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ウニヴェロッサ・グリゼリウス 4

「世も変わって泡と一言に言えぬ。内実は数多の中小集団に分かれた反目が続いておる。内乱の懲罰と本土政策で領地を失った廃貴族どもが加わってからは襲撃を見取りやすいよう集落の周囲の森を馬四駆ほども刈り取るほどと聞く」

 所は先日まで剣闘士奴隷の養成所にしていた泡沫ほうまつ騎士群生地域のグリゼリウス家の私領。地階含め木造三層建。没落貴族から貴族株と抱き合わせで手に入れた荘園なんだが、場所がミナッツ王国最悪の危険地帯だけにまるで手を入れていない。剣闘士にされた奴隷たちの最初の仕事は、この館の掃除だったが埃まみれの真っ黒けになった。領内には狭いにしても耕地もあるんだが、掠奪されて当たり前の不毛の地。小作人も置かずにほったらかしにしてあってぺんぺん草が茂っている。

 泡騎士によるフェリクス誘拐は、没収領地の返還を望むルーリック及び一部の本土諸侯たちの魔手に過ぎなかったとはっきりしたが、肝心の人質解放交渉はこじれてややこしくなりそうだった。所有権を保持するウニヴェロッサを越えて本当の交渉相手と望んで話の置き所にしたいグリゼリウス家の事情、これもすこぶる悪い。元よりジェソンを傀儡とする考えはなく、王をも生み出せる活性技術を宣伝する広告塔の役割を望んでいたから、これくらいは独力で解決して出来映えを披露できる格好の事件と見なして距離を置いていた。この難事を試金石と了解したかのように挑む理由はひとつ。交渉が本土代官の権限内で行われてしまえば人質の身柄は所有権をよそにロッシュローに引き渡される勢いを得る。そうなれば手の届かない所で密殺されて終わる。打つ手はない。

 当初想定されていた単純明快な身代目的の略取事件だったはずのものが、当事者たちの特殊な事情によって裏返えされて、互いが本命視している交渉相手は背を向け合って、邪魔者が後ろから声をかけてくる変梃な構図がなし崩しに出来上がっていた。そっぽを向いている相手を振り向かせる現状打破の切り札もまた三者三様にあった。廃貴族側の手元には人質があったし、グリゼリウス家が本気になれば所有物を動かしてその集落を一夜で無人にできる。そして、ウニヴェロッサの切り札とは助言役として側に侍るギナとゾルムでも、森の陰に沈むようになかなか内懐が知れない泡沫ほうまつ騎士群生地域の暴露と内部工作をもたらす三人の間者でもなく、王子ジェソンという意義深長な貴い格であった。

「脱走に失敗した人質の処遇を巡って連中に裂け目が生まれておる。まずはこの溝を裂こう」

「は。しかし、余りやりすぎると暴発を招いて、その剣闘士奴隷の命は却って危うくなりましょう」

「わかっておるよ」

 離間の計略は地味だがなかなか効果があった。長期化の不利を悟った廃貴族側がこの牽制に過剰な反応を示して人質の危険を口にしだした。

「おかしなことを。身代の子細を申し述べるより先に人質の心身を損なうのがルーリックの流儀であるか」

 もっともな指摘だった。うぐっと二の句もなく動揺していたら、畜生にも劣る不作法を思って顔を赤く染めた。切迫した要求を抱いて他人様をさらった側が何が望みだと尋ねられて押し黙るというのもおかしな話だが、ともかくこの日は要求を引き出せずに終わった。

――お前みたいな若造の騎士じゃ話にならんから親父を出せ。

 と易々とは言い切れない対手だった。いつの間にか事の様相はまったく変わってしまっていた。グリゼリウス家の三男を経てロッシュローに話を通そうとした予定はウニヴェロッサの素性が王子ジェソンとなったことで企画倒れになった。後日、書面で差し出された要求の数々を見ればそれが分かる。

 一、ルイジェセン二世の戦後処理、本土代官の土地虚有化政策で失った土地返還。

 一、本土、ルーリック代官、本土官僚の権限縮小。

 一、船舶建造の自由化。

 一、都市郊外に漂着した農民の解散と移動規制。

 一、自領通行税の合法化。

 一、ナルマー都市同盟への参加。

 一、貴族間結婚の自由化。

 一、国王叙任の司教、枢機卿の追放。

 身代要求に黙りだったのは恥の上塗りを忌避したからかと思いやりたくなるほど度外れなものばかり。唯一の味方と心強くしていた母アナールへの猜疑心から、この世の希望と他者への期待のすべてを無くした虚無の心象を捉えたウニヴェロッサさえ呆れて物が言えなかった。知恵者で現実をよく視るゾルムを苦笑せしめたのがせいぜいのめっけものだ。笑いたくもなる。廃貴族らは交渉相手をロッシュローからジェソンに移したのだった。事実上、本土代官と同等かそれ以上の権能で上記の要求を叶えうる者と目し始めたのである。王権を継承しうる者として。

 人質を取った以上は何らかの要求をしなくてはならなかったが、理屈の上で最初に明示しなくてはならない相手が王の子に化けてい、本土代官への伝路は絶たれた。親父を出せと言って、まさか大王ルイジェセンが出てくる訳はないが、ロッシュローが出るいわれもない。そこで廃貴族の失地を回復してくれるならば王子ジェソンを次の正当な王として支持する本土諸侯らしい厚顔で含みを持たせた提案に至った。

