになると思ってよ。幼年から付き合ったウルフィラに俗っ気をたっぷりと仕込んでくれた師匠への手向けがこんなことになっちまった。ただ、リッツ自身もおしまいの直前に子弟分の罪過一切を自分のものと背負い込んだ告白状を市政に奉じているからどっちもどっちかもしれない。そんな中でリッツの犯行これ確実といえるものなんざ、一つっきりだ。
ナトンの番兵隊長カデンの手記に書かれたそれっきりなんだ。
――ともかく並の手には負えない凄腕の掏摸なんだという。掠めるのはその日暮しの小銭だが何年も続くので、組合主たちもその審判を神にお預けしようという事になった。いやしかし何分にも人間一人の命なんだし、そも自分が審判者と会った頃にどの面すればと考えると、なかなかやれない。だんだん聞いてみるとリッツという者の困窮と悪事の源は彼ら組合のやり口にあるのは明白だったので、私はひとまずリッツと会ってその暮らし向きを改めるようにした。
――私はリッツと連れ合って組合人に理非を正して、正当な組合人として取り扱うよう談じ合おうとしたが、取り合わぬのはどうしてかリッツ当人で、わけを聞い出してみると、手に染めた悪事に身を委ねきると言う。そんなのは馬鹿だから止せと散々と説いたが、省みる所なし。已む無いので私はリッツを番屋まで連行しなければいけなかった。そこでリッツが妙な案を考え出していうには、
――もし番屋までが道すがらに旦那の銭入れを抜けたなら、これを妙術とお認め下さり、今回ばかりは御免を下さることはできねえでしょうか。
――と言うのでその話に乗ることにした。善法の前に邪法など甲斐無きものと思い報せようと、盗らせた所を押さえるつもりだった。番屋はすぐ目鼻の先であったので、遠い西広場の大番屋までを限りとした。リッツは旦那はナルマーは初めてですね、とあれこれ色々指差して案内した。
――あれが今年も試作実験を請け負ったイスマスのパン屋ですよ。去年もそうだった。その前も。この地区からじゃずーっとイスマスが実験してる。正直を売ってるから自然とそんな風になります。それに名人だ。ナルマーじゃいつでも銀貨で一日食えるパンを買えますがね、イスマスのパンは一つだって重さムラがないってんで評判ですよ。
――そういえばナトンは昔から知られた温泉地。ナルマーも浴場には大分遣ってますがね、ナトンの自然湯から上がった後の、芯から温まった身体がこう、ぼへーっとしたとろけちまうような心地よさが際限なしに続くにはいや参りました。
――そろそろ西区ですね。この辺りはずっとサーニーの頃からで、どうです建物の色合いなんかも違うでしょう。ほとんど石造りで、四層五層建てってんだから立派なもんです。どうやって造ったんだか。うちらは木造の切り出しで、高層建てでもあれは一族使用人同居って感じですがね、これは二層はどうやら持ち主が住んでいたらしっく、上は小割にして見ず知らずに貸し料を取っていたらしいですから、妙な奴らだったんですねえ。
――私はリッツのナルマー案内にいちいちふむふむと頷いていた。大番屋の前まで来て、リッツも遂に観念した様子であった。後ろ手で銭袋を探るとしっかり手ごたえがあったので、どうだ、これが善法の御力であると言った。
――ハア、まこと恐れ入ります。しかし旦那、このナルマーの面白い所というのは善法にも邪法にも等しく力を下される所です。と言って、リッツは私の銭入を両手で弄んでいるのであった。驚いているとリッツはまだ言う。流石に番兵隊長に成られるだけあって旦那にはこれまでひとつの隙もありませんでした。また、これならいけると見込んでもきっと逆捩じを喰うような罠の張り方も見事なものでしたが、最後の最後、善法の御力と言って腰の銭入を手探った直後にとうとう油断なさいましたので頂きました。
――私は暫しの間、面目なくその場に突っ立っていたが次第に得るところ大きいものを見たので、リッツを放免してやった。
――なるほど。天晴れだ。俺はこれで銭入全てを掏られても惜しまぬほどの良い勉強をさせてもらったぞ。
リッツの犯行と確実に証明できるのはこの手記だけなんだが、後日があって、この二月後にカデンは自分で自分を殺して終った。番兵隊長のくせに掏られたんだとナトン市中から散々なじられた末のことらしい。耳にしたリッツは、
