07 料理は身近な魔法です
「やめるんだ、サガ! それを離せ!」
父親が血相を変えて、マスターの手からカップを叩き落とそうと踏み出しました。
しかし、それをマスターは静かに制します。
「落ち着け。これは劇薬ではない。あんたたちが忘れてしまった、ただの『休息』だ」
「休息だと……? 馬鹿なことを言うな! こんな強い刺激、脳が焼き切れてしまう! 帝国に知れたら、我々は再教育施設送りだ!」
母親もまた、震える手で窓のブラインドを固く閉ざしました。外に漏れ出す琥珀色の香りを、必死に閉じ込めようとするかのように。
「効率化こそが正義。感情の起伏は社会のバグ……。私たちはそう信じて生き延びてきたの。お願い、消えて! 私たちの平和を壊さないで!」
両親の怯えきった姿。それは、帝国が作り上げた「理想の市民」の完成形。それを私は改めて目の当たりにしたのです。しかし、その時、カティナさんは少し震えながら、でもしっかりとした口調で言ったのです。
「パパ、ママ……違うの。これは悪いものじゃない。私の口の中にはまだ、キャラメルラテのほろ苦さと、胸を突き上げるような熱い鼓動が残ってるの」
カティナさんは、震える手でしっかりと、空になりかけたカップを胸に抱き寄せました。
「お腹を満たすだけじゃ、私たちはただの『部品』だよ。今、この一口を飲んだときだけ、私は自分が『カティナ』だって……自分の名前を思い出した気がしたの」
「カティナ、何を……」
「帝国が守っているのは、私たちの命じゃない。私たちの『従順さ』でしょう!?」
マスターは、パニックに陥る両親と、瞳に感情の火を宿した少女を交互に見つめ、私に合図を送りました。
「なあ、一つ提案があるんだが『料理』を久しぶりにしてみないか?帝国も自身で採取、料理することは禁じてないはずだ。SoDA、食材で調達できるものが近くにあるか?」
「効率化」という名の鎖に縛られた静寂の中に、マスターの低い声が響きました。
私のスキャンデバイスが、薄暗い居住区のすぐ外に反応を示します。
「マスター、川べりの土手に野草の反応があります。『ノビル』です。それから、配給用の乾燥米と合成油脂なら、この家のキッチンに」
Γそうか。ならまずは子どもたちだけで取ってくるんだ。子どもの遊びなら、監視もされないだろう。SoDA、データを渡してやってくれ」
Γ了解。こちらです。カティナさん、サガさン」
Γわかった!」
Γ行ってくる!」
十分後。
Γただいまー!」
Γいっぱいとったよ!でもくさーい!」
そう言って帰って来た2人の顔には、汗とキラキラの笑顔が見られました。
「十分だ。……お母さん、あんたの出番だ」
マスターは強引に母親をキッチンへと促しました。怯える彼女の手に握らせたのは、無機質な計量カップではなく、泥のついた野生のノビルと、一本の古びたフライパンでした。
「やめて、私は……私は……」
「いいから、その草を洗って刻んで。頭じゃなく、鼻と指先で考えるんだ」
母親がおぼつかない手つきでノビルを刻むと、ツンとした、それでいてどこか懐かしい鮮烈な香りが弾けました。
フライパンで熱せられた合成油脂にノビルが投入されると、パチパチと小気味よい音が弾けます。
私が綿密な計算をして加熱加水処理をした乾燥米が加わり、熱と香りが渾然一体となって、狭いキッチンを満たしていきます。仕上げにスパイスと、調味料。出来上がったのは、見た目こそ質素ですが、立ち上る湯気そのものに意思が宿っているような「チャーハン」でした。
カティナは差し出された一皿を、夢中で口に運びました。
「……あつい。あついけど、すごく……おいしい!」
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちました。それは効率化された世界では決して流してはいけない、無駄なはずの水分。
「お母様、すごい……これ、魔法だよ! さっきまでただの草だったのに、お母様が魔法をかけたら、こんなに私を元気にしてくれる!」
「私が……魔法を……?」
母親は自分の赤くなった手のひらを、信じられないものを見るように見つめました。誰かに命令された作業ではなく、自分の意思で、誰かの心を動かすものを作り出した。その実感こそが、帝国が最も恐れた「個の力」でした。
父親は、その光景を呆然と眺めていました。脳を焼き切るような刺激などどこにもない。そこにあるのは、温かい食事を囲む、ごく当たり前の、けれどこの世界では何よりも贅沢な「団らん」という景色でした。
「効率化こそが正義……。だが、こんなに笑うカティナを見るのは、いつ以来だろうな」
父親の手が、ゆっくりとブラインドに伸びました。彼はそれを開けるのではなく、さらに深く閉じ、そして静かに、自分もその魔法の結晶を口にするために椅子に座りました。
「マスター、これが目的だったんですね」
マスターは満足そうに頷き、私に視線を送ります。
「ああ。感情は、決してバグではないんだ」
そう言うマスターの横顔は、とても優しい顔でした。私は、まだまだラーニングするべきものがあるようです。