 実際、要求の中には本土代官の権限を越える項目が三つも含まれている。船舶建造の規制解除、王領三島への侵攻を抑止する古くからの政策。相続を繰り返して強大な競争相手の誕生を防止する貴族結婚の規制は、幽王ゆうおうと称されるルイジェセン一世以来、真珠島しんじゅとうが虎視眈々と狙っていた本土政策で、大王ルイジェセンの手でようやく成った王権樹立の象徴。ルーリックを経て南下の機会を窺う聖公座せいこうざを牽制してきた国王叙任のアドゥース派聖職者は世俗諸侯とも対抗する代え難い手駒であったから、合意すれば本土諸侯の勢力は確実に巻き返す。

――あ奴らまるで現実を失ったな。

 今になって彼ら廃貴族の支持なんて屁の突っ張りにもならない。独立心旺盛で幾度もの反逆で歴代王を悩ませ続けてきた奴らは美味しいところだけ頂戴して、いざとなればろくな力もくれまい。ウニヴェロッサのジェソンの位格に初めて引き寄せられた欲望はまるで考慮に値しなかったので、グリゼリウス家が筋道立てた王位獲得までの既定路線を踏襲する判断に躊躇いはなかった。

「同盟参加はともかく郊外農民の解散は受け入れまい。これを呑めばナルマーは飢えるから」

「は。然様でしょうが、まだお返事は届きませぬ」

 協調を確認し合った両者は人質の救出と廃貴族の処分という別々の動機で結びついていたからか動きは鈍かった。

 ロッシュローも廃貴族たちの要求には呆れ果てたが、これらの幾つかは奴隷一人を代にして本土代官に吹っ掛けてくるつもりのものであった。ここまで血迷ってはいまいと思うから、商談で鍛えた勘が触角を出して、まさか更なる脅迫材料があるのではないかと疑っていた。疑ってかかるくらいだから脛に傷を持つ証拠なんだ。有用な技能を修育した奴隷を絶やさず供給し、教圏中から一目置かれるグリゼリウス家の埃と傷、これが大きい。最も恐ろしいのが西方のラト山の秘密。厳重な迂回営業が功を奏して近現代まで発覚が持ち越されたが、それでも衝撃は大きかった。グリゼリウス家は莫大な富を生むラトの鉱山で強制労働によって岩塩や鉱物を掘り出させているのだった。使役されるのは不良在庫や活性化に失敗して廃棄処分となった奴隷たち。現代になってこの事実が判明すると、殆ど無縁のグリゼリウス大学の学長が謝罪会見で頭を深々下げる羽目に陥った。

 まだある。

 グリゼリウス家の契約のお陰にしろ本人の才覚にしろ奴隷身分から解放された者から寄せられる通称“礼金”。起源は解放奴隷が初めて自分の畑で収穫した麦であったと言われる。自発意志でもあったし、差し上げても無理にならない余剰財産でもあったから額は微々たるものだった。それが、都市の勃興に伴う商工業の発展に伴って増大し始め、教圏外国家群との交易最盛期の頃にはグリゼリウス家年間総収入の二割にも達した。しかし“礼金”による収入は常に大きく浮動した。解放されてから二代三代と経過した一族は“礼金”の支払いをしなくなる。それはいい。グリゼリウス家は父祖代々から奴隷の自立を喜びとする。“礼金”の起源になった物産の数々は家業の喜びを象徴する証として十分な手応えを生んだろうが、比べれば現金などはなんとも気障だ。

 しかし、ラトの鉱山の存在が示すように、いつの世だって奇麗事だけではやっていけない。年間総収入の二割とまでは言わない。せめて、まったく予測不能の “礼金”を計算机上に載せられる安定した収入源にしたい。枢機卿格の“七度の贖い主”ロッシュローの元に寄付という形式で集まる“礼金”は、教圏税制のどこを参照しても課税対象にならない殊更に良質な財源なのである。グリゼリウス家の出納すいとうを預かってこの課題に挑んだゾルムの着眼点には癖がある。いつも新しい仕組みの中に古い仕組みを移植したがる。

 ナルマー都市同盟でも大きな役割を果たした商機提供を使った。商人で身を立て直した解放奴隷たちも、日頃から化かし合いの世界に身を置いて一枚も二枚も成長しているから、さあ払えでは納得しない。教圏内外に散る奴隷を介してグリゼリウス家に集まる情報には、何処が、何時、何を、どれだけ欲しがっているかという噂も含まれる。その商人の近辺の事なら回り道してやって来るそんな情報に価値はないが、教圏外国家群、エステ帝国、フィーローズ朝、ヴァイサーンなどとの遠隔交易情報には大きな魅力があった。教圏外国家アンゴラ、ダルトワとの交易はほぼドロスの独占だったが、内実にはグリゼリウス家の商機提供を受けた解放奴隷商人が多くいた。今に残される帳簿を見比べると、彼ら解放奴隷商人の純益率は安定してはいるも同規模のドロス商人と比べてやや低い。わざわざ経費の一つとして“礼金”と書き記している者もいた。また、帳簿は新形態の“礼金”が、一定の利潤を境として利益の一割二分か固定料金の使い分けを証言してもいる。帳簿偽装をし支払額を操作したしたたか者もいたが、ナルマー都市同盟の監査を受けてひとたまりもない罰金制裁を受けてしまった。

