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ウルフィラ 3

 先延ばしに先延ばしを重ねるつもりだったのに、対手役を請合った条件のグリゼリウス家書庫の往来勝手の履行を求めて執拗だったウルフィラが、ちっとも姿を現さない。気は楽にならないで、かえってゾルムは気味を悪くした。行き先は知っている。エメレス辺で遭難してこの方安否行方が知れないアナールの無事を祈りに出かけるウニヴェロッサに付き合わされているようだ。

――なかなかまめだな。

 対手役としてウルフィラの身体は自侭がきかないし、破門された身で教会には出入り留めをくっているから、どうもお供がついででゾルムが空惚ける形で嘯いた市井探検に熱を入れ始めたらしい。まめと思ったのはウニヴェロッサの方で、あの狂気沙汰に及んだアナールのために毎日教会へ行って祈っている。家庭教師は学習が遅れるとうるさいが、家長夫人が異教の地で生死も知れぬというのに、縁者一人くらいああして無聊に過ごさなくては見栄えが悪い。好都合と放って置かれていた。

 グリゼリウス家が本拠とし、ウルフィラの日々の探検に負けじと膨張する都市ナルマーは西北遥かの山岳帯ブレンダン地方の湧き水が集って流れるロイター川を隔てて南北に広がる。東にはアレモ海。サーニー帝国来の良港が備わり拡大と改良を続けて経済上の生命線。教圏各国からはもちろん、ヴァイサーン、エステ帝国からも交易商人が訪れる。西に築かれた市壁は都市の力強い拡大を物語って二枚目が建っていた。当初は川の水を引いて堀を造ろうとした市参事会の方針が、市内を通した運河に思わぬ影響が出るのを恐れた諸々の組合の反対で従来通りの市壁に変更された。特徴は壁下部から前に突き出た贅肉と称される風情も何もない攻城櫓こうじょうやぐら対策で、この出っ張りのために壁との接着を許さず、丸味なので梯子はしごもかけ辛い。アドゥース派修道院を郊外に追いやる三枚目の市壁建造に着工する頃には、十万人を越える教圏屈指の大都市に成長する。本土王領の中心地ロマックでも全域二万人もいるかというほどだから、まったく図抜けた大都市といえる。

 水運の主軸大河ロイターの河口部にあるとはいえ、後進地域の教圏半島の東南端といえば正に辺境。そんな僻地でありながら腕自慢業自慢を巡って多くの人々を集める要因がグリゼリウス家だった。グリゼリウス家所有物という肩書きの大層な旨味を目当てに、我こそは教圏一の腕前であると触れ込む分野様々の連中が次から次へと訪れて売り込んでくる。今も昔もうじゃうじゃいる口だけのような奴も多い。ある程度の実力を備えている者であっても、殴り込みの挑戦が成功するのは極めて稀で、殆どは現役所有物にこてんぱんにのされて、鼻っ柱をへし折られたのを機にナルマーに腰を落ち着ける。その後、こつこつ修行して腕を上げて周囲との厳しい競争に勝ち上がって何度も何度も挑戦しても所有物になれるかは分からない。

 ウルフィラが知る限り、我こそは、と売り込んだその日に所有物契約を結べたのはガス族の勇士ギナだけで、何しろ得意分野というのが俺とお前とどっちが強い、といった類の分かりやすい単純な比べっこ。秘技と秘術がぶつかり合ったその壮絶な顛末は今でも市民の間で話に上る。実際にはグリゼリウス家に一度で認められた者は他にもいたが、職工しょっこう職人リンクが伝授された三角法や幾何学といった教圏の外から新たな技術を携えた者が多い。都市ナルマーの発展はグリゼリウス家所有物と市民のせめぎ合いを原動力にしてい、大変な活気だ。多くの都市がこの構造を移入しようと試みたが、古グリゼリウス家以来の数百年以上をかけて練り上げられた奴隷活性技術と同様に他では真似できない。

 教圏都市がどの程度成熟しているかは、異端と異教徒の存在がどの程度認知されているかという問とほぼ変わらない。市の事情は彼らを不可欠として、ナルマーにはもう大分前からエステ人居住区ができていたし、教義の優勢は正統教義ではなくアドゥース派。

 市内の貧富の差はまだ緩い。人口、技術、経済いずれの面でもナルマーを圧倒する真珠島しんじゅとうは、王宮に仕える官僚さえ内職か汚職でもしないと暮らしが建たないというから察せられる。市民にはなんとなく余裕があって治安も自然と安定していた。都市の治安を根で支える各職業組合の自警団も効いている。異教徒の風貌をしたウルフィラが一人でふらついても身に切迫する有事なんてまったく起こらない。

「やっ、ウルフィラ!」

 起きるとしたら、大人の事情ではなく子供の事情。小さな大人として大人に準ずる労働力を期待されてはいても、言いつけられた仕事を遊びに変えるのが大の得意で、それで失敗すればみっちり怒られる。この繰り返しで組合の掟を学ぶのだが、懲りないのも子供。ウルフィラを見つけて追いかけ回すのは肉屋の息子で、二人の仲はそれほど良くない。異教徒で破門までされているから、という理由では嫌わない。成長するまでに削り切られる個人的な問題で嫌う。

 以前、果物屋台にお邪魔して、これは何か、どこでどうやって作られたのか、いつからあるのかと聞き込んでだいぶ気に入られた。ウルフィラには年長者に好まれる妙な愛嬌があった。そこで決め台詞だ。

――どんな味がするの?