「あのまま捕まったってどうせ組合も俺も口約束だったんだ。やっぱり邪法なんてのはいつかどこで人を奈落に落とすもんなんだなあ」
悔いた様子だった。ただ、カデンをよってたかって詰め殺しにしたナトン市には心底から忌やな面をした。それからナトン市民がナルマーに来たとなったらすっかりリッツら掏摸の的になってしまった上、子弟分に聞かせて流させた悪評のせいで、都市同盟会議じゃまるで面目を潰されたらしい。
ところが、ナトン市の司祭てえのが正統教義派の堅物で、自殺に及んだカデンの葬儀を挙げようとしてくれないのを、湯治帰りの同業から聞いて、どうやら真当だったので、まだまだ悪名を流して同盟内の居心地を悪くしてやった。かなり手痛く尻を抓られたナトンの市局に詰め寄られた司祭はそれでも頑張った。その諍いの内にも死体は腐っちまうんだ。夫人が出来ていたから、若い頃はめくら牛なんて馬鹿にされていたカデンが番兵隊長にまで成れた。死因は急病といって届けたのに、どういうわけか誰かの口から抜けて、神を欺こうとしたと喧しくされて改悛を言い渡されてしまっている。カデンの亡骸が横たわった棺の傍らに、粗末な衣食に徹して日も夜も<御血書>を唱え、見舞う者があると自分よりも夫の葬儀を挙げるよう助力を願って、その姿に憐憫を覚えない者はなかったというのに、その姿にも打たれず司祭はまだまだ強情。
とうとう堪忍袋の緒を切らしたリッツが腰を上げてみると、銭袋を挟んだ心の機微の感触が正しくて、やっぱり自殺なんかするような安っちい奴じゃない。正体にナトン市に未だ尾を引いてた聖公派と国王派に別れた抗争が祟ってやがった。このお馴染みの聖俗抗争の皮の下には、どこにでも既定の闘争があるもんで、良質の自然湯が湧く名代の温泉地ナトンで飛び交う銭、権益抗争が温床。見た目丸々福々としていているナトンも中身じゃずーっと激しい血みどろの闘争を繰り返してたのさ。
カデンの奴は聖俗抗争においては中立、ナトンの湯を求めるお客さんの守護こそナトンの繁栄に結ぶんだと役柄で考えて、両派の別なく詐欺紛いの過当な商売を厳しく取り締まっていたから左右から睨まれていた。ナルマーの視察から帰ってすぐ、抗争に関わった両派の暴徒をまとめて番屋に入れたんだが、これで天から恨まれてとど命を落としちまったんだ。リッツに貰った教訓を胸に最後の最後まで少しの油断もしなかったが、過激に過ぎる二つをいっぺん敵にしちゃあ、白だって黒だってどうだってなりやがるんだ。おっかねえところさ。
それにしたって、せめて葬式の一つくらいは挙げさせてやりたいが、なんとも法がない。ナトンにだって両派の抗争が番兵隊長の命を奪うほどまでの引く余地がない修羅場まできちまった行き過ぎを憂う者も、話の分かる者もいる。リッツ見たいなやくざな奴もいるから超党派で話を持ち込んだんだが、やっぱり司祭で駄目だ。
「面がどうか知らねえが人の情てえもんがねえのかっ」
乾坤一擲の談じ込みが不発に終わってリッツはぷりぷりしながらナルマーに戻ってきた。どうにも難しい。
「坊主のやり口を知っている奴といやあ生臭の博奕狂いシピンくらい。こいつが教会の御法さえ質入れしている様でまったく当てにならないんだから、もう手立てがありやせん」
いよいよ為し手ことごとく尽きて知恵も湧かないから、祭りの最中だというのにやきもきしてナルマーを歩いてい、足元にあたった小石をけーんと蹴飛ばしたら、祭り見物でもしているのか、重そうな銭袋を無警戒に腰からぶら提げている田舎者に当たった。そんなカモに食指も動かされないほど頭はぶんぶん唸りを上げてるが、元が無いんだからいくら逆さして振り回そうったって一向駄目だ。小道から大道に入ったそこで、ばったりウルフィラと会った。
「あ」
詰まりに詰まった気息がとんと抜けていったような声を出したリッツは、これこれこういうわけだが知恵はないかと縋る様子で聞いてみた。知恵づく奴だが、こんがらった話なだけに糸口くらいでも、相談話で一件の整理くらいでもできるだろうと見込んだんだが、
「なんだそんなことか」とウルフィラはリッツの悩みなんてのはまるで児戯のように取り扱った。「野垂れ死にの行路死体で触れ込めば葬式くらいすぐ出せるよ。出せば市が報酬を支払うんだから、多めに賄を通せばやれるでしょ」
「そ、そうか。そうだな。そういやそうだった。だが、なんとかカデン一人前で挙げてやってやれる手はないか」