 元来、解放奴隷の自由意志だった “礼金”は、商機と商売相手を紹介する会員費のようなほぼ恒常的に課せられる新たな支出となる。なぜなら“礼金”を支払わぬということは、自立しているとみなす建前とも真理とも取れる微妙な論理の元、自家活性した奴隷を対抗商人として送り込む辣腕が振るわれたからである。概ねの場合、新都市建設の尖兵として送り込まれる彼らは、既存の都市においてはおらが町の商人だけでなく、一つの組合を丸ごと潰すほどの大規模な商戦を引き起こした。これまでの鷹揚おうような態度を翻した冷徹なやり方に嫌気を覚えてグリゼリウス家との関係を清算した解放奴隷もいたが、“礼金”の旨味は実に大したもので、グリゼリウスの御用達としてウニヴェロッサの騎士叙任式に入用な食料品、家具、武具、騎馬試合の賞品、儀式に使用する小物、大聖堂の建材を取引した請負商人は教会堂の席次が五つ六つくらい進む巨額の利益を得た。解放奴隷商人との結びつきを強める “礼金”が単なる搾取ではなく、ナルマー都市同盟の眼目たるこのからくりに如何なご利益があるかというものだが、その陰には身代を潰された多くの人々がいる。彼らの行方の一つにラトの鉱山があるが、死に繋がる酷使の場は悲惨の一語に尽きる。

――ラトは安々知られはせん。礼金は叙任式が終わって、もうそろ頃合か。ならば連中の取引材料はたかが剣闘士奴隷一つ。元々生かしておけない奴だった。人質の価値なし。ないが。さて。

 ロッシュローに欲が出た。扱いきれぬ火炎のような泡騎士の力だが、扱えぬからとて無価値の札付けをしては商人の名が廃る。腕の見せ所なんだ。実数は不明としても、凡そ二千人と見積もる戦闘集団は数字の上では魅力である。そもそも泡沫ほうまつ騎士群生地域は近い将来、真珠島しんじゅとうとの抗争に重要な地であった。どうせ捨て値といっていい代価で対手から拵えられた幸いな交渉、この機は活かしきらねばならない。

――火には火。混じり合えぬ火もあろうよ。

 グリゼリウス家の荘園にロッシュローの回答が届くのに四日半かかった。間者と密かに口裏を合わせた上で突入し、廃貴族を一掃してはどうかという提案と実行役の所有物が大勢。ゾルムもそれを強く勧める。その混乱に乗じてフェリクスの命を奪るのだろう。

「援軍は心強いがまだ早い」

 ウニヴェロッサは提案を先延ばしにした。フェリクスを救出する試みはまだ尽くされてはいないし、騒ぎに便乗した密殺を許す実力行使は最後になっても許可しない心積もり。

 廃貴族たちの力がまったく当てにならない確信は、ああした要求を書面に頼る誠意に欠けた態度でこの上もなく明らかであった。面座の場面でしていたなら、封建制度の眼目たる忠誠契約と領地給与の順序をすぐにでもつけねばならないが、彼らはその場面を忌避したいが故に文書で送りつけてきた。考えは見透けている。失地回復の方便にこだわっているのだ。領地返還の実施が王子ジェソンの戴冠などの王家から下される恩赦に類する政治手続きとして執行される恩貸地ではなく、あくまでも使い捨てにできる人質と交換という束縛のない形で達成できるのが望みうる最高の結果。恩赦など受け入れてより踏み込んだ形でジェソンを支持するようなまねをして、勃発するであろう王位を継承する者同士の戦いに巻き込まれたくないのが本音だった。権限の持ち主であると認めてもその権能には平伏しないと言外に含んである。

 論も理もない無茶苦茶と言ってしまっていいような交渉の片綱を握るウニヴェロッサは要求の細部を突き詰めて落とし所を探りたかったが、廃貴族は王子ジェソンとの直接交渉をしたがらなかった。何らかの失言を犯してしまっても撤回可能な代理人との事前交渉を希望した。しかしそうした便利な人材がいない。ゾルムが出て行けばグリゼリウス家の武力行使の口実を作るだけだし、対手役も信用ならず、日常会話はともかく精度の高い言葉選びに無知な剣闘士などは問題外。交渉は事件に言及しない手紙が行き交う程度のうつろな状態が続いた。

 そんな中、ギナの不審な様子に気付いたゾルムが息抜きの散歩に誘った。いつ以来かと思い返すと、騎士叙任式の頃からだった。多弁ではなかったが笑うのを好む陽気な男だった。幼い頃からガス族の過酷な鍛錬に明け暮れていたせいで、本人に諧謔かいぎゃくを生む能力は備わらなかったが、お雇い吟遊詩人は諧謔かいぎゃく物の達者でその語り話を日夜の楽しみにしていた。グリゼリウス邸内での密談の最中、急に強張った顔をして、思い出し笑いを堪えるのも間々あったが、誰もが豪放で憎めない笑い声を知っているから許したし、むしろそれを一服の息抜きとしていた節もある。そんな心身ともに健全な男がここ最近、心でも患ったように黙っている。助言役だというのに意見をなくして、言葉巧みに武力行使を勧めるゾルムに加勢するでもなくけだるく沈黙しているばかりだった。

