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帰路  作者: 春天
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第一章 異国少女

序章


「麗ちゃーん!勉強終わったよー!あそぼー!」

 小さな男の子が、木の下に立っていた女の子にそう駆けてきた。

 女の子は、その声に反応する様に、素早く顔を男の子に向ける。その顏には、男の子の問いに対する肯定の色は全く見えなかった。

 男の子が、息を切らしながら女の子の前に立つと、女の子は顔を背けた。

 男の子は、どうしたことかとびっくりした顔をして、声もかけられずその場にただ突っ立っているだけである。

 風が二人の間を流れた。男の子のもみあげが、風にそよぐ。全力で駆けてきたのだろう、男の子の顏には、大量の汗が吹き出していた。

「麗ちゃん、どうしたの?僕、何か怒らせる事した?」

 恐る恐る男の子は女の子に声を掛ける。女の子は、そっぽを向いたまま答えた。

「…利児、私と結婚するっていったじゃない、そうでしょ?」

 その声は、少しかすれていた。男の子は、突然出てきたその問いに対して、驚いてしまったのか、粗い息を整えるのみである。

 女の子は、男の子の答えを待たずして、続けた。

「将来、官僚になって私を幸せにしてくれるっていったじゃない、そうでしょ?」

「う、うん!僕、麗ちゃんのためならなんだってするよ。そういったもん。どうしたの?」

 二回目の問いに、男の子は慌てて返事をする。走ってやってきて突然かけられた謎の問いに、男の子はようやく理由を尋ねた。

 その答えを聞いた女の子が男の子に振り返る。その目は、真っ赤に染まり、幾筋の涙が流れていた。

 男の子は驚き、目を丸くするのみ。

「園も利児と結婚するって言ってるのよ!どういうことよ!」

「園……?」

 男の子は驚いている様子であった。

「僕、園にそんな事言ってないよ!」

 そして、狼狽しながらも、女の子に、必死に訴える。その目と行動は、まるで何か大事なものを壊してしまったかの様であった。

 すると、女の子は声を上げて泣き始めてしまった。男の子は、どうしたらいいか分からず、ただ、真っ青な顔をして女の子を見るのみである。

「利児のうそつき!大嫌い!もう遊んでなんかあげない!」

 そういって、女の子はその場を走り去った。男の子は一歩歩み出たが、そのあとはその場に立ち尽くすのみであった。

「れ、麗ちゃん!待って!待ってよ!そんなこと言わないでよ! 」

 必死に声を上げるも、そこにはもう女の子の姿はなかった。男の子は、それでも必死に叫ぶ。

「お願い!お願い!麗ちゃん!麗ちゃん!!」

 誰かに懇願しているのか、それとも、ただ叫んでいるだけなのか。男の子は、その場から動かず、涙を流しながら、そう叫ぶのみであった。




「あら、利児。どうしたの?」

 そういって、取次の侍女の後ろから、ぽっちゃりした釣り目の女の子が出てきた。

 そこは彼女の住まう家であろうか。門から見える内観は正に豪邸そのもの。庭は、池を眺めることのできる東屋があり、各部屋に続く渡り廊下が幾本も見える。

 そして、彼女の目線の先には、目を真っ赤にして、彼女を睨んでいる先ほどの男の子が姿があった。

「…僕、お前と結婚するだなんて言ってないぞ」

 男の子は、低い声で、ぶっきらぼうにそう言い放った。

「はぁ?」

 女の子は、一体何の話であるかという顔をして、男の子を訝しそうに見る。その表情はまるで先の男の子の表情と変わらない。

「お前となんか結婚する気は更々ない!」

 男の子は少し大きめの声で言い放つ。それでも、女の子の方は、まるで謂れのない中傷を受けているかのような顏で男の子を見ていた。

「何言ってるの?意味がよくわからないんだけど」

「ふざけんなよお前!麗ちゃんに何か変な事を吹き込んだろ!」

 男の子の声が怒声に変わった。顏は朱色に染まり、拳を握っている。

「あぁ、何だそのこと。だって本当の事だもん。」

 女の子は、男の子の怒声にまるで気にも留めていないような、寧ろその怒る姿を小馬鹿にするような目で少し身長の低い男の子を見下していた。

「何言ってんだ!鏡って見たことあるか?お前!」

「だぁって、私の父上がね、 白のところの利児が科挙に及第したら贈り物をして 絶対に利児の嫁にしてやるって言っていたのよ。それをあの麗に言ってやっただけ。なんか文句ある?」

 自慢げにふんぞり返る女の子の姿を、少年はただ睨んでいた。その態度が、女の子の癪に障ったのだろう。女の子はそっぽを向き、ふくれっ面になる。 

「利児は将来お金持ちになるのよね~、はぁ私も胸躍るわぁ~」

 まるで男の子のことを、自分を満足させる為の道具の様な扱いをしている発言。


―パンッ!


 大きな音が、辺りに響く。その発言に頂点に達したのか、男の子は女の子の頬に平手打ちを入れたのであった。

 女の子は、一瞬、惚けた顔で男の子を見ていたが、痛さと混乱からか、声を上げて泣き出してしまう。

 側に控えていた侍女は驚いて、女の子に駆け寄り、抱き上げる。そして、目を釣り上げて男の子に何か言おうと口を開けた。

 しかし、侍女は男の子を見た瞬間に、声を掛けることを諦めてしまう。

 男の子は、恐ろしい目つきをして泣き続ける女の子を睨んでいた。その目は赤く光がなく、一瞥されただけで足がすくんでしまいそうな、鬼が宿った様な眼差し。

 仕方なしに、侍女は、女の子を連れて、家の中に入って行く。女の子の泣き声は、相当大きいのだろう。男の子の立っている戸外に小さく響いていた。

 男の子はしばらく、その場に顔を伏せて立っていたが、やがて、泣きじゃくりながらその場を去って行く。男の子は、何故泣き出したのか、その理由は誰にも、本人にでさえもわからなかった。