「今はなさそうだから、ナトンの風向き好くなったら改葬する手を回してやったらいいじゃん」
「そ、そうだな。いや、その通りだ。よし、わかった。よし」
ウルフィラの言う通りにしたら裏で話が通じているんじゃないかと思うほどあっさりいった。身元不明の行き倒れという形の葬式だから、今度は夫人の説得に苦労するかもしれないし、無礼者! とか絶叫されたって仕方がないと思いきや、
――よろしくたのみます。
と深々頭を下げるので、リッツの方がうろたえて、しどろもどろになって引き受けた。
ちなみに、カデンという都合のいい調停者を失った挙句、次の番兵隊長を巡って激発の一途を辿るナトン市の闘争はナルマー都市同盟の仲裁というか、喧嘩両成敗という介入でやっと収まった。争いの火種だった浴場宿場はその持ち主を同盟内の一部署に取り込んで運営されはじめるから、都市同盟は最初からナトンの観光資源を狙ってたんじゃないかとか噂される。強情を張れた実力をなくした司祭が失脚してやっとカデン本式の葬式が挙がる。リッツの本命はこっちだから大いに手を貸した。ナトン市民から掏った銭を銅貨一枚残らずこの葬式支度に費やしたから、というわけでもないが盛大なものだったという。式は挙がっても参列者となると、まさか謀殺を組んだ外道を混ぜちゃケチが付く。そこで頼ったのがロイター川東岸、レストン川南岸一体を占める中原の大豪族ローブ・シ・ガレー。湯浴みと称してナトンまでやってきてもらったんだが、こうした大物が来たら都市有力者が挨拶に出るのは仕来りになっている。
ともかく大人物で、ことに人を見る目、嘘を見抜く目に関しちゃまったく抜け出ていたから、ローブが後見についたカデンの葬式に参列できたのは暗殺謀殺なんて鬼畜を働かなかったお墨付きを得たようなもんだ。葬式もまったく無事に済んだ。こうした縁続きでリッツの葬式はカデンの息子のイニエスタの手で挙がったのだった。この顛末が民衆受けする美談に化けて巷間に流布し、リッツの義賊としての存在感を際立たせ、数々の伝承の元手になった。
そういえば、リッツに会心の助言を与えたウルフィラと言えば祭りの最中だっていうのに、姿かたちはいつもとまるで違わなかったっけ。この祭り、四日に及ぶ祭日中だけ人々の身分地位立場がまるきり逆転するナルマー独特の『逆様祭り』。サーニー時代末期に巻き起こった奴隷の決起に因むのかもしれない。他所の都市では反逆の記憶は封殺され覆い隠され忘れ去られたが、グリゼリウス家膝元のナルマーでは現代まで保たれて、グリゼリウス大学の学生が教授陣を聴講相手にしなければいけない気を滅入らせるような催しになっている。奴隷や使用人が主人に命令し、客が商人に物を売る質入が公然と横行し、徴税人が貧民に施しを与える。ナルマー市民の誰もかもがこの祭日期間中はあべこべになる。そんな中でウルフィラだけは裏返る先を決めかねてぶらぶらしている。修道士としては破門されている身であるし、グリゼリウス家とはお雇いの身であって所有物じゃあない。ウニヴェロッサとは大祈願以来、俺お前という対等の関係という了解がとうにある。
――逆様祭りではお前はどうするのだ。
ウニヴェロッサもウルフィラの微妙な立場を心配したものだろう。なにに化けたものか、はてと答えられなかった。
――お前はまるで自由だな。
微笑まれたが、ウルフィラにはウニヴェロッサが喩えて言った自由というサーニー時代の古語を気味悪く感じていた。物事というものには必ず裏表がないといけない。少なくとも二面、小粒なものも合わせれば面なんていくらでもあるはずだ。そういう欠片がいくつも寄合って総体を形成している。純一なのは生まれたての赤ん坊くらいのものだが、発生して次第次第に千々に乱れて消滅、やがて幾つかの欠片による総体が姿を表すように思っていた。だから逆のない自分の立場というものが、存在できないはずのまるで頼りない不完全なように感じていた。市井探検の歓びを覚えてから、迷いは歩いて晴らすのがウルフィラの流儀。あの大祈願以来、ウルフィラを子供の縄張り争いの目の敵にするような奴はもういなくなっていた。そんな真似をしたら恐るべき父権の鉄槌が下る。首がぐるっと回転するくらいに殴られるんだ。昔のように悠々と静かに、騒々しいナルマーの探検ができた。