 二人は館を出て、ロイター川に沿って逍遥するよう歩いている。ちゃぷん、川魚が跳ね踊る水音と波紋の形に何故かどちらともびくびく心が乱れる。強者のギナが泡騎士らの襲撃にこうまで怯える道理もないから別の事。互いに気を払っているのは、牽制しあう二人の心意気だった。心に背負った重荷が軽い分、ゾルムの方からこんな空気に馬鹿馬鹿しくなって口を開いた。

「お前、何を考えている」

「何も。ただもう忌やになった」

「忌やになったか。だが、やり切らねば先も首もない企みだぞ」

「――俺は卑怯者になりたくはないんだ」

「卑怯者か」そう指摘されたゾルムは、しかし反論もせず「ガス族の勇士のお前を、そんな風に言う者などどこにもいないさ」慈しんでやった。

「誰でもない。俺が知っている」

「お前に篤信の情があったとはね」グリゼリウス家所有物を代表する二人の才人は、周りがどう言っても長い付き合いで気心を知り合って仲が良かった。「監督役でナルマーに戻ったらどうだ。こっちはまだお前の力が必要になるにしろ日がかかる」

「そうさせてもらおう」

 荘園は所有者の富と権勢に比べれば正に猫の額ほどの広さしかないが、小さいながらも本拠ナルマーと川一本で繋ぐ場所を選んでいた。フェリクスをさらった泡騎士の拠点も川沿いにあり、このロイター川は廃貴族の更なる内部崩壊を狙ったある詐術に使われた。ただの漁師百姓の嘘にころりと騙されたウニヴェロッサであったが、こういう点では実に抜け目がなかった。直面している問題についても、廃貴族とグリゼリウス家の二つの手綱を握らされていながら、左が行き詰まれば右、右で難題が起これば左にと巧みに捌いて乗り移りながら事態を前進させて行った。交渉が滞る今では実力行使に傾く素振りでグリゼリウス家から更なる援助を引き出して、援軍として遣わされた所有物を追ってナルマーから糧食、弓矢、槍、盾、兜、鎖帷子くさりかたびら、脛当てといった武具を積んだナルマコックがこれ見よがしにロイター川をさかのぼる。船上には傭兵と思われる人影もまばら。

 周辺の泡騎士から通行許可と中立を得、ロイター川を使って一直線、たやすく攻め入れる地の利に加えて孤立させた。ナルマコックを二隻も停泊させて、本気になればいつでも攻め入れる態勢をとったまま数日が過ぎて、あのゾルムとギナの川辺の会話である。隔絶の実力差ある廃貴族とグリゼリウス家の間に挟まれていながら両者を切って回し、戦況を既に確定的な局面に入れながらも、ウニヴェロッサには依然として力ずくで解決するつもりはなかった。武具は全て館の地下の納屋に厳重にしまわせてい、これを所有物と剣闘士たちに着装させるのは数日に一度で、槍は五人一隊に付一本。防具に至っては完全武装させるのは各隊一日一人の当番制で、皆、この重たい装備を嫌った。

 ウニヴェロッサが最も懸念しているのは、グリゼリウス家所有物の独走と剣闘士たちの蜂起であった。所有物たちは抑えが効いているが、本格の泡騎士と呵責なしの戦をする恐れを抱く剣闘士たちは浅墓な行動に出るかもしれないと恐れていた。人質解放交渉の最中に自分が人質になるなど冗談話にもならない。この点ではフェリクスの行方を探索していた頃にあった奴隷同士の一体感はどこにもなかった。養成の最中にギナが散々脅し文句に使った泡の薬がこんな風に効果を表すなど想像もしていなかったから仕方ない。ロイター川を続々と上る傭兵隊も、品を暴けばこの剣闘士たちだった。およそ三十人いる剣闘士を当番でナルマーへ向かわせ、小遣こづかいをやって二日くらい気侭に過ごさせる。ナルマコックに乗せられて傭兵のふりをしては次の当番と交代する茶番劇だったが、剣闘士会後の解放という約束が延び延びになって鬱積した不満と緊張を抜く必要もあった。

 ギナはこの監督役で次の非番剣闘士十人を引き連れてナルマーに戻った。残留組の中にあのゼルがいる。フェリクスに足蹴を含めて打ちのめされた怨恨も手伝って救出に駆り出される不平党の一番手だ。ギナは疲れていたんだろう。何事もないだろうと思い込んでこの地を後にしてしまった。叙任式の直前まで剣闘士の養成を任されてい、やっと家族の顔をちらっとでも見たのは叙任式の日だった。安らぎを求める心は荒事を想像したくもなかった。

 対手の戦備が整えられてゆくにつれ嵩む焦慮に突き動かされて廃貴族が動いたが、交渉はやはり難航しそうだった。理想的な大言壮語を吐いて現実とのすり合わせを建前に、自己利益を追求して、骨抜きとする彼ら伝統の小政治術も発揮されて、交渉の眼目もやっと領地返還の建前に集まった。予想していたように廃貴族らは人質と引き替えに領土の即刻返還を要求。つまりはジェソンの存在を認めても王権の介入を拒絶する本土諸侯に共通するいつもの不羈ふきの才。所有物一人の質にそんな譲歩をしたのでは後々どんな虫食いに遭うかわからないし、元々ウニヴェロッサは犯人を、痴れ者奴らっ! と罵った状態のままで要求を呑む気はさらさらなかった。何の制約もなければ武力行使に賛成している。