 店の親爺は、あ、こりゃあこのガキの手管に巧く引っ掛かったかな、と渋面しながらも、質が悪い物を選り分けて一つくらいくれてやった。一つのそれを二つに分けて教会前広場で食べるのをウニヴェロッサとよくやったが、その対手主は代価など持たないウルフィラがどうしてこう毎々食べ物を手にして戻っているのか不思議に思っていた。

 仲良しの果物商人の子弟に誘われて組合集会を真似て集まったある日、血を被る屠殺とさつ仕事を蔑視される肉商人の子弟と喧嘩をやった。自らが属する職業自意識の背丈を互いに比べ合っている内に起こる衝突は大抵大人だけのもので、熱くなりすぎて死者を出すような惨事にもなるが、子供の場合はその大人たちに刺激されてつい鎌首を出しただけのちっぽけなもの。どこの都市でもやっている。度を越すこともなく珍しくもない。勝っても負けても顕著な家長父権を有する親爺が叱りつけて巧く両成敗に処す。その喧嘩は果物商人側が勝って追い払った。巻き込まれたウルフィラを数の利にされて負けたと思っている肉商人の子弟らは、

――あっちに数があったから負けたんだ。一人一人はてんでよわっちいから、おんなじ数なら俺たちが勝ってた。

 勝負無効と言い張って再戦を企図きとしている様子。肉商人たちが商店を構える河口近くはウルフィラの市井探検の振り出しに当たる教会前広場からは遠く開いてい、前後不覚で海に落っこちた桟橋さんばしからも近いので心情的に足が向かなかった。肉商人の子弟とも空気が薄かったので、つい果物商人側の味方をしてしまって不和更に出でてしまっている。子供の喧嘩に理非なんてあるはずもなく、

――それならもっと少ない数であいつらにまた喧嘩を仕掛けてやろう。

 法螺ほらを売られて法螺ほらで買ってやった塩梅。それが耳に入り合ってどっちも面白くないから、ウルフィラ愉しみの市井探検も最近は色々な邪魔が入って閉口している。やっ、と見つけた肉屋の息子を面倒がって撒こうとしたが左に折れても右に曲がってもしつこい。上層になるにつれて突き出す集合住宅が並ぶ薄暗い路地を子供同士で追い掛け回す姿を誰も止めない。こんな日常の景色より雨が降る方がよっぽど珍しい。

「う、うっ」と口惜しがってやっと追跡を止めたのは、ウルフィラの体がエステ人街に入っていたから。子供であっても敬遠したいこの外国人居留域にまで立ち入ってどうこうするほど深い恨みでもないからまず安全だろう。

「に、に、逃げるか!」

 弾んだ呼吸の調子っぱずれでやったせめての挑発が意外や効いて、ウルフィラは荒い足をしてエステ人街から戻ってた。かと思えば「がっ」と奇声を発して踊りかかった。

――逃げるものか。俺が。

 まったく不意を突かれて硬直する対手を手頃と、ウニヴェロッサが教わっている武芸を試してやろうと思ったウルフィラは、それがまったく功を奏さないと知った。見真似で腕を引っこ抜くくらいに強く引っ張ったが、いつもギナがやっているように対手の身体をがたがたと崩して壁に叩きつける豪快なことはできず、せいぜいつんのめるほどだった。

――ん、む?

 おかしいなと目を白黒していても、喧嘩の流儀は待ったなし。耳の辺りをばーんと叩かれた。その後は、まあ、下手な取っ組み合いだ。衣服を掴み合ってヨタヨタの足調子であっちへこっちへ行ってこけつまろびつ。握った拳で闇雲に叩き合って、開いた掌を顔に押し付けて言うも書くにもできない面になって、喧嘩というにもあんまりな情けない仕様だから、むしろ気の毒と思ったエステ人の大人が割って入って二人の頭をこれでもかというくらいの拳骨で叩いて終らせてしまった。

 その埃まみれの姿と横顔に擦り傷を目立たせて、喧嘩帰りでございますと言うような出で立ちでのこのこ戻ったウルフィラを、馬鹿奴! と叫んで、教会前で待たされていたウニヴェロッサが張り倒した。さっきまでの子供の取っ組み合いなんかとはまるで違って、ギナに鍛えられた業だから腰がきちっと入っていた。薙払われた勢いのまま小階段を転げ落ちて、広場でひっくり返った。ここ最近、この対手主の精神状態は酷くなる一方だった。極度に機嫌悪い日が続いていたら、突如塞ぎ込んでしまうのがやはり数日。乱れきった心象は寝姿に特に顕れ、ずっと悪くなってしまって、ウルフィラは何度も夜起きして布団を直している。学習中も上半身をがくがくと揺する癖を身につけたが、家庭教師に無作法と注意されたところで自覚になかった。日々の随所に神経障害ヒステリーを起こしている。

 教圏がジェルダン海戦に揺れた秋が終わって、冬がきた。触れて支えてくれるような秋風の穏やかな気候のお陰でまだ安定していたウニヴェロッサの精神衰弱は、辛い冬を迎えると下り坂を転げ落ちていく様にひどくなった。

「ううう。うー」

 毎夜の呻き声で目を覚ましたウルフィラ。魘される対手主は羽毛を詰めた掛け布に丸くなったのが晩鐘ばんしょうの鳴った少し前。それまで邸内の祈祷堂にこもって家付き司祭を相手に祈念にふけっていた。

