深夜に玄関で吠える犬
知り合いから犬を預かった。いわゆるトイプードルというやつで、非常に人懐っこい。性格も大人しく、そこまでの問題児ではないけど、少しばかり人懐っこ過ぎるきらいがあって、そこが難と言えば難だ。甘えているのか何なのか、何故か階段を昇り降りするのを怖がる事があって、そういう時は抱えて昇ったり降りたりしてやらなくちゃならない。
が、実は世話はほとんどが母親がやってくれているから、僕が文句を言う筋合いはない。僕がしているのは夕方の散歩くらいで、餌の準備も朝の散歩も母親がしている。それなりに体力を使うらしく、大変だと言っていた。もっともそれはまだ暗い早朝に母親が散歩に出かけている所為もあるのじゃないかと僕は疑っている。母親が言うには、「車が怖いから」だそうなのだけど。
母親が世話をしているから当然だけど、犬は母親に一番懐いている。そしてだからなのか、夜寝る時も母親に付いていき、母親の部屋で眠っている。
さっきも述べた通り、この犬は基本的には大人しい。吠えたりもあまりしない。しかしだ。ある日の晩、異変が起こった。何故か、深夜に突然玄関で吠え始めたのだ。
僕の部屋は二階にあるのだけど、階段下直ぐの所から吠え声は聞こえて来た。玄関がある場所だ。
母親の部屋も二階にある。だから、犬は勝手に母親の部屋を出て階段を降り、玄関に行った事になる。これは普段の犬の行動からすると謎だ。犬は母親にべったりだから、滅多に自ら傍を離れないし、怖がらずに階段も降りられた事になる。
母親は既に眠っているらしく何も反応をしない。仕方なく僕が宥めるしかないと思って部屋のドアを開けると、ただそれだけで何故か犬は一目散に二階に上がって来て、母親の部屋に入っていった(うちの母親は常にドアをオープンにしている人なのだ)。
……僕はその犬の行動に首を傾げた。謎過ぎる。てっきり「外へ出せ」と訴えているのだと思っていたからだ。そうじゃなかったら、玄関で吠えるなんて真似はしないだろう。一体、何がしたかったのだろう?
それがその日の晩だけなら、「まぁ、良いか」で忘れていたかもしれない。しかし、何故かその日から、毎晩犬は同じ行動を見せるようになってしまったのだった。深夜に突然、玄関で吠え始め、そして、僕がドアを開けると一目散に戻って来る。
なんだ、このミステリーは?
「何か心当たりはないか?」
あまりに不思議だったから、僕は飼い主に電話をかけてそう尋ねてみた。妙な癖のある犬なのかもしれないと思ったのだ。
『いや、そんな変な犬じゃないけど』
と、彼は返した。僕は納得がいなかったので、
「いやいや、階段を昇り降りができるようになったりならなかったりする時点で既に変な犬だって」
そう抗議をする。すると、
「ああ、それは多分、光源がないからだよ」
なんて言って来た。
「光源?」
「そ。犬ってわずかな光だけで、物が見えるんだよ。でも、光がまったく無かったら見えない。それで怖くて階段の昇り降りができなくなるのじゃないかな?」
そう言われてみれば、抱っこをせがんでくる時は、いつも廊下に灯りがないかもしれない。
そして、そう言われた時、閃いたのだった。もしかしたら、あの犬が深夜に玄関で突然吠え始めるのって……
深夜。
普段は特に耳を澄ましたりしないのだけど、今日は部屋の外に意識を向けていた。すると、微かな足音が聞こえた気がした。多分、母親が起きてトイレへと向かったのだ。僕は“今だ!”と思ってドアを開け、そして階段の下を確認してみた。
すると、予想通りに犬がいた。玄関の前で期待のこもった眼差しで、階段の上を見上げている。きっと、散歩に連れて行ってくれると期待しているのだろう。
“こーいう事だったのか”
と、僕は思う。
母親はまだ暗い時間に犬を散歩に連れて行っている。だから犬は学習して母親を“暗い時間に散歩する人”と認識したのだろう。それで母親がトイレに起きただけなのに、散歩だと勘違いをして玄関に向かってしまう。部屋の灯りを点けているから、この時はまだ犬は階段を降りられるのだ。しかし、母親は降りて来ない。トイレを済ました母親は、自分の部屋に戻って灯りを消して再び眠る。玄関にいる犬は暗くなって階段を昇れなくなる。人懐っこい犬だから、寂しがって吠え始める。その吠え声を聞いて、僕がドアを開ける。部屋の灯りが照らすから、犬は階段を昇って来られるようになる。それで二階に昇って来て、母親の部屋に入る……
きっと、そんな事が毎晩繰り返されていたのだろう。
母親がまだ散歩に行く気はないと分かったのか、二階に昇って来た犬は、大人しく母親の部屋に入っていった。
なんだかな、と僕は思った。




