05 マーブルの安らぎ
帝国の監視網を潜り抜け、彼らが向かっているのは工業都市「アスパール」。
そこは、シュガーレス帝国のための製品を生産するため、人々が24時間体制で労働を強いられている「眠らない街」だった。
「……マスター。質問があります」
助手席に座るSoDAが、流れる景色を見つめたまま口を開く。
「なんだ?」
「マスターの作るメニューには、甘くないもの……『苦味』が含まれるものがあります。なぜ、人間はわざわざ『苦い』ものを好むのですか? それは生物学的に『毒』のシグナルでは?」
カイトはハンドルを握りながら、苦笑した。
「いい質問だ。確かに苦味は毒の警告だ。だがな、人生も同じさ。ずっと甘いだけじゃ、その甘さの価値さえ分からなくなる」
「……理解不能。甘さはエネルギー効率の最大化に寄与します。苦味は、ノイズです」
「そのノイズが、心を落ち着かせることもあるんだよ。……あそこに町があるな。仕入れもあるし、ちょっと寄るか」
車が停止したのは、町の外れ。
カイト達はあたりの様子を見ながら静かに車を降りる。
そこへ、一人の男がふらりと現れる。
作業服は汚れ、目の下には深い隈があり、手足は小刻みに震えている。
「あぁ……もっと働かないと……効率が……」
男は虚ろな目で呟く。
その背後から、監視ドローンの無機質な羽音と合成音声が響いた。
『警告。警告。労働者番号404。休憩時間は終了シテイル。黒濁水ヲ摂取シ、直チニ職場へ復帰セヨ』
赤いポイントレーザーが男を捉える。
男は怯え、頭を抱えてうずくまった。
「ヒィッ……! わ、分かってる!でも体が……!」
『非効率ト判断。強制排除ヲ開始シマス』
ドローンからスタンガンのような電極が伸びる。
その瞬間、銀色のトレイが回転しながら空を裂き、ドローンを叩き落とした。
「……休憩時間終了? いいや、違うな」
カイトが静かに告げる。
「今は、『コーヒーブレイク』の時間だ」
カイトが取り出したのは、帝国が「精神安定を阻害する興奮物質」として焼き払ったはずの、深煎りのコーヒー豆。
「SoDA、お湯の温度は90度。抽出時間は2分半だ。一滴も無駄にするなよ」
「ラジャー。熱源制御、最適化開始」
SoDAが指先をポットにかざすと、水は瞬く間に適温へと沸騰する。 カイトがドリッパーにお湯を注ぐと、黒い粉が膨らみ、辺り一面に香ばしく、どこか切ない香りが漂い始めた。それは、工場排気の油臭さを塗り替える、深淵なる夜の香り。
カイトは抽出された漆黒の液体を氷の入ったグラスに注ぎ、急冷する。
カラン、と氷が涼やかな音が鳴り 、その上に──白く輝くバニラアイスを、静かに浮かべた。
「完成だ。『ミッドナイト・コーヒーフロート』」
ドローンが再び起動し、警告音を発する。
『警告。未登録ノ黒色液体ヲ検知。直チニ廃棄セヨ。ソレハ毒物デアル』
「お前らには分からないだろうな。この苦さの意味が」
『エラー。エラー。排除ヲ──』
「させません!」
SoDAがドローンの前に立ちはだかる。
彼女の周囲に淡いグリーンの光が満ちてゆく。
「対象者の感情データ『安らぎ』を受信。……この感情は、非効率ではありません。これは、次へ進むための『休息』です!」
SoDAが手をかざすと電撃がドローンに走り、火花を散らして墜落した。
「大丈夫か?これを飲んでみろ」
カイトはグラスを男の前に置いた。
うずくまっていた男が、鼻をヒクつかせ、顔を上げる。
「なんだ……この、匂いは……?」
男は震える手でグラスを掴み、喉に流し込んだ。
まずは、冷たく鋭い苦味が舌を刺す。
「に、苦い……!?」
だが、その直後。 溶け出したバニラアイスが苦味と混ざり合い、まろやかな甘みが口いっぱいに広がった。 脳を無理やり叩き起こすような暴力的な甘さではない。 疲れた神経を優しく撫で、張り詰めた糸をゆっくりと解きほぐすような、慈愛に満ちた甘苦さ。
───あぁ、そうだ。俺は……。
男の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
彼の脳裏に蘇ったのは、効率化される前の世界。
仕事帰りの深夜に立ち寄った喫茶店で、文庫本を片手に一息ついた、あの静寂で豊かな時間。
誰にも急かされず、ただ自分を取り戻すための「苦味」。
「……美味い……。ああ、なんて……ホッとするんだ……」
男はグラスを空にし、深く息を吐いた。
その顔には、先程までの狂気じみた焦燥感はなく、人間らしい血色が戻っていた。
「……ありがとう。こんな安らいだ気持ちになれたのは久しぶりだ」
「それはよかった」
男はふらつく足取りではなく、しっかりとした足取りで去っていった。
SoDAはその様子を見て、自身の胸元を軽く押さえた。
「マスター。……今の『ホッとする』という感情、演算処理速度の低下……これが『落ち着く』ということでしょうか?」
「ああ、そうかもな。……お前も飲んでみるか?」
「……はい。私もまだまだラーニング不足のようですね」
SoDAは少しだけ口元を緩め、まだ氷の残るグラスを見つめた。