 この冬、ウニヴェロッサの背丈は伸長を停めた。

 教圏修道士、ヴァイサーン祈術士、エステ人医士が膝を交えて診ても成り立ちの分からない奇病である。この医師団が頭部に外傷を負った少年の同症例をようやく探し当てたが、ウニヴェロッサには武芸鍛練でついた傷の他は、玉体といえるような綺麗なものだった。つけたギナはちゃんとした煮焼きのできる男だから、どれも薄傷でこんな特異な後遺症を残すはずもなかった。

 年が改まる頃にはウルフィラの背丈はウニヴェロッサを伸び抜いた。

 ナルマー市民はウニヴェロッサと一緒に歩く対手役のウルフィラも多く見るから、グリゼリウス家に祟った変事を敏感に察した。そうでなくても人の口は吹き晒しだし、今や市中もちきりの噂。

「報いで咲いた悪い花なんざ言うが、恥知らず奴ら、そんなのは子供の撒いた種じゃねえじゃねえか。おい、あんな連中の言うことは子供の耳に毒だから一切聞くんじゃねえよ」

「そうさあ、ここナルマーの水を飲んだならあれの苦悩を我が苦しみ、日参欠かさないあの篤信に大したもんだと感心して当然だ」

 分別さかりの大人たちはみんなこう言ってウルフィラの肩を叩いて励ました。中にはこんな風に言った者もいる。ウニヴェロッサの殊勝を褒め上げたのだろうが、どうも口が悪かった。

「あれだけの徳行をご利益もなく反古にしたら、俺は悪魔に身を売るぜ」

「――神を使役しようとするな」

――へ、すいません。

 と首を縮めて言いかけたら、いつもの口災いを叱る役にしては声が幼い。そのはずだ。声主はウルフィラ。目を合わせてびっくりした。まるで尋常の目をしていない。両肩から力を抜いて今にも飛び掛ろうとする獣のように構え、眼光は有ると無いのを交互に繰り返すよう爛々と照り輝いていた。ごくりごくり唾を飲むだけで口汚い荒くれが一言もきけない。思わず二歩も三歩も後ずさってしまうような迫力であった。

 くっ、と腹を立てて話の輪から去ってゆくウルフィラを見「へ、なあんでえ、何をするかと思やあ」興奮した顔つきで言った男の頭が張られた。

「馬鹿っ! おめえがあんな罰当たりを言うからだ」

「へ、すいません。けんど兄貴、しえき、って何のことで?」

「あれが初めて剣幕を見せて言った事だ、随分ありがてえに違ぇねえんだが」

「へ。で、しえきって?」

「うるせえな。そんな一文字二文字より、主も主だが奴も奴というあの腹案を組合中に漏れなく伝えてきやあがれ。巧く行きゃあさっきのお前の罪滅ぼしにも繋がろうってもんだ。俺は材木の組合の義弟に話を持っていく」

 この男、木材職工しょっこうのリッツ。腕がいいのでナルマーではちょっとした利く顔だった。ロイター川を左手に歩いて行く。冬にしては着衣の下から汗が滲み出ようとするくらい暖かい日だった。それにさっきのウルフィラの火の玉のような一睨みのせい。

――普段は妙な愛嬌者で全く見せねえが、かなり烈しい気性者でやがったなあ。いや、いい。あれぐらいがいい。若ぇ内は親父や大人の懐で好き放題に暴れ回るくらいがいいんだ。

 リッツは元々、市外森住みの立場で炭焼きをやっていた。要に駆られて手馴染みになった木材の加工品を市の日に売っていると出来映えの良さが組合の目に止まった。賤民せんみんの炭焼きが晴れてナルマー市民となったのだが、待たせるだけ待たせて仕事を回してこない。強力な商売敵で目障りだった人気のリッツの品を封殺する謀と気付いたが遅かった。技術を渡せば仕事をやるようなことは言うが、もう信用していない。グリゼリウス家所有物になれるほど格別の腕というわけでもなく、加工に必要な工具道具も組合が預かって手も足もでない。うまい智恵も湧かず自然、自棄になって市中をふらついて掏摸すりや置引きなんかでその日を暮らすようになってしまった。市中探索中のウルフィラが手にしていたナツメヤシを悪戯心で掠め盗ったのがきっかけで、すぐ目の先にあった果実が実も影も瞬時に無くした芸当は神罰に相当する罪悪だったが、その芸の冴えの方に感心したウルフィラにどうやったのかと熱心にせがまれて悪事の伊呂波を教えてしまった。これで性根が変わるほどおめでたいリッツではないが幾ばくかの善心が働いて、どうせなら木材細工の方を、と思わないことはなかった。

 材木組合の建つナルマー西、狩人門の市壁近く。ここで注文通りの下加工をして、注文筋の各組合に水路を使って運ぶ。リッツの義弟はまだ市民ではないが材質を見る目が確かなので、組合の準構成員というような形で属している。

「やあお義兄さん」

 リッツの小悪事は耳に入っているので、どこか厄介者が来たという顔つきだった。事情を聞いて、

「ああ、石館の子のことならうちでも評判ですよ」と顔色を崩した。「なるほど。そんな事情なら親方にも話を通しましょう」と言って話に乗る気だ。

「そうか、よし。よし。材木組合の親方に口を利きいてもらえれば百人の力だ。あの人の頼みを聞かないでは今後このナルマーで木を使った商売はもうできないからね」

 皮肉めいて用件を託して伝えてるとリッツはすぐに帰った。義弟も強いてもう少し話をとも言わない。いつ正式な組合人になれるかという所で行状良ろしくない縁者と関わって悪い風評を呼び込みたくなかった。リッツは口にも顔色にもしないが、目にはそれを思いやった色が出ていた。