 実際は廃貴族らの方が苦しいはずだった。間者の泡騎士は彼らの生活苦を赤裸々に教えてくれたし、人質の処遇で生まれた溝も深刻になって、指や腕を切り落として送りつけてやればこっちの要求を呑む、というような過激派と反対する慎重派に割れた。交渉中に剣闘士にやらせた軍声勝鬨も圧力を与えたはずだ。相当に苦しいはず。交渉は一旦物別れ。次に持ち越されるが、危惧していた内部からの騒ぎが遂に起こった。

 発端は役回り持ちの一本の槍。直交渉の日に一隊に付き一本持たせるようにした槍を、強者ギナの不在をいいことに、我が物にしようとごね出したのだった。主犯はゼル。潰された鼻はまだ治っていないから、緊張と興奮とで荒い呼吸の上下がよくわかった。槍を手にしてどうする目処でもあるわけない。嫌がらせと言えば嫌がらせ。廃貴族に見習ったちょっとした交渉というか、駄々だった。具体的な要求があるわけでもない。不満の意思表明を探しあぐねた結果のただの暴走なんだろう。今日までグリゼリウス家と廃貴族の事情を巧みに渡り合ってきたが、いよいよどん詰まりが近づいて、フェリクス解放が不満足なウニヴェロッサも苛立った機嫌を見せていた。あんな小事はギナの部下に任せておけばいいんだが、ゼルの言動がちらちらと敵の廃貴族と似通うので、苛立ち紛れにその前に立った。並んで立つと如実に分かる。体格の差は正に大人と子供だ。

 幼年の心因で背丈の成長が阻害されたウニヴェロッサ。生涯の終わりまで残響した身長は、グリゼリウス家の記録、ナルマーの記録、芸術家ジョン・レスの絵画、残存した脛当ての長さで推すと、僅かに一四〇センチに届いたかという程度だった。教圏人の平均よりも二十から三十、ゼルとは五十センチも低い。小躯のせいで見くびられること度々だった。

「槍を戻せ」

「嫌だね」

「戻せ」

「ご自分の力で取って見ろや、お坊ちゃん」

 ゼルも見くびった。この小躯がフェリクスを投げ飛ばした業の不思議を見ていなかった故の慢心。傷のせいで泡騎士の追跡にも同行できなかったので、

――昔の友人とよく食べた。懐かしい。あの頃が、ほんとうに。

 ふと垣間見せて剣闘士奴隷と心通わせて水面下で静かに続く支持をゼルは知らない。流石に穂先ではなく、向けられた槍の杖を掴んだウニヴェロッサは、対手のふーふーと荒い呼吸に集中して何かを施した。それが何なのか、誰にもわからなかった。仕掛けられたゼルさえ、何が起こったのかさっぱりわからなかった。自分のすぐ目の前にウニヴェロッサの顔があるので、相手が巨大化したものと覚えたが、そんな馬鹿な。

「ち」

 ウニヴェロッサは業の不出来に悔しんだ様子で舌打ちしたが、全身の神経が極度の驚を抜けて脳に状態を伝達するところによると、ゼルはまったく無意識に膝をついていた。

 表業おもてわざ中業なかわざ裏業うらわざの三業に分かれたガス族の戦技能にもう一つ、奥業おくわざというのがある。ガス族の間でも極一握りにしか伝えられない秘技と言うべき代物で、謎が多い。分かっているのは、

――大人よりも小人に相応しく、意と気と発と身体が直接、間接問わずに繋がっていればよく、そこから相手を崩して投げるというもの。

 らしい。裏業うらわざだけは辛うじてやれるが、成長不良の体格では表業おもてわざ中業なかわざも非力でやれないウニヴェロッサに、ロッシュローがギナに頼み込んで修得させたものだが、ガス族の天才児が生涯の鍛錬を積んでもコツを掴めずに終わってしまう難業である。

「ぬう!」

 仕組みは知らない。ただ事実のみを受け入れて、慌てて立ち上がろうとしたゼルだったが、そんな迂闊な動きではウニヴェロッサの裏業うらわざで槍越しに持ち手を捻られ極められ瞬く間に地に縫い付けられてしまった。フェリクスを制した同じ動きだったが、槍の穂先がゼルの首の付け根を斬って血が流れ出している。深い。真っ赤な血を目にして業を解いたんだが、性根が破綻している上に興奮と驚惑の直中だ。立ち上がりざまの体勢から振り回した腕が斧のように薙払われた。何にせ体格差が体格差。両腕の防護姿勢を力任せに振り抜かれ、風に吹かれた木葉のように宙に舞ってどうっと受身も取れず地に叩きつけられてしまった。

「ジェソンさま!」

 ギナの部下が数人駆け寄って直衛につき、三人で凶暴な男を取り押さえようとしたが、より早く剣闘士たちが立ち向かっていた。一人動けば、三人動く。三人動けば。いくらゼルだって多勢に無勢だった。動かなくなったので、別間に放り込んで見張りを立てた。だんだん聞いてみると、ウニヴェロッサが殴り飛ばされた瞬間、体が燃え上がったように熱くなって、この暴漢を何とかしないと、という気になってから後のことは知らない。正気に戻ったのは倒れ伏したゼルに追い討ちをかけていた最中だったと言う。真偽どうでもよい話だったが、ウニヴェロッサと剣闘士の間に奴隷同士の連帯感を確認した一幕だった。