 風が土埃を起こし、男の子のもみあげも風に煽られて流れている。男の子の姿は、土埃に隠れて見えなくなってしまった。




「見て、あいつよ、あーいーつ」


「え?何々?」


「麗と園に喧嘩売ったやつ」


「あー、ね。金持ちかなんか知らないけど、女の子に手を出すなんて最低だよね」


「麗も園もカンカンらしいよ」


「よくこの通りをのうのうと歩けるよね」


「大体、①女の子と遊ぶのは七歳までだっつの」


「勉学していない私たちでも、わかるのにねぇ」


「あれは落ちこぼれるわぁ」


「ねぇー」



①女の子と遊ぶのは七歳まで…『礼記』の「内則」に「七年男女、不同席、不共食」とあり、七歳にもなれば男女の区別を正しくつけなければならないとする考え。




第一話 えうふりゃひーりの


―またあの夢か


 僕は木下で友人を待つ間、本を読んでいたがいつの間にか寝ていたようで 運良く悪夢に突入する前に現に戻った。 顔の上にかぶせていた本を取る。


―もう、十七年も前の話なのに


 僕は木に寄りかかっていた体を起こし、足を伸ばし辺りを見回す。


―あいつはまだか…いつも遅刻するんだから。


一息ついて僕はまた本に目を落とし、その頁からまた読み直す。


 今は二月の終わり。春の兆しが見え隠れする季節。

 空は清澄、雲はゆったりと優雅に流れ、風に撫でられ擂れる木の葉と水の音が耳に心地よい。木陰の影が優しく僕を包み込み僕は安堵の中を平穏に生きる。

 僕が今読んでいる本は孔子とは対立した思想をもつ老子。 無論、①郷試を及第するほどの僕。一通り暗記はしている。しかし、文字を見てまた納得する過程は本でしか得られない。

 だから僕は、こうして繰り返し本を読む。

 

 あぁ、故人は素晴らしい。 こうして古書を眺めて遥か遠くを思いやるだけでも僕の心は清々しくなるばかりだ。


 僕は瞼を閉じて己の世界に浸る。


 今から何百年も昔にこんな素晴らしい教えを説いた方々… あぁ、僕も彼等のような師が身近にいてくれたら 僕はどれだけ変われただろうか。


 僕は感傷に浸り目頭が熱くなる。それと同時に足まで熱くなり、地に根を張ったように動かなくなった。


 足?熱くなる場所を間違えるほど僕の心は困惑しているのか。


 僕は将に雫の溢れそうな目を開く。

 すると目に飛び込んできたのは僕の膝の上に馬乗りしている奇妙な物体であった。

「なっ…!」

「きゃっ」


女っ―!?


 僕は膝の上に乗っているそれが女だと判るとひざの上から払いのけた。 女は声を上げて地面に叩き付けられる。

 僕は立ち上がりその飛ばされた女に歩み寄り、それをみた。


 その格好はまさに奇矯。白い短い上着に青い奇妙な衣を身に纏い、 二つに分けて流した髪を首元で結わえた髪型の若い女であった。

 都では女が胡服こふくを来て馬鹿騒ぎしていると聞くが この田舎でも同様な事が起きているのであろうか。

 馬鹿馬鹿しい。

 僕を今にも泣き出しそうな怯えた目で見ている。驚いたのはこっちのほうだ。ここは親友の子猛と僕の二人しか知らない場所。聖域とも思しきこの場所に女が紛れ込んだのだから、僕の驚きは二重である。