 材木組合の親方から持ち込まれた話が別の組合に伝わって、それがまたどう伝播していったか知る由のないウルフィラだったが、更に持つ限りの手蔓てづるを頼って手を尽くした。

 その日も今が冬とは感じないほど暖かな日であった。いつもの日参に教会へ行こうとすると、広場まで続く大通りはどこも祭りでもあるのではないかというほどのすごい人出で、いっそ暑い。各種組合、ナルマー中の手に職の人が総出でこの場に集ったのではないかと思われた。通りを塞ぐ群衆は、この先の教会には行けそうもないと、衰弱し続けるウニヴェロッサの意気地を挫かせかけたが、人々は光が影を裂くように道を開けた。その皆が皆、二人の子供の顔を覗き込む顔色といったら個々別々様々だが、窮屈と蒸し暑さに一人の不快もなくすぐにも手を叩いて迎えるような朗らかな顔をしてい、ウニヴェロッサの体は持ち前の意思もなく教会まで運ばれるかのようだった。小階段を上がって振り向けば満眼の的。

 樫の扉を開けて教会の中に入ると尚驚くべきことに、そこには席次順に座る市の有力者各組合の親方衆が、ナルマーを不在にしている者を除いては一人の抜け落ちもなく座っていた。妙なことに、普段神頼みなどまったくやらないゾルムの姿まであった。同じ場にいた修道院長カーンの眼はやってきたウニヴェロッサの背後で閉まる扉に徐々に隠されるウルフィラの姿を睨んでい、

――なんでもやりようはあるものだ。十にも満たぬたかが子供が市中を動かす法もあるか。

 と言っていた。

 物音一つない教会でウニヴェロッサが祈ると皆が追唱していく。それが声を小さくすれば小さく、大きくすれば大きくと、鐘の共鳴のように響いていった。この中ばかりではない。外では外で、ウルフィラが暖かいとは言っても話が違う石階段の上に直に趺坐を取って、アナールの無事に加えて原因不明の病症を患った対手主の平癒祈願をすると、広場中の大人たちがやはり同じように祈って見せた。二人とも繰り返し繰り返しそれだけを祈った。追唱が続く。やがて自分が先か皆が後に祈ったのか分からない。前後の境が無くなってこの場に集った人々の明確な総意であるかのように思わせた。自分は幾日母の無事を祈ったろうかと思って挫けそうになったことがあるから、こうして自分ひとりの力で及ばない難事を市中の凡その人々が手助けしてくれる有り難さに、まるで知らない嬉しさが頭の天から心の底から溢れて出てきて、あちこちがほぐれていくような気がした。

 その夜。リッツは自分を慕う悪事仲間と川沿いをぷらぷら歩いていた。まだ足元がすっかり据わらない。ナルマー市始まって以来の大祈願が終わってから時鐘は二つ鳴って、辺りはとっぷり暗くなっているのに、酔いがまだ体の芯に残っていた。広場の大人らは押し競だったから汗もかいたが、寒風が吹き曝す石階段で祈り通したウルフィラは肩まで冷え切って、血相を変えたウニヴェロッサが連れて帰っていった。

「いやあ、ただの子供とは思われねえほど大した子供らでしたねえ」

「当たり前だ。一人が母親の難儀を思いつめる余り背伸びが止まり、一人はその態に心を千切られて、何をするかと思えば自分一人だけでなくこのナルマーを巻き込んで祈らせたのがただでない子供の仕業でなくてなんだ。他人様の金をくすねるしか芸のない不細工の俺やお前で逆立ちしたってできるものか」

「いやそれはもっともだが、祈り終わって表に出てきたあの子供のやったことを見やしたか? 俺なんかは、あれを見ただけでもああした苦労をした甲斐があったと心から思いやしたよ」

「見た。見たとも。ウルフィラの話でしか聞かなかった奴が、どんなものかと腕組みで値踏みしたら、それでもナルマーの子かと唾を吐きつけたくなるような気弱で知才走った何を考えていやがるか分からねえ人相でむかむかしたが、散々仕込まれたにちげえねえ作法を無視した気障のない心の内から興った大振りのお辞儀を見たら俺も久しぶりに胸がスーッとした」

「へ。デュプレ路の羊毛商ダ・パンの奴は取引がどうとかでこの大祈願に出ることを最後まで嫌がって、組合の親方衆が談じ込んでようやく引っ張り込んだんですが、散会した頃のあの顔つきはただの気持ち良さじゃあなかったですね」

「あれも俺らと同じに金に性根を据え換えられる前は信心深ぇ奴だったが、前のドロスとの戦争で奪った商機でどう一儲けも二儲けもしようかって思案にはまって、ろくろく祈るなんてこたぁなかったからなあ。それがあんな子供に目を覚まされちゃあ、今日はああいう連中にもいい薬になったろう」

「へ、まったくで。けんど、こんな話をしちゃあご利益を遠ざける気がしてあれですが、あれの母親が無事で帰ってこれやしょうかねえ。グリゼリウス家きっての知恵者と触書ふれがきのゾルムてえ奴が神頼みに来るくれえですから、ほんとに自力てえのが通用するかって思いやすが」

