06 黄金色の波紋
帝国が支配する第14居住区。
かつて「下町」と呼ばれたその場所は、今や色彩を失った灰色の檻と化していた。高くそびえるコンクリートの壁は空を切り取り、人々は生存という名の日課をこなす《《だけ》》の歯車として、無機質な日々を費やしている。
「効率化と安定は、何にも勝る、かけがえがないもの」
かつてのノンシュガー党──現・帝国が掲げたこの理念は、かつて飢餓と恐慌に喘いでいた世界にとって、唯一の救いだった。彼らは「最低限の住環境と食事」を保証する代わりに、人間から「欲望」という名の争いの種を奪い去った。 帝国員自らが禁欲を貫き、富を独占しなかったがゆえに、人々はその非情なストイックさを「人類の救済」として受け入れた。
だが、その対価として屠られたのは、人間性そのもの。大人たちが過去を捨て、感情を殺して生きる道を選んだ一方で、子どもたちの本能は、静かに飢えていた。
「ねえ、お姉ちゃん……毎週毎週、同じメニューだよね。たまには違うものが食べたいなあ」
せめてもの気分転換にと、外で食事をしてみたが大した足しにもならず、アルミパックからライスをすくいながら、サガが力なくこぼす。
効率化を是とするノンシュガー帝国は、食事に関しても管理体制を敷いた。主食のパンやライスは支給されるものの、副食については均質化されたパテ状のものや圧縮した乾燥食が配給される。ちょうど初期宇宙食の様なもので、それらは「カレー味」「ハンバーグ味」などあるものの、曜日で固定化され、およそ「食べる喜び」からはかけ離れた「工業製品」だった。
姉のカティナは弟を諭すように、しかし自分に言い聞かせるように言葉を返す。
「静かに、サガ。お腹を満たせば、明日も生きられる。それが、お父様たちの教えでしょう?」
そう弟を諭すカティナも、自身の舌が痺れるような感覚を覚えていた。帝国の配給する「黒濁水」に含まれる成分は、人々の味覚を麻痺させ、感情の起伏を平坦にする。だが、彼女の心は、この「効率」という名の飢餓を、どうしても拒絶せずにはいられなかった。
(死なない程度に生かされている。でも、私たちは何を希望にすればいいの……?)
その時だった。
「誰…?」
トランクケースを持ったカイトとSoDAが路地裏から現れる。
カティナが身構えるより早く、カイトは無造作にトランクを広げた。
「SoDA、この子らの目には、まだ光が残っている」
「了解しました、マスター。バイタルサイン確認。情動の覚醒、可能です」
カイトが取り出したのは、琥珀色に輝く液体の入った瓶――「キャラメルソース」だった。彼は手際よく魔法陣を展開し、配給の合成ミルクを中央に据えた。
「SoDA。最後の仕上げは、こいつを使う」
「……鍋、ですか?」
「そうだ。機械的な合成ではない、人の手の熱が、最後のピースになる」
カイトの手の中でバースプーン「エトワール」が銀色の軌跡を描く。
魔法陣が放つ熱量によって、ミルクは生命を宿したように沸き立ち、琥珀のソースと混ざり合っていく。立ち昇る香りは、柔らかく、どこまでも優しい。
「……何?それは?」
「これは食い物じゃない。『キャラメルラテ』だ。かつて、凍えた心と体を溶かすために人々が愛した、安らぎの魔法だ」
差し出されたカップには、細やかな泡の層と、渦巻く黄金の模様が描かれていた。カティナとサガは、未知の香りに戸惑いながらも、その温かな液体を一口、慎重に含んだ。
「……っ!!」
瞬間、二人の脳裏に、体験したことのないはずの鮮烈な色彩が溢れ出した。 それは夕暮れ時の柔らかな陽光。 それは誰かに守られているという、絶対的な安心感。 ただそこに存在するだけで許されるような、甘美な抱擁。
「苦いのに……すごく甘い。お姉ちゃん、これ、お腹じゃなくて……胸が、すごく熱いよ……!」
サガの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち、白い泡の上に波紋を作った。効率を重んじる「黒濁水」には決して含まれない、糖分という名の多幸感。
「これが……『飲む』ということの意味……」
カティナもまた、震える手でカップを握りしめていた。それは単なる水分補給ではない。心に「ゆとり」という名の火を灯すものだった。
「ねえ、こんなに素敵なものが、どうしてダメなの? どうして、みんなこれを知らないの……?」
カティナの震える声に、カイトは静かに、だが確かな意志を込めて頷いた。
「帝国が恐れているからだ。一杯のラテで、人は『自分には幸せになる権利がある』と思い出してしまう。それは彼らにとって、どんな爆弾よりも危険な、反逆の火種なんだよ」
カティナは涙を拭い、力強くカイトを見つめた。
「これ、もっとたくさんの人に教えなきゃ。みんなに、これを飲ませてあげなきゃ……」
その時だった。
「ただいま帰ったわ……?誰か来てるの?」
「パパ!ママ!あのね……!」
「……!この香りは!誰だ⁉余計なことをしたのは?」