 だが……

「この辺では見かけない顔だな、名はなんと言う?」

 僕は女と目線を合わせる為に膝をつき、そう語りかけた。


―自ら女に話し掛けるなんて…。


 僕の心中では得体の知れないもの同士が葛藤し 、鼓動が高まる。

「あ…えうふりゃひーり」

「は?」

「え、えうふりゃひーりの…」

 何を言ってるのか全く理解できない。こいつ、もしかして異国の民か。

 僕はそう思いつつも僕はわかりやすい言葉で言い直す。

「お前の名前だ。名前」

 しかしそれでも女は理解していないようで 同じ目線のはずなのに上目遣いで僕を見る。 何だこいつ。

 すると女は何か思いついたような顔をして地に目をやり、手に納まるほどの少し小さめの石を手に取り何かを書き始めた。

 変な娘だが、面白い。僕はその様子に見入る。女の漂わす雰囲気に陶酔していたのか、 気が付けば女の調子に引き込まれていた。

 しかし、彼女が書いた物を見て僕は驚きを隠せなかった。


我鈴《私は鈴》


 その文字の形は、我らと似たようなものだった。

「…鈴というのか」

 僕は驚く中、彼女にそう問いかけた。すると女改め鈴は首をかしげて「鈴」という文字をさす。

「すず?」

 彼女がはじめてまともな言葉を口にした。その声は透き通っていて、巷の女の声と比べたら失礼に値するほど綺麗な水晶のように澄んだ声であった。

「…そうだ、それは『すず』と読むんだ」

 僕は、顔をそらす。戸惑いを隠せない。

「へぇ、すず」

 彼女は自分を指を刺し、嬉しそうに己の名を僕に告げる。分かってるというに。

「私の名は、白里。徳竜と呼べ」

 僕はどうしても己の名を、彼女に伝えたくて文節ごとに区切り、身振り手振りを加えて名を教えた。

 どうしてなのかは、自分でも分からない。

「とくりゃうとよば?」

「違う、徳竜だ。徳竜。よばなぞ言っていない」

「むぅ……とくりゅー?」

 鈴は子供が拗ねたような顔をして僕の名を呼ぶ。全く、何歳児なんだこいつは。

「そうだ。私は徳竜だ。忘れるんじゃないぞ」

首をかしげる鈴のために、鈴が握っていた石をとり、同じように地に文字を書く。


《不可忘》《忘れる事は許さないからな》


 すると、やつは一笑いすると嬉しそうな顔をして頭を縦に振った。鈴の髪が風にあおられ揺曳する。


―こんな女、初めてだ。


 風が通り過ぎて髪が降りる。

 それと同時に鈴の顔に雲がかかったように笑顔が消えた。そしてうつむく。どうした、急に。

 僕は顔を覗き込む。女の大きな瞳からは雨に振られているかのごとく、涙が溢れ出ていた。

 僕は狼狽し、己の手を宙に踊らす。

「どうした!」

 鈴は僕の声に応え、溢れんばかりの涙を抑えようと必死に涙をぬぐいながら顔を上げる。 その姿を見ると僕は胸が締め付けられるほど痛い。

 何故だ。あの時以来、幾千もの女を翻弄してきた僕が、今、たった一人の娘に翻弄されるなんて。

 女の悲哀な顔になど、もう騙されないと思っていたのだが…。

「とくりゅー…ひゃふひひぇいりゃお…ひゃふひひぇいりゃお…」

「な、何だ?」

 嗚咽の中、鈴は己の言葉で必死に僕に語りかける。残念なのは、僕がその言葉を理解できない事だった。

 僕は不甲斐なく、ただその場で鈴を見ていることだけしか出来なかった。


―こいつは本当に何者なんだ。


 鈴を見つめるほど、僕の心にはその一点に絞られてゆく。普通の男ならばこんな女、置いてどこかへ逃げ去るだろうに。そのときの僕は異常だった。

 こいつは、いつの間にか僕の膝の上にまたがっていたな。

 でも、気が感じられなかった。可笑しい。僕は華奢だが武芸には長けている方だ。②桜桃宴のときでも自負できたほどの腕前の。

 本を読んでいようが人の気配を感じるのはわけない。だが、この娘は僕に気付かれもせずに近づき僕の膝の上に跨った。何故またがったかはわからないがそれは紛れもない事実。 馬鹿な、こんな娘が。こいつは普通の人間なんかじゃない。

 涙を拭う鈴を横目に僕は懸命に、己の冷静さを取り戻そうと必死に思弁した。

「徳竜!」

 そうしていると後ろから僕の待ち人の声がした。渡しに舟とはこのことである。

「し、子猛、遅かったじゃないか」

「はは、わりぃわりぃ。 仲間に捕まってさ。おっ、誰だよ、その娘」

 鈴に目をかけたのは親友の趙元。字は子猛。彼の父と僕の父は同郷の友であり、その関係上、物心ついた頃には彼は無二の親友として存在していた。

 勉学は嫌いだがそこら辺の書生よりも教養を持ち、武術は好きだが華奢な僕よりも腕が上がらないという面白い奴で多様な逸話を持つ済州一の有名人である。

 一方、鈴であったがやつは巨漢に恐れをなしたのか、止まらぬ涙を拭いながら這いつくばって僕の後ろに隠れる。

「鈴という」

 僕はやつを他所に立ち上がる。

「へぇ!珍しい服だな、都で有名な胡姫の服か?」

 子猛はそういうと、僕の後ろに隠れた鈴の腕を掴み引っ張り出す。鈴は驚き声を上げた。 いつものことながら、何たる勇猛さよ。

 僕はため息をつき苦笑する。

「俺、子猛って言うんだ」

「え?」

「話をしても無駄だぞ。僕たちの言葉は通じない。特にお前の済州訛の混じった言葉ではな」

「あぁ、な。都の訛なら通じるのな。よぅし」

 そう言うと子猛は、慄く鈴の肩をしっかりと掴み、何故か渾身の力を込めて己の名を告げた。

「俺、子猛!」

「し、しまう?」

「そ、しもう!よろしくな!」

 そういうと子猛は笑って鈴から手を離し、肩をポンポンと叩いた。鈴は先程の涙は何処へやら、子猛の笑顔に応える様に微笑んだ。

 そして子猛が僕のほうに目線を向け語りかけてきた。鈴も子猛の視線の先を見る。

「しかし、徳竜、お前酔ってるのか?」

「は?何故、僕が昼から酔うのだ」

「いや、お前が女を傍に置いておくからさ」

「あ、いや、それは」

「徳竜はこういう娘がお好みか」

「ち、違…」

 僕が子猛にからかわれて懸命に否定する中、鈴は何かを思い出したように木陰の方に走り出した。

 突然走り出した彼女を僕らは呆然と見る。

 すると彼女は何かを抱え持って戻ってきた。

 黒皮の、茶皮の柄の付いた珍しい箱。 どうやら彼女の荷物らしい。

「話の途中で逃げ出すとは度胸あるなぁ、あぁ?」

 そういうと子猛は鈴に顔を近づけた。その距離はあと少しでも身を乗り出せば唇が触れる程の距離である。

 この子猛の名前所以の勇猛さには敵わない。鈴も女、驚き頬を染め、顔を反らした。だが身を持ち崩し倒れるなど誰が予想しえただろうか。

 彼女は声を上げてこけた。僕ら三人はしばらく辺りの鳥の囀りに包まれ固まる。

 その沈黙は勿論、子猛の笑い声で吹き飛ぶのであったが。

「おいおい、見たか?こけた!こけたぞ!いい、この娘、可愛い!」

 子猛は異常なまでに興奮し、こけて更に羞恥を感じたのか、鈴は荷物を抱え恥らう。

 様ないな、女。

 正直なところ、こんな顔を赤らめ恥しがる女を見た僕は一種の優越感を感じていた。

 なんだか、気分がよい。しかし、それはいつも抱いている「優越感」とは少し違ったものだった。

 僕にはそれが何なのか、よく分からない。

「そんなもんなんですかね」

 僕は興奮した子猛の言葉をはぐらかし、空に目を向ける。

「なんだよ、ほんっと、女のことになるとつれないな。なぁ、鈴ちゃん」

 子猛はしゃがみこむ鈴を抱きかかえ立ち上がった。鈴は抵抗するというよりは寧ろ落ちないようにしっかりと右手で子猛の服にしがみつき、左手で荷物をしっかりと抱く。

 まぁた始まった。あのクセ。

 子猛は気に入った女子と会話が弾むとその女子を抱きかかえるクセがある。

 酒場の席ではそれ以上の行為に進もうとし、何度僕が抑えた事か数知れず。無論、女と席を共にすること自体、僕には苛立たしくて仕方のない行為であるので、そのことで彼と喧嘩に発展する事もしばしばあった。

 その酔いが覚めるたびに、不思議とお互いの青痣だらけの顔を見て笑い合い、喧嘩のことなど忘れてしまうのであったが。二十六になったと雖も、酒を飲んでしまえば青二才っぷりが露呈すると言うわけだ。

 さて、女も子猛に抗えばいいものだとお思いだろう。だが女も女で子猛の思うままに従うのでどうしようもない。子猛は済州一の有名人、あまつさえ逞しい風貌と性格の持ち主。女が彼を放って置くわけがない。