「俺も口にもしたくはないが、まず難しいだろう。戦が終わって海は落ち着いたそうだが、カトレア湾を我が物にしてるっつう海賊が一隻だって船を通さねえ。泡の知り合いが言ったがメルタニアのシモンてえ執念深ぇ奴がアンゴラとダルトワを攻め落とすまでは金輪際こんりんざい続けるってえ話だ」

「そのシモンてえ奴に人の情が少しでもあれぁ、この日の噂話を聞いてせめてあれの母親だけでも返してくれるんでしょうけどねえ」

 ナルマーの大祈願はなかなか評判になった。聖公座せいこうざを始め教圏の国々、都市が聖地エメレスの途上で抑留される災難にあった巡礼者の無事を祈るための特別な儀式の口火を切っものと長く記憶された。

 しかし、リッツが言ったようにメルタニアのシモンが仕掛けるアンゴラ、ダルトワへの情け容赦ない包囲戦、これにどちらかの音が上がらない内に教圏へと帰るには、届いた祈りが奇跡を呼んで海が二つに割れるか空を飛ぶかの他にない。そうした御伽話のような出来事は現実には起こらなかった。教圏最後の頼み綱、真珠島しんじゅとうはジェルダン条約で得た特権を奮って教圏経済を掌中に収めようと躍起になっていたし、大王ルイジェセンには教圏外国家と難民を救出しようとする意志も、解決に必要と思われる時間も無かった。

 補給路を断って孤立させる干殺し戦法が効いて、まずカトレア湾東岸のダルトワが降伏。次いで北岸のアンゴラは人相食む地獄図を世に見せてまで抗戦を示すが終に征服され、第一次教圏連合軍以来続いた教圏外国家群の歴史は八八年で幕を閉じた。

 半島の外の勢力地をすべて失った教圏斜陽の中、アナール及び巡礼者の生存はいよいよ昏い。リッツは義弟に棺桶に最適な木材の選定を密かに言い伝えていたし、ゾルムも教会に葬式の予約をしていた。ウニヴェロッサもとうとう生存望み薄と念じて、一年前の大祈願からやっと持ち直してほんの微かに伸びた背丈を揺さぶる日々が続いた。やっと祈りが通じて朗報が舞い込んだのは、薫風が春の草花を芽咲かせ始めた頃だった。

 良心と信仰と教義の命じるところに従い、聖公座せいこうざはメルタニアの別宗派コンカーサ派を通じて難民返還を求めてきたが、総督シモンは権限外と言い張って取り付く島もなかったという。交渉相手が誰なのかも分からないまままごまごしていたら、即位以来不気味に沈黙し続けてきたエステ帝国の女帝アシュタルテ三世の方から、ヴォレヌスの聖公座せいこうざを教圏の最大権威と認める形で、帝国史上初めてとなる使者と書簡を送ってきた。再度半島に押し込められた教圏に対して圧倒の地歩で構える女帝が、先般からの求めに応じる用意があると、随分明け透けに言ってきたのだから幸いだ。帝国内に居住し続けたいと望むなら、特別税と引き換えに生命と信教は保証する従来通りの提案。

 公平な国際感覚に照らして見るならば、エステ帝国が歯牙にかけるに値しない対手にはこの程度の見返りを振る舞ってやるだけで十分なのだった。帝国が滅ぼすべき敵と認識していたのは常にフィーローズ朝エステであったし、難民問題にかこつけた書簡はその戦略の次なる一手だった。

 事態前進と喜んで小躍りする聖公座せいこうざの中にあって頼もしい慎重派がいる。かつて第一次教圏連合軍がエステ帝王急死の事実を知らずに安い見返りで解散した事実を思い出した聖公補佐、按察使あんさつし長を務めるフロック家のハーコン。

――此度も帝王若しくは神敵シモン奴に下った神罰を悟らせまいとする策謀ではないか。近い例ではミナッツ王を輿入こしいれ船によって陥れようとした一件を忘れてはならない。彼奴等不信心者のイブラというのは元より他人を幾度となく騙すために作られ、帝位の保全と仲間割れを誘発させるためにより一層の邪な発展をしたものであります故。

 先例を引き合いに唱えた。聖公の信任厚いハーコンの一言で自制の効いた聖公座せいこうざでは慎重論が主流を占めたが、聖公は座内の論調に検討を促されるまでもなく、女帝直々の提案に謝しつつも返還に先立つ協議を求めていた。難民となった哀れな子羊たちの生命身柄は取り返すが、帝国の真の目論見を炙り出す。その協議を契機に対話関係を築きつつ教圏が最も恐れる帝国南下を防ごうとする肚であった。頂点に上り詰めた男だけあって偉いものである。

 この頃、都市同盟の招致外遊から帰っていたロッシュローは妻アナールの生存を聖公座せいこうざからの回文でようやく知った。聖公座せいこうざが求めた協議に早々と同意した帝国は作成済みの難民名簿を添付していたらしく、どうも先手を取られ続けている。ともかく生きていた。生存の報せを受けたウニヴェロッサの喜びようは当人の性格のまま派手さはなかったが、大きいのは違いなかった。駆けたまま教会に飛び込んで行って祈った。

――御力を戴きまして母の戻りまでもう少し、本当にあと少しの所にきています。哀れと思し召しなら今一度のご加護を戴かせて下さいませ。そのためならこの命一つ決して惜しむものではありません。父も兄も決して厭うものではないでしょう。どうか、どうか。どうか。

