04 継承の記憶
「どうしました?マスター?」
「……おい、SoDA。そんなに俺の顔を覗き込むな。少し、昔のことを思い出してただけだ」
炭酸製造機の蒸気を逃がしながら、俺は手の中にある『エトワール』の重みを感じていた。この銀のスプーンは、あの偏屈なジジイ――バニラ博士から叩き込まれた、文字通りの「師匠の形見」だ。
それは、シュガーレス党がまだ「効率化」を声高に叫び始めたばかりの、穏やかな午後のことだった。
「いいか、カイト。錬金術とは、ただ物質を変質させることではない」
周囲からは「変人」と呼ばれていた博士は、湯気の立つコーヒーカップを片手に説教を始めた。
「人の心を揺さぶる『味』には、魂の記憶が宿る。我々が振るうバースプーンは、人々の心の奥底に眠る幸福の断片を掬い上げるための、いわば『鍵』なのだよ」
当時、俺はまだよくわかっていなかったカウンターの中で銀色のバースプーン『エトワール』を不器用にかき回しながら、師の言葉を鼻で笑っていた。
「難しすぎるぜ、ジジイ。俺はただ、あんたの作るこのシュワシュワした飲み物が、誰よりも上手く作れるようになりたいだけだ」
「はっはっは! それでいい。だが、覚えておきなさい。世界が味を失い、人々が自分の名前さえ無機質な記号で呼び合うような暗黒の時代が来たら……その時は、この『エトワール』を振るえ」
博士は真剣な眼差しになり、カイトの手に自分のしわがれた手を重ねた。
「レシピは、お前の舌と心が覚えている。そして……私の最高傑作『聖杯』が、いつかお前の助けになるだろう。それにお前の技術が合わさった時、失われた世界の色は蘇る」
「……また始まった。ジジイ、いいから早くシロップの配合率を教えろよ。シュガーレス党の連中が、そこら中で合成飲料を配り歩いてんだぞ?このままじゃ店も早晩に潰れちまうってもんだ。あんなニセモノに負けるわけにはいかねぇだろが」
俺が苛立ってそう言うと、博士はわざとらしく溜息をついて、俺の額を指先で弾いた。
「これだから若いのはいかん。数式だけなら計算機でもできる。お前に必要なのは、そのグラスの中に『夕暮れのチャイム』や『放課後の秘密』を閉じ込める想像力だ」
博士はカウンターに並ぶシロップやスパイスの瓶を見ながら、遠い目をして続けた。
「いつか、世界から色が消える日が来る。奴らは効率という名の消しゴムで、人生の『無駄な甘み』を全部消し去るつもりだ。……だがな、カイト。人間ってのは、その無駄な甘みのために生きてるんだ。俺たちが守るのは栄養素じゃない。喉を通り過ぎる瞬間に、ふっと心が軽くなる、あの『一瞬の魔法』だ」
あの時の博士の横顔は、いつもの狂った科学者のものじゃなかった。
絶望的な未来を見据えながら、それでもなお、一握りの希望を俺に託そうとする――一人の「マスター」の顔だった。
「お前に、私の「全て」を託す。……レシピは頭で覚えるな。舌で、心で、あのシュワシュワとはじける泡の音で覚えるんだ」
そう言って博士は俺に、化学式としてのレシピではなく思い浮かべる「情景」を教え込んだ。
メロンシロップの注ぎ方は「夏の午後、入道雲を見上げた時のワクワクを混ぜろ」
炭酸の割り方は「静寂を破る、祝福の拍手のように注げ」
バニラアイスの乗せ方は「汚れなき幼少期の憧れを、そっと浮かべるのだ」
あの時は、何をとち狂ったこと言ってんだと思ってた。
だがそれが、シュガーレス党には決して真似できない「純喫茶錬金術」の真髄だった。
「カイト……お前は、世界で最後の『マスター』になるんだ」
博士が最後に俺の手に『エトワール』を握らせた時の、あのゴツゴツとした手のひらの熱。
それが、俺の身体に刻まれた「本物の記憶」だ。
「……フン、無茶苦茶だよ。結局、配合の正解なんて一つも教えてくれなかった。全部俺に丸投げして、自分は格好つけて連れて行かれやがって」
俺はわざと悪態をつきながら、メロンシロップの瓶を強く握る。
「でもな、ジジイ。あんたが言った通りだ。この銀のスプーンを振るう時、俺の指先には確かにあんたの熱が残ってる。……見てろよ。あんたが愛したこの世界の『甘み』、俺とSoDAで全部取り戻してやるからな」