 更に、こいつは伊達に好色ではない。彼に抗う女がいたとしたら間違いなく男だ。奴と一緒にいたこの十数年来、あの行為を拒んだ女を見たことがないからな。

 だが、鈴はそんな逞しく勇猛な子猛ではなく、貧相で軟弱な僕を見ている気がする。

 どうでもいいか。

 僕は子猛に視線を戻した。

「…お前も本当に無粋だな」

「なんだ?横取りされて悔しいのか?」

 子猛はいやらしい顔をして僕にそう言い放つ。僕は応える気すら無くし彼をただみるのみであった。

 すると奴はいきなり目を瞑り鈴の黒く流した髪に顔を寄せる。そのときはじめて鈴は抗ったが、もう為されるがままである。

 僕はそれを見るのには慣れているはずだったが、今回は非常に不快だった。

 僕は顔を背け舌打ちと同時に唾を吐き捨てる。それは遠い昔に治したはずのクセだった。僕は口に手をあてて呆然と立ち尽くし吐き捨てられたものをみる。

「何だこいつ!すっげぇいい"臭い"がする! なんっつーか…③桂花のような"臭い"がさぁ!」

「それは"臭い"じゃなくて"香り"だ」

 僕は手を口から離し、それだけ言い放つ。 目は地を見つめたままだ。子猛は微塵にも気づいていないようでお構いなしに話を続ける。

「そんなこというなよ、ホラ、お前も嗅いでみろよ。本当にいい"臭い"するからさぁ」

「興味ないね。帰る」

 不愉快の頂点に達した感情が僕の体を反対側に向かせ、僕は家の方に向かって歩き出した。

「お、おい、待てよ。俺、お前のおじさんに用事が…」

「大切な用事なら終わったあとにでも来い。父上も僕もまだ④旬日はここにいる」

 僕は振り返らずにそう答える。ただただ、目の前に広がる森を前に歩くのみだった。




 久々に若い女と話をした。

 僕は木漏れ日の中、木々の間から染み込むように流れ込んでくる鈴に心を動かされながら昔に思いを馳せ、歩く。

 都が懐かしい…幼い頃にもどったみたいだ。学び舎、店の皆、賑わいのある通り、劉先生。てが一瞬にして僕の脳裏を過ぎった。

 そして思い出したくもない初恋の日々をも―。

 女嫌いで有名な僕だって人の子。人並みに初恋は経験している。

 その初恋のお陰で僕は若干九つにしてこの世の"生き地獄"を体験させていただいたが。 それが原因となって、僕は女が怖くて外に出られないという男としてあるまじき領域まで落ちぶれた。

 普通の家庭であれば父より「根性なし」という烙印を押され、邪魔者扱いされるのであったが、僕の父は怒りもせず、僕のことを都の占星術師の劉先生の所に相談をもちかけた。そしてその明くる日、僕はお手伝いの鈴明と共に父方の祖母のいる済州へと旅立った。

 それからその地元の学校だけでは不安だからと楊先生を家庭教師に付けてもらい十年余りを過ごし難なく⑤郷貢進士に。後は二ヵ月後に控える⑥会試に及第するだけとなった。

 しかし、会試は貴族の方との雑談。もう及第は決まっているも同然であった。

 長かった。"あれ"から。"あれ"以来だろう。まともに女と話したのは。

 女に話し掛けられれば睨み嫌味を含んだ挨拶を返し、相手から睨まれ、罵られれば己の手を染めぬやり方で報復していた


この僕が―――


 頬を撫でゆく風と、体に染み込む木漏れ日が一体となり森を駆け抜けてゆく。

 僕の中ではあの"鈴"が過ぎった。


あれが男であれば良い友になれたものを―。


「そういやぁ、あの娘は妖術使いかもしれなかったな。いやぁ、子猛が心配だ」

 僕は周りの誰かに訴えるように独り言をつぶやくと来た道をもどろうと後ろを振り返った。

 すると、僕に触ろうとしたのか、 行方のない手の所在を求め、息を切らしている鈴がそこにいた。

 僕は二重の意味で驚きその場に立ち尽くし、声が出なかった。鈴は地面を見渡しまた適当な石ころを見つけると、僕の目の前で座り込んで文字を書き始めた。

「あ、徳竜!鈴ちゃんはっ?」

 獲物を取り逃がした寅がやってきた。僕はにやける顔を必死で矯正する。

「ここにいるよ、何があったんだよ」

「いる!?いやぁ、良かった良かった」

 奴は鈴の姿を確認すると歩みに変えて、肩で息をし出す。

「いや、お前の姿が見えなくなったと思ったら 急に下ろせって言い出すからさ、下ろしたらこのとおりさ」

「それはとんだ災難だったな。お前が無事でよかったよ」

 僕はそういって含み笑いをする。奴は訝しげな顔をして僕を見た。

「どういう意味だよ」

「分からないなら分からないでいいさ。 どうでもいいことだから」

と、僕はなんともなしに彼に返答する。

 だが、内心は頗る動揺していた。


子猛に見向きもせず、抗う女だと―!?


 すると鈴は僕の袖を引っ張りまた己がものをみろ、と上目遣いでせがむ。

 僕は書かれたものに目を見張った。


願子助我《どうか助けて》


 間違っているが意味は分かるその文は、今でも僕の脳裏から離れることはない。


 それが、僕と彼女の出会いだった。




①郷試…礼部試とも。唐代の科挙の"筆記試験"。三年後に官吏としての相応しいか確認される試験がある。

②桜桃宴…礼部合格者同士の私的な宴。三月に行われる事から名が付いた。

③桂花…{金木犀}{きんもくせい}。

④旬日…十日前後

⑤郷貢進士…都で行われる郷試(礼部試)の受験資格。この郷貢進士で官吏になれる者は唐代辺りでは指折り程。

⑥会試…郷試(礼部試)の三年後に行われる試験。吏部銓、貢挙とも。これを合格すれば官吏になれる資格を得る。官吏として相応しい"風貌"と"言葉の訛"と "文字の優美さ"と"法律や制度の認識力"を見る。



第二話 父・白維


「父上」

「おぉ、里」

「おじさん、お久しぶりです」

「おぉ、おぉ、子猛まで。ははは、今日は千客万来だな」

 僕は二人を連れて帰宅し、父上の前に姿をあらわした。父上は忙しそうに動かしていた腕を止め、振り返り、にこやかに僕らを迎える。

 父上は来月に会試を控える僕を迎えに済州まで足を運んでいた。商人という仕事柄、手持ち無沙汰で都に帰るはずもなく、市場で安く仕入れた荷物を下男に整理をさせていた所だった。