 祈り題目をこの日もどれだけ繰り返しただろう。すっかり日が暮れて出ると、趺坐を取っていたウルフィラとグリゼリウス家の用人が待っていた。

「すぐ屋敷にお戻り下さい。ロッシュロー様が出発なさいます」

「そんな。お母様がいつお戻りになるかというのに」

「王の名代としてエステとの協議使節を拝命したと承っています」

 聖公座せいこうざが求めた協議に同意した帝国は一つだけ、ある人物の出席を要求した。エステ帝室とは因縁深い教圏俗界の最高権力者ミナッツ王ルイジェセン二世。しかし彼は自分から絡んだ因縁だというのに老齢を理由に出席を辞退してしまった。代理に推したのが本土代官のロッシュロー・グリゼリウス。煮られるか焼かれるか分からない、まったくもっていい面の皮だ。王国の外交には中枢の真珠島しんじゅとうから専門の役人を、エステ帝国ほどの大物ならば王義弟で大法官だいほうかんのルシャートの出番になるところだ。本土代官の権限は地方統治に限られてい、帝国側から見れば王国中枢の政治に参画できない小物でしかない。

「お父様、きっとお母様を無事にお連れ帰って下さいますね」

 母の難儀に目が行きすぎて、父もまた土壇場どたんばに等しい死地に向かわねばならぬことにウニヴェロッサは気付いていない。母を助けに父自ら往くと見て晴天を歩む心地に包まれてい、その双眸といったら煌いて世に一つの汚穢もあるとは知らぬ赤子のようであった。顔にはべったり書いてある。お父様を尊敬しております。

――子供らしいといえばそうだが、どうもな。まあよい。まずはアナールを戻してからの話よ。あれがおらねばこの子供奴、何一つ手がつかぬとは。こ奴に引き換えウルフィラは目端が効く。お気をつけてどうぞなどと、ぬけぬけと。

 協議の場は帝国と教圏の因縁が深い土地が選ばれた。カトレア湾を出、南東に浮かぶデロンギ島。かつては帝国領であったが、第一次教圏連合軍にメルタニア及びカトレア湾周辺地域が占領された事で孤立。後にドロスが占領し、強固な要塞化が施され教圏外国家群との交易の拠点であり、地形上、真珠島しんじゅとうの目の上の瘤だった。ジェルダン条約にはこの島の割譲が含まれていたが、ドロスの粘り腰で長引いた交渉の間にシモンによって火事場泥棒されてしまった。所有権を主張する者が二つも三つもある係争地である。

 この協議にロッシュローを代理として送り込んだルイジェセンの手際は見事であった。所有主よりもグリゼリウス家への恩義を優先するかもしれないと杞憂した聖公座せいこうざの代表団は、優秀な活性奴隷を同席させなかった。対手というのがエステ帝国が誇るただでも強力な官僚集団で、女帝の下で文字通りの一枚岩だから手に負えない。正しく手玉に取られた。聖公座せいこうざだけが失態を犯す分にはミナッツ王国の望むところでもあるので、王の意を汲んだロッシュローはさも手も足も出ないという態度で反論もせず黙っていた。それよりも、女帝アシュタルテ三世自身がデロンギ島などという僻遠地に登場したのだから使節団は泡を食わされた。

――噂に違わぬ畏怖する美貌、世に在らずべき妖艶。

――長く波打つ黒髪、豊潤な大地のような肌、眼力は高貴に充ち、相対者にも高所から見下ろされている錯覚を施した。

 使節の何人かがアシュタルテをこのように記している。この時代、個人描写というのは極めて稀で、偉丈夫だとか神の如きといった通り一遍の褒め文句か、強欲や悪魔の手先といった競者排撃の態しか取らない。本当に美女だったのかは知らない。

真珠島しんじゅとうの統治を任せている臣はどこか」

 それはさておき、たかが難民解放協議という矮小な話に女帝が玉体を露わすわけがない。協議の本題そっち抜けで腹蔵ふくぞうも何もなかった。口にしないだけで誰もが痛感している帝国と教圏の力関係を無理性に、傲慢なほど明確にした上で、ミナッツ王を引き合いに宣撫しようと見せたのだった。教圏に覇を唱えた大王ルイジェセンさえ地方総督と蔑称した一言については根拠のない妄言とは言い切れない。金貨王と名高いミナッツ王ロヨラ四世がエステ帝国と結託して、真珠島しんじゅとう軍艦島ぐんかんとう小麦島こむぎとうの王を任じられた過去がある。金貨王の世継ルッジェーロ軟弱王の代で国交は断絶されたが、事実は事実。そして事実とは見出される時と場合によって値が上がりも下がりもする。ついでに人によっても。

――教圏俗界の最高位とやらも帝国の一臣に過ぎない。考え直すがいい。臣従の礼を捧げるのならばさように恐れる謂れはない。

 そう言わんとしているのか。ハーコンは正しくそう理解した。ヴォレヌスの聖公座せいこうざを中心とした教圏の所有者は、ただ神のみ。神の代理人たる聖公のみと標榜する聖公座せいこうざには呑めない論理だ。諸王の王の責務をなんら果たさないルイジェセンを擁護する論法もまた虫唾が走る思いであるが、ミナッツ王国の歴史を紐解いて、その王位の発生がエステ帝国による叙任の以前からあったのだと論陣を張って、ロッシュローもまた加勢に出ようとしたが、