 熱を帯びた手負いの身体を巡る神経の昂ぶりを感じる。まともに動き回れるのはまだ少し先だが、もう立ち上がれる。五体の動きを確かめるよう、腕を伸ばし、振り下ろす。その場で二、三度跳ぶ。さして広くもない二つ間をうろうろと歩き回いていると、トレマリスが、

「踏むんじゃねえ」

 と激しく言った。フェリクスの足裏はれっきと地面を踏んでいる感触を伝えていたが、土踏まずに僅かな温度差があるのを感じた。足をどけて見てみると、文字だ。読めない。

「これは文字か。お前、子供のくせに文字が書けるのか」

「あっ、馬鹿にすんな」

「すごいな。誰に教わった」

「ウルフィラっつう、生水呑みの坊主」

 教圏の人々が使うエステ人への蔑称を混じえてトレマリスは言った。水質の悪い教圏では経験的伝統で水をそのままでは飲まない。高温少雨の地でありながら煮沸して湯を、夏場は冷まし置きする。一方、程よい降雨気候のエステには、地中で濾過された雨水が湧く地点が多いので水を生で飲める。二つの土地の地理気候の差がこんな呼び名を生んだが、思いもかけずウルフィラの名が出たのでフェリクスもびっくりした。

「ウルフィラ! ウニヴェロッサさまの対手役頭だった、あの」

 フェリクスもウルフィラの名前は知っている。顔も知っている。ナルマー市民でその名を知らない者はなく、その名を知っているかどうかで田舎者かが分かったほどだった。ナルマーを丸ごと巻き込んだ大祈願から先も色々名を売ったから。

「変な奴だったよ。誰でも奴の口先にかかるとまるっきり大人しくなっちまうんだ。坊主の癖に説教なんざしねえで、これからの世の中は文字を知らないと渡っていけない、つって文字を教え始めたのさ」

「まだここにいるのか」

「とっくにいないね。ヴォレヌスに行くとか言ってた」

 ふーんとフェリクスは頷いて、そっちがより気になるのか、石片で地を削って文字を書く手先をしばらく見ていた。なんと書いているのかを聞き、すぐに教えてくれと頼んだ。トレマリスは満更でもない顔で嬉しがって、とりあえず自分の名前を見真似で書くことから始まった。

 へたっくそな字だったし、お手本のトレマリスの文字から生半だったので綴りも怪しいが、そういう喧しさがあるサーニー語よりも、俗語のシニウスならそんな間違いはいっそご愛嬌というところ。気分と好み次第で自分の名前の綴りが十通りを越したような面倒臭い奴だっている。今日の行方もわからない死地に堂々と現れた自分の名に励まされたフェリクスは、熱心に書き写してゆく。そのたびに、

――俺は、生きているんだな。

 そんな風に思った。トレマリスはフェリクスが書いた名前の先に動詞を組み立てていってはこれこれと教えた。地の上でフェリクス・フローディックは、歩き、走り、跳ねていた。

「どういうことだ」

「あんだよ、これより簡単にゃできねえよ」もう音を上げたのか、と呆れたら違った。

「本当の俺はこんなところで動けないというのに、こいつは、歩いたり走ったり跳んだりしてやがるよ」地面に書いた自分の名前に嫉妬しているように言ったフェリクスの、まるで神妙な心意気に、トレマリスは子供心にいきなり、どきっとした。人に物を教えるという、泡騎士の子供には得がたい初めてに浮ついていた心が衝を受けて、ずれてしまったように、がくがくっとした。

「助かる、っていうには、どう書く」

「こうだ」

 縁起でもないがトレマリスは書いてやった。本当のところ、泡騎士たちはいい加減で終われよという厭気で満満だった。この人質を使っての要求には廃貴族にしか利がない。そのフェリクスという奴に恨みを持った二名の泡騎士と結びついたのが正体の下駄らないただ働きだ。事が成ったならこの群生地域から拾い上げて直下の騎士に取り立てるとか言ってるが、何時のことかわからないし、お断りだ、なんて言う奴が多い。かたっくるしい城勤めよりも、住めば都で何世代も生きてきた故郷を選ぶ。この土地の暮らしに愛着があってなかなか捨てられない。

 土地を失い、流浪の果てに泡沫ほうまつ騎士群生地域に流れ着いた廃貴族の一族郎党を、泡たちは迎え入れた。人の難儀、憂き目祟り目に付け込む我欲逞しい泡騎士だが、詰め殺しまで追い込むような、これ以上はやっちゃあいけねえという線引きは暗黙でありながらも瞭然と敷かれていた。ここを破って人を死なせたなら、もうこの地で人付き合いはできない。か細い伝を頼ってきた主筋にも当たる彼らが住むくらいの空き地はある。しかし、廃貴族は一向にこの地の仕来りに染まろうとせず、いつも手前ら勝手な伝統を振りかざして時折ぶつかり、泡沫ほうまつ騎士群生地域に旧来の貴族同士の争いごとまで持ち込んだ。今までは泡騎士の実行力の突き上げと世慣れた逆捩さかねじ、仕方のない小競り合いを有力者に仲裁してもらってやり過ごしてきたが、今回ばかりは話の規模が段違い。領地返還が懸かるものだからあの強硬。現実家の泡騎士にしてみれば人質一つであんな見返りはありえないのに、嬉々として調子良い放言を続ける連中に愛想も尽きてきた。軍備を完成したグリゼリウス家は、いつでも気の向くままに攻め入れる。これまで想定していなかった川側からの襲撃に備えて川岸に設置した棒柵も頼りにならない俄か作りだ。