 特に仕事の邪魔をしても父上は怒らないのでこうやって僕はいつも邪魔をする。 しかし、今日の邪魔の仕方は、いつもとは少し違う。

「父上、実は相談事がありまして…」

「何だ?何でも言って御覧なさい。書物か?楽器か?」

「いいえ、今回はものじゃないんです」

「何?」

 父上は訝しげな顔をした。

「実は異人が僕に助けを求めてまいりまして、その件について父上の知恵を、と思いして。」

 僕は問題の「異人」を見せる為、体を父上の前からどかす。

 その目に映ったのは右顧左眄する肌を見せる奇怪な格好をした女の姿。いや、下品な女か。下男の姿がそんなに恐ろしいのか、身をすくめている。

 下男たちもそんな姿をみて一層、視線を注ぐ。


まったく変な女だ。


 しかし思い返してみると、女という生き物に救いの手を差し伸べるなど、今更ながら自分に驚く。

 あの図太い神経で受け止める子猛でさえも「何かの術にかかったのか」と帰り道に何度も僕に尋ねたぐらいだ。

 そんな理由、僕もわかるはずもなく、かつ多面的に面倒だったので「さぁな」の一声で彼の質問に片を付けていた。

 人間、時にはあるだろう。嫌いなものでも、それを眩ます何かがあれば、嫌いであったことも忘れる、とか。いや、ないか。

「子猛、お前が連れてきたのか。」

僕は我に還り、父上の驚嘆の声を聞いた。父上の目は皿のようだ。

「い、いいえ!聞いてくださいよ叔父さん!この徳竜がですよ、女子が助けて欲しいって言ったからってここまでつれてきたんですよ!いかれてますよ!」

 よくぞ聞いてくれましたといわんばかりに、子猛は父上に吠える。しかし、いかれてるとは言い過ぎだ。

 その子猛の言葉を聞くと、父上は身長の少し高い子猛に顔を傾けたまま、時を止めたように固まる。

 子猛は父上が何も反応しないので仕方なく、後ろに身を退く。あの度量の大きい子猛が「いかれている」と僕に対して蔑む発言までするのも仕方もないな。

 騒がれないように、人のいない道を選んで城郭に入り、そしてさらに人が通らないような道を通ってきたが、やはり城郭だ。必ず一人はそこに存在する。

 女嫌いのはずの僕が女を連れて歩いており、しかもその女がこんなにも肌を晒しているのだ。町中の者が僕らを放って置くわけがない。

 家の門をくぐるまで、追いかけて来る彼らから逃げるのに必死だった。

 家に入れば今度は従者が門を閉めるも、僕らのことを知りたいあまりに騒ぎ立て喚き散らす者、塀を乗り越えて見ようとする者など、様々に現れた。従者が塀の上にいる者たちを、箒で叩き落している姿がこちらでも確認できる。

 そうなってまでも、僕がこの女を連れて帰ろうとしたから、子猛は僕が異常だと思っているのだ。本当に、お節介焼きの兄だ。

「本当か里」

 しばらく無言だった父上が顔を僕のほうへと向けた。だが、目はどこかを見たままである。

「はい」

 僕はその事実をはっきりと父上に申し上げた。

「お前の事だ、理由があるのであろう?」

 父上はして然りの質問を僕に投げかけた。白里は世間で言う幽霊や魑魅魍魎なんかも"この眼で見た" という決定的な根拠がない限り信じないし、行動しない。

 少なくとも父上、そして周囲の者達は僕のことをそう思っているし、僕もそれを自負している。

 理由なき行動は無に等しい。

 しかしながら、今回に限ってはそんなことはない。このような行動をとる理由が、僕にも分からなかった。

 僕としても自負しているゆえ、何か理由をつけたい。

「どうした?黙りこくって」

「いや…」

「ほらやっぱり!こいつはあの娘の術かにかかってるんですよ!」

 父上と子猛の視線が僕から一気に娘に集中する。

 彼女は一瞬肩を震わせたが、とたん笑顔を見せた。少々引きつってはいるものの、笑顔に入るだろう。


 本当におかしな異人だな。


 そう思ったとたん、脳裏を一瞬で横切るものを見た。

 人間とは時として無から突如、想像もつかぬ至高の有を得ることがある。


これだ。

「違うよ、子猛兄者」

 僕は彼女を見ながら呟くように言う。

「あいつがおかしな異人だから、人語もわからず、文字だけを書けるあれに、僕は哀れみを感じたのです。ただ、それだけですよ父上」

「何!女でありながらも字が書けるのか!それはすごい。どれ、一つ書いてもらおうか」

 そういって父上は鈴に駆け寄り、彼女に字を書くように手振りで指示する。鈴は笑顔で、例のごとく石を探して地面に文字を書く。

 子猛と僕は少し下がってそれを遠目で見るのみ。


 何とか理由をこじつける事ができたな。


 無論口からの出任せ。

 実際のところ、何の根拠があるのかハッキリしない。しかし、この場を凌ぐには十分な返答であろう。

 その返答に子猛は理解不能と唖然としている。さすが父上、半端な教養しか持っていない子猛と違い話のわかるお方だ。

 僕は空を見た。

 先ほどの澄み渡った空は、茜がかった空へと変貌を遂げている。烏が哀愁を漂わす啼き声を上げた。気が付けば飯の臭いが広がっている。春の夕陽は足が速い。

「私から①仁に伝えておこう。行く宛てもなさそうだ。この家に置いてやろう。この娘の故郷の事は、都に帰って調べる」

 父は振り返って僕にそう告げた。

「ありがとうございます!父上!」

 とりあえず僕は安心した。

 もし、このままあの娘を放置してば、人売りにつかまって奴隷にでもなるところだ。

 そうなれば、さすがに良心の呵責に苦しむ。

 かつて、劉先生に人売りの話を聞いた幼い僕は、家に帰って父上に、売られた人たち全部を買ってくれ、と泣いてせがんだことがあったらしい。

 これは僕の付き人の明鈴から聞いたことであり、僕は覚えていない。

 きっと、鈴が助けを求めてきたことで、人売りの話を聞いた幼少のころの僕が束の間、帰ってきたのだろう。

 でも、それが彼女を助けた理由として、人には言えまい。

 父上はその明鈴を大きな声で呼び、呆然と鈴を見ていた下男に、荷物を荷台に全て詰め込むよう指示をしていた。

 そして明鈴が走ってくると、父は彼女に指示を出す。彼女は母屋の掃除をしていたのであろう。箒を手にしたまま父上の指示を受けている。その姿が少し滑稽で、つい笑ってしまった。