「何の故で口を開けおるか」と一蹴されてしまった。ここで黙ったら按察使あんさつし長も聖公補佐も勤めていないハーコンだが、帝国南下の都合を与えてはならぬときつく念を押されている身でもあり、せめて承知したわけではないぞという目で睨めつけて、口をつぐんだ。老練なルイジェセンはミナッツ王位の来歴に付け込もうとするアシュタルテの手を読んでいたのかもしれないが、教圏有力者が居並ぶこの席上で、ミナッツ王が帝国との数少ない直接対話の窓口となる印象を与えてしまったことまで読んでいたかどうか。

――果たして幸か不幸か。

「老齢? なら、はよ後継を定めさせよ。ただしよほど慎重に。禽獣輩が王位にたからぬ前に」

 もうロッシュローは簒奪さんだつを匂わせる言葉に触れてもその風情に波一つ生じない。とっくに肚は剛毅だ。やると決めて動かない。

「さて、帝国まで聞こえる奴隷商の頭領よ、そちにひとつ頼もう。余の船に来るがよい」

「は」

 ミナッツ王ルイジェセンを臣と蔑したからには、本土代官ロッシュローは辺境の陪臣の他ない。帝室の威信にかけて面座を許す相手ではないが、どうも商人としてお召しらしい。好機だ。アシュタルテは他国の協議団を迎えるもあろうに式服礼服もない寛衣姿。他のあらゆる身振りでも使節団長のハーコンをさえ下郎の扱い様である。その巨大すぎる存在感のまま臨席されていては協議の主導権は梃子でも動かせそうにない。ハーコンらは行ってくれ、と頼むようであった。

 全身の腱の柔さの素晴らしさを窺い知れるたおやかな歩法の女帝を囲む従者、御親兵の女官の後ろから教圏と帝国の力関係をくれぐれ眺めるロッシュローの目には、協議の行く末が浮かんでいる。好機どころじゃない。教圏最強国の代表であり、鋭い国際感覚を有する教圏側の一番駒が何もできないまま釣り出されてしまった。女帝登場の衝撃が深々打ち込んだ楔のせいで、話し合いは踏み止まる事さえさせてくれないだろうと予感した。

 協議代理出席を王命したものの、公式には海船を持てない本土貴族のグリゼリウス家。デロンギ島までは真珠島しんじゅとうが用意した御用船に乗せられて来たが、恐ろしくもこれが特殊工作船団トッレの所属と見え、船員やバルボアと名乗った世話役をじーと見ると油断も隙もない顔つき。殊に目つきの鋭さや異変の敏さは猛禽のようだった。グリゼリウス家の動向に神経を張って監視するトッレとて、前準備もなくエステ女帝御座乗船に忍び込んで話の脈絡を得ようというのは無理だ。為す術なく女帝アシュタルテに続いて御座乗船に消えたロッシュローの後ろ姿を見ていたら、ややあって巡礼途上で行方不明になっていた妻アナールと連れ立って戻ってきた。

「とうとう取り戻しましたな」バルボアは聞いた。興味津々の顔だが、目つきはわざわざ刃物で切りこみを入れたのではないかと思うほど鋭く、据わっている。

「ウム。この世ならぬ苦労をかけてしまった。早くナルマーで休ませてやりたい。ところで協議の行方はどうなったかな」

「ハーコン殿の顔色は不首尾を物語っていましたがなあ」

「やっぱり間者を紛れ込ます腹かな」

「そんな狡い手を出すようなエステでもないでしょう。一応、名簿に記されていた真珠島しんじゅとうの難民は身元を確認しましたがね。本土の方の身元確認は代官殿の務め。女帝殿とどんな商いかは存じないがゆめお忘れないよう」

「重々心得ておるとも」

 協議はバルボアがハーコンの顔色から読んだような不首尾。整った官僚同士の話し合いの経験に長けた帝国側は、今言ったことさえ今変わる教圏使節の脈絡の無い、ほとんど天災同様の交渉術に呆気に取られて、危うく土俵を踏み外しかけた。交換できる言葉を持たない野蛮者なのだなと解して、権道を用いて力ずくで従わせた格好だった。話し合いとは名ばかりの、虐殺の様相まで呈した蛮行のこの顛末を目と耳に焼き付けた聖公座せいこうざだったが、逞しくも一つの利用価値を見出した。こちらの聞いてほしい話にまったく傾聴の姿勢を見せず自分らの主張だけは居丈高になってがなり立てる厄介な難敵は、ミナッツ王を教圏からの対話窓口とするように匂わせていた。フィーローズ朝エステとの結びつきを強め、先帝捕囚事件を起こして以来、真珠島しんじゅとうとエステの関係は修復不能の段階にまで来ている。万万が一、対話交渉の場が立ったとしても良回答を引き出せはしない確信は一つの収穫だった。

――ならば幾つもの難題を用意してエステとで真珠島しんじゅとうを挟み撃ちにできないものだろうか。

 泥舟に乗るよりも生きた心地のないトッレの御用船は、かつてベルデナンを葬ったように沈むこともなく、ロッシュローとアナールを無事にナルマーに送り届けた。沖から艀舟に乗って来るのは紛れもなくアナール。グリゼリウス家の主だった面々、ウニヴェロッサは瞳を爛々と照り輝かして桟橋さんばしにいた。港の辺りは一面に人が集って二年半越しの母子再会を見守ろうとしていた。