ウルフィラが気付いたところ、さかさまになれない奴は実は市中にかなりいた。そりゃあそうだと腑に落ちたのはパン屋。どこの都市も食にはいくら念を入れても足りないと思うほど切実な問題だったから、したいと言ってもさせてくれない。どんな人気の指導者でも食にしくじれば首がなくなる。どれだけ気を使ったかと言うと、先ずパンは固定価格制を採り、料金を一律とし小麦収穫量によってパン重量の方を動かしていた。その為、一年間の小麦備蓄量と予定のパン消費量の割合から導き出されるパン重量を決定する試作実験はこの上がり下がりで、えらいこっちゃ! と叫びたくなるほど切実で、実験を請け負ったパン屋親方の技量が市民の腹の満ち欠けを左右するのだから、皆この実験結果を固唾を呑んで見守った。消費予測を尊重するために売れ残ったパンは救貧院に寄付されて、翌日以降に販売するのは厳禁。パン重量を抜き打ちで検査する監督官までいる。違反すれば罰金。ここまでがんじがらめにされた商売じゃ、せっかくの祭りにも参加できないパン屋ていうのは随分な損籤を引かされて儲けも出せないだろうなと思っていたら、パン屋の罰金記録は他の職種と比較してなぜか非常に多かった。免税特権はあったんだがそれ以上に儲かる砂糖菓子の専売であまりに私財を蓄えすぎると、特権と食を威にしているのだと妬まれるから、わざと重量違反やその他の罰金刑を受ける例が多々あったのかもしれない。
それにしても、さかさまになれない同士でパンの小売でもして市内を練り歩くというのも、遊び心がなくってつまらない。パン屋の他はと考えしいしい目に入れた浴場は、続く教圏の土地開発で森林が減少して、薪材が得がたくなった為に入浴料の値上げを踏み切って、市民の大顰蹙を買った。ただ同然だった入浴料は教圏内の木材の枯渇と共に、薬にしたくとも手が出せないほどの高値まで段々と吊って上げられ、所謂、不潔の時代の到来を告げる。それでもまだまだ市民の手が出ないほど高額じゃあなく、教義のお陰様もあって浴場の繁盛の勢いというものはすごい。身柄を拘束された債務者が一言「入浴したい」と言えば、債権者の義務と費用で浸かれたというから、およそ今からでは考えられないほど市民の生活と密着していた。浴場の親爺や荷物番、垢擦り屋、薪番までが、浴場内を一くくりにしたさかさまを演じられないというのだから、市民の要請の強さが示されている。
これら浴場とパン屋が長期に及んで大火を扱わねばならない以上、石造りでなければならない。木造家屋が密集する都市内における火災への恐ろしさは、膨張に膨張を続け、決して完成を見ないナルマーの杜撰にも見える都市計画の中に、潮風が火を煽らぬよう建てられた防風壁代わりの高層建築と風路を要所に仕建てている事から見られる。グリゼリウス家に許された石造りの館に住める名誉とは正にここにあって、邸内には家庭用の浴場とパン焼かまどが存在した――それでも丘の上に追いやられている――。だから、彼らに化けようと思えばわざわざ市内まで出て来なかった。
どうしようかねえ、と思っていると向こうの人手が、まるで羊毛でも梳くように散っていった。何事かしらんとじっと奥を見ていると、姿を出したのは徒弟に湾曲した大刀を持たせているメトロという男であった。職業、首切り人。賤民の一種で普段は暗黙の掟で大道になど姿を出さないが、祭りの期間は彼らが王様。そちこちの広場じゃ腕自慢業自慢の芸人踊り子詩人らが主役さ。そらそこで火を噴いただの牛と綱引きしただの、飛んだり跳ねたりの痛快劇に子供も大人もそっちに夢中。事故が起きてもいっそ拍手喝采さ。メトロの出番は最後の最後、死罪人が生き延びないで正しく裁かれることによって祭りの終わりを告げるんだ。
ウルフィラは賤民になろうと思った。晴れ舞台までの四日間、メトロの行く手を阻むものは誰もいない。ロッシュローだって避けて道を譲らなきゃならない。ずーんずーんとでっかい肉体を運ぶ彼の足腰にウルフィラは自分の化ける先を見出した。
「さかさまになりたい。代わってくれ」