 しかし、先程、下男に指示していた時とは違い、非常に小さな声で言うのでここからでは聞き取れない。

僕は懸命にそちらの会話を聞こうと集中したが、また子猛に肘で突付かれたので彼に顔を向けた。

「おい、哀れみとか何とか上手いこといって おじさんごまかしただろ。只単にあの娘っ子が好みで自分の妾にでもしたかったんだろ?」

 子猛は少々不機嫌な様子で僕にやっかみを言う。こいつ、鈴を僕に盗られたと思っているらしい。

「あ?何を言っている。この二十六年間童貞だった僕がそんなことすると思うのか?」

 僕は面倒になり赤裸々にそう吐き捨てる。

 ふざけるな。誰があんな醜い生き物と寝所を共にするか。

「大体、その二十六年間、童貞だったってことがうそ臭いんだよ。男なら十五には女を経験してるもんだぜ?そこんじょらの下女とか、適当に捕まえてよ。特にお前の様な金持ちが、童貞だなんてありえん」

「男は数に入らんのか」

「入らないね。女経験してないだなんて、男としてどうかしてるぜ」

「じゃあ僕を、『聖人様』とでも呼んでくれ。皮を被った汚い鼠と寝る気なんて更々無いよ」

 それから子猛は僕に何かを言ったようだが、僕はそれを右から左に流し口を噤み父上のほうに視線を戻した。

 だが、もうそこには鈴の姿は無く父が西の方角に手を合わせ頭を下げている。そして振り返ると子猛に話しかけた。

「子猛、今晩はうちで飯を食べて行ったらどうだ?」

「そうしたいんですが、母が…」

先ほどのやっかみを言っていた子猛は何処へやら。苦笑いをして頭を掻いた。

 父上はその姿を見て笑う。

「では、何しにきたのかな?お前が何の用も無しに私に挨拶などはすまい」

「参った、参りました。おじさんは何でもお見通しなんだよなぁ」

 子猛は父上から顔をそらし、頭を掻いていた手で今度は頬を掻く。そして彼は少々低い僕を見下ろした。その顔には少々陰りがある。

「おじさん、徳竜の手前、少し恥ずかしいので…」

 そういうと父上は何かを察し、子猛を手招いて部屋へと連れて行く。子猛は父についてゆく。

 僕は子猛を他所に慌てて父上に駆け寄った。

「父上、あの娘は何処に?」

「あのように肌を見せる衣では可哀想だ。衣を着替えさせる」

 あぁ、と僕は納得したような顔を見せる。

無論、自分でも何を言ったのか、何を言いたかったのか良くわからなかったので、納得しているわけではなかった。

「すみません呼び止めたりして」

 すると父上は笑みを見せ、用事があるならまた後でなといって母屋のほうへ歩みだした。 その後ろを悪いな、と僕に謝りながら子猛がついて行く。

 僕は笑顔を見せ、彼を見送った。

 僕も子猛と同様「彼の手前」言えなかったのだろう、聞けなかったのだろう。


 どうして僕の頼み事を聞いてくださったのですか?

 無論お前がかわいい息子だからだよ。


という幼いころからの決まり文句を。それが先ほど僕が父に言いかけた事だったに違いない。

 二十六にもなって親に甘える馬鹿息子、と僕は心の中で自嘲する。普通なら母親に甘えるものだが、僕の母親は僕が幼い頃に死んだ。おぼろげにその姿と声を記憶しているのみ。

 その後、明鈴に世話をされ、寂しいあまり父上の仕事の手伝いと称しながら、勉学を本格的に始めるまで、いつもついて色々なところに連れて行ってもらっていた。

 だから、僕は父上が好きなのである。

 親はいつまでたっても親、子はいつまでたっても子である。

 古から変わらぬ理ではあるけれども、子だからといつまでも甘えていては人として示しがつかない。

 彼がいてくれたお陰で自分が抑えられて助かった。下男も明も子猛も父上もいない。

 ただ、そこにいるのは僕、只一人のみであった。


①仁…白仁。白維の弟で、済州の白家の当主。白里の叔父。




第三話 趙元という男


 その後、茜色に焼ける夕陽を背に僕も自室に戻り、寝台に寝そべって本に目を落としていた。

 一字一字を追いかけ頁を捲ってはいるものの、頭の中では不可解なあの娘のことで埋め尽くされていた。

 都にいた頃、商人である父上のおかげで僕は数多くの異人たちと触れ合った。天竺てんじく波斯ぺるしあ高麗こうらい―。人目でそれと分かる場合もあれば、出立ちが同じであるのに話してみれば全く喋れなかった場合もあった。