 艀舟が桟橋さんばしに接岸するや、アナールは人の手を借りるどころか自らでひょいと飛び移って家族の元まで駆けて寄った。

――お、おのれ、成り上がりの奴隷屋奴ッ! 我らトッレの目を盗んでナルマーの民心をここまで得ていようとはな。

 多くのナルマー市民がもらい泣いた再会劇を海上から見物していたバルボアは陸から吹き寄せる尋常でない熱風に船が揺らぐのを感じた。しかし、もっと重大な見所とすべきはそんな私怨を焚き付けた遠い景色ではなかった。再会に耽る親子にほんの効いた言葉をかけてすぐにロッシュローの元に寄った家令ゾルムは、すぐに頭脳に鳴り響く遠雷のような予兆に晒された。何かが危うい。おかしい。些事で済まされない強い違和感が胸を突いて背中まで透ってくる。

――右手の指輪、あれは初めて見る。玉のそれぞれはかなり上等。いや、並べ方だ。おかしい。あの玉合わせはおかしい。二つある紅玉は一体。翠玉や石榴石、他は一つずつ。紅玉だけが二つ。

 遠雷のようだった予感が次第に高まり、遂に直下する雷となって頭脳に落ちてきたように閃くと、ゾルムはギナの目にさえ止まらぬ驚くべき速さでロッシュローの右手薬指にはめられた指輪をその手に包んで隠してしまった。かつてどんな小さい粗忽な沙汰も見せたことがなかったので、ロッシュローが物珍しさの目で見たところ、血相がひどく変わっている。

「お、御館様、こ、この指輪、いかがされました」

「ウム? アシュタルテ帝所望の奴隷の代金として受け取った。帝国製にしては大分無骨だが、こちらの水準に合わせて作ったものかな。いや、なかなか計らってくれる」

「宝玉の並びようをご覧なされませ」ぐっと力を込められて微痛を感じていたロッシュローは、指の隙間から、指輪の天頂部に並ぶ宝石を見た。紅玉、翠玉、石榴石、紫水晶、紅玉、金剛石。紅玉が不自然に二つ。

「ウム。凶事を招き寄せる呪詛呪いの玉合わせではないが」

「玉の頭文字を順にお読みなされませッ」

「あっ!」ロッシュローもようやく気付いた。その単語は古典サーニー語で、好意を含む信頼を意味した。

「この指輪、他の誰に見られました」

「船上で終始つけておったからには、トッレの連中には悉く見られたであろう。く、勘付かれたと思ってよいな」

「それがよろしいでしょう」

「ホッ。この指輪が代金とはまったくやってくれる」

「一体何の代価なのです」

「王よ」

「え」

「あの小娘、飛んだ偉物であったわ。先帝を陥れ帝位の威信を疵付けた怨みけして忘れぬと息巻いておったが、どうするかと思えばこの俺を捨て駒にミナッツを割る腹積もりであったか」

「捨て駒。エステは後ろ盾になりませんか?」

「俺が他力を頼まぬのよ。話がややこしくなるし、向こうもこっちが期待するほどの深入りをすまい。だが、どんな形にせよこの指輪の借りは返してやらんとなあ。王の次は女帝でも活かしてみるかな」

 ホッと感興からくる笑いを零し、不敵なるロッシュローは抱擁を続けるアナールとウニヴェロッサの側で足を止めた。妻と子の背に手を当てる慈父の姿を見、ナルマー市民の盛り上がりはいよいよ頂点。

 アナール遭難からここまでで、グリゼリウス家は王の下され物に過ぎなかった代官を越える名声を獲得した。海船と川舟を兼ねる新造船ナルマコックはドロス奇襲で大いにその性能を見せつけ、ロッシュローの外遊をしても停滞していた都市同盟の発足を促した。消滅したドロス商圏を我が物とするのに快速で小回りが効くナルマコックは大いに魅力であった。ナルマーはその支配的盟主に収まり、同盟都市の商売上のいざこざの調停と統制を敷いてその威勢は大いに盛んとなる。そして子供二人が齎してくれた篤信者という見方に応じ、難民の生還を祝う名目で郊外に大聖堂の建設が始まる。

 市民の歓声をその余勢に駆って始まるナルマー市・グリゼリウス家絶世の始まりの中、知恵者の知恵の分限を越えた主人の野心に怖気がついた自覚を否定せずゾルムは醒めていた。冗談とも本気とも分からないが、第二第三のウニヴェロッサを生み出そうとする欲目は危険だ。ミナッツ王位を狙う企ては聖公座せいこうざとミナッツ王家の仲が険悪であるから黙視されているだけで、ある一線を越えてしまえば火種になる。王冠を脅かされた者たちが王制そのものの脅威を一斉に潰しにかかるだろう。これ以上王を自家製造する必要はどこにもない。王がまだまだ必要ならウニヴェロッサを成功させた後に種馬にでもすればいい。活性奴隷販路拡大のための技術標本であるだけで成果として上々なのだ。

――これは余り深入りせんほうがよいかな。

 ふっと距離を置こうとする考えも湧いたが、ここまで来て全体どんな道を行けば引き返せるというのか。ゾルムの頭脳をもってして出せた妙案の導き手は、すぐ目の前の景色に浮かんでいた。本土にも時を報せる軍艦島ぐんかんとうの船団は南を過ぎた。

――どうせもう一度やる時間は残されていまい。結局、この企画は何としても達成せねばならんわけか。

 市民の歓声と潮騒の音の中に、ゾルムは秘かにため息を混ぜた。

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