反芻する思考と感情
──私は両極端である。30になって改めて、人の“命”の儚さと虚しさを実感するのだった。そう……“だった”、ここ何気に重要なのである。既に自身の心の中で納得といいますか、それ以上の思考は廻らなかったからだ。
反芻しますか……えぇ、それ以上の思考が廻りはしないが、考えてしまうので反芻します。まず、一年前に母方の祖母が倒れた。脳梗塞だ。70という年齢も年齢で、普段から体調が優れないとほぼ食事を取らずに寝込んでいた。周囲も私自身も、勿論祖母に病院を勧めていた。流石にそのような状態で誰も口に出さないはずがないからだ。
……が、残念ながら祖母は大の病院嫌いだったのだ。それも何十年も前から行っていない。しかし流石の祖母も呼吸があまりできない状態に危機感を覚え、最近はちょくちょくと病院に通うようになった。
……何もかも、遅かったのだ。夏の時期だったからか、医師からは熱中症と勘違いされ返された翌日に倒れた。緊急手術をした末に、何とか一命を取り留めたものの介護生活になった。ベッドに寝たきり、段々と記憶も薄れてきたのか、介護経験があるため主に世話をしていた私の母に対し、「お前は誰だ」「死ね」と実の娘に投げかける始末……。毎日暴言が止まず、言動も幼くなった。
私は考えていた──“周囲は確かに病院を勧めていた。しかし他の医師が言うには、あと少し早く処置していれば寝たきりや介護までにはならなかったと言うではないか……なら、もう少し強く勧めていれば、……例えば孫である私とか。”……そう考えてしまう事もある。
だが、祖母の固い性格上……何言っても頑なに行こうとしなかっただろうと想像はつく。が、“それでも”と考えてしまうのだ。
まだ幸いにも生存してくれているが、要介護5……難しい状況には変わりない。
飼い犬もかなり長生きしている。お爺さんで食も細くなった。親はいつか自分よりも早く去ってしまう。……命にはいつか別れがあり、時間も常に有限。自分に出来るのは少しの手伝いと、時間と余裕が出たら顔を見せる事。そうしていると、こうまた考えてしまうのだ──“こうなる前に、元気な頃からもっと顔を見せ、接してあげれたのではないか?” と……。
当たり前のように思える日常……人は大抵“後から気付く”愚かさを持つ。後悔したとて、時間は戻らない。人生はゲームではないからロード機能なんてものはない。だから“貴重”なのだ。
──“もしもこうしていれば”、“もし時間を戻せたらこうしたい”。考えるだけ時間も無駄だが、この“後悔”自体は無駄ではない。経験を積むことで、次から気を引き締める心構えはできる。しかし……“起きてしまった事は修正できない”。
そう心強くなる日もあれば、妙にネガティブ思考になる時は……人の“命”の儚さと虚しさを実感するのだ。いずれ別れを目にするのであれば、虚しくなるのであれば、悲しくなるのであれば、何故人間はこの世に生まれて生と死を繰り返すのか、意味がわからない。
いっそ誰とも出会わなければ……そもそも、“自身が生れてこなければ良かった”と、いつか来るかもしれない孤独感への恐怖故に、極端に心を塞ぎ込む。そしてまた時間が経てば楽しい事や嬉しい出来事が起きれば、“生まれてきて良かった”なんて考えるのだろう。まるで生と死を繰り返すのと同じだね。
……疲れたからもうそろそろ、今日は考えるのをやめようか。