 僕はいつからか、はっきりとは覚えていないが、この人はどこの国の人だと大方、見分けがついて父の手伝いをしたことがしばしばあった。

 だが、今回の鈴は僕も、あの父上でさえも初めて見る異人だった。


 あんなに腕や足の肌を曝け出して、なんと下品な民族だ。


 あの娘の姿が脳裏に浮かぶ。

 突き飛ばされて髪や服が乱れ、身を震わせてなんとも言い様のない目で僕を見つめたあの姿が。

 僕の全身に不快な感覚、感情が沸き起こる。しかも今まで味わったことの無い様なもの。


 くそ、いつでも僕の心を攪拌するのは女だ。あれが異人であっても例外ではない。

 これだから女は嫌いなんだ。

「若様、お食事の用意さできまっさ」

 突如、明鈴の声が扉の向こうから僕の耳に入ってきた。

 僕は今行くと彼女に告げ、本を閉じて立ち上がり部屋を後にした。

 まだ、家に進入してこようとするものがいるのだろう。家の護衛が塀周りを回っている。

 まったく、あの娘を助けてよかったのか、悪かったのか。

「徳竜!待ちかねたぞ!」

 扉を開けるとすぐ傍の席に子猛はいた。

 僕はやぁ、と声をかけ彼の隣に座った。僕を見る彼の口は非常に歪んでいた。

 何かある。気持ちが悪い。きっと僕にとって嫌な何かがある。

 そうこうしているうちに、父上が入ってきて上座に座った。

 明鈴と他の下女もその後に続いて入り、それぞれの盃に酒をついで回る。

 父上が僕らの盃に酒が入ったのを確認すると、盃を手にとり僕に微笑みかける。

「里、此度は試験合格おめでとう」

「いいえ、皆様のお力添えなくしての合格はありえませんでした。尽力賜り、誠に感謝申し上げます」

 僕も盃を手に取りお礼を申し上げる。

「とにかく徳竜もこれで晴れて官僚というわけだ。俺も親友として鼻が高いよ。おめでとう」

 子猛が盃を上げたところで、僕らはさらに高々とそれを上げてひっかけた。そして、歓喜の声をあげる。すぐさま明鈴達が各々の盃に酌をして回った。

 今日の主たる食は鶏の煮付け。僕としては菜とともに炒めて欲しいものだが、まぁ鶏だ。悪くは無い。早速、箸で挟んで口に運ぶ。

 肉の裂け目より染込んだ特製の出汁の味が、口の中で爽快に広がる。

 近頃の夕餉は当主の兄である我が父上も着ていることもあり、いつも以上に美味しい。さすが我が家の厨房の者だ。

 ふと視線を感じたので、そちらに顔を向けた。その主は父上だった。その顔からは喜怒哀楽を感じ取ることが出来ない。どうしたのであろうか。

「里、これからあの娘をどうする?」

「と、申しますと?」

 僕は口に含んでいた食べ物を飲み込んだ。

「あの娘をうちで養うのは一向に構わない。だが、だ。ただただ、その日その日を暮らしてゆかせるのにはちと惜しい気がするのだ」

 父上は箸をそっと置いて手を組む。

「あの娘、話は出来ぬが文字はかける不思議な異人の娘ではないか」

 僕は反射的に子猛を見た。その顔には己が言い含めたと言わんばかりの笑みを携えている。僕は箸をおいて再び父上のほうに顔を戻した。

「そこでだ。あの娘に家庭教師をつけようと思うてな。どう思う?里」

「それは名案です。そうすれば、もしものことがあったとき、この国でも生活ができるでしょう」

「うむ。裁縫、料理、掃除などは、先ほどあの娘に就けた女中に任せればいいしな」

「父上は、あの娘を気に入られておりますね」

「あぁ、異国の娘といっても我々となんら変わりないし、なんとも可憐で柔和な顔つきの娘だ。自慢の娘にしようかとも思っている」

 父上が本当にうれしそうな顔をした。心底、そう思っておられるのだろう。彼女を拾ってきた僕は、少し鼻が痒い。

「そこで、女の教養のほかにも、男の教養もつけたいと思っている」

「え?」

「今時の娘というのは、字の読み書きや賦詩そして弦楽は当たり前、ほかにも沢山の男の教養を兼ね揃えておる。世間に恥じないような教養をつけたい」

 父上があごひげに手を当て、僕を見る。

「そこで、子猛に相談したところ、彼があの娘に男の教養を指導してくれるというのだ」

「子猛兄者が…ですか?」

 父上の手前、一応は彼に敬称はつけ、僕は眉をひそめた。

 話が唐突過ぎる。

「父上、そのような事までなさらなくても結構だと思います。相手は未婚の、娘です。常識的に考えてそれはあってはならないことです。男が女と席を共にするなど。そして子猛兄者も仕事を持つ身です。そんな暇は…」

「いや、徳竜。是非やらせてくれ」

 子猛が右からそう言う。その顔には先ほどの笑みは消えている。

「半端な教育で終わらせるには惜しい人物だ。そして文字がかけるなど、女子としても相当の知識の持ち主だろう。俺も興味がある。下心があるわけでは、ない。興味だ。それに、俺がおじさんの自慢の娘さんに手を出すと思うのか」

 僕が反論しようとすると、彼は左手で父上に見えない角度から僕のひざをつつく。僕はそれを悟ってゆっくりと息を吐いた。

「子猛兄者がそうおっしゃってくれるのなら、異存はありません。是非とも、よろしくお願いいたします」

 僕は頭を下げた。顔を上げた先には果たして、いつもの笑顔に戻った子猛がそこにいた。僕は仕切りなおしといってもう一度酒を飲み、その後は思い出話に花を咲かせた。




 食事も終わり、父上は先に母屋に戻った。その後、僕らは庭に出て酒を飲みながら思う存分、他愛の無いことを語り合った。

 月も高い。今何刻であろうか。

「さて、帰ろうかな…」

 話がひと段落ついたところで、子猛がぼそりと呟いた。

「なんだ、もう帰るのか?酒ならまだまだあるぞ」

「いや、母さんが家で待ってる」

「ははは、それなら仕方ないな。おばさんもお前みたいな母親思いの子を持ってさぞかし幸せだろうな」

 僕はそういって立ち上がって酒壷に蓋をし、後片付けを明鈴に任せ、明かりをもって子猛を門まで送る。

 僕は下人をつけないので、そこには二人だけしかいない。

「今日はご馳走さん。楽しかったよ」

「僕も、ここでのいい思い出が出来た。ありがとう、親友」

「やめろよ、水臭い」

 彼は鼻で笑って月の明るい空を見上げた。

「それに俺は明日からもお前ん家に邪魔するんだぜ?別れの挨拶は早ぇよ」

「ははは、それもそうだったな」

「実は俺、遊郭の用心棒を首になったんだよ」

 突然のことに僕は度肝を抜かれ一瞬言うべき台詞を失った。

「どうしてまた?腕っ節のあるお前を①公孫のおじさんが見捨てるなんて…」

「いや、おじさんは俺を助けてくれたんだよ。俺は遊郭で迷惑ばかり起こしてた役人を懲らしめてな…危うく島流しにあうところを、おじさんが世話してくれて解雇で済んだんだ。そこで、お前のおじさんに職をお願いしたところ、鈴ちゃんの先生になったわけなんだ」