――甘い顔をして、すぐにも態度を翻して来よう。

 ウニヴェロッサに忠誠を誓った例の泡騎士三人組の暗躍も効果を発揮して、廃貴族と泡騎士の溝は早くも取り返しのつかない所まで来てしまっていた。

 ウニヴェロッサは館に担ぎ込まれる中で目を覚ました。下ろせとも離せともじたばたせず、ゾルムを呼べとだけ言った。寝床は二階の広間奥に床布を三枚ばかり重ねたところ。外の騒ぎを治めていたゾルムはすぐに、両腕を触診されている内にやってきた。骨は大丈夫と伝え聞いて、安堵顔。

「泡と一言に言えぬと知りながら何故気付かんかったか」

「は」

「交渉相手を変え、内紛を仕掛ける」

「は。いよいよ間者が役立ちますな」

――ふん。いよいよか。

 次の交渉は二つの地点で行われた。グリゼリウス家領の館では廃貴族とゾルムが、廃貴族が留守の間にウニヴェロッサが出向いて泡騎士と交渉を始めた。感触は両極端だった。廃貴族は変わらず領地の即時返還を求めたが、人質の命を見捨ててよしとも思える翻された態度と痛烈な言葉の連続に、

――何かある。

 瞬時に察した。ゾルムは要求を呑まず交渉議題物別れはこれで二度目だから、切り札だった人質の五体がいよいよ危機に晒される。廃貴族らは人質の真面目の絶大さを予見して唇を引いて顔に見せたんだが、相手は慌てた節もなかった。

 裏面に状況打開の手を打っていなければあんな顔はできない。流浪の自分たちを受け入れてくれた善良な味方とばかり思いこんで、泡騎士たちを抱き込まれる蠢動を起こされているとは露知らず。交渉が決裂したなら耳を通り抜ける勝鬨を上げる剣闘士、傭兵隊の強行策の発動以外には考えられない。無益な争いになる。争えば、ちょうど目の先まで戻って来ている領地を再び、そして完全に失う。初めに賭けたのはたかが奴隷の命。それも強奪した奴。ここが妥協のしどころ。交渉相手の初めての強硬姿勢に慎重さを覚えて、廃貴族の方から要求議題再考という話になって終わった。

 あくる日、藍染の衣服、銀の装飾品、宝玉、孔雀、豚、鶏、鶏卵、小麦、蜂蜜、桜桃などの高級品を積んだナルマコック二隻が集落河岸につけた。棒柵は取っ払われていたので、上陸は実に容易だった。先頭はゼル。一時危なかった命は危うく繋がった。剣闘士仲間から追放寸前、泡沫ほうまつ騎士群生地域に放り出されて野垂れ死にするところだったんだが、ウニヴェロッサが赦してこんな風になった。周りの白い目まで感じない阿呆じゃないから、今は神妙にしている。鼻当て兜、鎖帷子くさりかたびら、盾、脛当て、槍も持たせようとしたんだが、

――槍はもう勘弁。

 と言うので、斧を持った。並の男が両腕抱えでもないとできないような巨大な斧を片手で振り回すんだから、実に堂々たる重歩兵。後に続く者たちも鍛えた身体。こんな連中が大人数の徒党で闖入してきたら、すわ、となって総出の戦になる。それが、本当に「すわ」となったのは廃貴族だけだった。泡騎士の間じゃナルマコックに積んである適正な身代金ですっかり話が決った。足蹴の罪を帳消しにするくらいのお宝もある。廃貴族らが、交渉はどうなったとか、お前達なにをとか、人質が云々と散々喚くが、剣闘士たちに周囲を守らせるウニヴェロッサはまるで無視して歯牙にもかけなかった。案内を受けて、トレマリスに見張られるフェリクスのいる小屋までやってき、扉を開けた。

「出よ、フェリクス」

 表のことを爪先分だって知らないフェリクスの驚きようったらない。まるで転がるように外に出てきた。

「ウニヴェロッサさま、どうして」

「帰るぞ。話はついた」

「え」

 狭い屋内の中、ひたすら文字の学習くらいしかしなかったんだから、前後の話をひとっつも知らないフェリクスは困惑の極み。まるで現実の地の上を歩いている気もなかった。解放された身の上を教えてくれる言葉は、かつての文字よりも馴染みなく聞こえた。目に見えるのは、自分をさらった二人組の泡騎士に身代を渡すゾルム。ギナは普段、よっぽどでないと手にしないガス族伝統の大槍を立てて周囲を威圧している。