大刀を大事そうに運ぶ徒弟に小細工なしに言ったには、メトロだって扱いかねたが、祭りの間だけの話しだし、徒弟に祭りを楽しませてやりたい親心も少しある。気安くよかろうと言ったのが、後でちょっと問題になった。首切り人の徒弟姿のウルフィラを見「あっ」とか「ぎゃっ」と皆、小さい悲鳴をあげた。ナルマーの期待を一身に受ける麒麟児が、他もあろうに首切り人に化けるなど、いくら祭りだからといっても度が過ぎている。そりゃもう期待が行き過ぎちまってる証なんだけど、市民感情ていう周囲は自侭をなかなか許さない。誰よりゾルムが黙っちゃなかった。ウルフィラの裏返り沙汰を聞いてそれこそ「うわっ!」と絶叫でも上げそうなほど大驚きに驚いたゾルムは、自分の身体を置き去りにしてでも飛んで行ってやめさせようという魂胆だったが、ロッシュローが、
――よい。やらせろ。
と言うから、渋々、本当に渋々許した。
――俺たちだって昔はあれくらいやったではないか。
ウニヴェロッサの件では決して見せない、にやにやしながら言う不敵なロッシュローに、それは貴方だけだ、と言い返してやりたいゾルム。巨匠と尊称される先々代のグリゼリウス家当主リャドに見出されたこの男の履歴は、ロッシュローの対手役、というか四つ年長であるしどちらかというと教導役から振り出した。聞かん坊の末弟、奔放の幼少年期、青年になる頃には家出癖をも備えて、
――奴隷はともかく実子の養育はまるで駄目だな。
とナルマー市民の評判をこれでもかと引き下げる手の施しようのない不良息子ロッシュローの抑え役に選ばれた。
効果はまるでなかったんだけど。二日か三日、居所は通い詰めの女、というならまだ児戯の延長なんだが、どういう手蔓があるものか市壁の外に出て行っちまうんだ、あのガキは。それも半年以上に及ぶ長期の、もう出奔と言い直して構わないような兇状沙汰もやる。例えば泡騎士が身代金を要求する報せもないから、どっかで野垂れ死にしたか事故かなにかで命を落としたんじゃないかとも思われた。葬式だって一度挙がってる。ところがその自分の葬式の真っ最中にひょっこり戻って、
――え、誰が亡くなったのですか父上。
とあっけら聞いたなんて伝わるが、これじゃあんまり面白すぎるしまあ嘘報の域を出ないだろう。ただ天から出鱈目って訳でもなくって、何度目かの長期家出の最中に巨匠リャドが亡くなっているのは真当。偉大なだけに不敵の傾向も人一倍の祖父に溺愛されるだけされて育てられたロッシュローは父親に戸締り厳重な離れに八ヶ月間も監禁された。慈愛を注いでくれた祖父リャドの死に目を逸した痛恨事は不良青年ロッシュローにも、相当思い詰ませる出来事だったらしく、父に提出した反省文を墨守して徹し、同じくらいの時期に真珠島のチコ家のアナールと結婚した。グリゼリウス家の継承式に提出した活性奴隷の仕上がりに批点なく、
――ウ、ウム、よく活けた! よ、よくぞできた!
グリゼリウス家では素体奴隷には、育てるとか教えるなんて言葉を使わない。活かす、といった。継承式に臨んだ二人の兄の出来栄えも良かったが、どうも上辺だけ、技芸じゃロッシュローが活性したよりも立派なんだが、奴隷留まりというか、技芸を矜持に解放されて更に成り上がろうという気概がなく、俺はこれでこうしてやろうっていう将来を語らなかった。ロッシュローが親父に提出した活性奴隷にはちゃーんとその深みがあった。どうして活性技術の修得もそっちのけで家出を繰り返していたのにそんな深みが出せたか、いつかゾルムが聞いたら、
――ウム。友だちの解放奴隷のことを沢山話してやったんだ。
――友達ですか。
――うん。あいつ等には家出の時に散々世話になったっけ。
知恵者のゾルムには、ロッシュローの家出癖は当主座を我が物にする計算に基づいていたのかもしれないと解釈したが、ロッシュロー本人がどういう目処を立てていたのかは聞かなかった。ひょっとするとそんな計算はなく、ただふらっと出て行っただけなのかもしれない。ナルマー都市同盟の勧誘行のそちこちにもどうも旅行しているような節が見られるから、生まれつきが代々の不敵に加えてひとつところにとどまれる気質ではなかったのかもしれない。それにしてもその家出の間、具体的に一体何処で何をしていたのかアナールにさえも詳しく語らない。別件でゾルムが家の出納記録を診た所、とある農村の父なし母子に、教義背叛とされぬよう教会に手を回し、後見人を見つけてやり、多額の金銭を送っている跡を見つけてしまったので、ロッシュローの心底一つに秘め置かねばならない旅話のひとつやふたつは拵えてきたのだろうと思っている。
――考えるのも恐ろしいが、賤民に化けた経験もあったかもしれぬ。