「そう…だったのか」

 しばらく僕らは沈黙を保った。松明の明かりが静かにあたりを照らす。この闇を和らげるかのように。彼は酒が回り気が楽になって吐いたのだろう。

 本当に世の中、うんざりするような人間ばかり。

いくら②玄宗皇帝様が尽力をなさっても、菜の花に群がる害虫のような細かいところまでは、行き届くはずがない。

 善良な者は悪の塊に押しつぶされどんどん廃れてゆく。許しがたい状態だ。


 僕がその糸口になれば―。


 僕は冷笑し、話を切り出した。

「僕の名前を使えばよかったのに。遊郭に出入りするような下級役人、権力は僕のほうが上だ」

「馬鹿野郎、使ったに決まってるじゃないか」

 僕らは酔いもまだ冷めてないのですぐに笑い合い、肩を組んでお互いの背中を叩きあった。

 すると子猛、突然笑いを止めて闇の中に視線を投げる。どうしたのかと思い、僕は暗がりの中に明かりを上げる。誰かが立っていた。

 こちらに小走りで近寄ってくる。

「とくりー…しまうぅー……あーの、すず……」

 そういって現れたのはあの娘であった。

 僕らの前で軽快に止まる。彼女は女物の着物を身に纏い、頭を上で結って垂れ流していた。ちゃんとした装いをしている。もう肌は見せていなかった。

 少しは目の当てられる状況になっているではないか。

 彼女は笑顔で僕らを見上げる。

「ホンット、可愛いなぁ…俺、嫁にするならこんな子がいいよ」

「同じ言葉を昔どこかの酒場で聞いたことあるなぁ」

 僕は彼を横目に呟く。彼は顔を真っ赤にして叫んだ。

「うるせぃ!もし言ったことがあるとしたら、それも本気だよ!」

 はいはいと笑って流し、鈴に目を戻す。暗いのも相俟って、顔が見えない。

 まぁ、それはそれでいいのだが、何か引っかかる。ちゃんとした身なりなのに何かがたりない。

 それに、どうしてこんな夜更けにうろうろしていたのか、謎である。

 子猛、鈴に近づいて中腰になり目線を合わせた。

「鈴ちゃん、明日から、俺が、先生だ」

 身振り手振りを交え、何とかして彼は伝えようとする。

「しまう、せーせ?」

 彼女は首を傾けてそう問いかける。垂れ流した髪が重々しく揺れたのが、暗がりの中でも確認できた。

 なんと豊かな髪だろうか。

「そ、先生!」

「わぁ!しまう、せーせ!」

「先生だ、馬鹿者。発音が汚い」

「いいじゃねーかよ、まだ初めてなんだしなー」

 そういって彼は鈴の頭を撫でる。鈴はてへへと喜ぶしぐさをした。

 全く、こいつは犬か。

 見るからに成人のなりをしているわりに、そのしぐさが妙に彼女に一致する。

「さ、続きはまた明日だ」

「勢いあまって鈴に手を出すなよ。お前はどんな醜女でも食うからな」

「ははは、教え子にそんなことはしねーよ」

 嘘付け。たった今、僕は、明鈴を横に必ず付ける様に取り計らう予定ができたよ。

 そして彼は門に向かう。そして、入り口に差し掛かったところでこちらに振り返った。

「じゃあな、徳竜。鈴ちゃん。ばいばい!」

 そういって彼は手を挙げ、門をくぐっていった。

「またな」

「ばひばひ!」

 どうやらこの娘、鸚鵡のように言った言葉を繰り返すだけの能はあるようだ。

 しかし何故しゃべれないのだろうか。本当に不思議なヤツだ。

 そして僕が自室に帰ろうとすると、やつは声を漏らした。

「なんだ?」

「ぇ…ぁうれ…すず……ぁこーれの、たーら」

 鈴は身振り手振りを使い、懸命に何かを伝える。

「あこれーの、たーら」で四角を作っていたが、何を意味するのか、少々時間を要した。 先ほどから引っかかっていた問題も含めて全て理解できた。

 夜更けに明かりを持たずウロウロし、僕らを見つけて走ってきたのには、どちらも理由があったからだったのだ。

「お前、迷子だったのか」

 何を言ったのか分からなかったのだろう。困った顔で僕を見るのみだった。

「来い。部屋に連れて行ってやる」

 僕は手招きをする。するとヤツは歓喜の声を上げ、小走りに僕の後ろについた。

 多分こいつの部屋は西の客間だろう。少し離れにあるので迷っても仕方がない。

 しかし、僕が女にここまでしてやることなんて、夏に雪が降るほどの怪奇ぞ。

 そうこう進んでいると客間の明かりが見えてきた。

鈴は、あー!と声を上げ、僕の前に出る。

 僕は歩みを止めないので、彼女は僕の前を飛び跳ね続けている。

「とくりー!たーら!すずー、たーら!」

「あれは部屋だ。部屋」

「へあ?」

「そう、『鈴の部屋』だ」

「すずのへーあ!わーい!」

 子供のように喜ぶその姿。本当に良く似合っていた。悪い気はしなかった。

 僕は扉の前に着くと、鈴に入るように顔を動かす。鈴は笑顔でふん、と頷くと扉を開け中に入る。

 僕は息をついて自室に向かおうとした。

すると後ろから僕を呼ぶ鈴の声が聞こえた。振り返ると扉から半身を出した鈴がこちらを見ている。

「とくりー」

「あ?」

「ばひばひ!」

「あぁ、お休み」

 僕のその台詞を確認すると、彼女は微笑んで扉を閉める。

 笑顔の固まりめ。

 僕は自室へと向かった。




 今日は色々なことがあった。まぁ、これも人生経験の一つだな。走馬灯のように今日の一日が脳裏を過ぎる。

 それにしても、不思議でならない出来事だった。これは夢だろうか。

 もし夢ではなく、現実であるならば、これから先はどうなるのだろう。僕のこれからの人生はよい方向に進むのではないか。

 そんな希望を胸に抱かずには、いられなかった。

 夜空の月は、もう西に傾いていた。それは静かに、ゆっくりと時間をかけて沈む道を辿っている。

 その後、日が昇る。出来ればその日を拝みたい。起きれるかどうかが心配だが。


①公孫おじさん…趙元が用心棒として務めていた遊郭の店主。

②玄宗皇帝…唐代の皇帝の一人。前半の治世は「開元の治」と称されるほどの善政を行なった名君。

数年前に書いた小説に修正を加えながら投稿することにしました。

膨大なデータの量と設定の面白さからもう一度書いてみようと思い、掲載することにしました。


ご感想をいただければ幸いです…(*´ω`*)

(まだまだ触りですが)

どうぞ、よろしくお願いします♪

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