「ではあなた方の御領地の件も後日詰めてゆきましょう」

 ゾルムの話も終わって、皆、ナルマコックに乗り込んで、再びグリゼリウス家領に戻った。廃貴族との交渉は約束通りあと一度きり残している。手駒も切り札も失った連中だから話の帰着は分かりきっている。身寄りにしていた泡騎士にも見限られた廃貴族が行ける道は一つしかない。ジェソンの恩寵に期待して、忠誠と引き替えに領地を戴くしかない。不羈ふきの精神は失われ、王権、王の権威を認めて従属しなければならず、そのためには王位を巡る競争相手との戦いに勝利すべく自分の身を剣にも盾にも代えて奉仕しなくてはならない。

 大王ルイジェセンが何度も褒美を賜らせるほどの勤め振りの本土代官ロッシュロー・グリゼリウスの土地虚有化政策は転換点を迎えつつあった。所有権の保持だけは残して用益権を奪ってきた土地政策は更に踏み込まれ、死守されてきた所有権さえもが献上されて、而後の働きに応じた分配を待つようになる。この再分配を通して本土王領が一層拡大する素地が形作られた。この重大な結果には、しかし、グリゼリウス家の作為と意志はまるで感じられず、主導的な行動を起こした王子ジェソンの別目的によって出来上がった偶然の産物に過ぎなかった。だからこそ両者は王権が更に伸張するこの絶好の機会を座視して、後の伏線にできるように飼馴らした状態にする餌付けも怠った。せいぜいやったことと言えば、泡騎士の中でも特に品行の悪いならず者連中から、もうどこにも行く当てがなくなった廃貴族を質の悪い労働力として購入してラト山に送って詰め殺しにしただけだ。

 さて、なんとかフェリクスを取り戻したウニヴェロッサだったが、その命をグリゼリウス家が狙っている当初からの問題はそのまま残されていた。今日までの奮闘でも、ロッシュローの意図不明の殺意をかわす課題については手が付けられていない。猶予も手段もなくては諸共の思いきった手を切るしかない。

 まずはフェリクスの名誉回復。立会人は剣闘士たち。そんな大仰なもんじゃない。下着一枚にさせたフェリクスに叙任式で取り上げていた例の腰巻きと三叉槍、網を手に返して、

――贖い主の考えたる以上の試練を踏み砕いた誉を認め、ここにフェリクス・フローディックの暴行、暴言、足蹴の罪を赦し、その権利を帰由するものとする。

 と宣べただけ。まあ、解放祝いといったところなんだろうな、と剣闘士たちは納得した。ただ、自分達が泡騎士にさらわれる立場だったらそりゃ辛い。怖かったろう。それでも、ウニヴェロッサはここまで手を尽くしてはくれないかもしれないと強い嫉妬の感情も混じるのでどうも出来の栄えない白けた式だった。解放を全うするには本人と共にナルマー市行政庁舎タムストール宮に出向いて面倒な申告手続きをしなくてはならないが、それはロッシュローにフェリクスの生命を保証させてからになる。それまでは所有権を保持したまま行動の自由を許すグリゼリウス家所有物と同様の帰由状態で安全な場に身を隠す。贖い主が罪を赦し、逃亡奴隷でもないのだから大っぴらな追い手は出せないが、念を入れるに越したことはない。

――ウルフィラを追え。あ奴の近くなら所有物も手を出さぬ。

 廃貴族を屈服させる交渉の前日にフェリクスは発った。生まれ故郷を見納めることもできない慌しい出発を、ウニヴェロッサは足から根を生やしたようにじっとして見送った。出し抜けにウルフィラを遠ざけられた数ヶ月前はこんな余裕さえなかった。

――さて、泡どもが今度こそ巧くやるか。

 ウルフィラと合流できるまでの護衛に例の泡騎士三人組を全員付けた。ついでと言っては可哀想だがこれから先、命が危うくなるのはあの泡騎士たちも同様なのだ。

――今回はよく働いた。それにここまでしてはお前達ももうここにはいられまい。今のままここを出よ。

 あんまり出し抜けな話だったが、正にその通りだ。事の最中は見逃していても、馬鹿の智恵なんていうものは、終いになってから真相をはっきり見るので、いついつ自分たちの裏切りが判明して寝首をかかれるか知れない。今逃げ発てば白状しているようなものだが、まず安心だ。それにいつまでも主従が離れ離れでも格好がつかない。

 その時に気付いたんだ。ふと足を止めて振り返ったウニヴェロッサは、三人の顔をまじまじ見て「お前達の名を聞いていなかったな」と。

 ここで三人の泡騎士たちは初めて涙ぐむほど嬉しくなった。以前から自分たちの名前さえ聞いてくれないのでウニヴェロッサに不満と不安とを抱いていた。物の伝え方も言いようも素っ気なく、押し込み同然の我らは要と思われているのか。まったくただの捨て駒以上には見られていないのではないかと落ち込んだ考えをしていたが、この一言で三人とも、やっと今までの苦労が報われた気がした。

「私はアンフェル」

「ボルドーと申します」

「ワットです」

 事全て終り、フェリクスと三人の泡騎士はヴォレヌスへと逃げ、剣闘士たちは約束通り解放されて、ウニヴェロッサもナルマーに帰る支度を始めた。グリゼリウス家の荘園からは一人の影もなくなる。まるで災いの到来を知る者だけが先んじて逃げてしまったかのよう。

 ロッシュローが想定していた絵図は、見事に当たる。

 二つの火。必ずしも火炎とはならない。

 互いが食い合おうとする交じり合えぬ火もある

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