もうとっくに終わった若気の至り話のロッシュローはいいとして、やっぱりウルフィラにはどうにかしないといけない。罪人斬首の際には必ず元に戻ると誓約させようと待ち構えるゾルムを袖にして、ウルフィラは全然帰ってこない。使用人らを配して居所を求めさせると、ナルマー西地区、サーニー時代の高層建築に入り浸っていると知れた。市民の間じゃ、化け物屋敷とか悪霊の塔、魔の棲家と口にされる賤民たちの押し込め住居。市がその住まいを強制しているわけじゃなくて、六層建築一九世帯部屋のすべてを所有する首切り人メトロが賤民を集めて賃料を取っていた。七十人から八十人もしかしたら百人の賤民がここに住んでいるかもしれない。多くが一部屋に又貸しを重ねて住んでいる。メトロの賃料取立ては激しく、鳴らした技が衰えて、首切りに失敗した際に怒り狂った市民に打ち殺されてしまうが、殺しただけでは飽き足らず唾を引っ掛け足蹴にしたのが、彼ら賤民だったと伝わる。居住環境も悪い。何しろ足掛け五百年以上も経っている触れ込みだからいついつ崩れ落ちるか分かったものじゃない。一部の床を踏むとすごい軋み音を出すから、ひやひやしながら飯を食っていた。
流石のウルフィラがここに踏み込んだとき、くらくらするほどの悪臭に目を回した。まるで肥溜めだ。便壷をそこいら中に撒き散らして何年も経ったひどい臭い。
「上の連中、また水を窓から投げ捨てやがったな。水は壷に入れておけといつも言っとるだろうが!」
メトロは分厚い石壁の向こうの住人が震え上がるようなどでかい声で叱った。
部屋には机と椅子がある。櫃がある。衣裳箪笥がある。寝台がある。いずれも金持ちにしか手に入れられない高級品ばかりが、首切り賤民メトロの部屋にあった。
「腕さえあればこの世のものは手に入るのだ」
賤民という立場など俺の生き死にに今まで一度だって関わったことはないぞ、と豪語するメトロだったが、彼の命を奪うのはやっぱり賤民という身分である。
「刃の手入れをしろ」
「メシの支度をしろ」
「身体を揉め。今日は練り歩って足が張った」
「出かけてくる。留守番してろ。帰るまで寝るな」
出かけたメトロが帰ったのは夜遅く。女遊びでもしてきたのかもしれない。帰るなり犬に餌をやるのを忘れたというので、ウルフィラは拳骨を喰らった。犬。名前はない。用益もしない。メトロの愛玩犬であった。畜生に心を寄せて平安を得るこの悪趣味、ウルフィラの理解を外れた数少ないものだ。メトロには殊更懐くが、
――俺のご主人様以外は、みーんな俺の下なんだぜ。
と言っているような犬面がちらちら見えて、よくも吼えるし、警戒線を越えると噛み付くのは間違いなさそうな猛犬であった。実際、この建物内でこの犬の序列はメトロのすぐ下だった。部屋子らはお犬さまとか言って、道も譲るし噛まれても泣き寝入る。狂犬病で死んだ奴だっていただろうが、飼い主はあのメトロ。ひっぱたいてたんこぶでも作ってしまったら、本当、首を零すかもしれない。この犬もメトロが死ぬと同時に権威を失い、賤民の報復に巻き込まれる。尻尾と後ろ左足を根元から切り落とされた上、片目を潰された。命こそ保ったが、引きずる体があちこちぶつかってとぼとぼ歩く姿と、尻尾を失って出来なくなった表現を顔色で補おうとする不慣れさがかえって哀れであった。かつての猛犬顔が日一日と衰え、メトロが打ち殺された広場に佇む姿と鳴き声は、
――こ、これがおなじ生き物か。
と肺腑まで迫って涙ぐませる侘しさがあった。犬はほどなく死んでしまったが、見かねた市民が安楽にしてやったとも、賤民が終に息の根を止めたのだとも囁かれた。
首切り人メトロは金遣いも荒かったが、人使いも荒かった。人間の土壇場に覚えきれないほど立会って、いっつも首の斬り方ばかりを念頭に置いて生きているから、人相の凶悪なこと凶悪なこと。鷲鼻でありながら両目が窪んで、極端に鰓が張った顔という一度見たら絶対に忘れっこない奇面であった。
――怒脚鳴らして市の往来をゆく。
こう書き立てられるくらいだから、身から出る威力なら有り余るほどある男だったものと目に浮かぶ。ウルフィラも一日の付き合いだけで、
――この野郎、よし一泡吹かせてやろう。
と恨みを覚えていた。そのつもりが、衣装箪笥や櫃を開けてびっくりした。整理整頓は徒弟の功かもしれないが、中から漂ってくる気風というものが、何やら持ち主の本性を匂わせていた。祭りの後、ウルフィラが徒弟と話したところ、
――あれで優しいところがありますよ。そうでもないと犬なんかには懐かれませんし。犬と同じように話しかけてもらえるのに二年半くらい修行したけど、その日は妙に嬉しかった。
と言っていた。この徒弟はメトロ横死の頃には見習いになって腕を磨いていたが、こんなとこはロイターの川に飲み込まれちまえ! と憤激して出奔。以来、ナルマーの土を一歩も踏まなかったというから、人望というものを人並み以上には備えていたようだ。
首切り人メトロの本性に意外な暖かみを感じたウルフィラは、では、普段のぞんざいさは何か企図するところあっての行いなのではないだろうかと考え始めた。
二日目、合点がいった。
――なるほど。これこそ徒弟というものだな。
朝早くから各階の汚物を巡り集めて、大甕に移す。大甕の中身を肥汲み屋が買い取っていったら、その金を握り締めてすぐにパン屋へ飛んでいって、昨日の売れ残りを買って来なければならない。制度上は売れ残りパンは救貧院行きと律っているが、パン屋も商売屋なんだからただよりは僅かでも金を取れるほうがいい。
――売れ残りは焼きたてよりも争奪が激しいのに、こんなに呉れるなんて。
これらの消費はメトロの胃袋じゃあない。上層の最貧民たちに分けてやるよう念を押された。糞尿がそんな大金で売れるわけはない。ウルフィラが考えたところ、肥汲み屋に前もって毎年必要になる程度の大金を預けておいて、日々還元させているのではないだろうか。その前金を持ち逃げされる心配は、実のところそれほどでもない。肥汲み屋は一人残らず縄張りを持っている。その縄張りの割り振を定めるメトロみたいな賤民の元締めというのがい、職務の怠慢や不義を起こしたらすぐに元締め衆に回覧される。そうなったら就けなくなるのは肥汲み屋ばかりではない。賤民仕事全体から締め出しを食う。乞食さえできなくなる。
パンを配り終えたら次は洗濯。ナルマーを東西に貫くロイター川の洗い場へ行ってメトロの脚袢や下着、胴着を洗わねばならない。豊秋を過ぎ冬へと転げ落ちてゆく時候、川水の冷たさが厳しくなってきた。洗い場の徒弟、奉公人、女どもは鼻を啜ったり、憎い主人の服で鼻をかんでいた。ウルフィラは、そんなこともせず、まるで年季入りの動作で洗濯物を片付けてゆく。今こそウニヴェロッサの対手役なんぞしてナルマーに売った顔だが、その前はアドゥース派修道院で無品級修道士という名の雑用係の下男だった。百人分の洗濯を一日がかりでやったこともあるんだから、一人分くらい楽なものだ。
今度は食事の用意。またパン屋へ行って今度は焼きたてを買う。
「それとこれもだ」
パン屋の親方は親指と人差し指で作った輪くらいの砂糖菓子を呉れた。ウルフィラもびっくりした。露天商の親父に可愛がられてなにかしら下され物を頂くウルフィラだが、未だに砂糖菓子だけは一度もものにしたことがない高嶺の花。正体を白黒視しながらもらいかねていると「代金はもらってある」
小麦と砂糖を捏ねて焼いた菓子をつまみながらウルフィラは帰った。祭りはまだ続いている。しかし、今のウルフィラは『逆様祭り』よりも、メトロの精神により強い興味を持っていた。手荒ぞんざいかと思えば、反抗っ気を覚える絶妙なところで心を配っている。ただ、それが多くの、特にあの魔の棲家に暮らしている賤民には伝わっていないし、当人も別にいいと思っている。よほど根が善良なのか、はたまた精神が頑丈にできているのか、思うとあべこべに繊細な悪党かもしれないし、もしかしたら心脆いが修復の異様に早い凡人かもしれない。
朝食はパン。メトロはこれに蜂蜜をかけて食べるのを好んだ。いわずと知れたもの凄い高級品。ウルフィラはすり潰した木の実を薄く塗ってもらったのを食べた。あとは野菜と林檎で軽めに済ます。
メトロは市の役人に迎えられて出かけていった。あさってにも首を落とされる罪人を見にでも行って打ち合わせるのかもしれない。留守中は家内の掃除なんかを言い渡されて、ウルフィラはこまめに働く。不思議に犬はもう吠えない。昨日までここを越えたらすくっと立ち上がってねめつける一線を越えても寝転んだままでいた。メトロの心証を改めるに従って犬は懐いているように見えるが、ウルフィラは畜生なんぞの興味は一欠片も無かった。しっしと掃除の邪魔になるから失せろという手まねをして追い払おうとしたら、いやなこった、とばかりに鼻を鳴らしてそのまま動かない。ウルフィラでなければこれで構い無しといったかもしれないが、ロッシュローが一目で感興を催した覇気の持ち主は犬の警戒線を破ってやっぱり拳骨で殴りつけたものだ。暴力にはまるで素人のウルフィラのそれが野生味を残す猛犬の頭にまともに当たって、犬もたまらずぎゃんと吠えて、はっとした様子ですごすごと場を譲った。リッツの縁に拾われるまで生きるか死ぬかのその日暮しの犬だって、人間と事構えを起こしたらすぐさま犬狩りと骨身が知っていた。
夕方になって戻ったリッツはなんにも言わないが、いつも帰ったら飼い犬の寝姿から立つところを見るのに、四足で立ったままの姿を見て、
――あ、ウルフィラが上に立ったな。
と分かったが、その代わりに、
「おい、お前さんのさかさまは明日でおしめえだ」と告げた。
「やっぱりゾルムさんの筋から言ってきましたか。本番の手伝いはやれませんか」
「まずそんなところだが、首落としは微妙な心遣いの違いで落ちる首も落ちんのだ。素人に出てこられちゃ迷惑する」
「はあ、矢っ張り首切りもそんなものですか」
――他の何が首切りと同じなものか。俺の生涯に首切り他の生業があったものか。
そんな風に気を難しくしたメトロはもういっこも口をきかない。怒らせたかなとウルフィラは思わない。着の身着のまま転がり込んでいたウルフィラは一言言いうとふらっと帰ってしまった。犬が耳を立ててわんと鳴った。メトロはその頭を撫でてやる。
二日経った昼前、メトロの晴れの舞台があった。首を落とされるのは市壁の外の百姓の三男でコレコというが、人別を消されて土壇場に引っ立てられた頃にはもう放浪人になっていた。ナルマー市民に対する暴行の罪という。例の市民権の発行が遅れて厭になっちまった末っ子には階級の固定化というのがいち早く見えてしまったのかもしれない。家業そっちぬけで遊びまわっているうち、首が回らなくなってとうとう目先金を知恵もない方法で物にしようとしやがった。目に一文字だってない奴にしたって、やり方が横暴だ。その始末はリッツも聞いたが、
――刃使うたあ見下げた奴だ。掏摸は腕一本でやるものだ。
と言ったのをウルフィラは確と聞いた。
ともかく、コレコの首は落ちた。それはもうポトリと呆気ない音でも出すほど簡単に落っこちた。メトロの首落としの腕がどれほどの手際だったのか、この土壇場の最前列に陣取ってその腕利きに、むうっ、と息を弾ませたギナが後年のメトロ首切り失敗を記している。
――ナルマー騒擾のロットフィル家一門の首切に先ず妾と私生児と伝達役の一人。名はイル、之は娼婦。刑場広場迄引き回す間、今生の願〆として娼婦の横縞服は嫌だ、一度でいいからと切望の真珠島の藍染に首袖を通す。今一人の妾リンムと私生児スクイドは両眼吊るし上げ、グリゼリウスを怨み市民を憎む形相、人の顔に出でる魔の物を見る様也。而してイルの双眸、平静なる凪海の如き。之までの死を覚悟した者、死を迎えようした者、恐れる者とも千差有。吾之を見てメトロ奴、余る程の性根を篭めよと念う。リンム、スクイドの首、常の手際で首胴を異にして地に落つるも、イルの番にてメトロの態わずかに狼狽。経文の節毎に柄に指を重ねて暫時。動揺、総身に見ゆる。意を徹し振った刃、背なにずぶうと斬じ込む。失敗。その手際、平時のメトロと似ても似つかぬ仕儀にて、忽ちにして市民激昂。メトロ即座に石刑に処されたり。その遺体晒しの間、浅ましき者らの手に著しく損壊される也。
別にも言う。
――俺もこの生涯中は随分大勢の人間をきって悪巧みに荷担した割には、神々のご加護を得て不思議な長命をしたと思うよ。そんな中じゃ、きりやすい相手というのは誰でも怒っていればいるほどきりやすいもんでな。メトロなんかは首を落とす限りの業じゃ俺でさえ、足元にも寄れない妙術を備えていたが、あれほどの名人に失敗をさせたイルのような手合いは、きっと此上もなくやりがたい相手だろう。メトロは見なかったと思うが、イルの首切り刃をちらっと見て微笑んだには、俺もあの悟入に至ったような女の笑みには、心丈夫をなくしたものだったよ。腕一本で生きたメトロが腕のしくじりによって死んだのは然りといえるが、首切り役人メトロをなくしたナルマーじゃ、ロットフィルの連中の命脈が伸びて、とどグリゼリウスに例の禍根を残したわけサ。




